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残雪を望むは独りのみ

残雪を望むは独りのみ

By:  莫凱寒Completed
Language: Japanese
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又村櫻(またむら さくら)は自分に7年の猶予を与えた。もし7年経っても豊田礼人(とよだ あやと)に自分を愛してもらえなければ、彼のもとを去ると決めていた。 それから1か月後の日が、ちょうどその7年の期限だ。 同時に、礼人と三浦雪(みうら ゆき)が結婚する日でもあった。 彼女という負け犬は、もう舞台から降りるべきなのだ……

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Chapter 1

第1話

「父さん、飛行機のチケット取って。アメリカに帰る」

又村櫻(またむら さくら)はソファにうずくまり、長く考えた末、海の向こうの父に電話をかけた。

電話の向こうは、しばらく沈黙した。

「それもいいな。ちょうど休学していた分の授業を取り戻せる。すぐに学校に連絡するよ」

「うん」

櫻は淡々と答えた。

「どうして急に戻る気になった?北城ではうまくいってないのか?」

櫻の父が探るように尋ねた。

「別に。ただ……もう離れる時間が来ただけ」

長い沈黙のあと、櫻は目を伏せた。

一筋の涙が、そっと頬を伝った。

7年だった。彼女はもう、豊田礼人(とよだ あやと)を愛したくなかった……

櫻は自分に7年の猶予を与えた。もし7年経っても礼人に自分を愛してもらえなければ、彼のもとを去ると決めていた。

それから1か月後の日が、ちょうどその7年の期限だ。

同時に、礼人と三浦雪(みうら ゆき)が結婚する日でもあった。

彼女という負け犬は、もう舞台から降りるべきなのだ……

大学4年の時、櫻は北城に里帰りし、偶然礼人と出会った。

アメリカで彼女を追いかけてきた金髪碧眼のイケメンたちとは違い、礼人の控えめの禁欲的な雰囲気に、彼女は一瞬で心を奪われた。

彼に夢中になった彼女は、学業も、アメリカの家族もすべて捨てて、名前も立場もないただの代用品として、彼のそばにいることを選んだ。

たぶん自分は生まれつきマゾなのかもしれない。

自分を愛してくれない男を愛して、いつか彼が自分を愛してくれることを夢見ていた。

雪が帰国したとき、櫻は初めて自分の愚かさに気づいた。

礼人は、雪のために盛大な歓迎パーティーを開いた。

ヨーロッパから空輸された花だけでも何億円もする。

ましてや彼女の首にかけられたエメラルドは、礼人が自ら競り落としたもので、数十億円の価値がある。

パーティーの日、櫻は遠くから礼人を見つめた。突然、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。

