「視えた、いた、うあ。七原が壺に貼ってあったお札を破ったんだよ!」
俺に抱きつき、碧依君が頽れて、泣き出した。七原は神妙な顔で、腕を組んでいる。
二人は俺を担ぐ気だと判断した。俺はこの時、先日、俺の部屋の扉が勝手に閉まった事件も、この二人の仕業だと確信していた。窓を乗り越えたら、下の階に降りられると気づいたからだ。見間違えで無かった場合、他に説明がつかない。非常に危険な行為だし、理性的にはありえないとも考えるのだが、俺は確かに見たのだ……。
けれどひとまず、「大丈夫だから」と告げた。
取り敢えず……次が俺とセージの番だったので、俺は、「様子を見てくる」と伝えてから、境内へと向かった。セージは終始、俺の手を握って震えていた。本当に恐がりだ。行ってみると、戸が半開きで、確かに壺が見え……床には、ポツンとお札が落ちていた。この光景を目にして、あの二人は話を盛ったんだろうな。そう考えつつ、一応手を合わせてから、セージと二人で俺は帰った。
すると碧依君は、まだ泣いていた。先輩達が碧依君を連れて、車に戻ろうとしている。
七原はそれを見守りながら、石段の上でニヤニヤしつつ俺達を待っていた。「何も無かったぞ。冗談止めろって、七原。そろそろ痛い」
「だって碧依がさぁ」なんてやりとりをしてから、七原が石段を下り始めた。
俺とセージは、七原の背を、何とはなしに見ていた。それほど長い石段では無かったが、手を伸ばしたからと言って、一番下まで届くような距離ではない。
すると下から三段目で、七原が体勢を崩し、飛び降りるようにして地面に着地した。
「なんだよ、押すなって!」
そう言って笑いながら振り返った七原。唖然としたセージ。意味の分からない俺。
「……え?」
七原の笑顔が引きつった。
「押せるはずが無いだろう……?」
セージが呆然としたように言った。その瞬間、七原が全力疾走を始めた。セージも俺を残して走り出した。何が起きているのか分からなかった俺は、ゆっくりと下へと降りた。
結局その日の話をまとめると、こうなる。
七原は、やっぱり何も視えなかったらしい。それは別として、石段の所で誰かに背中を押されたと言うのだ。下から三段目の位置で、突き落とされたと訴えた。そして、実際に転びそうになった場面を、俺とセージは見たのである。
なお碧依君は、七原が「何も視なかった」と言う場所で、青白い着物姿の女の幽霊を視たらしい。俺が「大丈夫だから」と言ったのを、「祟りが無いって意味だと思った」と口にしていた。俺には、祟りの有無など分かるはずも無いのだが……。
さてそれを境に、セージは血尿が出るようになってしまい、暫く病院通いをした。今でもこの件は祟りだと言われている。何でも、あの場では口に出さなかったが、セージもそれらしき女を目撃したらしい。しかもそれは、肝試し終了後の出来事だったようだ。全員が集合し、次に向かったファミレスの駐車場についた時……なんとセージの車の中に、特徴が一致する女が座っていたらしい。それは見ている前で、霞のように消えたそうだ。
――俺が、『時島』の存在を明確に意識したのは、この肝試しがきっかけだ。
「これ、時島を呼んだ方が良くない?」
翌々日、大学構内のサークル席で砂文兄さんが言った。本名はスナフミさんだが、サーヤさんとか、砂文兄さんとか言われていた。彼も俺と同じ学年だが、一浪しているので一つ年上だ。
「時島?」
俺が聞くと、砂文兄さんが大きく頷いた。
砂文兄さんと時島は、必修で、同じクラスなのだという。俺達の学科には、必修のクラスわけがあった。俺と砂文兄さんは、同じ心理学科である。碧依くんも心理学科だ。七原とセージは経済学科である。
心理学科では、英語と文献講読の必修があり、一人二つはそのそれぞれの特定のクラスに所属していた。砂文兄さんと時島は、文献講読のクラスが同じらしい。
