舗装された道の端を歩くたび、足元で小石が細く転がる音がした。車通りを避けた、緩やかな帰り道。午後の陽射しがだんだんと陰って、葉の茂る街路樹の間から木洩れ日が静かに揺れていた。
春樹は、右手に提げたエコバッグを少し持ち直しながら、数歩先を歩く智久の背中に目をやった。言葉は、のど元まで上がっていた。でも、それがどれも違う気がして、黙ったままにした。
「智くん、つらかっただろ」
「大丈夫だった?」
言いたい言葉は、どれも表面的すぎる。傷に添えるには、あまりにも軽すぎて、触れることすら許されない。そんな気がした。
少し前、智久が旧友と再会したときのことを、春樹は繰り返し思い返していた。明るく放たれた言葉の刃に、あの瞬間、智久の顔からすっと色が消えていた。目の奥を閉ざすように、声を出す代わりに沈黙を選んだ、あの静けさ。気づかなかったふりをした春樹の胸には、ひどく鈍い感情が残っていた。
ふと、智久がバッグを持ち替えた。利き手がふさがっている春樹に配慮したのだろう。さりげない仕草だったが、春樹はそこに彼らしさを見た。言葉で示すことが得意ではない代わりに、細かな気配りが自然とにじむ人だった。
「…ありがと」
思わず、春樹の口から小さく声が出た。
智久は驚いたように振り返り、けれどなにが「ありがとう」なのかを問わず、ただ頷いた。
「…たいしたもん入ってないから」
そう言って、視線を前に戻す。その横顔に、樹の葉の影が斜めに落ちていた。目元まで届きそうな陰りが、春樹の胸の奥をやわらかく締めつけた。
(まだ、君の孤独の輪郭すら、俺は触れていない)
春樹の中に、そんな思いが静かに沈んでいく。どれだけ近くにいても、どれだけ「昔の智久」を知っていても、今の彼の心の中には、届かない場所がある。それを知ったのは、再会してからだった。
一度、見えなくなった人の輪郭を、もう一度なぞるには、音のような時間が必要なのかもしれない。触れようとすると壊れてしまうような、儚い距離。春樹は歩幅を少しだけ狭め、智久と並んだ。
「今日は…ありがとう」
ぽつりと春樹が言うと、智久はやや間をあけて返した。
「別に。買い物くらい、ひとりでも行けた」
「うん。でも、たまには…いいだろ。こういうのも」
「ああ」
智久の声が、少しだけやわらかくなった気がした。会話は途切れがちだが、その沈黙は、かつてのような重さではなかった。言葉がないことに、焦る必要がない。それを春樹は、ほんの少し嬉しく思った。
歩道の脇には、濃い緑の低木と、その向こうに児童公園が見えた。ブランコが空を仰ぎながら静かに揺れている。風が抜けるたびに、葉擦れの音が周囲を包み込んだ。
「七菜ちゃん、また来週もレッスン、楽しみにしてるって言ってたよ」
話題を変えるように、春樹が言う。智久は短く笑った。
「そりゃよかった。最近は、俺より春樹に懐いてるしな」
「そりゃないよ。パパのこと、大好きだよ」
「…そうか?」
春樹は頷いたが、智久は少しだけ表情を曇らせた。自分の存在が、娘にとって充分なのか。それはたぶん、彼のなかでずっと問い続けているものだった。春樹は、そんな影もまた、今の智久を作っているのだと思った。
人は失ったものの分だけ、言葉では届かない沈黙を内に抱える。春樹は、ただその隣にいたいと思った。届かなくても、触れられなくても、耳を澄ますことだけはできるから。
「…空、晴れてきたな」
智久が空を見上げてつぶやいた。
春樹も同じように見上げると、遊歩道の先、桜の枝の隙間から、淡い青が覗いていた。
「うん。風も気持ちいいし」
「そうだな」
空が広がっていくのを見上げながら、ふたりはそのまま歩を進めた。言葉はまた少なくなったが、それを埋める必要は感じなかった。時間のなかに、ふたりだけの静けさがあった。春樹は、その沈黙を壊したくなかった。
どこまで歩けば、この沈黙の向こうに、智久のほんとうの声が聴こえてくるのだろう。春樹はまだ知らなかった。でも、それでもいいと思えた。
ただ隣を歩く、その事実だけで、いまは充分だった。
