Compartir

第7話

Autor: 霧乃吟
その笑い声は、澪の胸を鋭く刺した。

紗耶は、千佳子に頬を打たれた自分の惨めな姿を見ていた。

そして、征司が自分をかばおうとしなかったことまで、画面越しにはっきり見ていたはずだ。

澪は自嘲気味に笑った。

もう、征司に期待などしていない。

それでも、自身の家庭を壊した不倫女にこんな惨めな姿を見られたことはどうしようもない屈辱だ。

征司は冷ややかな目で千佳子を一瞥すると、紗耶に「あとでかける」と告げて通話を切った。それから、澪の赤くなった頬に一瞬だけ目をやった。

しかし何かを言うことはなく、すぐに千佳子へ視線を移した。

「叔母さん、どういうつもりですか」

征司の声は低く、冷たかった。

しかし、その冷たさは澪を思ってのものではない。

澪も期待していなかった。

彼が気にかけてくれないことなど、この七年で嫌というほど分かっている。

だから今さら、彼に優しさを求めることもない。

征司の視線を受け、千佳子は思わず肩を震わせた。

澪はまだ、形式上は征司の妻だ。

たとえ征司が彼女を大切にしていなくても、その妻に手を上げたとなれば話は別だ。

そう考えた千佳子は、すぐに澪を指さした。

「悪いのはこの人でしょう?征司さんが紗耶さんを病院へ連れていったことが、ネットに流れているのですよ。

その病院は澪が勤めている病院じゃありませんか。誰がやったかなんて、考えるまでもないでしょう!