言われてみれば、俺は英語のクラスに、『時島』という奴がいたなと、この時やっと思い出した。英語のクラスの数字は学籍番号にもなっている。俺と時島は卒業まで同じ『四組』だと、ふと気がついた瞬間でもある。
「後で聞いてみたら? 明日とか」
砂文兄さんに、そう言われた。この時、俺は頷いて返した。
――まぁ、今となっては懐かしい話である。
ただやはり俺は、心理学をやっていたので、どうしても多くの心霊現象には懐疑的だ。個人的には、存在しても、存在しなくても良いのだが。
このようにして俺は、弟に怖い話として思い出を語った。 丁度飲み終わったので、少しパソコンに文章にまとめておこうかなと考える。――『本当にあった話。』というファイル名だ。沢山の話をまとめている。
ただ思い返せば、そこまで怖くは無い気もする。
書き始めようと考えて自室に戻り、ふと俺は思った。オカルト的に怖い話をまとめる前に、この現在の『記録』に、残すべき事がある。
本格的に大学時代を回想するならば、俺は先に吐き出すべきだ。
そうだ――俺がこれから打つ最後の『記録』は、『生きている人間の方が怖い話。』だ。
今後綴る『本当にあった怖い話。』が、あくまでも心霊現象的な意味での『怖い』に分類されるとはっきりさせておくためには、絶対的に先に書いてしまった方が良いだろう。
俺は鐘の音が大嫌いだが、警鐘を交えるかもしれない。類似の被害者が増えない事を祈る。
内容は――一つ目は碧依君から聞いた話、二つ目は俺の話だ。残るは電話の話である。どの順番で記そうか。思案しながら、パソコンを起動させた。
山神地区は、東京から車で三時間ほど行ったG県にあった。今回は運転を時島がしてくれる事になり、俺は助手席で地図を眺めていた。途中からGPSが狂ってしまったのか、ナビにノイズが入って使えなくなってしまったので、レンタカーに積んであった地図雑誌を捲っていたのである。携帯電話の電波も入らなかった。 何とか無事に目的地にはついた。そこで俺達は、時島が予約しておいてくれた、民宿に泊まる事になった。 俺はあまりよく知らない場所に来るとお腹が痛くなるタイプなので、恥ずかしながら浣腸を持参した。それですっきりした後、幸い客室にもシャワーがあったので、体の中までしっかりと洗った。お腹の調子が悪いと、旅行を楽しめない。「長かったな。料理が来てるぞ」 時島の前に、浴衣姿で俺は座った。並んでいたのは郷土料理と天ぷら、すき焼きなどで実に食欲をそそる。時島は、俺の前にシャワーを浴びていた。 二人で麦酒を飲みながら、食事を楽しむ。以前高階さんに、「麦酒ばっかりだと、その内、腹だけ太るぞ」と言われた事を思い出したが、気にしない事にした。 それにしても、俺には一つだけ不思議に思う事があった。 即に言う『既視感』は、脳の錯覚だと講義で習っていたのだが……どうしてもこの場所に来た事がある気がしてならなかったのだ。例えば、『曲がり角には地蔵があるはずだ』なんて思ったら実際にあったりした。 ――総髪の破戒僧と、紀想という名の青年の姿もまた頭を過ぎった。「あのさ、時島――……今日は、離れて寝た方が良いと思う。ガラガラだし、もうひと部屋取った方が良いかも……」「何故?」「前に……お前の事を俺、襲っちゃったんだろう? やっぱり」「……夢だと言っただろう?」 ならば、あの時の破れたコンドームは何だったのかと言おうとして止めた。時島がカノジョもいないのにゴムを常備しているのは、まぁ何というか見栄なのだろうと思って、そこだけは時島の男味と言うか人間らしさを感じる。「その夢の感覚がするんだよ」「――……そうか。だろうな」「え?」 ――だろうな? どういう意味かと悩んで、首を傾げると、不意に脳裏を、別の記憶に埋め尽くされた。俺はそこで、時島にそっくりの顔をした法師を見て泣いていた。「いかないで下さい……」 今度は俺は、浴衣を着たまま時島の隣に座り直し、その袖に抱きついていた。 自分
