เข้าสู่ระบบ謁見の間の天井は、見上げるたびに首が痛くなるほど高かった。
リアンの霞んだ視界には、天井に描かれているはずの繊細な装飾画は届かない。ただ、頭上から降り注ぐ柔らかな光と、無数の燭台が放つ橙色の光だけが、ぼんやりと混ざり合って広間を満たしているのが感じ取れた。空気は冷ややかに張り詰めており、磨き上げられた大理石の床から這い上がってくる冷気が、薄絹の衣装越しに足首を撫でていく。
玉座の前から数歩離れた位置に、リアンは静かに立っていた。
兄の正妻としての地位を継ぐわけではなく、ただ皇帝陛下の慰みものとして城に上がった身である。家臣たちの並ぶ場での扱いは、ある意味で当然のものだった。それでも、背筋を伸ばして立ち続けるための気力を保つのには、思っていた以上の時間がかかった。心臓が早鐘を打ち、緊張で指先が僅かに震えている。
壇上から、低く重みのある声が響いた。
「エルスヴェイル家の者よ」
ヴァレンの声だった。リアンは膝を折り、深く頭を垂れた。視界には磨かれた靴先と、自分の指の輪郭しか映らない。声はあくまでも事務的で、夜半に耳元で囁かれるそれとは別人のように冷えていた。
「離宮の整理はどうなっている」
「――順調に、進めております」
リアンは喉の奥から声を絞り出した。
「今しばらくの猶予を、お与えくださいませ」
ほんの一拍、沈黙が落ちた。暖炉の火がぱちりと跳ねるような音さえしない、静寂。
「早急に片付けを終わらせろ」
ヴァレンの声は、先ほどよりもいっそう感情を削ぎ落とした響きを帯びていた。鋼色の瞳が、真っ直ぐにリアンを捉えているかのようだった。
「亡き者の遺品にいつまでも縋っている暇はない。次の妻を迎え入れる準備に取り掛かる」
空気が、一瞬で変わった。
広間に並ぶ家臣たちの間から、抑え切れない衝撃のさざめきが広がっていくのが、リアンの背中越しにも伝わってくる。視覚に頼れないリアンの耳には、その動揺が一際鮮明に届いた。誰かが息を呑む音、隣の者へ何事か囁きかける衣擦れ、深く頭を垂れる気配の重なり。
「陛下が、ついに……」
「あれほど閉ざされていた御心が」
「次の妃候補を、急ぎ選定し直さねば」
声を潜めた囁きが、波紋のようにリアンの両側を流れていった。不眠症と苛烈な気性に支配されてきた皇帝陛下が、新たな伴侶を迎える意思を口にしたのだ。家臣たちにとって、それは長く待ち望んでいた朗報に他ならなかった。広間に満ちていく明るい動揺の中で、リアンだけが、膝をついたまま身を硬くしていた。
胸のどこかが、針で深く刺されたように疼いた。
わかっていたことだった。自分はあくまで一時的な慰みものに過ぎず、いずれは然るべき身分の妻が迎えられる。けれど、それを当人の口から、これほど明確に告げられる日が来るとは思っていなかった。心の準備というものを、まだ整えられていなかったのだ。
(陛下が幸せになられるなら――それでいい)
リアンは、胸の奥でゆっくりと言い聞かせた。兄を失って氷に閉ざされていた御心が、再び誰かを愛そうとしているのなら、それを喜ばなければならない。自分のような身代わりが介在し続けることのほうが、むしろ陛下の癒しを妨げてしまう。そう思おうとして、けれども喉の奥がじりじりと熱を持つのは止められなかった。
「……承知いたしました」
リアンは、震えそうになる声を必死で平らに整えて答えた。
「励め」
たった一言で、会話は断ち切られた。顔を上げる許しは与えられないまま、ヴァレンの視線が次の家臣へと移っていく気配がした。リアンは膝をついたまま、肺の底に溜まった重い息を、音を立てずに吐き出した。
昼下がりの中庭で、リアンは木陰のベンチに腰を下ろしていた。
膝の上に広げた刺繍の枠が、午後の柔らかな光を受けて鈍く輝いている。離宮での片付け作業は、思っていた以上にリアンの心身を削っていた。兄の遺品の一つひとつに触れるたびに胸の奥が軋み、長時間その匂いに身を浸し続けると、頭の芯が痺れたようになって動けなくなる。
時々、こうして外の空気に当たり、刺繍に手を動かしていないと、心が壊れてしまいそうだった。
