Masuk離宮の片付け作業の合間、僅かに陽の差し込む穏やかな昼下がりだった。
リアンは南向きのテラスで、指先に春の名残のような日差しを感じながら、静かに針を動かしていた。石造りの床は午前の光をたっぷりと吸い込んでおり、素足に履いた柔らかな室内靴越しにも、じんわりとした温もりが伝わってくる。頬を撫でる風は心地よく乾いていて、咲き誇る花の香りと瑞々しい芝の匂いとを、ほどよく入り混ぜた淡い甘さで鼻先を満たしていた。
糸を引き、針を通し、一針ごとに細やかな模様を白布に編み込んでいく。
この日、国王ヴァレンはリアンの部屋へ、午後の茶を共にすると知らせを寄越していた。中庭で刺繍をしているところを見つかって以来、ヴァレンはしばしばこうして公務の合間を縫って立ち寄るようになっていた。
夜の帳の中で交わされる熱い吐息とは違う、眩い日差しの中での逢瀬。家臣も侍女も遠ざけられ、二人きりで過ごす僅かな時間は、リアンにとって何よりも替えがたい安らぎとなっていた。
ちょうどひとつの節を刺し終えたところで、テラスの石畳を叩く規則正しい足音が聞こえてきた。
踏みしめる足音の重さと、風に乗って届いた深い香木の残り香。リアンは視線を上げるより早く、それが誰であるかを察した。慌てて立ち上がり、刺繍枠を椅子の上に置くと、深く頭を垂れる。
「――陛下」
「座っていろ」
短い、けれど拒絶の色を含まない命令とともに、ヴァレンが対面の椅子に腰を下ろした。
侍女が用意していた茶器には、すでに琥珀色の紅茶が注がれている。立ち昇る湯気の香りが、午後の穏やかな空気へとゆっくりと溶け、混ざり合っていく。リアンはもう一度控えめに礼をしてから、言われた通りに椅子へ腰を戻した。
ヴァレンはしばらくの間、何も言わずに杯を口に運んでいた。
リアンもまた、膝の上で指を組んだまま、静かに目を伏せていた。視界の霞んだ彼には、ヴァレンの表情の細部まではうかがい知れない。ただ、紅茶を持つ指の端正な輪郭と、衣擦れの気配、そして鼻先に届く匂いだけが、相手の存在を鮮やかに、そして濃密に伝えてくれる。
ふいに、風が一度だけ強く吹き抜けた。
その風に乗り、ヴァレンからまた一段と異なる匂いが運ばれてきた。重厚な香木の香りに混じって、白く澄んだ花の香りが、ごく微かに、けれど確かに漂っている。冷たい清水に近い、清冽で繊細な香り。
リアンはその香りに、深い覚えがあった。兄セレンの遺した離宮を整理していた際、何度も出入りした奥庭。その北側の深い木陰で、ひっそりと群れて咲く小さな白い花――名を「月影草」という、庭師以外は滅多に近づかない場所の花だ。
リアンは思わず、顔を上げた。
「陛下、先ほど……奥庭の北側を歩かれましたか?」
問いかけてから、リアンはすぐに後悔に襲われた。
ヴァレンが紅茶の杯を、静かに卓へと戻した。琥珀色の瞳が、霞んだ視界の中でも僅かに見開かれたのがわかる。重苦しい沈黙が流れ、リアンの指先はじわりと冷たくなった。王の足取りを詮索するなど、あまりに差し出がましい真似をしてしまった。
「……なぜ、わかる」
返ってきた声は、咎めるものではなかった。そこには、純粋な問いかけの響きがある。
リアンは戸惑いながら、再び目を伏せた。
「あの、その……お足元の方から、花の匂いがいたしましたので」
「下か?」
ヴァレンが視線を落とすのが、衣擦れの気配で知れた。
「……ああ。なるほど、花びらがのっていたか」
ヴァレンが身を屈め、靴の甲に張り付いていた白い欠片を指先で摘まみ上げた。そのまま、その指がリアンの方へと伸ばされる。小さく薄い花びらが、リアンの鼻先へとそっと差し出された。
「この匂いか?」
リアンは促されるまま、少しだけ身を前に傾け、その香りを確かめた。
鼻腔をくすぐる、ひんやりとした清冽な甘さ。間違いなく、あの木陰に咲く花のものだ。
