この頃の俺は、H市の某私鉄駅のそばのウィークリーマンションに住んでいた。俺の部屋は三階で、一つ下の階にも、同じサークルの同級生が偶然にも住んでいた。それもあって、俺とそいつの家が溜まり場になっていたのだ。二階の住人は、七原と言う名で、自称『視える』奴だった。
こうして一人暮らしをしている家に戻った時――俺の目の前で、俺の部屋の玄関の扉が閉まった。丁度、誰かが中に入っていった所に見えた。
僅かに開いていた扉が、俺の目の前で閉まったのだ。
きっとコンビニにでも行ってきた碧依君が、中に入った所なのだろう。そう思い、俺はインターフォンを押した。しかし誰も出てこない。出迎えくらいして欲しかったと思いながら、ノブを押してみたが――開かない。嫌がらせかと思いながら、俺は鞄に触れた。自分の所持している方の鍵を出すためだ。後ろから声がかかったのは、丁度鍵を取り出した時の事である。
「あれ、お帰り。早かったね」
「あー……え、あれ? 今、中にいるの誰?」下の階の溜まり場から上ってきたらしい碧依君に言うと、不意に首を傾げられた。
「中って? 俺が寝る時しか借りてないから、今は誰もいないと思うけど」
からかうなよ、と、俺は心の中で笑いながら、取り出した鍵を用いて中へと入った。
碧依君には玄関で荷物を見ていてもらう事にした。俺はといえば、単身で中に入り、誰が何処にいるのか確認するべく、入り口から開始して、トイレと風呂、居間、ロフトの上、と、隠れられないように見て回った……が、誰もいない。
「……碧依君、本当に誰もいない?」
「え? うん」変な事もあるものだなと思いながらも、俺は目の錯覚だったと考え直した。
さてこの碧依君というのが、また『憑かれやすい』上に、時折『視える』のだと言う。 俺が大学一・二年と日参していたフットサルサークル――『デザイア』は、非常に微妙な名前であるが、小規模ながらも活気のあるサークルだった。右京の代には、サークル文化は廃れていたらしいが、俺の時代は、サークル活動が全盛期だった。中でも俺は、同じ学年の、七原と碧依君と親しかった。
もう一人同じ学年のセージも一緒になる事が多く、サークル内でも四人でいる事が自然だった。ただセージは途中から、カノジョといる時間が長くなり、あまりサークル外での場には顔を出さなくなった。セージは腕っ節が強いらしく、殴れない幽霊だけは嫌いだといつも話していた。なお、実際に喧嘩をした姿は見た事が無い。
肝試しがあったのは、二年生の夏だった。俺がF県から戻ってすぐの事である。
くじ引きで、七原と碧依君、俺とセージという組み合わせになった。組むなら女子が良かったのに……。その他も合わせて、その時集まった十数人が二人一組となり、石段を登り神社に行って、また戻ってくる事になった。お化け役などはいない。
「やばい。ここいる、やばい」
行く前に、ニヤニヤしながら七原が述べた。「お前の頭がヤバイだろ」とは、俺は言わなかった。七原の声に、碧依君が出発前から半泣きだった事を覚えている。
碧依くんはこの日、集合場所へ来る最中に、何度も何度も、肩から掛けていた鞄が、他の人に当たって困っていたらしい。そして不意に、肝試しのための合流地点の直前で、前方から自転車で走ってきたおじさんに呼び止められたそうだ。「狐がついてっぞぉ! 気をつけろ!」
そう言われ、バシンと鞄を叩かれたと話していた。
俺は合流した直後にそれを聞き、ふぅんと思っていたものである。始まる前から碧依君は、怖がっていたのだ。彼は、「今日は嫌な予感がする」とも口にしていた。
他にも碧依君にはネタがある。
碧依君は昨年の五月から一人暮らしを始めた。彼は実家も都内だが、都下にある大学まで通うのが大変だったらしい。しかしその一人暮らし先……後で先輩に言われて発覚したのであるが――大学近所の川の側で、有名な『出る部屋』だった。