針を進めるたび、糸が布に吸い込まれていく繊細な感触が、指先からじんわりと安らぎを運んでくる。風は穏やかで、遠くの薔薇園から流れてくる甘い香り、足元の芝の青臭さ、池の方から運ばれてくる水苔の匂いが、混ざり合って鼻先をくすぐっていた。
ふいに、風向きが変わった。
花や草の香りに混じって、別種の匂いが微かに鼻先を掠めた。重厚で落ち着いた香木の残り香――宮廷の冷たい廊下で、ヴァレンの周辺にだけ漂う、独特の匂いだった。一瞬遅れて、その背後から複数の家臣たちの匂いも続いてくる。
リアンは顔を上げた。
霞んだ視界の遠く、中庭を取り囲む渡り廊下の向こう側に、無数の人影の塊がぼんやりと揺れている。輪郭は判別できないが、匂いの濃さと人数の気配からして、間違いなくヴァレンと家臣団だろう。離れた距離だ。気づかれることはない、と判断して、リアンは再び視線を刺繍へと落とした。
針を布に通し、糸を引き、また通す。単調な作業に意識を沈めていくほど、頭の中の靄が少しずつ薄れていく。葉擦れの音と、遠くで鳥が鳴く声が、心地よく耳を撫でた。
風が、強く吹いた。
さきほどよりもずっと濃い香木の匂いが、不意に鼻孔に押し寄せてきた。リアンは弾かれたように顔を上げる。霞んだ視界のすぐ目の前に、巨大な影が立っていた。
「あ――」
咄嗟に椅子からずり落ちるようにして膝をつき、地面に額がつくほど深く頭を垂れた。針と布が、慌ただしく膝の上から滑り落ちる。
「陛下が、お近くにいらっしゃるとは気づかず――申し訳ございません」
声が震えた。匂いがこれほど近くに迫るまで気づけなかったのは、刺繍に意識を集中させすぎていたせいだ。視界の弱さを、嗅覚で補ってきたつもりだった。それを、よりにもよってヴァレンの前で取り逃した。
「何をしている」
頭上から降ってきたヴァレンの声には、抑揚というものがなかった。
「刺繍を――」
「離宮の片付けをしろと言ったはずだ」
リアンの言葉に被せるように、低い声が落ちた。
肩がぴくりと跳ねた。リアンはさらに深く頭を下げ、額を石畳のすぐ近くまで近づけた。
「申し訳ございません」
声を絞り出すのが精一杯だった。本当は、息抜きをしないと作業を続けられないのだと、説明したかった。けれど、家臣の前でそんな弱音を口にする許しなど、自分にはなかった。
ヴァレンの背後から、別の声が割り込んできた。
「お前がトロトロやっていると、陛下の次の妃が決まっても嫁いでこれないだろうが」
憎しみがこもった、嘲るような響きだった。
リアンは顔を上げる勇気はなかったが、声の主の輪郭は、肉付きと姿勢の特徴で判別がついた。宰相モルセル。視界の利かない自分にも、声と気配だけで把握できるほど、宰相の存在感は宮廷で際立っていた。
謁見の間で漏れ聞こえた囁きが、リアンの脳裏に蘇る。「我が家の三女が」「次の妃候補を」――家臣たちは、自分の娘や縁者を皇帝の伴侶へと送り込もうと、既に水面下で動き始めているのだ。
「申し訳ございません」
リアンは、宰相の方角へも、もう一度頭を下げた。
その瞬間だった。腕を、強く掴まれた。大きく、厚みのある手だった。
「来い」
ヴァレンの短い命令が、頭上から降ってくる。リアンが反応する間もなく、引き起こされて立たされた。続いて、ヴァレンが背後の家臣たちへ向けて声を放つ。
「お前たちはそこで待機していろ」
「し、しかし陛下――」
「動くな、と言った」
最後の一言は、抗弁を一切許さない冷たさを孕んでいた。家臣たちが息を呑んで沈黙する気配を背に、ヴァレンはリアンの腕を引いて中庭の奥へと歩き始めた。視界の弱いリアンは、ただ引かれるままに足を動かすしかない。連れていかれた先は、生垣に囲まれた小さな東屋の物陰だった。家臣たちの視線からは完全に遮られている。
壁に背を押しつけられた、と思った瞬間、唇が荒々しく塞がれた。
「ん――ッ」
舌が深く差し込まれ、息継ぎの隙さえ与えられない。ヴァレンの手がリアンの後頭部を掴み、逃げ場を完全に奪っている。香木の匂いと、わずかに混じる汗の匂いが、鼻先を強く支配した。
ようやく唇が離されたとき、リアンの息は完全に上がっていた。
「……あの刺繍は、誰のために作っている」
ヴァレンの声は、低く掠れていた。