「ええ、これです」
リアンは小さく頷いた。
「奥庭の北側にだけ咲く、月影草という花の香りです。あそこは陽が当たらず、庭師以外は滅多に足を踏み入れぬ一角かと存じますが……」
「すごいな」
ヴァレンが、低く呟いた。
驚きが、声の奥に静かに滲んでいる。これまで政務の場で見せていた冷徹な声色とは違い、そこには隠しようのない感心と、柔らかな賞賛の色が含まれていた。リアンは僅かに顔を上げ、琥珀色の瞳が穏やかにこちらへ向けられているのを、ぼやけた視界の中で愛おしく感じた。
「僕……人より少しだけ、鼻が利くものでして」
「人より、か。どれほどのものを嗅ぎ分けられるのだ」
ヴァレンが、摘まんでいた花びらを卓の端にそっと置いた。
リアンは、言葉を探した。幼い頃からこの体質のせいで「変わり者」と疎まれ、説明することさえ諦めてきた。けれど、目の前の男は、どこか楽しげに続きを待っている。
「たとえば……この紅茶でしたら」
リアンは卓の上の杯に、そっと鼻を近づけた。
「茶葉の香りの他に、蜂蜜を温めたときの濃密な甘さと、乾燥させた薔薇の花びらが混ざっているように思います。お湯の温度が少し低めに淹れられていますので、繊細な香りがより際立っております」
言い終えてから、リアンは慌てて口を噤んだ。
また、要らぬことまで喋りすぎただろうか。しかし、ヴァレンは叱り飛ばすどころか、自分の紅茶を再び持ち上げ、その香りを確かめるように深く吸い込んだ。
「……確かに、甘いな。蜂蜜と薔薇か。意識したこともなかった」
ヴァレンが呟く。リアンは耳の奥がじんわりと熱を持つのを感じ、小さく頷いた。
ほどなくして、侍女たちが軽食の皿を運んできた。
香ばしく焼かれた肉のパイに、色鮮やかな野菜のタルト。ヴァレンはフォークを取り、パイを一口、口に運んだ。
「お前も食べろ」
短い促しに、リアンも静かにタルトを取り上げた。
ヴァレンが次にタルトを一口齧り、ゆっくりと咀嚼する。やがて、彼はわずかに眉を寄せた。
「……何か、変わった味がする。苦いのか甘いのか、はっきりしないな」
ヴァレンが、眉を寄せたままリアンへ皿を差し出した。
「お前、嗅いでみろ」
「かしこまりました」
リアンは、慎重にその一切れへ鼻先を寄せた。
焼き上げた野菜の甘みとバターの芳醇な香り、その奥に、青く鋭い香りが一筋潜んでいる。
「……これは、ローリエとタイムの葉ですね」
リアンは、静かに解き明かすように答えた。
「それから、松の実が少量挽き込まれております。仕上げの油に、ごく僅かですが、柑橘の皮を擦り込んだものが使われているようです」
ヴァレンが、言葉を失ったように動きを止めた。
リアンは慌てて身を引いた。やはり、呆れさせてしまったのだ。そう思って俯こうとした、その時。
ヴァレンが、笑った。
低く、短く、喉の奥で震えるような笑い声。霞んだ視界の中でも、彼の口角が確かに緩み、目元が柔らかく綻んでいるのが見て取れた。これまで一度も、リアンの前で見せたことのない、あまりに無防備な表情。
「お前は、本当に変わっているな」
その言葉に、侮蔑の影は微塵もなかった。代わりに滲んでいたのは、子供のような純粋な興味と、愛おしげな温かさだった。
「……申し訳、ございません。不快な思いをさせてしまったかと」
「不快などしていない。むしろ……面白い」
「面白い」――その一言が、リアンの胸の奥に灯火を宿した。
この鋭すぎる感覚を、兄以外の誰かが肯定の響きで受け入れてくれた。その事実が、凍えていた心を優しく溶かしていく。
「ありがとうございます……」
掠れた声で答えると、ヴァレンは再びタルトに手を伸ばした。今度は口に入れる前に、ゆっくりと鼻先に近づけ、自分でも香りを確かめようとしている。その仕草が、何ともいえず愛らしく、リアンは小さく吹き出しそうになって慌てて唇を結んだ。