他の家とは異なりその部屋だけ湿気が凄くて、すぐに碧依君の持ち物は湿ってしまった。俺は最初、水でもかけられるような……即ちイジメにでも遭ったのかとすら思った。それほど濡れていたのだ。
その部屋を彼は一ヶ月で引っ越したのだが、途端に持ち物からは湿気が失せた。これは碧依君ではなく、家が悪かったのだろう。川のせいだと思いたいが、その部屋以外に暮らす学生の持ち物は、同じ物件に住んでいても、湿っていないのだから不思議だ。
以降、二週間ほど時島は俺の実家のそばにいた。俺は近くの温泉に時島を連れて行ったり、椚原に時島を連れて行ったり――正確には、時島に車で連れて行ってもらったのだが、とにかく出かけ回った。出かける度に、酷く息切れがして、俺は相当体力が落ちているのだと気づいた。何だろう、歳だろうか? ――ちなみに椚原では、祖父が家に入れてくれなかった。しかし、庵に立ち寄れたので良かったという事にしておく。 そんな時島が、二週間目に言った。「左鳥、戻ろうかと思うんだ」「実家に? 東京に?」「……取り敢えず、東京に」「良いんじゃないか?」「一緒に来て欲しい」「え、それは……そのほら、俺は家も引き払っちゃったし……」「嫌なら、はっきりと言ってくれ」「そういうわけじゃないんだけど……」「その場合は、こちらに新しく家を借りないとならないからな」「え?」「なんだ?」「帰らなくて良いのか?」「――俺の帰る場所は、左鳥の隣だ。左鳥の帰る場所も、俺の隣であって欲しい」「時島、何言ってるんだよ。お酒も入ってないのに」「本気だからな」「本気って……」「嫌か?」「……」 俺は、嫌じゃない。嫌だと思わない自分に、少しだけ悲しくなった。 そして、時島がそばにいてくれるだけで満たされる自分に気がついていた。「もう目の届かない所に左鳥を置きたくない」「それって蛇の執着?」「蛇なんて関係ない。俺の嫉妬だ」「嫉妬……っ……」「寂しい思いをさせたんなら――もし俺の不在を寂しいと思ってくれたのであれば、謝る」「あたりまえだろ。寂しいに決まって……そんなの。連絡も無いし、会いにも来ないし
なおこの時の事は、後になってもまとめる事は決して出来無い。何故ならもう俺は、何も書く必要が無くなったからでもあったし――三人が決して俺に話してくれないという理由もある。不思議なものだ。書く事が存在証明だとあれほど思っていたはずなのに、憑き物が落ちたかのように俺は書かなくなった。 時島達が来てから、もう三日が経過していたらしかった。 俺はその間、眠っていたのだと繰り返された。 寺の誰に聞いてもそれしか話してはくれなかった。けれど俺は、鎌の生々しい感触を覚えている。 五日目――時島と紫野が帰る日になった。 そこには、右京の姿があった。「帰ろう、左鳥」「ああ……」「紫野さん、それで良いですよね?」「まぁ、俺としては良いってわけでもないけどな。東京にはいつ戻ってくるんだ?」「未定です」 どうして右京は、紫野に確認を求めているんだろうか。そう考えていると、右京が続いて泰雅を見た。「泰雅さん、お世話になりました」「俺は良いとは言ってないぞ?」「それじゃあお寺に監禁されているって噂立てちゃいますよ。警察沙汰だ」「やめろ」 三人が冗談めかしたそんなやり取りをしている所から、少し離れた場所に、俺は立っていた。 俺の隣には時島がいる。 その時、人目があるにも関わらず、時島が俺の手を静かに握った。 狼狽えて、手と、時島の顔を交互に見る。「これからは、ずっと俺が左鳥を守る」「ずっとって……」 俺はそんな曖昧な言葉は、もう信じたくはない。それに縋って生きる事は辛すぎた。「そばに居させて欲しいんだ」「いられないだろ。実家、大変なんだろ?」「――出てきた」「え?」「しばらくは姉さんに頼んである。確かにいつかは戻らなければならないのかもしれない。ただな、俺は、俺だから。左鳥に会いたくて、触れていたくて――ああ、遅いな、どうして今まで言えなかったんだろう。頼む左鳥