「誰の、ためでもありません」
リアンは必死に声を整えた。
「ただの息抜きでございます」
「嘘を言うな」
「本当でございます。すぐに離宮へ戻り、作業を再開いたしますので――」
「構わん」
ヴァレンが言葉を断ち切った。
「それより、少し付き合え」
言うが早いか、ヴァレンはリアンの腰を引き寄せ、自分の下半身をぐっと押し当てた。布越しにも、そこが熱く硬く膨れ上がっているのが、リアンの腰骨に伝わってくる。
「鎮めろ」
ヴァレンの命令は、いつもよりずっと余裕がなかった。
リアンは唾を飲み込み、震える指でヴァレンのズボンの前合わせに手をかけた。膝を折ろうとしたところで、強い力で腰を引き戻された。
「違う」
ヴァレンの大きな手が、リアンの臀部を布越しに掴んだ。
「口ではなく、こっちだ」
リアンの背筋が、震えた。
「ズボンと下着を下ろして、こっちに尻を向けろ」
耳元で、低く命じられる。
「声は出すな。家臣たちに知られたくはないだろう」
リアンは呼吸を一度だけ整え、震える指で自分のズボンの紐を解いた。下着と一緒に布を膝のあたりまで引き下ろし、壁に手をつき、言われた通りにヴァレンへ尻を突き出す。冷たい外気が露わになった肌を撫でていき、羞恥で全身が燃えるように熱くなった。
次の瞬間、何の前置きもなく、熱く硬い質量が奥まで押し込まれた。
「ッ――」
悲鳴になりかけた声を、リアンは唇を噛んで必死に飲み込んだ。
夜の寝所で散々抱かれ、奥はすでに馴染んでいる。けれども、こんな昼日中の屋外で、しかも前置きもなく一気に貫かれる衝撃は、夜のそれとは全く別種の刺激だった。ヴァレンは最初から容赦がなかった。リアンの細い腰を両手でしっかりと掴み、深く、激しく、奥へ奥へと突き上げてくる。
葉擦れの音が、近くの植え込みから聞こえる。
遠くからは、家臣たちが沈黙して待機している気配が、ヴェールのように届いていた。少しでも声を漏らせば、すべてが知られてしまう。リアンは壁に額を押しつけ、奥歯を食いしばって、込み上げる嬌声を喉の奥に押し込んだ。
ヴァレンの腰の動きが、ますます切迫してきた。
ヴァレンの片手が背後から伸び、リアンの前で熱を持って震えていたものを包み込んだ。確かめるように一度撫で上げられ、それだけでリアンは限界を迎えた。声にならない悲鳴と共に、全身が痙攣し、ヴァレンを締めつける。ヴァレンも同時に動きを止め、最奥で熱い奔流を放った。
ヴァレンの手の中に、リアンが放ったものが収められていた。
しばらくの沈黙の後、ヴァレンは静かに身体を離した。リアンが息を整えていると、視界の端で、ヴァレンが自分の掌を舐めている輪郭が見えた。
「陛下、それは汚いので――」
リアンは慌ててコートのポケットからハンカチを取り出し、ヴァレンの手を掴んで丁寧に拭った。汚れていく真っ白な布地に、申し訳なさが込み上げる。すべて拭き取ってから、ハンカチを畳もうとした手が、横から奪われた。
「これは俺がもらう」
ヴァレンが、汚れたハンカチを自分の手の中に収めていた。
「これも、自分でやったのか?」
ヴァレンの指が、ハンカチの端に施された繊細な刺繍をなぞる。
「……はい」
リアンは小さく頷いた。
「汚れて、しまっていますので――」
「お前の匂いがする」
ヴァレンは短く答え、汚れたハンカチをそのまま自分のズボンのポケットへと収めてしまった。
リアンの頬が、かっと熱を持った。
「いいか」
ヴァレンが、リアンの顎を指で持ち上げた。
「今後の刺繍は、全て俺のためにやれ」
「……承知、いたしました」
答える声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ヴァレンは満足そうに頷くと、リアンの乱れた服を自分の手で整え始めた。下着を引き上げ、ズボンの紐を結び直す手つきは、命令口調の声色からは想像できないほど丁寧だった。
「今日はもう離宮に行かなくていい」
ヴァレンが、リアンの髪を一筋、指で梳きながら言った。
「部屋でゆっくり刺繍をしていろ」
「……ごめんなさい」
無意識のうちに、謝罪が口をついて出ていた。リアンは咄嗟に俯いた。
「なぜ謝る」