「何を笑っている」
「い、いえ……陛下も、匂いを確かめていらっしゃるのだなと思いまして」
ヴァレンは少しの間、リアンを見つめていたが、先ほどよりも長く、もう一度笑った。
「面白いものは、面白い。それだけだ」
(兄様――)
リアンは胸の奥で、そっと亡き兄の名を呼んだ。
かつて兄がこの席にいた頃も、こんな風に何でもない会話を交わしていたのだろうか。今、自分がその場所に座り、王の笑い声を聞いている。それがひどく申し訳なく、けれど同時に、言いようのない幸福感となって背中を包み込んでいた。
風が、もう一度テラスを優しく撫でていった。
薔薇の香りと、午後の柔らかな日差し。ヴァレンは再び紅茶を口に運び、リアンは刺繍枠へと指を戻した。
「次回も、何か出されたら嗅いでもらうぞ」
「よろしいのですか? お出しするたびに、細かく並べ立ててしまうかもしれませんが」
「構わん。興味がある」
顔を上げたリアンの視界には、黄金色に輝く日差しの中で、まだ微かに微笑みを残した王の姿があった。
夜の寝所のような切ない熱もなく、謁見の間のような凍てつく冷たさもない。
ただ、二人分の穏やかな呼吸だけが重なり合う、宝石のような昼下がり。
リアンはこの瞬間の香りを、胸の奥深くに刻みつけた。いつか終わりが来るとしても、この穏やかな午後の記憶だけは、誰にも奪えない宝物として残るだろう。
風がテラスをもう一度揺らし、言葉のない温かな時間が、いつまでも二人の間を満たし続けていた。
番契約を交わしてから、三ヶ月という月日が流れた。 季節は盛夏の猛々しさを脱ぎ捨て、初秋の柔らかな光が宮殿の庭園を金砂のように染め上げている。リアンは、ヴァレンが「一番のお気に入りだ」と教えてくれた、白い大理石の長椅子が設えられた一角にいた。 午後の穏やかな空気の中、リアンの指先は規則正しく針を動かしている。色とりどりの刺繍糸が、真っ白な布の上に鮮やかな花々を咲かせていく。 あの日、番契約を交わしてからのヴァレンの変貌ぶりは、宮廷中の誰もが目を見張るものだった。 かつての彼は、常に飢えた獣のような危うさを孕んでいた。リアンを片時も離したくないと渇望し、その細い身体が自分以外のものに触れることさえ許さないといった、狂おしいほどの嫉妬に身を焦がしていた男。けれど、今の彼にその刺々しさはない。 代わりにその全身に宿っているのは、深い満足感と、永遠の絆を手に入れた者だけが持つ穏やかな威厳だ。荒れていた気性は嘘のように凪ぎ、執務に向かう背中には確かな落ち着きが備わっている。新しい皇帝の真の姿を、重臣たちもようやく安堵と共に受け入れ始めていた。 リアンの数歩後ろには、一人の騎士が音もなく控えている。 漆黒の髪を後ろで一つに束ねた、オメガの騎士――アシェル。 ヴァレンの従弟であり、宰相ルシアンが「皇妃の守護にこれ以上の適任はいない」と太鼓判を押して選び抜いた人物だ。年齢はリアンとさほど変わらないが、その双眸に宿る鋭さと、鍛え抜かれた身体が纏う凛とした空気は、かつての護衛ルシアンとはまた異なる、静かなる威圧感を放っている。 この三ヶ月、アシェルは影のようにリアンに寄り添ってきた。寡黙で職務に忠実な点はルシアン譲りだが、同じ第二性を持つ者同士、リアンは折に触れて彼に言葉をかけ、その心の距離を縮めてきた。「リアン様」 アシェルが、低く抑制された、それでいて柔らかな声で告げた。「日が傾いてまいりました。風に秋の冷ややかさが混じり始めております。少し肌寒くなってきましたので、薄手の上着をお持ちしましょうか」「ありがとう、アシェル。でも、大丈夫だよ」 リアンは針を動かす手を止めず、ふわりと微笑みを返した。「この一房を刺し終えたら、終わりにするから」 アシェルは深く、恭しく頷くと、再び一歩下がって静止した。 リアンは再び手元の布に視線を落とした。だが、針を刺
