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桐葉、自由の空へ

桐葉、自由の空へ

By:  悪くないCompleted
Language: Japanese
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結婚十周年記念日のその日、私は旦那・大蔵栄一(おおくら えいいち)と息子・裕之(ひろゆき)の秘密を知ってしまった。 毎年繰り返される「記念日のアクシデント」は、偶然なんかではなかった。 全ては裕之の仕組んだ茶番劇だったのだ。この子は意図的に私を家に縛りつけ、栄一が初恋の人とデートできるように手伝っていたのだ。 ドアの向こうから、普段ちやほやしている裕之の声が冷たく響いてくる。 「パパ、立花(たちばな)さんに会ってきてね。いつものように、僕がママを引き止めとくから。 毎年こんなことするのめんどくさいよね。ママもう大人だってのに、なんで結婚記念日とか気にするんだろう。 立花さんのほうが新しいママにぴったりだよ。今のママはわがまま過ぎる」 その夜、遅くなって帰ってきた栄一は知らない女の香水の香りを纏っていた。私は彼に離婚を告げた。 彼らは忘れていたのだ。 私は妻でも母親でもあるが、まず「私」という人間であることを。

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Chapter 1

第1話

結婚十周年記念日のその日、私は旦那・大蔵栄一(おおくら えいいち)と息子・裕之(ひろゆき)の秘密を知ってしまった。

毎年繰り返される「記念日のアクシデント」は、偶然なんかではなかった。

全ては裕之の仕組んだ茶番劇だったのだ。この子は意図的に私を家に縛りつけ、栄一が初恋の人とデートできるように手伝っていたのだ。

ドアの向こうから、普段ちやほやしている裕之の声が冷たく響いてくる。

「パパ、立花(たちばな)さんに会ってきてね。いつものように、僕がママを引き止めとくから。

毎年こんなことするのめんどくさいよね。ママもう大人だってのに、なんで結婚記念日とか気にするんだろう。

立花さんのほうが新しいママにぴったりだよ。今のママはわがまま過ぎる」

その夜、遅くなって帰ってきた栄一は知らない女の香水の香りを纏っていた。私は彼に離婚を告げた。

彼らは忘れていたのだ。

私は妻でも母親でもあるが、まず「私」という人間であることを。

部屋の中の話し声は次第に小さくなっていった。

外で立ち尽くす私は、頭から冷水を浴びせられたように全身が凍りついた。

この瞬間でさえ、「疲れすぎて空耳だったかな?」と自分を疑っていた。

力を抜いた手からマグカップが滑り落ちた。熱いミルクが床に飛び散り、跳ねたしずくが肌をひりつかせた。

きしり……

ドアが内側から開かれた。

裕之は私を見て、一瞬目を泳がせたが、すぐに不快そうに言った。

「何してんの?盗み聞き?

パパの言う通りだよ。ママってほんと、僕らを犯人扱いして監視してるよね」

八歳の彼はすでに背が高く、栄一にそっくりな鋭い目元をしていた。

眉をひそめ、私を見下すその表情は、記憶の中の栄一が苛立っていた時の顔と瓜二つだった。

確かに、栄一は私に優しくしてくれたことなど一度もなかった。

だが、裕之までもが、いつしか栄一と同じ冷たい人間に育っていたとは。

あの愛たしかった子は、とうに消えていたのだ。

胸の奥で沸き上がる感情を必死に押さえ込み、私は静かに裕之を見つめた。

一瞬、激しく怒鳴りたい衝動に駆られた。

でも、もうそんな気力さえ湧いてこなかった。

私は裕之に向かって、作り笑いを浮かべた。

「今来たところよ。転びそうになって……聞いてなんかいないわ」

「そう?」

彼は疑い深げに私を見つめ、怒る気配がないと確認すると嘲るように言った。

「じゃあ早く片付けてよ。ミルクは?」

しゃがみこんでガラスの破片を拾いながら、今にも溢れそうな涙を必死にこらえた。

急に、力が抜けてしまった。

「鈴木(すずき)さんに頼むわ。ママ、ちょっと疲れてるから」

すると裕之は突然烈火のごとく怒り出した。

「ママ、今日僕が熱出したから、デート行けなくなってムカついてるんでしょ。

子供みたいな言い訳やめてよ。

こんなことなら全部ママがやってたじゃん。鈴木さんに僕のミルクの温度なんかわかるわけないでしょ!」

裕之は胃が弱く、私は毎回体温と同じくらいの温度にミルクを温めていた。

それだけではなく、細かいことまで全て気を配ってきたのに。

報われたのは「子供みたいな言い訳」というひと言だけ。

破片を拾い終え、涙も涸れた。

立ち上がり、彼を見ずにその場を離れた。

背後で、裕之が激しくドアを閉める音が響いた。

部屋に戻り、パソコンで離婚協議書のテンプレートを検索した。

ちょうどその時、ニュース通知が表示された。

「大蔵グループ社長、幼なじみ女性との密会写真」

栄一も楽しすぎたせいか、こんな不注意を。

写真の中で、彼は美しい女性と笑い合っていた。

あんなに幸せそうな栄一を見たことがなかった。

その女性は人形のように可憐で、画面に映った私の顔は疲れきって表情もなかった。

実は、この結婚は政略結婚で、私と栄一は選択の余地などなかった。

私は抵抗したが、無駄だった。

結局ある出来事で結婚式は前倒しになり、栄一は片思いの幼なじみと別れる羽目になった。

でも結婚式の日、彼は「過去は水に流す」と言ってくれた。

私はそれを信じた。

それから十年、私は良き妻として家庭を守り続けた。

子供と家事に明け暮れる日々。

そんな生活にすり減らされ、美貌も失っていた。

プリンターの音が止んだ。

階下で栄一が帰宅した音がした。

「桐葉(きりは)、どこにいるんだ?」

怒声が響くほぼ同時に、離婚協議書が印刷終了を示す音を立てた。

私はそれを取り上げに、ドアを開けて階段を下りていった。
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