ヴァレンの声には、咎める響きはなかった。リアンは、戸惑いながらも、口を開いた。
「僕――その、目があまり、よくなくて――」
「なに?」
「室内だと暗くて、手元がよく見えないんです。だから、日中の晴れた外でないと、刺繍の細かい目を追えなくて」
ヴァレンは、しばらく無言だった。
リアンを見つめる視線の重さだけが、肌に伝わってくる。霞んだ視界の中で、ヴァレンの琥珀色の瞳が、何か思案するように細められたのが、辛うじて捉えられた。
「――そうか」
ヴァレンが、ようやく口を開いた。
「ならあの場所で続けるといい。だが二時間後、俺が通る前に、場所を移動しておけ。いいな?」
「……はい」
「いい子だ」
ヴァレンの大きな手が、リアンの頬を包んだ。降りてきた口づけは、先ほどの荒々しさとはまるで別物の、甘く優しいものだった。唇が触れ、離れていく感触に、リアンの胸が小さく跳ねた。
「行ってくる」
ヴァレンはそう言い残し、東屋の物陰から出ていった。
リアンは壁にもたれかかったまま、その輪郭が遠ざかっていくのをぼんやりと見送った。家臣たちのもとへ戻ったヴァレンが、何事もなかったかのように議場へ向かって歩き出す気配が、霞んだ視界の向こうに伝わってくる。
しばらくして、リアンはようやく自分の身なりを確かめ、ふらつく足取りで物陰を出た。
(もしかして――)
時間後に通ると教えてくれたのは、家臣たちに見つからないように教えてくれたのだろうか。
番契約を交わしてから、三ヶ月という月日が流れた。 季節は盛夏の猛々しさを脱ぎ捨て、初秋の柔らかな光が宮殿の庭園を金砂のように染め上げている。リアンは、ヴァレンが「一番のお気に入りだ」と教えてくれた、白い大理石の長椅子が設えられた一角にいた。 午後の穏やかな空気の中、リアンの指先は規則正しく針を動かしている。色とりどりの刺繍糸が、真っ白な布の上に鮮やかな花々を咲かせていく。 あの日、番契約を交わしてからのヴァレンの変貌ぶりは、宮廷中の誰もが目を見張るものだった。 かつての彼は、常に飢えた獣のような危うさを孕んでいた。リアンを片時も離したくないと渇望し、その細い身体が自分以外のものに触れることさえ許さないといった、狂おしいほどの嫉妬に身を焦がしていた男。けれど、今の彼にその刺々しさはない。 代わりにその全身に宿っているのは、深い満足感と、永遠の絆を手に入れた者だけが持つ穏やかな威厳だ。荒れていた気性は嘘のように凪ぎ、執務に向かう背中には確かな落ち着きが備わっている。新しい皇帝の真の姿を、重臣たちもようやく安堵と共に受け入れ始めていた。 リアンの数歩後ろには、一人の騎士が音もなく控えている。 漆黒の髪を後ろで一つに束ねた、オメガの騎士――アシェル。 ヴァレンの従弟であり、宰相ルシアンが「皇妃の守護にこれ以上の適任はいない」と太鼓判を押して選び抜いた人物だ。年齢はリアンとさほど変わらないが、その双眸に宿る鋭さと、鍛え抜かれた身体が纏う凛とした空気は、かつての護衛ルシアンとはまた異なる、静かなる威圧感を放っている。 この三ヶ月、アシェルは影のようにリアンに寄り添ってきた。寡黙で職務に忠実な点はルシアン譲りだが、同じ第二性を持つ者同士、リアンは折に触れて彼に言葉をかけ、その心の距離を縮めてきた。「リアン様」 アシェルが、低く抑制された、それでいて柔らかな声で告げた。「日が傾いてまいりました。風に秋の冷ややかさが混じり始めております。少し肌寒くなってきましたので、薄手の上着をお持ちしましょうか」「ありがとう、アシェル。でも、大丈夫だよ」 リアンは針を動かす手を止めず、ふわりと微笑みを返した。「この一房を刺し終えたら、終わりにするから」 アシェルは深く、恭しく頷くと、再び一歩下がって静止した。 リアンは再び手元の布に視線を落とした。だが、針を刺