その投稿には揉め事を煽るような生々しいことが、あれこれ書いてあったんですよ。紗耶さんがあなたの子を身ごもっているだとか、あなたたちが……」

その先は、さすがに千佳子も口にできなかった。ただ怒りを抑えきれないまま澪を睨みつけた。

紗耶はまだ千佳子の息子の婚約者という立場にある。婚約を正式に解消するかどうかも、まだ話し合いは済んでいない。

しかし、そんな噂が広まれば、千佳子の面目は丸つぶれになる。

この先、どれほど陰口を叩かれることか。そう思えば思うほど、千佳子は澪への憎しみを募らせていった。

七年も征司の妻でいながら、夫の心ひとつつなぎ止められないうえに、ほかの女へ向いた夫を引き戻すこともできず、挙げ句の果てには、息子の縁談まで壊そうとしている。

澪は内心、少し意外に思った。

たしかに、公の場で紗耶に謝罪するとは言ったが、本当にそんなことをした覚えはない。

とはいえ、このタイミングであんな暴露が出たとなれば、周囲の目には、まるで自分が仕組んだかのように映るだろう。

澪はスマホを取り出し、思い当たる言葉をいくつか打ち込んで検索した。

すると、千佳子の言うとおり、それらしき投稿がすぐに見つかった。

文面を見る限り、投稿者はかなり慎重に言葉を選んでいるようで、征司と従弟の婚約者である紗耶との関係をただの不倫騒動ではなく、禁断の恋であるかのように仕立てていた。

澪は思わず征司に目を向け、そこで初めて気づいた。

征司はじっと澪を見つめている。

やがて、彼はまるで他人事のような口ぶりで言った。

「お前、そこまで紗耶のことが気になるのか?」

征司はそれ以上は口にしなかった。

だが、澪からすれば、その短い言葉だけで十分だ。

征司は澪が嫉妬に駆られて紗耶を陥れようとしているのだと、そう思い込んでいるのだろう。

身に覚えのない濡れ衣を着せられた澪は、すっと表情を消した。

「私があなたたちのことをばらすつもりなら、あんな上品な書き方なんてしないわ」

わざわざ言葉を飾って、二人のことを美しく見せるはずがない。

千佳子は鼻で笑うように言った。

「ただあからさまに罵る度胸がなかっただけでしょう?征司さんに追い出されたくはないものね」

森宮家の人はみんな、澪は征司から離れられない女だと思っている。

澪はその見方にうんざりした。それでも胸の奥が冷えるように感じた。

千佳子の言葉をまったくの的外れだとは言い切れなかったからだ。

かつて自分は確かに征司のことしか見えていなかった。

彼に愛されたい一心で、女としての意地も、妻としての誇りも、いつの間にか手放した。

征司は澪をちらりと見ただけで、彼女の言い分を聞く気などなさそうだ。

赤く腫れた頬に一瞬目を留めると、物音を聞きつけて姿を見せた家政婦の房江へすぐに視線を移した。

「奥様に氷を」

房江は、はっと我に返ったように慌てて動き出した。

征司のひと言で、澪の胸の内に渦巻いていた言葉はそこでふっと途切れた。

しかし、その「気遣い」に、澪の心が動くことはもうない。

助けられたとも、守られたとも、思えない。

それはきっと、征司がこれまで身につけてきた礼儀のようなもので、澪を思ってのことではない。

自分に都合よく受け止めれば、また同じことを繰り返すだけだ。

征司はもう一度千佳子に目を向けた。

その口調は結論というより、ほとんど命令に近い。

「これ以上事が荒立てば、森宮家にとって不利益にしかなりません。家名を守るつもりなら、紗耶と森宮朝斗(もりみや あさと)の婚約は解消してください。表向きには、まだ正式に決まった話ではないということにすればいい」