男は女を抱きしめ、愛しげに見つめ合っていた。

彼の目に浮かぶその愛情深い眼差しに、櫻の体は思わず震えた。

礼人は、彼女にそんな眼差しを一度も向けたことがなかった。

彼は愛せないのではなく、ただ、彼女を愛していなかっただけだった。

……

「ピッ」と、指紋認証のドアロックが鳴った音が、櫻の思考を遮った。

部屋の明かりが灯った。

櫻は細めた美しい目を上げた。その光は少し眩しかった。

礼人が入ってきた。

彼は整った顔立ちで、彫りが深くも鋭すぎず、内に秘めた気品と威厳が自然とにじみ出ていた。

櫻は皮肉めいて思った。自分はきっと、この美しい容姿に心を奪われ、理性を失ったのだと。

「どうして電気をつけない?」

彼は冷たく視線をちらりと寄こし、眉をひそめた。

いつもなら、櫻はすぐに彼に抱きつき、熱いキスを浴びせるほどの情熱を見せていた。

だが今日は、ソファに縮こまり、微動だにしない。

櫻は彼を見上げた。彼は目を細め、壁に寄りかかって立っていた。

いつものように几帳面ではなく、シャツのボタンは二つ開いていて、ネクタイもなく、うっすらと鎖骨と首に残された沢山のキスマークが見えていた。

櫻の心が、ずしんと沈んだ。

「どこに行ってたの?」

嫉妬する女のように、彼女は思わず尋ねた。

礼人は眉をひそめ、顔の半分を闇に隠しながら、何を考えているのか読み取りづらい表情を浮かべていたが、その雰囲気には圧倒的な強引さがあった。

「櫻、自分の立場はわかっているはずだろう」

「……」

櫻は苦笑し、美しい目に自嘲が浮かんだ。

そうだ。彼女は自分の立場をとっくに分かっていたはずだ。

彼女は、雪がいないときの、礼人の気晴らしだ。いつでも捨てられるゴミだ。

彼と自分の間には、体だけの関係しかなかった。

櫻は待っていた。礼人が自分に別れを告げる日を……

だが、彼にそのつもりはなさそうだった。

彼は大股で近づき、彼女をソファに押し戻すと、骨ばった手を肩に置いて、身を屈めた。

「嫉妬するな。いいな?君は雪に勝てない」

「じゃあ、なんで私に会いに来るの?」

櫻の目が潤んだ。

「彼女が帰国した。もうすぐ結婚するなら、あなたは彼女のそばにいるべきよ」

どこかで彼女は、期待していたのかもしれない。

君を手放したくないと、彼が言ってくれるのを。

だが、その一言で、彼女の期待は粉々に砕けた。

「介添人をやってもらいたいって、雪がそう言った」

彼の瞳は冷えきっていて、表情も冷酷だった。

櫻は惨めに笑った。それが彼の用件だと、彼女はとっくに知るべきだった。

これも雪からの、遠回しな見せつけだったのだ。

7年間、彼女は雪がいなくなった礼人のそばで、虜のように卑屈に生きてきた。

礼人の友人たちに、代用品だと嘲笑されながらも、彼の傍に居続けた。

いま、彼らがよりを戻し、結婚しようとしている。

その結婚式で、自分が介添人だなんて。

彼が別の女を迎える姿を、自分の目で見届けろとでも?