リビングから聞こえてくるテレビの音は、低く抑えられたまま流れていた。七菜が何かアニメ番組を見ているのだろう。笑い声や明るい効果音が、障子の隙間から和室へと柔らかく染みこんでくる。智久は、畳の縁に足を揃えて座っていた。背筋を伸ばすでもなく、崩すでもなく、ただ静かに。その横には、同じように春樹が膝を立てて、クッションを抱えるようにして座っていた。ふたりの間に言葉はなかったが、沈黙は重くはなかった。窓の外では風が枝を揺らしていた。カーテンは引いていないが、曇り空のせいで部屋の中には淡い灰色の光が広がっている。時間は、午後の三時を少し回った頃。休日の午後の空気は、どこか水のようにゆるやかで、誰もその流れを乱そうとはしなかった。春樹が、不意に小さく笑った。「こうしてるとさ、家族みたいだな」その声は、囁きに近かった。特別な抑揚もなく、何気ない雑談のように投げかけられた言葉。それなのに、智久の耳には、まるで水面に一滴落ちた小石のように、深く響いた。隣にいる春樹は、目線をテレビの方に向けたまま動かない。智久の顔を見ていたわけではなかった。けれど、そういうところにこそ、彼の本心が宿っていると智久は知っていた。答えはすぐには返さなかった。返せなかったというよりも、返したくなかったのかもしれない。智久の視線は、目の前の座卓の端に落ちていた。手の甲の上にもう一方の手をそっと重ねると、ほんのわずかに指先が冷たさを持っていることに気づいた。(家族)春樹の口にしたその言葉が、智久の心に不思議な重みを残していた。過去の記憶が浮かぶ。亡き妻と、まだ幼い七菜と、三人で囲んだ食卓。誰かが笑い、誰かがこぼした味噌汁を誰かが拭っていた。そんな些細な日々。幸せは、あのころ確かに形を持ってそこにあった。だが今、春樹の言葉に心が揺れるのは、あの時の記憶を壊されたからではなかった。むしろ、それを知った上でなお、この今が優しすぎるからだった。言葉にしてしまえば、何かが変わってしまいそうだった。そんな予感が、胸の奥でしずかに疼いていた。「……」口を開かず、智久はただ
台所に立つ午後の空気は、思った以上に静かだった。換気扇も止まっていて、外からの音も聞こえない。時計の秒針が、壁の高いところでひとつずつ、時間を刻んでいる。そのたびに、智久の中で何かがわずかに軋んだ。包丁の先で切りそろえた野菜の断面を、まな板の上に並べながら、ふと視線を持ち上げると、春樹がリビングのテーブルへ皿を運んでいく後ろ姿が見えた。ゆっくりとした歩調、慣れたような手つきで、湯気の立つ小鉢を置いていくその動作。それが、どこかで見覚えのあるものだったと気づくまでに、時間はかからなかった。同じように、あの人もそうだった。夕方になると、キッチンに立つ智久の背中に向かって、「これ、先に運ぶね」と言いながら皿を抱えてリビングへと歩いていった。細い肩を軽く揺らしながら、湯気に包まれた香りのなかで笑っていた顔。それが、いまの春樹の後ろ姿と一瞬重なって、智久は動きを止めた。手の中の菜箸が、トマトの切りくずを掴んだまま宙に浮いていた。(…何をやってるんだ、俺は)自分で自分を嗤いながらも、胸のどこかが冷たく凍りつくようだった。失ったはずの風景が、日常のなかで不意に蘇る。そんなことが、こんなにもささやかな瞬間に訪れるとは思わなかった。春樹が再びキッチンに戻ってきた。空いた手で食器棚からコップを取り出し、水を注ごうとしている。ガラスのコップとシンクの縁が触れた瞬間、カチンという小さな音が鳴った。それだけのことだったのに、智久の背筋を冷たい感覚が走り抜けた。音が、静かすぎた。何も話さないまま、ただ日が傾いてゆく午後の台所で、二人分の食器が置かれている。湯気はもう薄れて、壁の時計の針が音だけを残して進んでいく。(あの頃の幸福を、なかったことにしたくない)そう思っているはずだった。忘れることが怖かった。けれど、それ以上に、いまこの静けさのなかにいる自分が、もっと怖かった。幸福とは違う、でも不幸でもない。張り詰めてもいないし、誰も泣いていない。ただ、音が少ないのだ。人がいなくなったということは、こんなにも空間から音を奪ってい