「……あれ?」 次に気づいた時、俺は一人寺の蔵に立っていた。 まだ夜だった。 左手も右手もぬめる感触がしたから、持ち上げてみる。壁の明かりが灯っていた。 見れば、俺の手は鮮血に濡れていた。 瞬きをして、何度も確認して、そして臭気から血だと再認識する。 俺は右手に、鎌を持っていた。 何故こんな物を俺は持っているのだろう――? 嫌な予感がした。それは、被害者になる恐怖では無かった。俺はこの感覚を知っている。加害者になる恐怖だ。 強姦被害に遭った時、自分は被害者なのだからと、そう……過去にもずっと『被害者』だったではないかと、記憶に鍵をかけて忘れた感覚だ。違う、本当は違う、俺は加害者なのかもしれなかった。冬だというのに裸足の俺は、足の裏にも、土でも木でもなく血の感触を覚えていた。恐る恐る視線を下げれば、その血溜まりには、数珠の玉がいくつも転がり、白い紙人形が沢山落ちていた。そして、寺で飼育されていた鶏が死んでいた。何羽も、そう何羽も。冬の寒さとは異なる、恐怖から、俺の背筋は寒くなったのに、なのに体は熱に浮かされたように熱い。ああ、ああ、嗚呼嗚呼嗚呼、あああああああああああ。俺は、俺は何をした? 時島は? 紫野は? 泰雅は? すべてを殺してしまったイメージに襲われる。残虐な光景が、脳裏を過ぎっては消えていく。 その時、何かを踏む音がした。 しかし俺の体は、俺の自由にはならず、俺は鎌を握ったまま、振り返りざまに横に払った。 肉を裂く嫌な感触がした。「左鳥、ずっと会いたかったんだ。こんな事を今更言うのは、遅いかもしれないけどな。でもな、言いたいんだ。何度でも言う。俺はお前に会いたかった。ずっと会いたかったんだ。顔を見られて、それだけで良いなんてもう言えない」 俺は時島の肩を抉っていた。背中には鎌の刃が突き立てられている。誰でもなく、俺の手によって。 肉や骨の感触よりも、溢れ出てくる赤に、一歩乖離した理性が何かを叫んだ。 多分俺は、泣き叫んでいたのだと思う。 しかし耳に入
「あがったのか。思ったより長かったな」「いつもよりは早い」 座敷に戻ると、日本酒の猪口を持った時島が振り返り、その正面では一升瓶を持った泰雅が笑っていた。「――いつも?」「いつも一緒だったからな。それが何か?」「緋堂さん、左鳥は――」「左鳥の事を、今一番よく知っているのは俺だ」 どこか喧嘩腰の時島と泰雅の姿に首を傾げながら、俺は二人の間に座った。 紫野はといえば、時島の隣、俺と時島の中間に座った。 長方形の机の上には、様々な来客用の料理が並んでいる。 食欲をそそる。思わず手を合わせてから箸を取ると、紫野に苦笑された。「食欲はあるのか」「何言ってんだよ紫野。まるで人をさっきから病人みたいに」 ――忘れていた鐘の音が響いてきたのは、その時の事だった。「!」 直後に停電した。 ああ、やめてくれ、もうやめてくれ、東京の友人達には――時島と紫野には……頼むから……時島にだけは知られたくない。知られたくなかった。 俺は両手で耳を覆いながら、この場から逃げ出したくなった。その思いに素直に立ち上がり、部屋の襖に手をかける。 俺はここにいてはいけない。 時島を巻き込んではいけない。 勿論紫野なら良いわけでは無かった。そもそも本来であれば、泰雅の優しさに甘える事もいけなかった事なのだ。そう考える間も高い鐘の音が響き続ける。俺の頭を侵食し、何も考えられなくさせていく。だから無我夢中で戸を開け、外へと出ようとした。その時だった。「左鳥」 誰か――だなんて、分かりきっていた、俺はその温度を知っていた。時島が、俺を抱きしめた。なだめるように、あやすように、耳元で名を呼ばれた。その声は決して大きいものでは無かったが、俺にはそれ以外の音の何もかもが消えて無くなったように感じた。勿論錯覚だ。ああ、ああ、鐘の音がする。鐘の音だ。鐘だ。鐘が追いか
