Masuk桃は一瞬驚いたが、すぐに二人の子どもの手を握った。ほとんど本能的な反応だった。桃は、永名がここに現れた理由が思い浮かばなかった。しかし、彼がわざわざ翔吾に近づこうとしているのを見ると、もしかすると、また子どもを奪いに来たのかもしれない。もしかして雅彦が彼女をここに連れてきたのも、病気の診察のためではなく、この機会に二人の子どもを自分の両親に渡そうとしているだけなのか。その考えが頭をよぎると、桃の顔色はすぐに曇った。緊張が二人の子どもにも伝わったのか、彼らも不快な記憶を思い出したようで、桃の足にしがみつき、永名を警戒する目で見ていた。永名はその様子を見て、当然ながら気分が良いはずもなかった。自分はただ孫に会いに来ただけで、食べてやろうというわけじゃない。しかし、こんなにも拒絶される姿を見ると、先ほど子どもたちが自分を他人として受け入れた方が、まだ気楽に感じられるほどだった。ため息を漏らさずにはいられなかった。「も……桃」永名はためらいながらも呼びかけたが、桃をどう呼べばいいのか分からなかった。二人の間には、あまりにも深い隔たりがあった。「私に悪意なんてない。そんなに怖がらなくていい」「そうですか……?」桃は皮肉を感じずにはいられなかった。菊池家の人間の口から出る「悪意はない」という言葉ほど、信じられないものはなかった。子どもを奪うのは「子どものため」、母親を押し倒して意識不明にしたのも「うっかりの過ちで故意ではない」。どれだけ周りに被害を出しても、彼らはいつも軽く済ませてしまう。しかし桃は、再びそんな不公平を受け入れるつもりはなかった。「もう、言うこともないです。ごめんなさい、私たち、先に失礼します」桃は二人の子どもの手を引き、立ち去ろうとした。永名はそれを見て、慌てて制止した。見つかってしまった以上、ちょうど桃に話したいこともあったのだ。桃は立ち去りたかったが、このクルーズ船はまだ少なくとも一時間は港に着かない。逃げることはできなかった。しかも、ボディガードは永名と気づいた後、手を出すこともできなかった。彼は雅彦の部下だが、さすがに社長の父親に手を出すわけにはいかない。それでは仕事を放棄することになる。しばらく膠着状態が続いた後、桃は冷静に問いかけた。「結局、何を言いたいのですか?」「ここでは話せない。あっちに行こ
桃は翔吾に手を焼きながらも、とにかく座らせて食べるよう促した。彼女と太郎はもうほとんど食べ終えていた。翔吾は返事をして、再び夢中で食べはじめた。しばらくして三人ともお腹がいっぱいになり、外の夜景を見に行こうということになった。色とりどりの灯りが黒い水面に映り込み、まるで闇が星屑に染められたようにきらめいている。まわりの瀟洒な欧風建築は柔らかな灯りに照らされ、いっそう幻想的で神秘的に見えた。三人はその美しさにすっかり見入っていた。だから、背後から永名がそっと近づいてきたことに誰も気づかなかった。本当は邪魔をするつもりはなかったのだが、先ほど翔吾と少し話してからというもの、どうにも孫たちへの思いが抑えきれず、どんな話をしているのか耳にしたくなったのだ。たとえ自分に向けた言葉でなくても、二人が普段どんなことを考えているのか知るだけで嬉しい――そんな気持ちだった。ところが、永名が気づかれないように近づいたつもりでも、雅彦の命を受けたボディーガードはすでにその様子を注視していた。彼は先ほどトイレの前で、翔吾がこの老人を支えて歩いていくのを見ていた。特に怪しい様子はなかったのでそのときは何もせず見送ったが、今はどうにも挙動が不審に見える。老人の目がずっと桃と二人の子どものほうを見つめているのを見て、警戒心が一気に高まった。雅彦から「桃と二人の子どもを守れ」と託されたこの任務を、絶対に失敗するわけにはいかない。そう思い、ボディーガードは音を立てずに桃のそばへ近づき、低い声で囁いた。「桃さん、怪しい人物がこちらを見張っています。慌てず静かにしてください。今から私が捕まえて、何を企んでいるのか確かめます」突然話しかけられた桃はびくりとしたが、事態を察するとすぐに真剣な表情に変わり、周囲を警戒して見回した。「わかったわ。気をつけて、私も合わせるから」そう言って、桃は二人の子どもの手を引き、人の少ない場所へ移動した。永名もその動きを見て、そっとあとを追う。ちょうど彼らが人の流れから離れた瞬間、ボディーガードが後ろから飛びかかり、永名を取り押さえようとした。だが永名もただの年寄りではない。若いころ鍛えた身体は健在で、襲われたと気づくや否や、瞬時に反撃に出ようとした。ボディーガードは驚いた。見た目は年配なのに、動きがあまりに鋭い。これはただ者で