そんなこと、彼女にできるわけがない。

しかも、その日は、彼女が彼のもとを去る日でもあるのだ……
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第1話
「父さん、飛行機のチケット取って。アメリカに帰る」又村櫻(またむら さくら)はソファにうずくまり、長く考えた末、海の向こうの父に電話をかけた。電話の向こうは、しばらく沈黙した。「それもいいな。ちょうど休学していた分の授業を取り戻せる。すぐに学校に連絡するよ」「うん」櫻は淡々と答えた。「どうして急に戻る気になった?北城ではうまくいってないのか?」櫻の父が探るように尋ねた。「別に。ただ……もう離れる時間が来ただけ」長い沈黙のあと、櫻は目を伏せた。一筋の涙が、そっと頬を伝った。7年だった。彼女はもう、豊田礼人(とよだ あやと)を愛したくなかった……櫻は自分に7年の猶予を与えた。もし7年経っても礼人に自分を愛してもらえなければ、彼のもとを去ると決めていた。それから1か月後の日が、ちょうどその7年の期限だ。同時に、礼人と三浦雪(みうら ゆき)が結婚する日でもあった。彼女という負け犬は、もう舞台から降りるべきなのだ……大学4年の時、櫻は北城に里帰りし、偶然礼人と出会った。アメリカで彼女を追いかけてきた金髪碧眼のイケメンたちとは違い、礼人の控えめの禁欲的な雰囲気に、彼女は一瞬で心を奪われた。彼に夢中になった彼女は、学業も、アメリカの家族もすべて捨てて、名前も立場もないただの代用品として、彼のそばにいることを選んだ。たぶん自分は生まれつきマゾなのかもしれない。自分を愛してくれない男を愛して、いつか彼が自分を愛してくれることを夢見ていた。雪が帰国したとき、櫻は初めて自分の愚かさに気づいた。礼人は、雪のために盛大な歓迎パーティーを開いた。ヨーロッパから空輸された花だけでも何億円もする。ましてや彼女の首にかけられたエメラルドは、礼人が自ら競り落としたもので、数十億円の価値がある。パーティーの日、櫻は遠くから礼人を見つめた。突然、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。男は女を抱きしめ、愛しげに見つめ合っていた。彼の目に浮かぶその愛情深い眼差しに、櫻の体は思わず震えた。礼人は、彼女にそんな眼差しを一度も向けたことがなかった。彼は愛せないのではなく、ただ、彼女を愛していなかっただけだった。……「ピッ」と、指紋認証のドアロックが鳴った音が、櫻の思考を遮った。部屋の明か
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第2話
「申し訳ないけど、私は暇がないの」櫻は眉をひそめて、はっきりと拒絶した。「もし俺がどうしても行けって言ったら?」礼人の鋭い目がさらに冷たくなり、彼の細い手が櫻の顎をぐっと掴むと、熱い息が彼女の顔にかかる。「以前は俺が言えば、何でもしてくれただろう。今はただの介添人、それすら無理なのか?金が足りないのか?」礼人は眉を上げた。「もう二千万出す。どうだ?」彼の声はいつものように冷たく無関心で、そこに軽蔑さえ含まれていた。元々青ざめていた櫻の顔色が、さらに真っ白になった。礼人の目には、自分はただ金のために、どんな屈辱にも耐える代役に過ぎなかった。代役に拒否する権利なんてあるはずがない。この7年間、礼人の言うことは一度も拒まなかった。彼女は自己犠牲をして、彼のためだけに生きてきた。でも、今回はもう妥協したくなかった。「嫌なものは嫌。理由なんてないわ!」櫻は顔を冷たくして、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「こんなこと、強制できるものか?」これが、彼女が初めて礼人を拒否した瞬間だった。礼人は顔をしかめ、しばらく黙り込んだまま、じっと櫻の顔を見つめていた。しばらくしてから、彼はふっと笑った。「俺が飼ってるペットが、ノーと言ったか。