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第6話

作者: 霧乃吟
征司の表情にはっきりとした変化はない。ただ、澪を見る目だけが少し冷たくなった。

彰人も蓮も、一瞬言葉を失った。

今の澪の言い方は、さすがにきつすぎるのではないか。征司の気を引くために、今度は強く出ることにしたのか。

しかも、公開で謝るって。

それでは謝罪どころか、わざと紗耶を貶めるつもりとしか思えない。

紗耶は顔をこわばらせ、まるで自分こそが傷つけられた被害者であるかのように唇を歪めた。

「澪さん、もう気は済んだ?」

紗耶のその言い方に、澪はむしろ感心した。

よくもそんな顔で、自分が被害者だと言わんばかりに振る舞えるものだ。

一度そう思い込んだ相手に対して、澪はもう説明も弁解もする気になれなかった。

自分が悪くないことを証明するために、これ以上言葉を尽くす気にはなれない。

この結婚は、もう終わる。

今さら彼らに分かってもらおうとしても、余計に傷つくだけだ。

澪はそれ以上何も言わず、その場を離れようとした。

征司のそばを通り過ぎようとしたとき、冷めた視線が彼女を捉えた。

征司は逃がす気がないように澪を見据え、唇を歪めた。

「今度はそういう手か」

澪は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「何のこと?」

征司は目を伏せるようにして、薄く笑った。

「さっきまであれだけ強く出たのに、今度はどうして言い返さないんだ?」

澪はようやく、征司の言いたいことを理解した。

悔しさと怒りが、一気に込み上げてきて、目の奥が熱くなった。

自分がどんな感情を見せても、征司にはすべて計算に見えるのだろう。

取り乱しても、崩れ落ちそうになっても、絶望して身を引こうとしても、彼の目には全部、気を引くための手段にしか映らない。

怒りで胸が張り裂けそうても、結局は「演技」と呼ばれるだけだ。

この場には、紗耶をかばう人間ばかりで、自分の言葉に耳を傾ける者などいない。

ここで言い争ったところで、自分がさらに傷つくだけだ。

それに、征司はきっと、自分がまた駄々をこねているだけだと思っている。

何を言っても、どう振る舞っても、彼が自分の言葉をまともに受け止めることはない。

ならば、これ以上言葉を尽くす意味などない。

澪は少しずつ落ち着きを取り戻した。争う気力も失せ、彼に合わせるように小さくうなずいた。

「分かった。じゃあ、どうぞお幸せに。これでいいの?」

澪はもう征司を見ようともせず、そのまま背を向けて歩き出した。

三か月。

あと三か月だけ耐えれば、この息苦しい結婚は完全に終わる。

征司はほんの数秒だけ澪の後ろ姿を見送ったが、すぐに興味を失ったように視線を外した。

征司は、澪の怒りを受け止めるつもりなどない。

何も言わず、何も応えず、しばらく相手にしない。そうすれば、いつものように澪のほうが折れると、彼は考えた。

七年の間、二人はずっとそうやってきたのだ。

それが、二人の暗黙のやり方だ。

――

澪は、さっきの出来事を伊織には話さなかった。

話せば伊織が黙っていないだろう。下手をすれば、本当に森宮家の人間に食ってかかるかもしれない。

澪は結局、ほとんど食事に手をつけられないまま伊織と別れ、その足でマンションへ戻って荷物の整理を続けた。

ひと通り片づけ終える頃には、もう九時近くになっていた。

そこで、恩師から預かった本を持ってきていないことに気づいた。

澪は髪をかき上げて、小さく息を吐いた。

たしか、あの本は征司と暮らしていた家の寝室の金庫にしまったままだ。

澪はすぐに上着を羽織り、車であの家へ向かった。

征司はもともと、めったに家へ帰らない。だから会うことはないはずだ。

澪は二階へ上がり、いつものように寝室の扉を開けた。

すると、そこにいるはずのない征司が見えた。

大きな窓の前に立っている征司の手にあるスマホには、ビデオ通話の画面が映っている。

その相手は、紗耶だった。

夜になってもこうして顔を見ながら話しているらしい。まるで、付き合い始めたばかりの恋人同士のようだ。

征司は眉をひそめて澪を見た。

突然入ってきた彼女に向ける声は、冷たかった。

「ちゃんとノックしろよ」

澪は一瞬、言葉を失った。

妻として七年暮らしてきた寝室に入っただけなのに、今の征司にとっては、それさえ紗耶との時間を邪魔する行為らしい。

「出ていけ」

征司が冷たく言い放った。

まるで澪がわざと二人の会話を盗み聞きしに来たかのような言い方だ。

澪は胸の奥が冷たくなるのを感じた。

それ以上何も言わず、部屋の外へ退いて扉を閉めた。

夫が不倫相手とどれほど親しげに話しているのか、わざわざ聞いて自分を傷つける必要はない。

階下へ下りると、物音を聞きつけた家政婦の房江(ふさえ)が出てきた。澪の姿を見るなり、すぐに声をかけた。

