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第37話:ひなのが探られた夜

Auteur: fuu
last update Date de publication: 2026-06-25 20:01:03

 席を持ったことで、私は少し前のめりになっていたと思う。

 その前のめりを、一つの出来事が、冷や水のように冷ました。

 開店前、ひなのが私の席まで来た。顔色が、悪い。

「あのね……変な人に、聞かれたの」

 昨夜、フロアに着かない客がいたという。一杯だけ頼んで、ひなのを指名して、世間話のふりで聞いてきた。

 ――最近、奥の事務を新しい子がやってるんだって? 経理に強い子だとか。前は、どこで働いてた子なの。名前、なんていうの。

「あたし、何も言ってないよ。でも、なんか……あの人、あたしのことを調べてから来てる感じがして。怖くて」

 指先が、冷たくなった。

 それは、私の手口の、裏返しだった。私が三崎

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    「三崎って人、前にいつも同じマンションの女に花入れてたわよ」 沙耶さんが、何気なく言った。営業前のフロアで、グラスを拭きながら。 夜の店では珍しい話でもない。客が誰かに贈り物をするのはありふれている。だから誰も気に留めない。けれど私は「マンション」という言葉に引っかかった。 贈り物でも食事でもない。住まいが固定されている。そういう気配がした。花を一度送るのと、同じ住所に何度も送るのは、意味が違う。後者はその場所に「いつもいる人間」がいるということだ。「同じマンションって、覚えてますか」「さあ。でも、送り先が毎回おんなじだった気はする」 私は、それ以上は問い詰めなかった。代わりに、ひなのに軽く尋ねた。彼女は送迎まわりをよく手伝う。「送迎先のメモで、同じ住所、見た気がします」 ひなのの記憶は曖昧だった。けれど、曖昧でも、種にはなる。 その夜から、私は静かに照合を始めた。過去の送迎記録。花や贈答の受け取り先。三崎が席を立ったあとの動線。一つずつ、紙の上で重ねていく。 すると、ある女性の影が浮かんだ。 綾月のキャストではない。店の人間ではない。けれど、三崎の来店日と近いタイミングで、同じエリアの高級マンションが、送付先や送迎先として何度も出てくる。 私は、そこで会社時代の記憶を呼び起こした。 あの頃、私が処理した中に、住居関連に見える外注費があった。当時は社宅補助か福利厚生か何かだと思った。深く見なかった。 けれど今思い出すと、妙に個人寄りの支出だった。法人の福利厚生にしては、宛先が一点に偏りすぎていた。 会社にいた頃の私は

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     また一枚、抜かれていた。 朝、棚を確かめると、先月分の控えが一枚、消えていた。日付の台帳だけが残り、現物だけがない。向こうの手は、まだ店の中で動いている。 けれど今日は、胃が冷えなかった。 私は、自分の複製の束を開いた。抜かれた一枚と、同じ日付。同じ卓。――あった。 写しが、残っている。 向こうが原本を消した、まさにその一枚を、私は先に複製していた。間に合った。指がインクで汚れた、あの夜の一時間が、今、効いた。「黒瀬さん」 私は複製を持って、事務室の黒瀬さんのところへ行った。「今朝、原本が一枚抜かれました。でも、写しがあります。向こうが消したかった紙が、こっちに残ってます」 黒瀬さんは、その一枚を受け取り、しばらく見た。それから、低く言った。「先に写したか」「抜くより、写すほうが速かったんです」 黒瀬さんの口の端が、わずかに動いた。笑いではない。けれど、初めて、評価ではなく、認める色がそこにあった。「向こうは、消したつもりでいる。消えてないとは、思ってない」 その意味が、じわりと胸に来た。三崎はこの一枚を、もう存在しないものとして扱う。安心して、次へ進む。安心しているぶんだけ、無防備になる。「黒瀬さん。抜いてるのは、誰なんですか」私は声を落とした。「鍵を持ってるのは、九条さんと、会計と、私。それだけです」「焦るな」 黒瀬さんは複製を置いた。「抜く側は、抜けば抜くほど痕を残す。いつ、どの紙が消えたか。それを記録してるのは、おまえだけだ。消

