LOGIN通話を切ると、澪はぎゅっと指を握りしめた。青ざめていた手のひらと指先に、少しずつ血の気が戻っていくのが見えた。冷え切っていた体も、ようやく少し楽になった。これでもう、先のことを思い悩む必要はないのかもしれない。離れる前に背中を押してくれた宇一には、澪は心から感謝している。今の状況で彼が手を貸してくれるということは、征司に真っ向から逆らうことを意味する。この恩を、澪は軽く受け流すつもりはない。澪はアカリ製薬に戻った。譲渡契約書を持って行くと、弁護士が待機している。彼らは細心の注意を払いながら、入念に確認していた。そこで知之は言った。「森創の弁護士団なんて、油断ならない連中だからな。あいつらが作った書類にサインするなら、絶対に用心しないと」彼は、征司が契約書を通して澪を陥れようとしているのではないかと警戒していたのだ。この業界では、契約書の文言に罠が仕掛けられていることなど日常茶飯事だ。たった一文字、あるいは句読点ひとつの違いが命取りになりかねない。これまで澪に対してあれほど冷淡だった征司のことだから、最後まで容赦なく仕掛けてくる可能性は十分にある。これから澪の手に渡れば、瑞穂メディカルは間違いなく今以上に成長するはずだ。森宮家につけ入る隙を与えないよう、しっかりと手元に固めておかなければならない。澪はふっと笑った。「私よりずっと抜け目ないね」知之は肩をすくめた。「仕方ないだろ。あの森宮家から、こんなに大きな獲物を奪えるなんて、それこそ奇跡みたいな話なんだから。少しの手落ちも許されない。確実に自分のものにしておかないと」森宮家といえば、人を食い物にしても骨までしゃぶり尽くすような一族だ。澪がやったことは、まさに金の山を抱えたまま、無傷で虎の穴から抜け出してきたようなものだ。この話を知れば、澪にはよほどの後ろ盾があるか、人並み外れた駆け引きの才があるからこそここまで事を運べたのだと、誰もが思うだろう。澪もそれは認めた。ただ、弁護士は一人いれば十分だと思っていたのに、知之は念を入れて三人も呼んでいた。その三人は今もテーブルを囲み、条項を一つずつ協議している。何度も確認を重ねた末、ようやく結論が出た。「問題は一切ありません。むしろ会社の独立性についても明記されています。森宮社長が保有す
房江は背筋が凍るような思いだった。征司の静かな威圧感に、思わず身がすくんだ。彼は美佐子様に二人の不仲を知られたくないだけなのか、それとも奥様をかばっているのだろうか――一瞬、そんな考えが頭をよぎった。だがすぐに、その考えを打ち消した。そうではないはずだ。旦那様はもともと、奥様との間に子どもを作るつもりなどない。だからあんな態度を取ったのだろう。奥様が旦那様の薬を替えなかったからといって、旦那様が冷たくされているわけではない。哀れなのは、むしろ奥様のほうだ。旦那様には、奥様と親しくなろうという気持ちも、子どもを産ませようという考えも最初からまるでないのだから。澪が急いで家を出ると、すぐに運転手が追ってきて、送ると言った。帰る時も征司の車に乗っていたため、澪一人では出られない。だから断らず、送ってもらうことにした。征司の車は、前列と後部座席の間にパーティションがある。澪はそれをしっかりと閉めてから、宇一に電話をかけ直した。宇一はすぐに出た。澪は、なぜか声がうまく出なかった。二秒ほどの沈黙のあと、宇一が静かに尋ねた。「大丈夫か?」澪が恐れていたような追及の言葉は、一切なかった。意外に思って、思わず聞き返した。「私が?」「今日の件で、何か厄介なことになっていないかと思ってな。必要なら手を貸す」電話の向こうからは、雑然とした空港のアナウンスが微かに聞こえている。澪は呆然とした。「前から知っていたの?」彼は、自分が征司とは夫婦だったことについて何も尋ねてこない。驚きも、問い詰める様子もない。宇一はしばらく黙ってから答えた。「そうだな」彼はもともと、極めて慎重な人間だ。かつて澪と協力関係を結んだ時も、表向きには何も言わなかったが、宇一は水面下で彼女の身辺調査を済ませていた。だが、澪が自分から話さないことを、宇一があえて尋ねることはなかった。澪が一人で子供を産み、その存在をひた隠しにすると覚悟したのなら、彼女が誰の庇護も受けられず、心の休まる場所すらない境遇にいることは容易に想像できるからだ。澪は、ふっと全身の力が抜けるのを感じた。張りつめていた気持ちが、少しずつほどけていく。宇一はすべて知っている。それでも長いあいだ、何一つ尋ねず、自分がすべ