――その頃からだった。 段々……霞がかかっていくように、頭がぼんやりとし始めた。「そうだな……いるな」 朦朧とした意識で、俺は答えた。何故なのか、紫野の言葉は、全て正しいような気になっていた。「だろ?」 俺は気づくと座布団の上に押し倒されていた。ベルトに手をかけられる。体を反転させられ、ボトムスを脱がせられた。ボクサーも足首まで落ちた。空気のひんやりとした感触に、冷房が強いなとだけ、ただ思う。他には何も考えていなかった。恐怖すらない。「安心してくれ。絶対に痛くしないし、怖がらせない」 そう言うと、俺の視界に、紫野がローションの蓋を開けている姿が入ってきた。俺が無意識に眺めていると、紫野がそれを指に塗した。俺は力の入らない体で、何をしているのだろうとだけ考えていた。すると紫野が、俺を確認するように見た。「力、抜けてきただろ?」「ん……」 その事実よりも、意識が曖昧になりつつある事が不思議だった。 そして――……次に気づいた時、俺の後孔には、紫野の指が入っていた。「ンあ」 思わず腰を引こうとする。しかし弛緩した体には、力が入らない。「そんな所、汚――ッ、ああっ」 指がその時二本に増えた。その感触だけに意識が集中していて、不思議と恐怖は無い。 俺は前に、きっと同じような事をされて、怖くなったはずなのに。「あ、うッ」「左鳥の中なら汚いと思わない」「フぁ……ァ……――!!」 紫野の指がその時、俺の内部のある箇所を刺激した。目を見開いた。俺は、その刺激で射精しそうになっていたからだ。「あ、あ、ッううァ、止め、止めろ、そこ、ア」「ここか?」「ンあ――――!! 何だよこれッ」「多分、前立腺」 涙が零れてくる。俺は舌を出して大きく息を吐いてから、力の入らない体を叱咤して、何とか紫野を見た。すると紫野が、微苦笑していた。「色っぽすぎ」「ああっ、ン……ッ、う……出、出る、出るから……ッ、あ、前」「うん、出せよ」 紫野はそう言うと、俺の前を扱いた。そして呆気なく俺は射精した。 まだ息が苦しい。解放感に、クラクラした。 紫野は、ウェットティッシュで俺の下腹部や、後孔を拭いてくれる。「何でこんな事……」「これからは、こっちを思い出せよ」「答えになってない」「……善く無かったか?」「ッ」 多分俺は、気持ち良いと思ってい
それから、五日が経過した。 ――最近は、お腹の調子が良い。 そんな事を考えながら、珍しく朝、俺は起きた。すると時島が大学に行く準備をしていた。図書館に出かけるらしい。俺は暑い外にわざわざ出たくなかったので、クーラーをつけて、布団の上にいた。「紫野が来ると言っていた」「そっか。じゃあ、俺は部屋でダラダラしとく」 俺は時島を見送ってからトイレに入った。快便だった。すごく気分も良い。 それからシャワーを浴びて、俺は上がると麦茶を飲んだ。紫野が来たのはその時の事だ。「ああ、時島は、大学に行ってるんだってな」 ガチャリと紫野が鍵をかけた。何だろうかと見守っていると、振り返った紫野が溜息をついた。「危ないから、鍵は一人でもちゃんとかけておけよ。時島は合い鍵を持ってるんだからさ。俺まで一個預かってるし。それと、家にいるんならチェーンも」 確かにそれはそうだとも思うのだが――……俺は俯いた。「それだと、何かあった時に、逃げられないだろ?」 強姦された事がまた頭を過ぎった。どれだけ俺は気にしているのだろう。 俺の表情に、紫野は察したようだった。「――中に不審者が入ってくるよりマシだろ」「だよな」 俺は笑って誤魔化して、紫野の分の麦茶を用意した。それから雑談をした。「四年になると、思いの外サークルに顔を出さないな」とか、「暇になったのに不思議だよな」だとか、「就活効果は偉大だ」とか、「新卒採用企業が多すぎる」だとか。紫野は、以前はテレビの話が多かったのだが、この日はしなかった。あまり話が合わないと気づいているのだろう。