いいだろう、よく考えてから連絡しろ」そう言い残して、彼は背を向けて出ていった。「バンッ」と扉が大きな音を立てて閉まった。……翌日に、櫻は職場に向かった。この7年間、彼女は非営利団体で働いていて、この仕事をとても気に入っていた。だが、残念なことに、今日は、辞職のために来た。会長は残念そうに何度も訊いた。「櫻、何か仕事で不満でもあったのか?どうして急に辞めるなんて」「7年も両親と離れていて、二人とも私に会いたがってるんです。ちょうど私も三十歳手前だから、父が見合い相手を紹介してくれて、早く結婚してほしいって」この数日、櫻の父は彼女に見合いの話を持ちかけていた。ちょうど条件のいいビジネス婚の相手がいるとのことだった。櫻は、自分のわがままで長年父に孝行できなかったことを申し訳なく思っていた。今回はもう父を失望させたくなかった。だから、彼女は即答で承諾した。その時、同僚の草野詩音(くさの しおん)が慌てて会長室に飛び込んできた。「会長、最近
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第3話
櫻が初めて雪を見たのは、礼人のデスクに置かれた写真の中だった。写真の中で、雪は微笑みながら礼人に寄り添っていて、バラのように華やかだった。礼人が彼女を見る目は、櫻が一度も見たことのない優しさと愛情に満ちていた。櫻の手が思わず震えた……コーヒーがこぼれて、雪の写真を濡らしてしまった。礼人が帰ってきて、その濡れた写真を見ると、顔が恐ろしく暗くなった。彼は櫻に食事を禁止し、三日間も彼女を空腹のままにした。その時初めて、櫻は雪が礼人にとってどれほど大切な存在かを思い知らされた。誰もが言っていた。櫻が雪に似ているおかげで、礼人のそばに最も長くいられたと。今の櫻は、むしろ少しも似ていなければよかったと願っている。雪からラインが届いた。会員制クラブの住所が書かれていて、すぐに来るようにとのことだった。櫻は急いで職場を出たが、運悪く外は大雨だった。タクシーがつかまらず、十数キロも歩いてクラブに到着したとき、彼女は全身ずぶ濡れだった。彼女が個室に入ると、空気が一気に張り詰めた。そのずぶ濡れた姿に、皆が落ち着かない沈黙に包まれた。雪は青いワンピースを身にまとい、美しく輝いていた。「櫻、礼人は車を用意してくれなかったの?こんな大雨の中、歩いて来たなんて!」雪は驚いたように目を見開き、同情を浮かべたまなざしで言った。「全部私のせいね。早くあなたに会いたくて。私がいない長い間、礼人のことを代わりに世話してくれてありがとう。結婚式もお願いするわね」「豊田社長と三浦さんのお力になれるのは、光栄なことです」櫻は顔面蒼白のまま、震える体をこらえながら、紅唇にかすかな笑みを浮かべた。彼女はいま、まるで冷蔵庫に囚われたかのように、骨の髄まで冷え切っていた。「みんなが言ってる通り、あなた本当に私に似てるわね……」雪は白く滑らかな指先で櫻の頬を優しくなぞった。「でも、残念ね……」雪は櫻の耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる声で囁いた。「礼人が言ってたわ。代用品は代用品。どれだけ媚びても、私の足元にも及ばないって」言い終えると、またいつものように優雅で魅力的な笑顔に戻り、まるで今の言葉がただの冗談だったかのようだった。櫻の顔色は一瞬で真っ青になった。その時、礼人が入ってきて、室内は歓声に包まれ
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第4話