澪には、その可能性しか思い浮かばなかった。森創の創立記念パーティーには、あれだけ多くの人が集まっていた。ちょっとした出来事でも、すぐに外へ漏れてしまう。宇一が知っている可能性は十分にある。そう思い至った瞬間、澪は思わず身体をこわばらせ、胸を固く掴まれたような圧迫感が襲った。宇一がどのような態度に出るのか、全く予測がつかない。これまで宇一が玲衣の生活を整え、戸籍を移すために力を貸してくれていたのは――澪が密かに結婚していた相手が征司だとは知らなかったからこそ成り立っていた話だ。だが、今は違う。宇一がこの先も澪を助け続けるということは、征司、そして森宮家全体を敵に回すことを意味する。宇一は、商売をする人間だ。利益が最優先されるこの世界で、何の得にもならない厄介事に首を突っ込む人間などいない。割に合わない取引など、誰も望みはしないのだ。ましてや相手が征司となれば、単なる揉め事の域を超えている。宇一がこの件をきっかけに自分との関わりを断ち、その結果、玲衣の存在が世間にさらされてしまうのではないか。そう考えると、澪の額には薄く汗が滲んだ。落ち着いて座っていることすらできず、鳴り続けるスマホを握りしめたまま、頭の中だけが目まぐるしく動いている。征司は長い指で、温かいカップの縁をなぞっている。視界の端には、焦りを隠しきれない澪の姿が映る。澪はうまく取り繕っているつもりなのだろうが、途方に暮れた気配まで、征司には手に取るように分かっている。澪は、宇一がなぜ電話をかけてきたのかをひどく気にしている。あるいは、自分たちの夫婦関係が公になったことで、宇一との関係に影響が出るのではないかと心配しているのかもしれない。「出ないのか?」征司が不意に尋ねた。澪はそこで我に返り、鳴り続けているスマホを反射的にポケットにしまった。「この契約書については、今この場で安全だと判断することはできない。持ち帰って、きちんと確認させてもらう」澪は一息に言い切った。「もう会社の押印も署名も済んでるんでしょう。問題ないと確認できたら、すぐにサインする。月曜の引き継ぎには間に合わせるから」彼女は征司の問いには答えなかった。それも当然だ。今、この電話に出れば、征司に知られてはいけない話をすることになるかもし
征司はスマホに夢中になっている澪を一度見ただけで、邪魔はしなかった。二人の家に帰ると、房江が待っている。征司がいつ手配したのか、分厚い契約書類の束を抱えたスーツ姿の男がすでにリビングで待機している。澪は意外に思った。こんな短時間で、もうそこまで準備を整えているとは。「少し待っていてくれるか」征司は無造作にジャケットを脱ぎながら、澪に言った。「薬を替える」澪は反射的に彼の背中へと視線を向けた。あの夜に負った傷が、まだ治っていないのか。もうかなりの日数が経っているはずだ。房江がすぐに口を挟んだ。「奥様、旦那様に薬を替えて差し上げてはいかがですか。奥様は救急医として働いていらしたんですから、こういうことには慣れていらっしゃるでしょう?」澪はすっと視線を逸らした。「彼の世話を焼きたい人なら、ほかにいくらでもいるでしょう。紗耶さんに電話すればいい。次の奥様になる人なら、きっと喜んで飛んでくるはずよ」あの時も、紗耶がつきっきりで征司の世話をしていただろう。もう離婚するのだから、距離はきちんと取るべきだ。房江は言葉に詰まり、気まずそうに征司の顔を見た。征司は目の奥を読ませず、口元には笑みともつかないものを浮かべている。その気配には、どこか冷たいものがある。だが、澪の言葉を咎めることはなかった。「救急箱を持ってこい」征司が短く命じると、房江はすぐその場を離れた。澪は、征司が温厚な人間だとは思わない。自分の言葉をあっさり受け流したのは、単に「次の奥様」という響きが彼の耳に心地いいからに違いない。彼の望んでいるところを、的確に言い当ててしまったのだろう。征司は澪を避けることもなく、鏡の前に立つと、その場でシャツのボタンを外し始めた。不意を突かれ、澪は思わず息を呑んだ。あらわになった背中には、まだ生々しく医療用ガーゼが貼られている。肩から首筋にかけての逞しいライン、腕を動かすたびに引き締まった筋肉と、くっきりと浮かび上がる肩甲骨。その上に貼られた白いガーゼには、濃い赤が滲んでいる。澪は眉をひそめた。傷はまだ治っていない。これほど時間が経っているのに、どうしてなのか。征司なら、最高水準の医療を受けられるはずだ。医療に携わる者の癖で、澪は知らず知らずのうちにその傷の状態を確かめ