「澪様、先ほど大奥様からお電話がありました」

澪は少し迷ってから、受話器を取った。

房江は、澪が夫に大切にされていないことを知っていて、それでも本邸の大奥様が澪をかわいがっていることも分かっている。

だから余計なことは聞かず、そのまま二階へ行った。

「澪?」

受話器の向こうから、穏やかな森宮美佐子(もりみや みさこ)の声が聞こえた。

澪は壁の時計に目をやった。

早く本を取って帰りたいが、美佐子からの電話を無視するわけにもいかない。

「おばあ様、まだお休みではなかったんですね」

美佐子は甘えるような口調で言った。

「私だってまだまだ元気よ。あなたがいつも持ってきてくれるお薬のおかげで、少しくらい夜更かししても平気」

澪が黙っていると、美佐子は穏やかな声のまま本題に入った。

「澪は医学に詳しいでしょう。自分の体のことも、もう少し大事にしなさい。今からきちんと体を整えておけば、赤ちゃんのことも考えやすくなるでしょう。

知っているでしょう、森宮家は男ばかり。かわいいひ孫娘がいたら、どんなにうれしいかしら。子どもがいれば夫婦仲も深まるものよ。征司も、本当は子どもが好きなの」

子どもの話は、この数年ずっと途切れたことがない。

玲衣の存在について、澪はこれまで一言も漏らしていない。

離婚を決めた今、なおさら話せるはずがない。

それに、たとえ離婚しなかったとしても、澪だけが体を整えてもどうにもならないだろう。

征司は夫婦の営みに関心の薄い男で、自分ひとりがどう努力したところで、どうにもならない。

それに、征司は昔、自分に子どもはできないと言っていたから、美佐子はその噂を知らないはずもない。

それでも、澪には体を整えろと言っている。

澪は、胸の奥が冷えていくのを感じた。

子どもができないことも、夫婦がうまくいかないことも、いつの間にか女の責任にされる。

努力して、我慢して、それでも足りなければ、さらに自分を責められる。

あまりにも理不尽だ。

澪はこの話題から逃げたくなった。

彼女は指先をぎゅっと握って、隠さずに告げた。

「おばあ様。私、征司と離婚するつもりです」

電話の向こうが急に静まり返った。

きっとひどく驚いているだろう。

しばらくして、美佐子はようやく冷たい声で言った。

「あなたがつらい思いをしてきたことは、分かっているつもりよ。征司は、昔から人の愛し方を知らない子なの。でも、少なくとも夫婦としての礼儀を守ってきたでしょう。澪、もう一度だけ考え直せないかしら」

「考え直すつもりはありません。もう決めました」

美佐子はしばらく黙り込んだ。

やがて深いため息をつくと、静かに言った。

「澪、森宮家はあなたにずいぶんつらい思いをさせてしまったわね。安心しなさい。離婚することになっても、あなたをそのまま放り出したりはしない。あなたに合うよい相手を、私が責任を持って探すわ」

澪は言葉に詰まった。

美佐子がそう言うとは思っていなかった。

まだ離婚もしていないのに、もう次の相手を探して補償しようとしているのか。

いくら何でも、気が早すぎる。

けれど、美佐子の言葉を聞いて、澪の胸は少し冷えた。

澪と征司の結婚がどれほど形だけのものなのか、皆分かっている。

皆、澪がどれほどつらい思いをしてきたか分かっている。

それでも、澪なら最後には折れると思っている。

だから、澪がどれほど傷ついても、見ないふりをしてきたのだろう。

けれど、もう違う。

もう終わりにする。

通話を切ると、澪は時間を確認した。

あれから十分ほど時間が経った。まだ夫である征司は、恋人との甘い時間を十分楽しんだだろうか。

澪はただ本を取って、早くここを出たいだけなのだ。

これ以上待っていられないと思い、二階へ上がろうとしたそのとき、玄関の扉が乱暴に開いた。

征司の叔母にあたる森宮千佳子(もりみや ちかこ)が大股で入ってきて、ひどく険しい顔で澪の前まで来ると、いきなり手を振り上げた。

千佳子の手が振り下ろされる直前、澪は反射的に半歩身を引いた。

そのおかげで直撃は避けられたものの、指先が頬をかすめた。

「パンッ」と乾いた音が響いて、澪の頬はじんと痺れた。

千佳子は澪を指さし、怒鳴りつけた。

「澪、嫉妬で頭がおかしくなったの?自分がうまくいかないからって、周りまで巻き込んで、恨みがましく騒ぎ立てて。そんなことをして何になるの」

不意に打たれた澪は、状況を飲み込めず、千佳子と言い争う余裕もなかった。

そのとき、階段のほうから足音がした。

振り返ると、征司がそこに立っていた。

いつの間に下りてきたのか、手にしたスマホの画面はまだ明るいままだ。

澪は、征司のスマホ画面に映る紗耶と目が合った。

頬を打たれたばかりの澪を見て、紗耶はほんの一瞬、笑った。

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