まさかのことに、櫻は廊下で数人のチンピラとぶつかってしまった。「お嬢ちゃん、一人でこんなところに?俺たちと遊ばないか?」チンピラは凶悪な顔つきで、無遠慮な視線で櫻を見下ろし、不快な笑みを浮かべた。櫻は吐き気を覚え、すぐさま踵を返して礼人の個室へと駆け出した。「おや、逃げるのか?追え!」チンピラは彼女の背後で遠慮なく下品に笑い声を上げ、まるで櫻の身の程知らずを嘲笑っているかのようだ。櫻は顔を真っ青にして、必死に礼人の名前を叫んだが。だが、個室の中は雑音と歓声であふれていて、その声はまったく彼の耳には届かなかった。彼女は急いでスマホを取り出し、礼人に電話をかけた。しかし、コール音が数回鳴ったところで、無情にも通話は切られてしまった。櫻は眉を顰めながら、もう一度かけたが、再び通話が拒否された。なぜ出てくれない?そんなに彼女が嫌いなの?突然、足に鋭い痛みが走り、思わず足をくじいてしまった彼女は、そのまま勢いよく地面に倒れ込んだ。チンピラたちが駆け寄ってきて、顔にはいやらしい欲望の色を浮かべながら、櫻をじろじろと見つめていた。「こいつのスタイル、なかなか良いものね。きっと気持ちよくやれるよ」「兄貴、先にやってください。俺たちは後でいいから」「豊田礼人は私の恋人よ!私に手を出したら、彼が絶対あんたたちを許さないわ!」櫻はとっさの状況に追い詰められ、思わず口をついて言葉が飛び出した「はっ、豊田礼人がお前の恋人だって?」チンピラたちは大笑いしながら言った。「奴は中で婚約者とキスしてるぜ!まだ俺たちを騙そうってのか!」そう言い終わるや否や、男のひとりが櫻の頬を平手で打った。ほかの数人の男たちが一斉に押し寄せ、櫻の両手を押さえつけた。そして、乱暴に櫻の服を破り、凝脂のような胸元があらわになった。彼女はほとんど裸にされ、乱暴されそうになって追い詰められた末に、チンピラの腕に噛みついた。痛みに顔をゆがめたチンピラは、逆上して櫻にくそアマと罵り、腹を一蹴りした。櫻は激しい痛みを感じ、顔色がたちまち真っ青になった。「このクソ女、勿体ぶるな?豊田の愛人はできるのに、俺たちの相手はできないってか?どうせただの安い女じゃねえか!」チンピラたちは怒りにまかせて、櫻を激しく蹴りつけた。彼女は体を丸めて
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第5話
櫻は入院せず、お腹を押さえながらそのまま自宅に戻った。彼女はベッドに横たわっても、眠れぬ夜が続いた。着信音が鳴り響いた。櫻の父からのビデオ通話だった。「櫻、ビザの書類はもう準備したよ。来週、大使館で面接を受けてくれればいい」「うん、わかった、父さん」「どうした?顔色が悪いな。誰かに虐められたのか?」ビデオ通話の向こうで、櫻の父は彼女の血の気のない顔に気づき、何かおかしいと感じた。櫻は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、明るい声を装って答えた。「大丈夫だよ。北城で楽しくやってる。ただ、ちょっと疲れただけ……」「そうか。無理はするなよ。よく休んで」「うん、父さん、またね」通話を切った瞬間、櫻は声を上げて泣いた……もう限界だったのだ!……翌朝、彼女は荷造りを始めた。礼人がこれまで贈ってくれた物は丁寧に仕分けし、返すつもりだった。礼人と一緒に過ごした7年間、彼は写真を撮るのが嫌いだった。だから、彼女と礼人のツーショット写真は、一枚もなかった。しかし礼人は、雪とのツーショット写真を、引き出しいっぱいに大切にしまっていた。それが……愛されていないということなのだろう。彼は、自分が愛する女としか、写真を撮らないのだ。まあいい。櫻は口元に自嘲の笑みを浮かべた。もう、彼女が処理すべきものなんて何もない。引き出しの中には、厚いスケッチブックが数冊あった。中身はすべて、礼人を描いたものだった。付き合い始めたその年から、櫻はずっと彼をこっそり描き続けていた。冷たい彼、よそよそしい彼、眉をひそめる彼、情熱的な彼……彼のいろんな表情を、彼女は絵に閉じ込めた。何日かおきに1枚を描く。まるで1枚でも多く描けば、ほんの少しでも彼に好きになってもらえるように。7年間で、合計722枚のスケッチが完成した。最後の一枚を描いたのは、礼人が雪にプロポーズしたその日だった。そして、そこで筆を止めた。「パチッ」と、櫻はライターに火を灯し、愛を注いだそのスケッチたちを、一枚一枚、全て燃やしていった。彼女と礼人の関係はここで、終わらせるべきなのだ。礼人が部屋に入ってきたとき、最後のスケッチは火鉢の中で灰と化していた。彼は眉をひそめて櫻を睨みつけ、冷たい声で問いかけた。「何し