舗装された道の端を歩くたび、足元で小石が細く転がる音がした。車通りを避けた、緩やかな帰り道。午後の陽射しがだんだんと陰って、葉の茂る街路樹の間から木洩れ日が静かに揺れていた。春樹は、右手に提げたエコバッグを少し持ち直しながら、数歩先を歩く智久の背中に目をやった。言葉は、のど元まで上がっていた。でも、それがどれも違う気がして、黙ったままにした。「智くん、つらかっただろ」「大丈夫だった?」言いたい言葉は、どれも表面的すぎる。傷に添えるには、あまりにも軽すぎて、触れることすら許されない。そんな気がした。少し前、智久が旧友と再会したときのことを、春樹は繰り返し思い返していた。明るく放たれた言葉の刃に、あの瞬間、智久の顔からすっと色が消えていた。目の奥を閉ざすように、声を出す代わりに沈黙を選んだ、あの静けさ。気づかなかったふりをした春樹の胸には、ひどく鈍い感情が残っていた。ふと、智久がバッグを持ち替えた。利き手がふさがっている春樹に配慮したのだろう。さりげない仕草だったが、春樹はそこに彼らしさを見た。言葉で示すことが得意ではない代わりに、細かな気配りが自然とにじむ人だった。「…ありがと」思わず、春樹の口から小さく声が出た。智久は驚いたように振り返り、けれどなにが「ありがとう」なのかを問わず、ただ頷いた。「…たいしたもん入ってないから」そう言って、視線を前に戻す。その横顔に、樹の葉の影が斜めに落ちていた。目元まで届きそうな陰りが、春樹の胸の奥をやわらかく締めつけた。(まだ、君の孤独の輪郭すら、俺は触れていない)春樹の中に、そんな思いが静かに沈んでいく。どれだけ近くにいても、どれだけ「昔の智久」を知っていても、今の彼の心の中には、届かない場所がある。それを知ったのは、再会してからだった。一度、見えなくなった人の輪郭を、もう一度なぞるには、音のような時間が必要なのかもしれない。触れようとすると壊れてしまうような、儚い距離。春樹は歩幅を少しだけ狭め、智久と並んだ。「今日は…ありがとう」
駐車場に出ると、午後の陽射しがわずかに強まっていた。舗装されたアスファルトが白く霞み、遠くに立つ街路樹の影が少しだけ長く伸びている。買い物を終えた春樹と智久は、並んで歩きながら、手にしたエコバッグの重みに腕を揺らしていた。まだ梅雨入り前の空には雲が多く、日差しと曇りの境目が不安定なまま広がっている。「こっち、日陰だな」智久がぼそりと言って、隅の駐車スペースに向かって足を速めた。そのときだった。「おい…まさか、長谷じゃねえか?」春樹が、声のほうに顔を向けるより早く、智久の足が止まった。駐車場の反対側、黒い軽バンの後部ドアに買い物袋を積み込んでいた中肉の男が、こちらに向かって手を振っていた。浅黒く焼けた肌と、無造作に撫でつけた短髪。顔に見覚えはなかったが、智久の表情が一瞬にして固まったことで、春樹にもその正体はわかった。「うわ、久しぶりすぎる。中学以来か? だよな? 長谷だよな?」男は、昔から人懐っこいと言えば聞こえはいいが、やや空気を読まない印象をまとっていた。明るすぎる笑顔と、無防備な声音。智久はぎこちなく頷いた。「…ああ。佐野か」「そうそう、俺だよ佐野。わかってくれて助かるわ。うわあ、まさかこんなとこで会うとはなあ」軽く手を振る佐野に、智久は曖昧に笑い返した。春樹は、すっと智久の斜め後ろに立つように位置をずらした。自己紹介をするべきかどうか、迷ったまま視線だけを上げる。「でさ、聞いたよ…奥さん、亡くなったって。大変だったな」その言葉が発された瞬間、時間がすうっと引いていくのを春樹は感じた。さっきまで、日差しに照らされていた地面が、影のようなものにすべて覆われた気がした。智久のまぶたが、一度だけ、ゆっくりと閉じられる。それは目を伏せたというより、奥にしまいこむような仕草だった。言葉にするよりも前に、春樹はそれが彼にとってどれほど無防備な瞬間だったかを理解してしまっていた。「それ…今、言うんだ…?」心のなかで、春樹は思った。言えない。でも、はっきりそう感じた。