千佳子の顔がこわばった。

征司がそんな結論を口にするとは、思ってもみなかったのだろう。

彼女は本来、澪を責めるために来たはずだった。それなのに――

しかし、ほかに選択肢がないことも千佳子には分かっている。

澪は氷嚢を手にしたまま、征司の整った横顔を見た。その目には、どこか自嘲めいた色が浮かんでいる。

澪は、そこでようやく気づいた。

征司の狙いは、最初からこれなのだ。

この騒ぎに紛れて、紗耶と朝斗との縁談をなかったことにする。

そうすれば、いずれ紗耶を自分のそばに置くこともずっと容易になる。

征司はもう、紗耶を堂々と自分のそばに置けるようにしたくて仕方ないのだろう。

「房江、叔母さんを玄関まで送ってくれ」

征司は、千佳子の意向を聞くつもりなど最初からないのだろう。

そう言い終えると、彼は感情の読めない目で澪をちらりと見やり、そのまま二階へ戻っていった。

千佳子は悔しげに唇を引き結んだ。

しかし、いずれ森宮家を実質的に動かす立場になる征司に、今さら逆らうことはできない。

去り際、千佳子はなおも憎々しげに澪を睨みつけて言った。

「専業主婦なんて、所詮その程度なのね。台所に立つことくらいしか取り柄がないくせに、せいぜい見た目が少し整っているだけでしょう。そんなもの、何の役にも立たないわ。

仕事でも、人付き合いでも、紗耶さんに一つでも勝てるものがあるなら、こんな惨めなことにはならないでしょうに。澪、自業自得よ」

澪にはもはや、言い返す気力もなかった。

今になって思えば、あの頃の自分はどうかしていた。尽くし方も、期待の仕方も、すべてが間違っていたのだ。

澪は洗面所へ向かった。

もともと肌が白いせいか、千佳子の手はかすめただけのはずなのに、頬はうっすら赤く腫れている。

澪は、千佳子の手が触れた場所を丁寧に洗い流し、それからしばらくその場で呼吸を整えた。

病院の救急での出来事が外に漏れた。だからと言って、澪は黙って濡れ衣を着せられるつもりなどない。

房江に尋ねると、征司は寝室にいるという。

澪はもはや、何も言わずに入っていくような真似はしない。寝室の前まで来ると、足を止めて扉を叩いた。

扉はわずかに開いていて、中から返事はない。

そのまま少し待っていると、やがて部屋の奥から声が聞こえてきた。

「千佳子、澪に因縁をつけたんじゃない?」

スマホのスピーカー越しに、香澄の声が響いている。

征司は浴室から出て、棚の前に立つと、何かを探すように身をかがめた。

「ああ」

「紗耶さんと一緒に病院へ行ったこと、あれを流したのはあなた?それとも紗耶さん?澪に罪をかぶせて、千佳子の怒りの矛先にするつもり?」

その言葉に、澪の表情がかすかに強ばった。

まさか、そんな馬鹿げた話だとは思いもしなかった。

つまり自分は、二人のことが表沙汰になるのを防ぐために、都合よく盾にされているということなのか。

けれど征司はその問いに答えなかった。

認めたのか、それとも答える価値もないと思ったのか、澪には分からない。

香澄が笑って言った。

「たいしたことにはならないわ。まだまだ抑えられる。澪はあなたに惚れきってるもの。あなたが本当に困るようなことを、彼女がするはずないでしょう」

「分かってる」

征司は気のない声で短く答えた。

しかしそれが香澄のどの言葉を受けてのものなのか、澪には分からない。

扉の外で、澪は無言のまま指先に力を込めた。

情けないほど乱れそうになる呼吸をなんとか押しとどめ、少しずつ気持ちを落ち着かせた。

征司が勝手に決めた「ノックする」という規則にこれ以上付き合う気も失せ、彼女は扉を押し開け、そのまま中へ入った。

物音に気づいたのか、征司はちらりとこちらに目をやっただけで、何も言わなかった。

電話は、すでに切れた。

澪は征司に一度も目をくれなかった。今さら弁解して、自分から厄介ごとに巻き込まれにいく気にはなれない。

彼女は金庫の暗証番号を入力して開けると、大切にしまっている医学の本を取り出した。

征司は、澪の頼りない背中をしばらく見つめていた。

彼女の様子がいつもと違うことには気づいたようだが、わざわざ聞くことはせず、バルコニーから部屋の中へ入っていった。

澪のドレッサーの横を抜けようとしたとき、征司は端に置かれた封筒を見つけた。

次の瞬間、彼はぴたりと足を止めた。

Continúa leyendo este libro gratis
Escanea el código para descargar la App

Último capítulo

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第30話

    征司はそのまま書斎に向かい、何かを取りに入った。ほんのわずかな時間で、紗耶を喜ばせるためだけに、四十億円という破格の金額を支払うことを決めたのだ。――俺を待つ必要もない。その言葉を思い出し、澪は思わず笑いそうになった。待つ?何を言っているのだろう。自分はもう何日も前にこの家を出ている。それすら征司は知らないらしい。どれほど無関心なら、そんなことになるのだろう。澪はもう彼のことを考える気にもなれなかった。写真を大事にバッグにしまうと、そのまま屋敷を後にした。そして古い愛車に乗り込む。だがエンジンをかけようとした瞬間、彼女の表情が曇った。また故障だ。何度キーを回しても反応しない。どうやら完全に動かなくなっていた。ついていない時は何もかもがうまくいかない。澪は時計を確認した。まだ八時を少し過ぎたばかり。仕方なく車を降りて確認する。しかし素人に分かる問題ではなかった。その時、屋敷から出てきた征司がその様子に気づく。その車は覚えている。結婚した頃から澪がずっと乗っていた車だ。征司は自分の車に乗り込み、運転手に近くまで寄せるよう指示した。窓が静かに下がる。「まだ病院に行くのか?乗れ。途中まで同じ方向だ」澪は振り返る。ただ彼を見て、何も答えない。「島田(しまだ)、澪を乗せてやれ」澪の訝しげな顔を一瞥し、征司は淡々と指示した。運転手の島田はすぐに車を降り、後部座席のドアを開く。「奥様、どうぞ」澪は少し意外だった。征司が今さらこんな気遣いを見せるとは思わなかったからだ。もっとも、現実問題として自分の車は故障している。ここは高級住宅街の私有エリアで、流しのタクシーなど期待できない。外まで歩くだけでもかなりの距離があった。意地を張るためだけに自分が苦労する理由もない。澪は結局征司の車に乗った。後部座席には征司もいる。互いに少し距離を空けて座った。征司は終始タブレットに目を落としたまま。話しかけてくる気配もない。澪もそのほうが気楽だった。車が私有エリアを抜けるまで二十分ほどかかった。ちょうど一般道へ合流しようとした時だった。征司のスマートフォンが鳴る。澪はずっと窓の外を眺めていた。だが、磨き上げられたマイバッ