正妃の宣言から数週間が経った夜のことだった。 リアンの身体に、馴染み深い熱がゆっくりと這い上がってきていた。指先からじわりと広がるそれは、肌の奥深くを内側からじりじりと焼くような熱。下腹部の中心が疼き、肺の空気が足りなくなるように呼吸が浅くなっていく。(――ヒートだ) 寝台の上で、リアンの本能が抗いようもなく動き始めていた。乱れたシーツの位置を整え、枕を寄せ、その中にヴァレンの脱ぎ捨てた上着を一枚、丁寧に紛れ込ませる。普段なら使わない厚手の毛布まで運び込み、寝台の中央に小ぶりの巣(ネスト)を作っていく。指が勝手に動き、布の柔らかな手触りを確かめながら、最も心地よい配置を本能のままに探っていた。 オメガが、番のために巣を作る。 理性の片隅では、その獣じみた本能を恥ずかしく思う気持ちもあった。けれども、身体は止まらなかった。ヴァレンの残り香が深く染み込んだ上着を巣の中央に置き、その周囲を城壁のように枕で囲む。完成した巣を見つめて、リアンは熱に浮かされた瞳で満足げに息を吐いた。 その時、扉が静かに開いた。 リアンの背中越しに、ヴァレンの重厚な気配が近づいてくる。剣油の微かな匂いと、清潔な布地の香り、そしてヴァレンの肌の奥から漂う、あの懐かしい体温の匂い。リアンの身体が、瞬時に沸騰した。下腹部の奥で、これまで以上に強烈な熱が燃え上がる。「リアン」 ヴァレンが、低く名を呼んだ。 リアンが振り向こうとするより早く、ヴァレンの大きな身体がすでに背後にあった。逞しい腕がリアンの腰に回され、寝台の中央へと優しく引き寄せられる。ヴァレンの琥珀色の瞳が、リアンの作った不格好で愛らしい巣をゆっくりと見下ろしているのが、その沈黙から伝わってきた。「いい子だ」 ヴァレンが、リアンの白金の髪に唇を寄せて囁いた。「上手にできているじゃないか」 リアンの胸の奥が、深く、深く温かくなった。 褒められた。ただそれだけで、オメガの本能が歓喜に震える。リアンはヴァレンの厚い胸板に背中を預け、思わず甘く、切ない吐息を漏らした。「陛下……」「ヒートか」 ヴァレンが、リアンの首筋に熱い唇を押し当てながら、地響きのような低音で尋ねた。「はい……っ」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の前をゆっくりと、けれど拒絶を許さない確かな力で開いていっ
大広間に、再び家臣たちが集められた。 ルシアンの叙爵から、十日ほどが経った日のことだった。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの装いは、これまでのどの儀式よりも華やかで、空気は凛とした緊張感に包まれていた。 壇上には、ヴァレンが堂々と立っていた。軍服の肩に飾られた金色の飾緒が、シャンデリアの光を反射して眩い。 その隣には、リアンが少し離れて、控えめに佇んでいた。今日のリアンは、冬の陽だまりを思わせる白を基調とした優美な衣装を纏っている。白金の髪は丁寧に結い上げられ、襟元の細い首から、滑らかな鎖骨の線が繊細に浮かび上がっていた。 ヴァレンが、静まり返った家臣たちを見下ろした。「本日、正式に皇妃を定める」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に響いた。 家臣たちの間に、さざ波のような僅かなざわめきが走った。けれども、主君の放つ圧倒的な威圧感に、誰もがすぐに静まり返り、深く頭を垂れて続く言葉を待った。「我が皇妃となる者は——」 ヴァレンが、ゆっくりと隣のリアンの方へと振り向いた。その琥珀色の瞳が、慈しむようにリアンを捉える。「リアン・エルスヴェイル」 壇上のリアンの肩が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの背中にそっと添えられた。大きく、温かい手のひら。その熱を感じたリアンは、あまりの気恥ずかしさと畏れに、思わず一歩、ヴァレンの後ろへと隠れるように下がろうとした。けれども、ヴァレンの手は、それを許さず、逃げ場を失わせるように、リアンを前へと押し出す。優しく、しかし揺るぎない力強さで彼を支えていた。「隠れるな」 ヴァレンが、リアンにだけ聞こえる低い声で囁いた。 その声には、逃避を咎める響きはなかった。ただ、愛する者を、家臣たちの前に堂々と立たせたい——そんな静かな誓いが宿っていた。リアンは、震える唇をぎゅっと結び、深く息を吸った。それから、ヴァレンの隣に並んで、家臣たちの視線を真っ直ぐに受け止めた。 大広間の家臣たちが、一斉に頭を垂れた。「皇妃陛下に、忠誠を」 誰かが、静かに声を上げた。続いて、別の声が、また別の声が、地鳴りのような唱和を始めた。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの誰もが、深く頭を垂れている。かつて彼を「慰みもの」と侮っていた者も、「淫乱オメガ」と陰口を叩いていた者も——皆が、今、リアンを正妃として、新たな皇国の母として