――泰雅の家のお風呂は、温泉だ。といってもごくごく小さなものだから、せいぜい二人、基本的には一人で入る代物だ。 俺は今、そこに紫野と入っている。 時島は泰雅と先に飲んでいると言っていた。「それにしても紫野、久しぶりだなぁ」「それ俺が言っても良いか? みずくさいってやつだろ、いきなり帰るなんて」「悪い。なんだか、ちょっとな――それより、どうして二人はここに?」「来ちゃダメだったか?」「そういうわけじゃないし、そういう意味じゃなくて――なんで泰雅の家に?」 純粋に疑問に思って俺が問うと、紫野が微笑した。「お前、寺生まれのTさんって知ってる?」「は?」「や。緋堂さんもイニシャルTだよな」「何の話だ?」「怖い話」「ああ、右京が好きな、寺生まれの話か」「右京君に聞いたんだよ。ここにいるって」「右京に?」「そ。それで左鳥の顔でも見に行くかっていう話になったんだ」 そういうものなのかと俺は考えた。その時、まじまじと紫野が俺を見た。正確には俺の体だ。「痩せたな」「そう?」「ああ。あー、キスマーク」「嘘だろ?」「うん、嘘」 自覚が無かったから、俺は自分の胸の下に触れ、そして驚いた。 肋骨が浮いていた。 元々そう太っていたわけでは無かったが、ここまで痩せていた記憶も無い。「そろそろ出るぞ、左鳥」「え、もう?」「のぼせたら困る。お前、最後に一人で入った時も、のぼせて倒れたんだろ?」「は?」「目が離せないって緋堂さんが嘆いてたぞ」「嘘だよな?」 果たしてそうだっただろうか。確かに記憶を掘り返してみると、最近は泰雅と一緒に風呂に入った記憶しか無かった。その記憶も、昨日や一昨日の事であるはずなのに、何故なのか霞がかかっている。言われてみれば、頬が火照っているような気もした。こんな時には、風呂上がりの麦酒が飲みたい。 上がろうとした時、俺は立ちくら
――左鳥は、綺麗だ。 時島は、待ち合わせをしている東京駅のホームに降りた時、改めて思った。 物憂げな表情を俯きがちにしていた左鳥は、それから我に返ったように視線を彷徨わせている。それが、己の到着を待っていたから、自分の姿を探していたからのものである事を実感し、時島は喜ばずにはいられなかった。 大学時代は、左鳥の顔を見ると、ホッとしている自身が確かにいたのに。 距離が遠くなると、安堵とは異なる――会う度に胸が高鳴る現実を、時島は自覚させられていった。 視線が合うと、左鳥が微笑した。その笑みに心が疼いたけれど、それを押し殺すように時島もまた小さく笑った。 実家に戻り、数ヶ月が過ぎようとしていた。ここの所は、あまり東京に足を運んでいない。 理由が無いわけでは無かった。いくらでも作り出せる。けれど、不思議と左鳥に言い訳をする気持ちは起きなかった。ただ、足が自然と遠のいただけだったからだ。理由は分からない。ただ、左鳥に嫌われる事が怖かった。左鳥に会って、二度と手放せなくなる自分も怖かったのかもしれない。「左鳥」 名を呼ぶだけで生まれる透明感。氷のような左鳥の気配が、硝子のように変わるひと時。 それだけで、時島の胸には満足感が満ちる。ああ、左鳥は自分の声で、表情を明るく変えてくれる――今は、まだ。左鳥の事を考えると、自分が自分ではなくなりそうで、時島は怖かった。「時島、元気にしてたか?」「左鳥、すぐにホテルに行きたいんだ」「あ、ああ」 そして、『抱きしめたいんだ』と続けようとして……それが出来無かった。 ただ左鳥は時島の言葉に、微笑しただけだった。けれどその表情が、どうしようもなく寂しそうで、悲しそうで。時島にはそう見えた。「ン、ぁあっ、あ……や、あ」「左鳥」「時島っ、時島、ああ、もう、俺」 左鳥の中を暴きながら、ホテルの一室で時島は痛む胸を押さえた。瞬きをする度に、蛇の瞳が映っている気がする。けれど蛇にすら、神にすら、