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第6話
月曜日に、櫻は大使館でのビザ面接に赴いた。手続きは順調に進み、まもなくビザも下りるだろう。これで本当に、旅立てる日が近づいた。帰り道、大使館の近くにいくつかの高級なウエディングドレス専門店が並んでいた。ショーウィンドウには、最新の高級ドレスがきらびやかに並び、思わず足を止める。かつて、彼女も、その中の一着に心を奪われたことがあったが、誰にも言えなかった。まさか礼人と結婚しようなんて夢見ていたなんて、きっと誰もが、彼女の身のほど知らずを笑うだろう。今回は、なぜかふとした衝動で、櫻は試してみようと思った。これは彼女がかつて、最も純粋だった愛への別れでもあった……ウェディングドレスに身を包んだ櫻の姿はとても美しく、店員たちも口をそろえて、今まで見た中で一番美しい花嫁だと称賛した。ちょうど彼女が支払いをしようとしたその時、美しく背の高い女性が、気品あふれるハンサムな男性の腕を取って店に入ってきた。雪と礼人だ。櫻は、まさかこんなところで彼らに出くわすとは思ってもいなかった。雪は、ウェディングドレスを着た櫻の姿を見るなり、美しい瞳をすっと曇らせた。「櫻、そのウェディングドレス、すっごく綺麗ね!」彼女は笑顔を浮かべながら櫻に近づき、礼人に向かって甘えるように言った。「礼人、たくさんドレスを見たけど、やっぱり櫻が着てるこのドレスが一番好き。もう決めた、これがいいの!」「申し訳ありません、三浦さん。こちらのドレスは又村さんがすでにご購入されたものです。他のデザインをご覧になってはいかがでしょうか」店員が恐縮した様子で言った。「でも、どうしてもこのドレスがいいの」雪は甘えるように礼人の腕に絡みついた。「私の欲しいものなら何でもくれるって言ってくれたよね?たとえそれが空の星でも!だったら、櫻にお願いして譲ってもらってよ、ね?」櫻は無表情のまま礼人を見つめ、口元に薄く皮肉な笑みを浮かべた。「櫻、雪がこのドレスを気に入ってるんだ。譲ってやったらどうだ?」やっぱり……もし以前だったら、櫻はまだ礼人の言うことを聞いていたかもしれない。でも今日の彼女は、もう聞く気はなかった。ビザはすでに下りている。彼女はもうすぐここを去る。彼女を縛るものなんて、もう何もない。櫻は礼人をじっと見つ
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第7話
礼人は目を細め、じっと櫻を見つめていた。なぜこれほどまでに心が乱れているのか、彼自身でもわからなかった。だが、胸の中に燃え上がる嫉妬の炎は、野火のように止められなかった。櫻は必死に彼の手を振りほどこうとした。その拍子に、右手の薬指に嵌めていた指輪が飛んでいった。彼女の顔色が変わった。このペアリングは、彼女が自らデザインしたもので、大切な宝物だ。かつて彼女は、礼人に男性用のリングをつけてほしいと懇願し、自分は女性用を身につけた。だが礼人の細長い指を見たとき、そこには何もなかった。指輪があったはずの場所には、かすかに残る痕跡だけが虚しく残っていた。櫻は苦笑いした。彼女が苦労してデザインした指輪は、礼人にとっくにゴミのように捨てられていたのか。それでも、もういい。彼女は、もう未練を断ち切ったのだから。だが、雪は目ざとく気づいた。櫻のその指輪は、彼女が帰国したときに礼人がずっとつけていたあの指輪の女性用のデザインだった。まさか、二人はペアリングを着けていたか?雪の胸に、激しい嫉妬の炎が広がった。そして次の瞬間、わざとらしく笑いながら、櫻の指輪を靴で踏みつけ、粉々に砕いた。「櫻、ごめんなさい。うっかり踏んじゃったみたい」雪はわざとらしく謝りながらも、顔には挑発の色が浮かんでいた。「大丈夫よ、この指輪……別にいらないから」櫻は微笑みながら、一語一語はっきりと言った。