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第29話

    澪は、まさか征司が家にいるとは思っていなかった。これまでの彼はほとんど帰宅しなかった。それなのに最近は、不思議なくらい顔を合わせる。物音に気づいた征司が視線を上げた。久しぶりに顔を合わせた澪を見て、ふと口を開く。「そんなに仕事が忙しいのか?」最近の澪は本当に家にいない。森宮家の本家からも聞いていた。もう何日も料理を届けに来ていない、と。以前なら、滋養スープを自分の会社にまで持って来ようとしていた。だが最近は、それすらない。理由は分かっている。おそらく紗耶の件だろう。今回ばかりは、澪も妙に意地を張っているようだった。澪は答える気になれなかった。ただ房江を見る。「写真は?」房江は手を拭きながら、征司のいるほうを指差した。「旦那様のお席の前にございます」そこで初めて澪は気づく。家族写真は征司のノートパソコンの横に置かれていた。仕方なく近づく。身をかがめて手を伸ばした。だが――指先が触れるより早く。すらりと長い指を持つ手が伸びてきて、澪の手首を掴んだ。澪の体が僅かに強張る。振り返ると、底の見えない黒い瞳がそこにあった。征司の表情は変わらない。顎で隣の席を示す。「座って話そう」「用件があるならそのまま言って」澪はさりげなく手首を引き抜いた。離婚する相手なのに、なぜ当然のように触れてくるのか。そう問いただしたい衝動を、どうにか飲み込む。征司はあっさりと手を離した。そして前触れもなく切り出す。「あの家は紗耶に譲ってくれ。条件はお前が決めればいい」澪は思わず彼を見た。「……何ですって?」かろうじて保っていた平静が、少しずつ崩れていく。征司はテーブルの上の家族写真を手に取った。写真の縁を指先でゆっくりとなぞりながら言う。「相場の二倍は出せる。その金で、もっと条件のいい物件を探せばいい。彼女はあの家を気に入っている。他を選ぶ気はないそうだ」「だから私が譲らなきゃいけないの?」だから家の件と同じように、紗耶が征司を欲しがれば、自分は身を引かなければならない。彼は遠回しにそう言いたいのだろうか。澪の唇がわずかに震える。それでも視線は征司の手の中にある家族写真から離せなかった。話がこじれれば、その写真まで処分されるのではな

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第28話

    「どなたですか?」澪は訝しげに眉をひそめた。応接室に案内される。そして中にいた人物を見た瞬間、澪はすべてを察した。紗耶だった。優雅に脚を組み、ソファに腰掛けている。物音に気づくと、ゆっくり顔を上げた。澪が来ることなど最初から分かっていたように。そして当然のように口を開く。「澪さんが手付金を払ったあの部屋、私が気に入ったの」澪は淡々と見返した。「だから?」「値段を言って」紗耶は回りくどい話をしない。「私が買うから」まるで世の中は自分のために道を空けるものだと信じているような口調だった。澪は薄く笑う。「何でも欲しがるんですね。だとしたら今度、ゴミ収集車でも何台かご自宅の前に呼んでおきましょうか? 紗耶さんならお似合いですし、喜んで飛びつくんじゃないですか?」紗耶の表情が少し固まった。――それってつまり、ゴミでも漁ってろってこと?紗耶は眉をひそめ、冷ややかに言い返す。「下品にもほどがあるわ。征司があなたに見向きもしない理由がよく分かる。一つだけ聞くわ。譲るの?譲らないの?」紗耶の口調に相談するような響きはなかった。冷ややかで有無を言わせない声だった。だが紗耶の正体を知った今となっては、澪が好意的な態度を取るはずもない。澪は誠に顔を向けた。「契約を進めてください」その一言が答えだった。紗耶の声など聞こえないかのように。誠は困った顔で紗耶を見る。彼女のことは知っている。最近は国医番組でも人気の医師だ。背景も相当なものだと聞いている。誠は空気を読むのが得意な人間だった。だからこそ小声で忠告する。「朝比奈様……もしかしたらご存じないかもしれませんが、この方は森宮家の奥様なんです。森宮家ですよ?国内でも屈指の名門財閥です。あの金融界の大物、森宮社長の奥様ですから。揉めない方が賢明かと……」その言葉に、澪の眉間がぴくりと寄った。一方の紗耶は、その忠告をしっかり聞いていたらしい。澪に空気を読めと促すような言葉に、口元をわずかに持ち上げる。笑っているようで、笑っていない。そんな表情のまま澪を見やり、機嫌を少し持ち直したようだった。やがて紗耶はゆっくり立ち上がる。「説得する必要はないわ。いずれ彼女のほうから譲ることになるもの」紗耶は人前で澪