この家のテレビは、あまり稼動しないのだ。時島はテレビを滅多に見ない。俺はネットで事足りているから、見ようと言わない。見たいドラマがあればレンタルして、まとめて見るタイプだ。朝のニュースを時々、眺めるだけである。「なぁ……左鳥。嫌な話をしても良いか?」「ん? 何?」「お前がタクシー運転手にヤられてから、男と二人でいるのが怖いってやつ」「ああ……」 紫野は優しいから、気にしてくれているのだろう。 ――『格好良い?』と、聞いてきた碧依君の事を不意に思い出しつつ、苦笑してしまった。ただ碧依くんの反応は、あの時の俺には、とても助かったのだが。普通は、紫野のような反応をするのかもしれない。「平気だよ。その……あんまり、気にしないでくれ
――Yロッジに向かう事になったのは、その数日後の事である。 そこは有名な心霊スポットなので、分かる人は分かると思う。F県I町にある。 地下一階から四階までがあるペンションだ。 三階に子供の霊が出るだとか、ボイラー室の霊圧が凄いだとか、そんな噂に事欠かない肝試しの名所でもある。「なんか良いネタあった?」 高階さんに呼び出されたのは、四年生の春の事だった。 良いネタ……実際に――この時になってみると、俺のもとには沢山のホラー話が集まっていた。ただ、自分が時島達と経験した事を書くのは、何となく躊躇われる。俺は俯いてから、『本当にあった怖い話。』として書き溜めているファイルの事を、意識して忘れる決意をした。それから俺は顔を上げて、苦笑を返す。するとパシンと高階さんが扇子を閉じた。「無いんやったらさ、ちょっと頼まれてくれへん?」「何をですか?」「心霊スポット行きたいんや」「ああ、良いですよ」 もう大学の出席しなければならない講義はゼミしか残っていないから、週に一度しか大学には行く必要が無い。要するに俺は暇だった。同時に、ネタが出せないという負い目もあった。「俺も行くからさ」 それを聞いて考える。高階さんと二人だけで行くのは、非常に不安である。 高階さんには、霊感みたいなものは、いかにも無さそうだ。信じてさえいないだろう。 しかし俺は、本当に幽霊がいた場合には、それでは対処出来ないと、この頃には考えるようになっていたのだ。黒い人影の事件で、身近に恐怖を感じ取ったというのも大きい。「あの……大学の友人も、二人連れて行っても良いですか?」「ああ、ええよ」 そんなこんなで、俺は時島と紫野に頼み込む事にした。実は俺は、あまり人に物を頼むのが得意ではない。なので、酔いの勢いで言ってしまおうと、二人を居酒屋に呼び出した。 席に着くと何故なのか、紫野と時島は、長い間ずっと視線を合わせていた。見つめ合っているように、見えなくもない。もしや両思い状態となっていて、俺は邪魔なのだろうか? そう一瞬だけ考えた。だがすぐに、何となく二人は、険悪というか……お互いに気まずそうというか、よそよそしいというか――ネガティブな意味合いで視線を交わしているらしいと気づいた。二人の間には、見えない溝がある気がした。もしかして紫野はフラれてしまったのだろうか? そうであるな
紫野と飲んでから帰宅すると、もう午前一時に近かった。 だが、時島の姿が無い。 ベッドに寝ているわけでもなく、もう一つの部屋にいるわけでもなく、シャワーに入っている様子も無ければ、キッチンやトイレにもいる気配が無い。 ――こんな時間に、何処に行ったのだろう? 首を傾げつつも、思い当たる場所が、俺には一つだけあった。 紫野は入る事を許されているが、俺には「絶対に入るな」と時島が言う、例の奥の部屋だ。しかもその部屋の中から音がした気がする。だから俺は扉の前まで行き、静かに声をかけてみる事にした。「時島ー?」 しかし、返事は無かった。だとすると、中から聞こえた物音は何なのだろう? まさか、泥棒? 最近この辺では被害が多発していると言うから、そうなのかもしれない。 