森宮家がどんなに計算を重ねようと、まさか瑞穂メディカルの未来のオーナーが、ほかならぬフェイだとは思いもしないだろう。紗耶のことにこれ以上こだわらない代わりに、いつか玲衣のことが森宮家に知られても、こちらが対抗できる足場を手に入れられるのなら、悪い話ではない。澪にも、その理屈はよく分かっている。テーブルに置かれたティーには手をつけず、澪は変わらず涼しい顔をしている征司を見た。上場企業を手放すというのに、彼はまるで痛くもかゆくもないように見える。「森宮社長は、ずいぶん気前がいいね」「この条件で納得したか?」征司の口元が、わずかに動いた。条件――澪は、その言葉の意味を少し考えた。結局のところ、すべては紗耶が起こした不祥事を揉み消すためだ。澪は、つまらない意地を張って大金を手放すような人間ではない。現実問題として、生きていくには莫大なお金がかかる。これからの人生になんの価値も持たない紗耶や征司のために意地を張って、何も得られないまま終わらせる必要などない。人は、意地や体裁だけで生きていけるわけではない。征司が会社を譲るというなら、離婚の財産分与の一部として受け取ればいい。受け取らない理由などない。そのすべては、いずれ玲衣の未来を守るための力になるのだから。「紗耶さんに対する一途な愛には、神様も感動するでしょうね」澪は、口元だけで笑って言った。征司は意味ありげに澪を一瞥した。「褒め言葉として受け取っておく」澪は眉をひそめた。征司は昔からずっとこうだ。何を言っても、綿に拳を打ち込んだように手応えがない。知之は、このまま話を終わらせるつもりはない。「この話は、今のうちに詰めたほうがいいと思う。特許の件は証拠をそろえて、紗耶が先に出願した特許を無効にすればいい。会社のことは、まず森宮社長ときちんと話をまとめた方がいい」征司や森宮家が、後から約束を覆して会社を渡さなくなることを、知之は心配しているからだ。正直なところ、今日の出来事がいくつも重なり、紗耶と森宮家の関係が致命的な危機に陥ったからこそ、森宮家の人間が澪にこれほどの譲歩を見せたのだ。そうでなければ、あの連中が澪に何かを与えるなんて、あり得ないことだ。あの人たちには、情けというものがない。特許の件も、最初は紗耶の
悔しさを押し殺しているように、美佐子の口元がぴくりと引きつった。確かに彼女は、皆の前で紗耶を認めるようなことを口にしてしまった。あの時、どうしてあんな軽率なことを口走ってしまったのか――征司も慌てず、まるで部外者であるかのように淡々と利害を整理してみせた。「特許の件だけなら、森宮家の力で収められる。だが、政界に通じる人たちが関わっています。榊院長や柴崎先生が本格的に動けば、森創の対外的な信用も大きく損なわれるでしょう。瑞穂メディカルも同じです。紗耶が在籍している以上、真っ先に狙われるでしょう。今はすでに世間からの信用は地に落ちています。今後、取引先も提携先も、うちとの付き合いには慎重にならざるを得ません。機密やデータまで盗まれるのではないかと警戒して当然ですからな」知之は思わず征司を見た。この男は計算高く、あまりにも冷徹だ。今の言葉は、まるで森宮家の利害など自分には関係がないと言わんばかりの態度だ。孝允は冷たい顔で言った。「それなら簡単だ。紗耶をクビにすれば済む話じゃないか」征司は顔を上げ、ゆっくりと笑った。「それで何が片づくというのですか?クビにすれば、余計に俺が彼女をかばって、世間の目を避けようとしているようにしか見えません。父さん、そこを見誤らないでくれ」孝允の顔色が一気に険しくなった。自分の息子の考えは、どうにも読み切れない。征司は続けた。「森宮家は、瑞穂メディカルがなくても困りません。澪に渡して彼女が納得すれば、うちのためにも本気で動くでしょう。一番厄介な問題を片づけてもらえるなら、悪い話じゃありません」美佐子の腹の底には、行き場のない怒りが渦巻いている。しかし、それをぶつける余地はない。征司にすべての逃げ道を塞がれているからだ。澪のような、失うもののない人間を追い詰めれば、限界を迎えた時に牙を剥かれる。澪には、老いて判断力の鈍った祖父と長年横たわっている母親しかいない。何の後ろ盾もなく、守るべきものもない。本当に追い詰められて、すべてを投げ打つ覚悟を決めたなら、澪に失うものなど一つもない。そもそも彼女は、最初から何も持っていないのだから。しかし、森宮家は違う。自分たちには守るべきものがあまりにも多い。しかも今、瑞穂メディカルの信用は紗耶のことで大きく傷ついてい
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