正妃の宣言から数週間が経った夜のことだった。 リアンの身体に、馴染み深い熱がゆっくりと這い上がってきていた。指先からじわりと広がるそれは、肌の奥深くを内側からじりじりと焼くような熱。下腹部の中心が疼き、肺の空気が足りなくなるように呼吸が浅くなっていく。(――ヒートだ) 寝台の上で、リアンの本能が抗いようもなく動き始めていた。乱れたシーツの位置を整え、枕を寄せ、その中にヴァレンの脱ぎ捨てた上着を一枚、丁寧に紛れ込ませる。普段なら使わない厚手の毛布まで運び込み、寝台の中央に小ぶりの巣(ネスト)を作っていく。指が勝手に動き、布の柔らかな手触りを確かめながら、最も心地よい配置を本能のままに探っていた。 オメガが、番のために巣を作る。 理性の片隅では、その獣じみた本能を恥ずかしく思う気持ちもあった。けれども、身体は止まらなかった。ヴァレンの残り香が深く染み込んだ上着を巣の中央に置き、その周囲を城壁のように枕で囲む。完成した巣を見つめて、リアンは熱に浮かされた瞳で満足げに息を吐いた。 その時、扉が静かに開いた。 リアンの背中越しに、ヴァレンの重厚な気配が近づいてくる。剣油の微かな匂いと、清潔な布地の香り、そしてヴァレンの肌の奥から漂う、あの懐かしい体温の匂い。リアンの身体が、瞬時に沸騰した。下腹部の奥で、これまで以上に強烈な熱が燃え上がる。「リアン」 ヴァレンが、低く名を呼んだ。 リアンが振り向こうとするより早く、ヴァレンの大きな身体がすでに背後にあった。逞しい腕がリアンの腰に回され、寝台の中央へと優しく引き寄せられる。ヴァレンの琥珀色の瞳が、リアンの作った不格好で愛らしい巣をゆっくりと見下ろしているのが、その沈黙から伝わってきた。「いい子だ」 ヴァレンが、リアンの白金の髪に唇を寄せて囁いた。「上手にできているじゃないか」 リアンの胸の奥が、深く、深く温かくなった。 褒められた。ただそれだけで、オメガの本能が歓喜に震える。リアンはヴァレンの厚い胸板に背中を預け、思わず甘く、切ない吐息を漏らした。「陛下……」「ヒートか」 ヴァレンが、リアンの首筋に熱い唇を押し当てながら、地響きのような低音で尋ねた。「はい……っ」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の前をゆっくりと、けれど拒絶を許さない確かな力で開いていっ
大広間に、再び家臣たちが集められた。 ルシアンの叙爵から、十日ほどが経った日のことだった。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの装いは、これまでのどの儀式よりも華やかで、空気は凛とした緊張感に包まれていた。 壇上には、ヴァレンが堂々と立っていた。軍服の肩に飾られた金色の飾緒が、シャンデリアの光を反射して眩い。 その隣には、リアンが少し離れて、控えめに佇んでいた。今日のリアンは、冬の陽だまりを思わせる白を基調とした優美な衣装を纏っている。白金の髪は丁寧に結い上げられ、襟元の細い首から、滑らかな鎖骨の線が繊細に浮かび上がっていた。 ヴァレンが、静まり返った家臣たちを見下ろした。「本日、正式に皇妃を定める」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に響いた。 家臣たちの間に、さざ波のような僅かなざわめきが走った。けれども、主君の放つ圧倒的な威圧感に、誰もがすぐに静まり返り、深く頭を垂れて続く言葉を待った。「我が皇妃となる者は——」 ヴァレンが、ゆっくりと隣のリアンの方へと振り向いた。その琥珀色の瞳が、慈しむようにリアンを捉える。