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第27話

    ガラス越しに、澪は店内に座る征司と紗耶の姿を見た。そして二人の向かい側には、中年の夫婦と律樹。そのうち三人は見慣れた顔だった。だが、その夫婦の姿だけは想定していなかった。男の方は、白石正毅(しらいし まさき)。澪の実の父親だ。そしてその隣にいるのは、白石薔子(しらいし しょうこ)。母との婚姻関係が続いていた頃から、薔子は長年にわたって正毅と不倫関係にあった。そして母と離婚した後、正毅と再婚した。伊織が到着し、店内の征司と紗耶の姿を見つけた瞬間、思い切り顔をしかめた。「最低なカップルね!」吐き捨てるように言ったものの、すぐに澪の顔色が悪いことに気づく。慌てて澪の腕を引き、店内の別の席に向かった。「離婚直前なんだし、まだ辛いのは当然だよ」伊織なりに気遣う。「七年だもん。そんな簡単に割り切れるわけないでしょ」だが澪は首を横に振った。「違うの」「え?」「白石紗耶の継父……あの人が、私を田舎に追いやって十年間放置した実の父親なの」自嘲気味な笑みが浮かぶ。まさか今になって、再び正毅と顔を合わせることになるとは思わなかった。伊織の顔色が変わった。澪の過去は知っている。母親が事故で意識不明になった直後、澪の父親はすぐ弁護士を呼び、病床の妻に指印まで押させて離婚を成立させた。長年関係を続けてきた女を家に迎え入れるために、当時まだ九歳だった澪を田舎に追放した。自分の恋人を喜ばせるためだけに。薔子は澪の存在を知ると条件を出した。自分は結婚してもいい。でも継母になる気はない。それに、澪の存在によって紗耶が受ける父親の愛情が減ることも望まなかった。だから澪を完全に遠ざけろ、と。その結果、澪は十年以上にわたって数え切れない苦労を味わった。本来なら裕福な家庭で育つはずだった。だが、人生そのものを奪われた。紗耶は元々、白石姓ではなかった。薔子が正毅と再婚したことで白石家に入り、その後、白石姓を名乗るようになったのだ。正毅は実の娘である澪よりも、紗耶を何倍も可愛がった。澪の脳裏に昔の記憶が蘇る。田舎に送られる前、自分は薔子と幼い紗耶に会ったことがある。その時、紗耶はこう言った。「あなたとあなたのお母さん、死んじゃった方がいいのに。目障りだし、邪魔だから」今思