礼人の表情は引きつり、端正な顔立ちには陰が広がっていった。あの指輪は、以前の櫻が一番大切にしていたものだ。彼女は何度も自分に言い聞かせていた。それは、彼への愛そのものだと。なのに今、いらないだなんて!……しばらくして、ウェディングドレス専売店の店長がやってきて言った。「又村さん、申し訳ありませんが、このドレスは売れません。すぐにお脱ぎください。お支払いはすでに返金いたしました」櫻は驚いて礼人を見つめた。「あなたがやったの?」「櫻、君が雪と張り合えると思ってるのか?」礼人は冷酷に唇を歪めた。「そう、よくわかったわ」櫻は涙をこらえながら、ただ静かに頷いた。「礼人、覚えておいて!私を傷つけるのは、これが最後よ」……櫻は赤くなった目でアパートに戻った。外は土砂降りの雨だ。
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第8話
子犬は苦しげに「きゃん、きゃん」と鳴き、細い体を必死にくねらせていた。櫻は悲鳴を上げ、鋭い声で叫んだ。「礼人、何してるの!強引に奪うつもり?」礼人は眉をひそめ、櫻がなぜこんなにも大げさに振る舞うのか理解できなかった。「たかが動物一匹のために、なぜそこまで取り乱す?数ヶ月もすれば、雪のつわりも落ち着くだろう。そのとき返してやるよ」櫻はわかっていた。そんな日が来ることは決してないと。なぜなら、彼女は明日この場所を去るのだから。そして、雪が彼女の子犬を大切にすることなど、決してあり得ない。「だめっ!」彼女は涙を流しながら礼人の足元にひざまずき、彼の足にしがみついた。「礼人、お願いだから連れて行かないで。お願い。7年間一緒にいたのに、私、こんなに低姿勢で頼むなんて、初めてだよ!」彼女が必死に哀願する姿を見て、礼人の心に一瞬のためらいがよぎった。櫻は必死に額を床に打ちつけた。「お願い、本当にお願い。この子を連れて行かないでくれるなら、あなたの言うこと何だって聞くから!」何度も何度も頭を下げ続け、櫻の額からは血がにじみ出た。そのとき、雪が突然、彼に寄りかかってきた。「礼人、私、すごくつらいの。この子犬がいないと、妊娠中ずっとうつ病になっちゃう」礼人は心を鬼にした。櫻を振りほどき、無言でその手を一本ずつ剥がしていくと、雪を抱いてその場を離れた。「礼人!」櫻の目には絶望の色が浮かんでいて、声を張り上げて叫んだ。「お願い、お願いだから。これが最後のお願いなの……この子を連れて行かないで。約束するよ。もう二度と、あなたの前に現れないから!」それでも、礼人は一度も振り返ることなく、立ち止まりもしなかった。櫻は冷たい床に座り込み、どれほどの時間が経ったのかもわからなかった……そして翌朝、誰かが彼女の家の前に大きな箱を置いていった。胸が激しく高鳴り、櫻は震える手でゆっくりと箱を開けた。中には、雪玉のような小さな遺体が入っていた。彼女の子犬だった……四肢は残酷に切断され、目はえぐり取られ、舌も引きちぎられていた……まさに惨殺だ!「いやああああっ!!」櫻は絶叫した。雪の仕業だ!間違いない!彼女の拳は固く握られた。目は血のように赤く染まり、口の中には鉄の味が広
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第9話
櫻は、砕けたガラス片の上に真っ直ぐ倒れ込んで、骨の髄まで痛みが走った。無数の鋭利な破片が、彼女の白く柔らかな肌に突き刺さり、赤い鮮血が床一面に広がっていく。この傷は、たとえ癒えても、醜い傷跡として残るだろう。一方、雪は礼人の腕の中にしっかりと守られ、かすり傷ひとつ負っていなかった。櫻は、血の気を失った唇に、かすかな苦笑いを浮かべた。実のところ、雪はこんなにも大げさに証明しようとする必要なんてまったくなかった。櫻はとっくに気づいていたのだ。礼人の心の中で、本当に大切に思っているのが誰なのかを!「櫻、あなたに介添人として式に来てほしかったのに、どうして私を突き飛ばしたの?