「リアン・エルスヴェイル」 壇上のリアンの肩が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの背中にそっと添えられた。大きく、温かい手のひら。その熱を感じたリアンは、あまりの気恥ずかしさと畏れに、思わず一歩、ヴァレンの後ろへと隠れるように下がろうとした。けれども、ヴァレンの手は、それを許さず、逃げ場を失わせるように、リアンを前へと押し出す。優しく、しかし揺るぎない力強さで彼を支えていた。「隠れるな」 ヴァレンが、リアンにだけ聞こえる低い声で囁いた。 その声には、逃避を咎める響きはなかった。ただ、愛する者を、家臣たちの前に堂々と立たせたい——そんな静かな誓いが宿っていた。リアンは、震える唇をぎゅっと結び、深く息を吸った。それから、ヴァレンの隣に並んで、家臣たちの視線を真っ直ぐに受け止めた。 大広間の家臣たちが、一斉に頭を垂れた。「皇妃陛下に、忠誠を」 誰かが、静かに声を上げた。続いて、別の声が、また別の声が、地鳴りのような唱和を始めた。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの誰もが、深く頭を垂れている。かつて彼を「慰みもの」と侮っていた者も、「淫乱オメガ」と陰口を叩いていた者も——皆が、今、リアンを正妃として、新たな皇国の母として
モルセルの最期は、公的には「獄中での病死」として処理された。 長年宰相の座にあった男に対する、せめてもの体面だった。妻殺しと正妃候補への毒害、そして強姦未遂――。そのおぞましい罪状は重臣たちの間でのみ正確に共有され、外向けには「病による静かな最期」として記録される。家臣たちの間にも、この不自然な処理を疑う者はいなかった。皇帝の腕の中で意識を失いかけたあの番候補の、痛々しい姿を誰もが目にしていたのだ。 モルセルの娘も、宮廷から速やかに退けられた。 遠い属州の貴族家へと嫁がされる形での、実質的な国外追放。父の罪に直接関わってはいなかったとはいえ、その身体には「毒を運んだ手」としての記録が刻まれてしまっている。リアンは、娘が宮廷を発つ日の朝、窓辺から遠ざかる馬車を静かに見送るだけにとどめた。 すべての後処理が、冬の冷たい空気が澄んでいくように淡々と進んでいった。 その間も、リアンの身体は静かに回復を続けていた。解毒剤の効果が全身の隅々まで行き渡り、陶器のように白かった頬には、少しずつ桜色の血色が戻ってくる。ヴァレンは公務の合間を縫っては寝室に戻り、リアンの様子を確かめ続けていた。皇帝としての威厳を捨てた、一人の男としての献身――。その姿を、宮廷の誰もがもう、当たり前の風景として受け入れていた。 そして、すべての後処理が終わった、ある雲一つない晴れた日のことだった。 大広間に、再び家臣たちが集められていた。 あの断罪の日と同じ場所。けれども、そこに流れる空気の質は完全に違っていた。あの日、宰相の処刑によって浄化された大広間には、新しい時代の始まりを予感させる、清々しい光が満ちていた。 壇上に、ヴァレンとリアンが並んで立っている。 リアンは、深い藍色の正装を纏っていた。白金の髪は、朝の支度で丁寧に整えられている。「ルシアンを、前へ」 ヴァレンが、重厚な低音で命じた。 大広間の中央、深紅の絨毯の上に、騎士装束のルシアンが進み出てきた。一段高い壇上の前で、片膝をつき、深く頭を垂れる。漆黒の髪が、午前の陽光を受けて静かに揺れた。「ルシアン」 ヴァレンが、ゆっくりと言葉を紡いだ。「お前の長年の忠義、そして、宰相モルセルの罪を暴き、皇帝の番候補の命を守った功績――これに報いるため、本日付で、伯爵位を授ける」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に