翔吾がこんなふうに自分を気遣ってくれるのは、これが初めてだった。普段も礼儀正しくはあるが、体調を気にかけてくれることなどなかったからだ。そのせいか、永名は一瞬ぼんやりとしてしまい、翔吾をこのまま帰してしまうのが惜しいような気さえした。「ごほ、ごほ……まだ少し痛むな。坊や、あっちまで付き添ってくれないか?少し座りたいんだ」永名はこの貴重な時間を少しでも長く引き延ばしたくて、そう口実を作った。翔吾は少し迷った。長引けば桃が心配するかもしれない。けれど、倒れかけた老人をそのまま放っておくのも気が引ける。永名の示した場所はそう遠くもなく、問題なさそうだった。「じゃあ、少しだけですよ」翔吾は言って、彼を支えながら歩き出した。永名はさっき転んだものの、幸い大事には至らなかった。普段から体を鍛えているおかげで、骨もしっかりしている。そうして翔吾は永名を椅子のところまで連れていき、腰を下ろさせた。永名が落ち着いたのを見て、翔吾はもう行こうとした。すると永名が慌ててその手をつかんだ。「坊や、助けてくれてありがとう。お礼に何かご馳走させてくれないか?何が食べたい?」そう言って、一枚のメニューを差し出した。このクルーズ船には、一般の乗客が利用できるビュッフェのほか、より高級な料理を個別に注文できるサービスもあり、そこに載っている料理はどれも高価で珍しいものばかりだ。翔吾も少しは惹かれたが、食べ物に目がくらむほどではない。むしろ、このおじいさんがどこか不思議な人に思えてきて、これ以上は時間をとれないと思った。早く戻らないと、ママが心配している。「大丈夫、おじいさん。ママが待ってるの。ゆっくり食べてね。もしまだ具合が悪いなら、家族に病院へ連れて行ってもらってね」そう言い残して、翔吾は駆け出した。永名に引き止める隙も与えないまま。その小さな背中が視界から消えるまで、永名は呆然と見つめていた。あの聡明で優しい子と、一緒に食事でもしながら話をしてみたかった。だが、それも結局は叶わぬ願いだった。あの数言の気遣いでさえ、他人のふりをしてようやくもらえたものなのだから。永名は胸の奥が締めつけられるような思いで、深くため息をついた。一方その頃、翔吾は慌てて元の場所へ戻った。案の定、桃は心配そうな顔で辺りを見回しており、今にも探しに行こうとしていた。
桃たちは少し早めに出かけた。この街に来るのは初めてだったので、せっかくだからあちこち見て回りたいと思ったのだ。クルーズ船に乗り込んでから、三人は船内を歩き回った。豪華で贅沢な内装を目にして、桃は思わず感嘆の声を漏らした。「お金持ちって、本当に楽しみ方をよく知ってるのね」一通り見て回ったあと、太郎も舌を巻いたように言った。「どうりでチケットがあんなに高いわけだ。いやぁ、すごい……まるで別世界だな」「情けない顔して。これからいくらでもチャンスあるでしょ」翔吾は得意げに顎をしゃくって、まるで自分はこういう場に慣れているとでも言いたげな顔をした。「なに偉そうにしてんの」桃は思わず吹き出した。翔吾が時々見せるその生意気な態度は、いったい誰に似たんだか。三人はそんなふうに笑い合いながら歩いていた。その少し離れた場所から、永名がゆっくりと近づいてきて、二人の子どもたちを見守れるちょうどいい距離に腰を下ろした。桃のそばで無邪気に笑い、甘えてみせる子どもたちを見つめながら、永名の胸の奥に複雑な思いが込み上げた。あの子たちを菊池家に連れ帰ったときは、いつも暗い顔をして、まるで感情をなくした人形のようだった。手を焼かせることはなかったが、子どもらしい明るさも、無邪気さもどこかに置き忘れていた。今のあの笑顔を見れば、きっと、あの子たちは菊池家を好きではなかったのだろう。そして、自分のことも。そう思うと、永名の胸の奥が少し痛んだ。そんな考えを巡らせているうちに、クルーズ船は静かに動き出し、レストランもオープンした。桃たちは出発前から何も食べていなかったので、お腹がすいていた。三人はそのままレストランに入り、並んだ料理を楽しんだ。メインはミシュランのシェフが手掛けたコースで、食材も新鮮な海の幸や高級な材料ばかり。滅多にない機会に、桃も珍しく食欲が湧いて、いつもよりたくさん食べた。「ちょっとトイレ行ってくる」翔吾が箸を置いて立ち上がる。桃はついて行こうとしたが、翔吾は母に気を遣うように、食事を続けるよう促してから、ひとりで駆け出していった。保護のために数人のボディーガードもついている。桃はそう思い直し、追いかけるのをやめた。翔吾が一人でトイレに向かうのを見て、永名は慌てて立ち上がった――どうしてこんなにたくさん人がいるのに、子どもをひとりで行か