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     店の女に手を出されて、黙ってる店だと思われたら終わりだ――ひなのを探った相手に、黒瀬さんはもう人をつけていた。そう言い切る声を、私は事務室で聞いていた。 理屈は、商売の理屈だった。けれど、その声には、理屈だけでは説明のつかない熱があった。この人は、ひなのを――たぶん、この店の人間を、ただの駒だとは思っていない。 初めて、この冷たい男の奥に、別の温度を見た気がした。 綾月は秘密が集まる場所だ。だが、漏れる場所でもある。会社のときも、八十万円を畑中課長に確かめた、あの一回が始まりだった。 気づいたと知らせた瞬間、私の閲覧権限は消えた。同じ過ちを、私はここで繰り返しかけていた。「おまえの仕事は、俺が決める」 それは支配的な言葉だった。普通なら、苛立って当然の。 けれど、その響きの底に、別のものが混じっている気がした。聞き方を間違えれば、お前が危ない。だから俺が決める。そう聞こえてしまう自分が、危うかった。「私は、駒じゃありません」 私は言った。ここで黙ったら、また与えられるだけの人間に戻る。会社で、上の都合で動かされ、都合よく切られた。あの感覚にだけは、二度と戻りたくなかった。 黒瀬さんは少しだけ目を細めた。「駒なら、わざわざ席を置かない」 短い言葉だった。 完全な対等ではない。それははっきりしている。けれど、消耗品ではないとも言っている。使い捨てる相手のために、鍵付きの席は用意しない。その理屈が、妙に静かに胸に落ちた。「役割を決める」 黒瀬さんは続けた。指を一本ずつ折るように。&nbs

  • 横領犯にされた経理女は、若頭の金庫を握って元社長を潰す   第25話:三崎の領収書

     三崎が来た夜の控えを、私が整理することになった。 正式な担当じゃない。九条さんが「ついでに見ておいて」と渡してきただけだ。だが、その「ついで」が、私の手を震わせた。 領収の束を開いた瞬間、匂いがした。 紙の匂いじゃない。処理の匂いだ。 法人名を、正式名称で書かせない。 部署名や担当者名で濁す。一部だけ現金。たまに、宛名なしの控えを欲しがる。同席人数のわりに、ボトルと飲食

  • 横領犯にされた経理女は、若頭の金庫を握って元社長を潰す   第23話:ひなのの明細

     給料日の翌日、ひなのの機嫌が床に落ちていた。 更衣スペースの鏡の前で、口紅を塗る手が止まっている。明るい子のはずだった。それが、今夜は唇の端も上がらない。「また?」 沙耶が呆れ半分に言って、私を見た。 私は何も言わなかった。関わるつもりはなかった。新人同然の裏方が、稼ぎ頭でもない女の不機嫌に口を挟む立場じゃない。 ゴミ箱に、丸めた紙が捨ててあった。

  • 横領犯にされた経理女は、若頭の金庫を握って元社長を潰す   第18話:この女は接客用じゃない

     翌日、私は売上控えと送り表、領収控えを並べ直した。 短時間でわかった。昨日のズレは一件じゃない。何度も続いていた。しかも抜かれているのは店全体じゃない。特定の時間帯。特定の担当のときだけ。 まだ証拠としては弱い。でも、十分に怪しい束ができた。私はそれを、日付順に綴じた。 九条さんが、私の手の速さに目を見張った。「君、これ、ひと晩で作ったの」「並べ替えただけです。

  • 横領犯にされた経理女は、若頭の金庫を握って元社長を潰す   第1話:消えた八十万円

     半年後。私は、若頭の店で、自分を横領犯に仕立てて捨てた会社へ続く、最初の確かな線を握っていた。数字で、あの会社を追い詰める側へ――ようやく、回り始めていた。隣には、表の世界には絶対に出てこない男がいて、低い声で私にこう言う。「その席、誰にも譲るな」 ――でも、この夜の私は、まだ何も知らない。 一枚の伝票が、私の人生を焼き払おうとしていることも。その火を、いつか私が同じ数字で消し止めることも。 横領犯。八十万円を盗んだ女。そう書かれた紙一枚で、私は仕事も、信用も、明日も、いっぺんに失った。盗んでなんか、いない。一円も。それを胸を張って言える場所にたどり着くまで、半年かかった。 始ま

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