しばらくの静寂の後、ヴァレンがふと口を開いた。「——で?」 その声は不意に質を変え、低く地を這うような響きを帯びた。「詳しく聞かせてもらおうか?」 リアンの背筋が、僅かに強張った。「牢にいたモルセルと、お前が何をしたか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたことのない種類の、抑制された嫉妬が昏く滲んでいた。 次の瞬間、リアンの身体はヴァレンの大きな手によって寝台に押し倒されていた。逞しい身体がリアンの上に跨り、逃げ場を塞ぐ。至近距離から見下ろす琥珀色の瞳が、獲物を射抜くような鋭さを秘めていた。「陛下……」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の襟元をゆっくりと割った。鎖骨の上、そして白皙の首筋——そこに残る、宰相が刻みつけた忌まわしい赤い痕が、午後の光の下に晒される。ヴァレンは、その痕を一つずつなぞるように、冷徹な眼差しで確かめていった。 不意にヴァレンの指が、その痕の一つを強く圧した。「痛っ……」 リアンの口から、思わず小さな悲鳴が漏れた。「ここにある痕は、俺がつけたものじゃない」 ヴァレンの声が、さらに低く落ちた。「その理由を、聞きたい」「それは……」 リアンの声が、消え入りそうに細くなる。「リアンは、『俺だけ』だと、誓ったはずだ」 そこには、嫉妬と、そして隠しきれない傷が滲んでいた。「俺以外の痕が、お前の身体にあるのは、おかしいだろう」 リアンは、たまらず目を伏せた。 すべてを、告げなければならない。そう覚悟を決め、リアンは震える唇を開いた。「兄様にしたことを、聞き出したくて……香に、媚薬と睡眠効果のあるものを、混ぜて使いました」 リアンは、できる限り淡々と、事実だけを語り続けた。「口移しで、毒入りのワインを飲ませて、意識が朦朧としている彼に、少しだけ……身体を許しました。でも、最後まではしてません。睡眠作用で寝たのを確認してから、牢を出ました」「ほう……」 ヴァレンの声が、不気味なほど穏やかになった。「睡眠効果のある香を使うのは、よしとしよう。だが、なぜそこに、媚薬効果のあるものが必要だったんだ?」「そういう……気分にならせて、ほしいなら、ちゃんと話して、と言うためです」「あげるつもりだったと?」「いいえ」 リアンは、首を強く振った。「話を引き延ばしながら、彼が眠
深い闇の底から、リアンの意識はゆっくりと浮上していった。 最初に感じたのは、規則正しい鼓動の音だった。耳元のすぐ近くで、誰かの心臓が、確かなリズムを刻み続けている。次に、温かな体温。逞しい腕が、自分の華奢な身体を包み込んでいる感触。その安心感に、リアンは一瞬、自分がどこにいるのかを忘れそうになった。(――死んで、ない?) 重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。 霞んだ視界の中に、見慣れた天蓋が広がっていた。寝室——ヴァレンの寝所だ。窓から差し込む光の角度から、もう昼を過ぎていることがわかった。リアンの身体は、淡い寝衣に着替えさせられ、絹のシーツに沈み込んでいた。 すぐ隣で、ヴァレンが寝台の縁に腰掛けて、リアンの顔をじっと見つめていた。 その輪郭は、いつもの皇帝の威厳を僅かに失っていた。漆黒の上着の襟元は乱れ、髪も整えられていない。自分の眠っていた間、ヴァレンがずっとそばで見守り続けてくれたようだ。「……陛下」 リアンは、掠れた声で呼んだ。 ヴァレンの琥珀色の瞳が、深い安堵に揺れた。けれども、その奥には、抑えきれない怒りがまだ燻っていた。大きな手がリアンの頬を包み込み、親指でゆっくりと撫でる。その指先からは、僅かな震えが伝わってきた。「目を覚ましたか」 ヴァレンの声は、低く、震えていた。