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第26話

    澪にとって、その話題はあまりにも気まずかった。なにしろ自分は、「家を買う」という名目で征司を騙し、あの協議書にサインさせたのだから。突然の「物件は決まったのか」という問いかけに、言葉にできない後ろめたさが胸に広がった。「まだよ」澪は答えながら視線を上げた。少し離れた場所から紗耶がこちらに歩いて来るのが見える。だから澪は軽い調子で続けた。「今からでも物件選びを手伝ってくれるの?」征司は意味ありげに彼女を見た。だが、肯定も否定もしない。その時だった。背後から紗耶の声が響く。「征司、行きましょう」澪はそちらを見た。紗耶の瞳には不満が隠し切れていない。自分の恋人との時間を、彼の妻に邪魔されたくない――そんな感情が透けて見えた。そして征司は、ほとんど迷うことなく答える。「分かった。乗れ」それだけ言うと、彼は紗耶の方に歩いて行った。何も言わない。だが澪には十分だった。それが答えだ。征司が、自分の物件探しのために紗耶との時間を削ることなどあり得ない。紗耶の表情がわずかに和らぐ。そして澪を見て言った。「私たちは予定があるから、送ってあげられないの。ごめんね」澪は思わず笑った。――本当に自然だ。まるで自分が完全な部外者であるかのような口ぶり。あの二人こそが夫婦で、自分はただの知人。礼儀として一言声を掛けてやっただけ。そんな空気だった。ちょうどその時、配車した車が到着する。澪は二人をもう一度見る気にもならなかった。そのまま車に乗り込み、走り去る。一方、外に出てきた彰人も、その光景を目にしていた。周囲を見回す。例の「デート相手」らしき男の姿はどこにもない。彼は歩きながら首を振った。「やっぱり、澪の作り話だったか。見栄を張りたかったんだろうし、征司に少しでも気にしてほしかったんだろうな」紗耶も興味深そうに眉を上げる。征司は淡々と車のドアを開いた。感情の起伏などまるでない声。「どうでもいい」……澪はできるだけ早く住まいの件を片付けるつもりだった。確かに家を買う話は征司を騙すための口実だった。だが征司は簡単に誤魔化せる相手ではない。だからこそ彼女は本当にマンションを契約し、手付金まで支払っていた。母方の祖父は長年療養施設で暮らし

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第25話

    せっかく気を遣って慰めの言葉をかけてやったというのに、澪はまったく可愛げがない。彰人は思わず眉をひそめる。そもそも、自分が追いかけてきたこと自体がおかしい。まるで何かに取り憑かれたみたいだ。……澪は彰人のことなど気にも留めていなかった。階下に降り、案内されたラウンジ席に向かう。だが、そこに待ち合わせ相手らしき人物はいない。先ほど「デートのお相手がお待ちです」と伝えに来たスタッフが再び近づいてきた。「朝比奈様、申し訳ございません。私は上から言われた通りにお伝えしただけでして……」澪はもともと察しの良い人間だ。その一言で事情を理解した。おそらく今日の「デート相手」など最初から存在しなかったのだ。すべては美佐子が仕組んだ茶番。まず自分と征司を同じ個室に向かわせる。その流れで一緒に食事をさせる。さらに別の男性の存在まで匂わせて、征司の夫としての嫉妬心を刺激する――そんな筋書きだったのだろう。結局のところ、美佐子はまだ諦めていない。何とか二人を復縁させたいのだ。もっとも、美佐子も今日の展開までは予想していなかったはずだ。用意した舞台には澪と征司だけでなく、征司の「運命の相手」である紗耶まで現れたのだから。澪はスタッフに軽く微笑んだ。「大丈夫です。お気になさらず。お仕事に戻ってください」もともと今日ここに来たのは、きちんと話をするためだった。相手が存在しないなら、それはそれで手間が省ける。美佐子がここまで必死になる理由も分かっていた。決して自分を特別気に入っているからではない。ただ自分と征司が離婚することで、森宮家が完全に崩れるのを恐れているだけだ。朝斗の件もある。決して重い罪とは言えない。森宮家も各方面に手を回している。場合によっては、そう遠くないうちに出てくる可能性もある。それでも、美佐子は何か予期せぬ変化が起きることを警戒しているのだろう。だが、森宮家が何を考え、何を企んでいようと、もう自分には関係なかった。せっかく来たのだ。空腹のまま帰るつもりはない。人は感情だけで生きていけない。これからは自分の人生を大切にしなければならない。愛だけで生きていける人間なんていないのだから。澪は好きな料理を注文した。そして席に座り、一

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第3話

    澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第2話

    若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第1話

    結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第5話

    そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰

Más capítulos
Explora y lee buenas novelas gratis
Acceso gratuito a una gran cantidad de buenas novelas en la app GoodNovel. Descarga los libros que te gusten y léelos donde y cuando quieras.
Lee libros gratis en la app
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status