美穂にとって、こんなにも身を低くしたのは初めてだった。病気になってからというもの、雅彦は彼女のことなどまるで気にも留めなかった。そのとき初めて、美穂は血のつながりというものが、決して壊れない絆ではないのだと気づかされた。雅彦が本気で心を閉ざせば、本当に自分を無視し続けることができるのかもしれない。美穂も最初は、「もう来てくれなくてもいい」と思っていた。けれども、体調の悪い日々が続くうちに、家族のぬくもりへの渇望が以前よりずっと強くなっていた。だから今は、いつものように気位を張ることもできず、声の調子もどこか懇願に近い。しばらく沈黙したあと、雅彦は電話口から聞こえる母の頼りない声を聞きながら、心がまったく動かなかったと言えば嘘になると思った。時計を見やる。桃たちが外出から戻るまでには、まだ時間がありそうだ。この機会に少しだけ顔を出してみるか。「あとで行く」そう答えると、雅彦は電話を切った。ようやく息子が意地を張るのをやめたことを知って、美穂の青白かった顔に少し血の気が戻る。永名はそんな彼女を見て、胸が締めつけられるような思いを覚えた。つい先ほど、人をやって調べさせたところ、雅彦が桃と二人の子どもを連れて来ていると分かったのだ。もしあの時、あんな行き違いがなければ――今ごろは二人の孫とも、穏やかに団らんの時間を過ごせていたかもしれない。あの愛らしい子どもたちの顔を思い浮かべると、永名の胸にはたまらない思いがこみ上げた。年を取るにつれ、周囲の人々が孫を抱いて幸せそうに笑う姿を目にするたび、莫大な財産に恵まれていながら、この家だけがこんなにも静まり返っていることに、「それでもいい」とはどうしても思えなかった。十数分後、雅彦は療養院に着いた。美穂は彼の手をぎゅっと握って離さなかった。まるでこれまで溜め込んできた寂しさや辛さを、すべてその手のぬくもりに託すように。永名はそんな二人の様子を見て、静かに席を立った。今は母と息子を二人きりにさせておくのが一番だろう。廊下を歩きながら、ふと思いついて、永名は人を使って孫たちの居場所を調べさせることにした。彼らは自分のことを避けているのかもしれない。それでも、せめて遠くからでもいい、ほんの少し姿を見たいと思ったのだ。調べの結果、二人は遊覧船に乗る予定だと分かった。永名はすぐにチケットを手
桃が自分のことを口にしたとき、たとえ嬉しそうでなくても、せめて穏やかな気持ちで話してくれる日が来るなら――雅彦は、それだけで十分だと思っていた。一瞬ぼんやりしたあと、雅彦は歩み寄って言った。「夜はクルーズディナーを予約してあるんだ。ここの夜景は有名で……」「やめておくわ。自分たちでちょっと散歩するだけでいいから」桃は即座に断った。雅彦が用意したクルーズがきっと豪華なものだとわかっていても、彼女はその「優しさ」をもう受け取る気にはなれなかった。これ以上、この人の好意に甘えるのはつらいだけだ。雅彦は少し黙り込んだあと、静かに口を開いた。「じゃあ、君たちで行けばいい。俺は行かない。ちょっと用事があるから、邪魔はしないよ」そう言って、彼は胸ポケットから何枚かのチケットを取り出し、桃に差し出した。桃は受け取ろうとせず、雅彦は翔吾を見た。小さな息子が少し迷っているのに気づくと、チケットを無理やりその手に押し込んだ。「チケットは渡した。行くかどうかは、君たちで決めてくれ」そう言い残すと、雅彦は運転手を呼び、桃たちをホテルまで送るよう指示し、自分はそのままどこかへ行ってしまった。桃はまっすぐ伸びた彼の背中を見つめながら、なぜか一瞬、そこに寂しげな影を感じた。どこか物悲しく見えたのだ。けれど、その感情をすぐに打ち消した。この男が寂しがるはずがない。彼が望めば、どんな女だって手に入る。自分の今の有り様を思えば、彼を哀れだなんて思う資格は、もう自分にはない。「ママ、これ……どうしよう?」翔吾は三枚のチケットを持ち、料金の欄をちらりと見た瞬間、思わず息を呑んだ。そこに並んだ数字の多さに目がくらみそうになる。こんなの捨てたら、まるで大金をゴミ箱に放り込むようなものだ。もったいない……桃はそんな息子の様子を見て、少し考えた。「行ってみたい?」二人の子どもは少しだけ迷った。本音を言えば、行きたいに決まっている。これほど高いチケットなら、きっと特別な体験ができるはずだ。でも、それで桃が困るなら行かないほうがいい。ふたりは目を見合わせ、そろって首を横に振った。「ううん、行かなくていい」桃は思わず笑ってしまった。口ではそう言いながら、目がきらきらしている。でも、そんなふうに母親を気遣ってくれる気持ちが嬉しかった。「行きたい