礼人がいなければ、私はもう血の海の中だったのよ!」雪は、彼の胸元で泣き叫んだ。一瞬にして、無数の軽蔑と非難の視線が櫻に集中した。「これが三浦さんの替え玉だって?いい度胸ね。結婚式を荒らしに来て、新婦を突き飛ばすなんて信じられない!」「厚かましいわね!たかが愛人のくせに正妻に喧嘩を売るなんて!泣き真似して同情でも買えると思った?残念、豊田社長は見向きもせず、婚約者だけを守ったよ!」周囲のささやき声はますます大きくなっていった。「櫻、もうやめにしたら?早く雪に謝りなさい!」礼人の整った顔には一切の感情がなく、冷たい黒い瞳が櫻を見据えていた。まさに氷のような冷たさだった。「謝る?」櫻は可笑しさをこらえるように笑い、痛みに耐えながら礼人に言った。「礼人、子犬は私の家の前で、生きたままバラバラにされたのよ!三浦があの子を拷問して殺したの。彼女こそ謝るべきじゃないの?それに、私はさっき彼女を突き飛ばしてなんかない。信じられないなら、監視カメラを調べればいい!」「礼人、櫻が認めないのなら、もう責めないであげて。それに、櫻の子犬のことも、本当に私じゃないの。彼女の誤解よ!」雪は礼人の胸元に身を寄せ、不安そうに櫻を見つめた。礼人の険しい眉間が、次第に和らいでいく。「櫻、雪が寛大だから、今回は見逃してやる。子犬が死んだのなら、十匹でも百匹でも、もっと高級な犬を買ってやるよ。なにをそんなに落ち込むんだ?ただの犬だろ?」「……ただの犬だと?」櫻は礼人を見つめ、嘲るように笑いながら涙を溢れさせた。「礼人、あなたは本
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第10話
なぜだろうか、礼人のこめかみが、突如として激しく脈打ち始めた。先ほどから櫻に何度も電話をかけたが、全て無言で切られた。最後には、彼女が電源を切った。以前の彼女なら、いつでも呼べばすぐに来たし、電話を切るなんて一度もなかった。今の櫻は、電話を切ったばかりか、完全に連絡を断ってきた。どうやら、彼女は本当に傷ついていたのかもしれない。礼人は目を閉じて、きれいな眉間に深く皺が刻まれた。彼は焦るように助手に電話をかけた。「最近人気の犬種を調べてくれ。白い毛で、血統は最高級、価格も一番高いやつだ。今日中に、櫻のところに届けてくれ」「かしこまりました、社長」電話を切ったあと、礼人の胸の奥にあった焦りが、少しだけ和らいだ気がした。だが、彼自身も、なぜこんなに苛立っているのか分からなかった。櫻が去る前に彼に突き放した冷たい視線が、ずっと彼の頭の中にこびりついて離れなかった。そのせいで、その後の結婚式の進行中も、彼はずっと上の空だった。「礼人、どうしたの?何か気になることでもあるの?」雪が微笑みながら尋ねたが、その美しい瞳には明らかな不満が宿っていた。だが礼人には何と説明していいか分からず、ただ口元に虚ろな笑みをかすかに浮かべるしかなかった。今日の結婚式は、本来なら彼にとってこの上なく喜ばしく、幸せなはずだった。それなのに、彼はこれほど時間の流れが遅く感じられたことはなかった。雪が彼に嫁ぎ、彼らの愛の結晶もまもなく生まれる。だから、彼にとって、今日は最も大事で、楽しい日だ。しかし、彼は思っていたほどには幸福を感じていなかった。助手から電話がかかってきたその瞬間、彼の心の中で張り詰めていた糸が、ついにぷつりと切れた。「社長、又村さんが自宅にいません。どれだけドアを叩いても反応がありません」礼人の顔色が一気に凍りつき、表情が厳しくなった。制御不能な感情が、彼の中で渦巻き始めた。彼は眉をひそめながら、「ちょっと急用ができた」と雪に一言だけ告げると、彼女をその場に残し、式場を飛び出していった。突然の出来事に、会場の来賓たちはどよめきを上げた。道中、彼は何度も櫻のスマホに電話をかけた。だが返ってくるのは、冷たい音声案内だけだった。「おかけになった電話は電源が入っていないか、電波
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