「よかった……もう、駄目かと思って――」 言葉が、最後まで続かなかった。 ヴァレンの肩が、僅かに震えている。リアンは、その震えに気づいて、胸の奥が痛んだ。死のうとしていた事実が、この男にどれほどの恐怖を与えたか——今、その全貌を知った気がした。最愛のセレンを失った男に、再び同じ絶望を与えようとしていたのだ。 残った側の気持ちを全く考えていなかったと反省する。(罪を犯したから、消えるのが一番だと思ったけど――違うのかもしれない)「陛下、ごめんなさい」 リアンは、震える指でヴァレンの手を握った。「ばか者が」 ヴァレンの声に、抑制された怒りが滲んだ。「罪を、あんな形で清算しようとするとは……許さないぞ」 リアンは、目を伏せた。「殺した罪は、僕が背負わなければなりません。だから——」「殺した罪? なんのことだ」 ヴァレンが、リアンの言葉を遮った。 リアンは、目を見開いた。「え……? だってモルセルに毒を」「モルセルは妻殺しの罪で、処刑した。
夜の帳が下りるころ、静寂の支配する廊下を渡って、寝所への呼び出しが届いた。 侍女たちの手で湯浴みを済ませたあと、リアンは鏡台の前に座り、重厚な装飾の施された兄の香水の小瓶を手に取った。 最初の夜、侍女が惜しみなく振りかけたものとは違う、ごく控えめな量だ。栓を慎重に抜き、指先に一滴だけ琥珀色の雫を落とすと、脈打つ首筋の片側に祈るような心地で薄く塗り広げた。鼻の利く自分にとって、強すぎる香りは目に見えない刃と同じだった。 鏡の中に映る自分は、どこか知らない他人のように青白い。リアンは震える手で小瓶に栓をした。 ふと、昼間の出来事が脳裏を掠めた。汚れたハンカチを「お前の匂いがする」と囁い
謁見の間の天井は、見上げるたびに首が痛くなるほど高かった。 リアンの霞んだ視界には、天井に描かれているはずの繊細な装飾画は届かない。ただ、頭上から降り注ぐ柔らかな光と、無数の燭台が放つ橙色の光だけが、ぼんやりと混ざり合って広間を満たしているのが感じ取れた。空気は冷ややかに張り詰めており、磨き上げられた大理石の床から這い上がってくる冷気が、薄絹の衣装越しに足首を撫でていく。 玉座の前から数歩離れた位置に、リアンは静かに立っていた。 兄の正妻としての地位を継ぐわけではなく、ただ皇帝陛下の慰みものとして城に上がった身である。家臣たちの並ぶ場での扱いは、ある意味で当然のものだった。それでも、
皇帝の居城にある一室が、リアンに宛がわれたのは、最初の夜から三日後のことだった。 家臣団からの命は、拒絶を許さぬほどに簡潔だった。陛下の慰みものとして、城に上がること。そして、護衛として騎士を一名帯同することを許可する、というものだ。「――承知いたしました」 リアンは静かに答え、傍らに控えるルシアンに視線を向けた。ルシアンは何も言わずにただ一度、深く頷いた。その瞳に宿る光だけで、言葉にせずともすべてが伝わった。 与えられた部屋は、エルスヴェイルの屋敷の客間よりも広く、置かれた調度品も一級品ばかりだった。窓からは広大な城の庭園が見渡せ、朝になれば木々の葉が陽光を反射して、宝石のように
目が覚めたとき、室内は白く満ちていた。 夜のうちは何も見えなかった窓が、朝の光を透かして薄い金色を帯びている。リアンは重い瞼をゆっくりと持ち上げ、天蓋の布が視界に入るのを確かめてから、自分がどこにいるのかを思い出した。身体の節々が鉛のように重く、腰の奥には鈍い痛みが居座っている。シーツは汗で湿り、自分の体温とは別の熱が、まだそこに色濃く染み付いていた。 リアンはゆっくりと首を動かした。朝の光の中では、昨夜の熱情よりもずっと鮮明にヴァレンの姿が見えた。枕に漆黒の髪が広がり、整った輪郭が静かな寝息を刻んでいる。眠っている顔は、昨夜、無理やり自分を抱いたときの苛烈さとは切り離されたように穏や