ショッピングモールの駐車場に面したスーパーは、土曜の午後にもかかわらず静かだった。初夏の光はやわらかく、空にはうっすらと白い雲が浮かんでいた。敷地の脇に植えられたプラタナスの木陰が、地面にまだらな模様を落としている。風がすっと抜けて、どこか遠くで風鈴のような自転車のベルが鳴った。春樹は、智久の背を目で追いながら、店内へ入る自動ドアの手前で一度立ち止まった。前を歩く男の右手が、カートの取っ手にそっとかかっている。指先は力を入れすぎるでもなく、かといって緩すぎるでもない。どこか頼りなくもあり、それでいて、誰かを守ろうとするような確かさがあった。七菜が好きだというほうれん草と、朝食用のパン、それから冷蔵庫に切らしていた牛乳。買い物メモは昭江がざっと書いたもので、字の端がかすれていた。レジ袋を節約するために、ふたりは一枚のエコバッグだけを持ってきていた。「バターって、こっちだっけ」智久がふと振り返る。春樹は頷いてから、棚の奥を指さした。「乳製品の冷蔵棚、もう少し奥。あ、マーガリンじゃなくて有塩のほうね。七菜、味の違いに気づくタイプだよ」「やっぱりな…最近、やたら舌がこえてきて」軽く笑った智久の頬が、ほんの少しだけ緩んだ。それは、春樹の知っている笑い方だった。けれど、昔のような、何の影もない笑みではなかった。目尻に刻まれた小さな皺と、唇の端にほのかに滲む疲れが、時間の重みを語っていた。春樹は無言のまま、冷蔵棚に手を伸ばす智久の背を見つめた。黒いTシャツの布が、肩甲骨のあたりで軽く張っている。日常に戻ろうとする背中だ。けれどその奥に、まだ解けていない硬さがある。春樹はそれを、痛いほどよく知っていた。カートの前に並ぶと、ふと智久が春樹を見上げるように横を向いた。「春樹、なんか食べたいものある? 晩飯、ついでに君の分も買っとく」「俺? んー…じゃあ、厚揚げ。あれ焼いて生姜と醤油で食べるやつ、好きだったろ、智くん」智久は目を細めて、少しだけ肩をすくめた。「懐かしいな。あの頃、よく母さんが作ってたな。…まだ好きか?」「
寝室の灯りは、すでに落ちかけていた。天井の蛍光灯は消え、枕元に置かれた小さなスタンドライトだけが、かすかな琥珀色の光を部屋に灯していた。その光が、布団の端やカーテンのすそをやわらかく照らし、壁には揺れる影をつくっていた。智久は寝巻き姿のまま、隣の布団で眠る準備をしている七菜の様子をちらと見やる。七菜は毛布を肩までかけて、まだ目を閉じずに天井を見つめていた。その小さなまぶたの下に、うっすらと光が宿っている。窓の外では、風が木の葉を揺らす音が静かに続いている。虫の声もわずかに混じり、それらが寝室の静けさに沁みるように溶け込んでいた。「…ねえ」七菜が、かすかに声を漏らした。「ん?」智久が返すと、少しの間が空いた。「春樹先生ってさ…ピアノ、うまいだけじゃないね」その言葉は、まるで自分の中にたまった何かを、ようやく置き換えるようにして出てきたようだった。智久は、返す言葉を少し考えた。どう答えるのが正しいのか、どれが彼女にとって無理のないものなのかを測るように、数秒沈黙してから、ぽつりと言った。「そうだな。優しいよな」その声に、七菜が小さく頷いたのが布団越しに伝わった。かすかに動いた肩の線が、それを物語っていた。「…ピアノのときもそうだけど、きょうね、春樹先生、なんにも言わなかったんだ。わたしが変なふうだったのに」「うん」「でも、なんかね、わかってた気がするの。なにも言わないで、そばにいてくれた」七菜の声は、少し鼻にかかったように聞こえた。喉の奥がほんのりとつまったような、でも泣いているわけではない声だった。智久はそれを否定せず、ただじっと聞いていた。「パパもね」「うん?」「もうちょっと…笑ってていいと思うよ」その一言は、思いがけず胸にすっと入りこんできた。言葉が、喉の奥に届いて震えた。笑う、ということ。失ってからずっと、無意識のうちに遠ざけていたもの。笑っているつもりで