だが本当に泥棒か分からない以上、いきなり警察に通報する事も躊躇われた。確かめなければならないだろうが……どうしよう。「入るな」と言う時島の声が甦る。 迷った末、結局俺は和室の扉に手をかけた。恐る恐る中を見る。暗いので、電気をつけようと、俺は壁のスイッチを探した。そして、息を呑んだ。「っ」 その瞬間、中から黒い人影が飛び出してきたのだ。 それは俺の体を通り抜けるように通過した。呆気に取られて反射的に振り返った瞬間、顔も何も無い――ただ黒い『それ』が、両手で俺の首を締めた。形だけは人型だ。 冷たい手が俺の首に食い込み、鈍い痛みと息苦しさに襲われる。そのまま俺は転倒した。絨毯に後頭部を打ち付ける。手の力はどんどん強まっていく。影は俺に馬乗りになって、動きを封じてきた。必死で俺は首に、己の指を当てる。 その黒い『ナニカ』も怖かったが、馬乗りになられているという――その体勢にも、恐怖を感じる。タクシー運転手の事を思い出しいた。 ガクガクと俺は震えた時、肩に噛みつかれた。どうやらその黒い物体には、口があったらしい。噛み切られるような、痛みに身が竦む。 ――何だよ、コレ。 恐怖から思考が混乱し始めた時、服の下に冷たい手が入ってきた。「嫌だ、止めろ!」 俺は必死に叫んだ。しかしその手は止まらず、片手で俺の乳首を触り、もう一方の手で俺の陰茎を握った。いよいよ恐怖が強くなり、俺は動けなくなる。目をきつく伏せ、一所懸命に呼吸しようとするのに、過呼吸でも起こしたかのように酸素が入ってこなくなる
「ねぇ、サト」 パソコンのキーボードを打っていると、缶麦酒を持った弟が部屋に入ってきた。「まだ飲み足りないのか?」「それもある」 そう言うと弟は、ベッドに座って、缶を一つ俺に渡した。 もうすぐゴールデンウィークが終わるから、弟は都内に帰る。俺は転椅子を軋ませて、体ごとベッドへ向けた。そうして弟を正面から見る。その時、ポツリと右京が言った。「時島さんとか、元気にしてるの?」 ――『とか』に含まれるのは、恐らく紫野だろう。一度二人に、右京を紹介した事がある。以来弟は、俺がいない所でも、あの二人と遊んだりしていたようである。「連絡してみたら良いだろ?」 何せ連絡先を知っているのだから。そう考えていると、弟が麦酒を口に含んでから、思案するように瞳を揺らした。「実はさ、『左鳥と連絡が取れない』って言われたんだけど」 弟が言いづらそうに述べた。そうだったのかと、俺は納得した。 俺は……誰にも、実家に引っ越すと告げて来なかったのだ。 事前に伝えたのは、地元で暮らす、寺の――泰雅だけである。「誰に言われたんだ?」「紫野さん。実家にいるって言っといたけど」「あー、その内連絡しようと思って、忘れてたんだよ」「時島さんにも言ってないんだよね? 紫野さん、多分時島さんにも話してると思うよ」「まぁな。別に良いよ」 話さなかった事には、特に深い理由があるわけではない。 俺はただ、在宅でのライター業に集中したくて帰ってきただけである。 現在は、どこで暮らしていても、仕事が可能だ。 だから俺の帰郷は、『あの二人』とは、関係が無い。 ――少なくとも意識的には、現在はそう考えている。「まだ、高校の頃の事件、気にしてるの?」「気にしてないよ」「嘘」 苦笑した右京を見て、俺は缶のプルタブに指をかけた。右京には、隠し事をしても無駄だ。右京はすごく鋭くて、俺に何かがあるとすぐに察するのだ。 大学時代にも、俺が悩んでいた時などに、見計らったかのように電話がかかってきたものである。本人に聞いても、「虫の知らせだった」としか言わないのだが……いつもタイミングが良い。あるいは、非常に俺にとっては悪い場合もある。優しさは嬉しいが、誰にも触れられたく無い時もあるからだ。「そろそろ――期限の時だから、戻ってきたんじゃないの?」 右京が言った。 その声が意味する