モルセルの最期は、公的には「獄中での病死」として処理された。 長年宰相の座にあった男に対する、せめてもの体面だった。妻殺しと正妃候補への毒害、そして強姦未遂――。そのおぞましい罪状は重臣たちの間でのみ正確に共有され、外向けには「病による静かな最期」として記録される。家臣たちの間にも、この不自然な処理を疑う者はいなかった。皇帝の腕の中で意識を失いかけたあの番候補の、痛々しい姿を誰もが目にしていたのだ。 モルセルの娘も、宮廷から速やかに退けられた。 遠い属州の貴族家へと嫁がされる形での、実質的な国外追放。父の罪に直接関わってはいなかったとはいえ、その身体には「毒を運んだ手」としての記録が刻まれてしまっている。リアンは、娘が宮廷を発つ日の朝、窓辺から遠ざかる馬車を静かに見送るだけにとどめた。 すべての後処理が、冬の冷たい空気が澄んでいくように淡々と進んでいった。 その間も、リアンの身体は静かに回復を続けていた。解毒剤の効果が全身の隅々まで行き渡り、陶器のように白かった頬には、少しずつ桜色の血色が戻ってくる。ヴァレンは公務の合間を縫っては寝室に戻り、リアンの様子を確かめ続けていた。皇帝としての威厳を捨てた、一人の男としての献身――。その姿を、宮廷の誰もがもう、当たり前の風景として受け入れていた。 そして、すべての後処理が終わった、ある雲一つない晴れた日のことだった。 大広間に、再び家臣たちが集められていた。 あの断罪の日と同じ場所。けれども、そこに流れる空気の質は完全に違っていた。あの日、宰相の処刑によって浄化された大広間には、新しい時代の始まりを予感させる、清々しい光が満ちていた。 壇上に、ヴァレンとリアンが並んで立っている。 リアンは、深い藍色の正装を纏っていた。白金の髪は、朝の支度で丁寧に整えられている。「ルシアンを、前へ」 ヴァレンが、重厚な低音で命じた。 大広間の中央、深紅の絨毯の上に、騎士装束のルシアンが進み出てきた。一段高い壇上の前で、片膝をつき、深く頭を垂れる。漆黒の髪が、午前の陽光を受けて静かに揺れた。「ルシアン」 ヴァレンが、ゆっくりと言葉を紡いだ。「お前の長年の忠義、そして、宰相モルセルの罪を暴き、皇帝の番候補の命を守った功績――これに報いるため、本日付で、伯爵位を授ける」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に
しばらくの静寂の後、ヴァレンがふと口を開いた。「——で?」 その声は不意に質を変え、低く地を這うような響きを帯びた。「詳しく聞かせてもらおうか?」 リアンの背筋が、僅かに強張った。「牢にいたモルセルと、お前が何をしたか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたことのない種類の、抑制された嫉妬が昏く滲んでいた。 次の瞬間、リアンの身体はヴァレンの大きな手によって寝台に押し倒されていた。逞しい身体がリアンの上に跨り、逃げ場を塞ぐ。至近距離から見下ろす琥珀色の瞳が、獲物を射抜くような鋭さを秘めていた。「陛下……」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の襟元をゆっくりと割った。鎖骨の上、そして白皙の首筋——そこに残る、宰相が刻みつけた忌まわしい赤い痕が、午後の光の下に晒される。ヴァレンは、その痕を一つずつなぞるように、冷徹な眼差しで確かめていった。 不意にヴァレンの指が、その痕の一つを強く圧した。「痛っ……」 リアンの口から、思わず小さな悲鳴が漏れた。「ここにある痕は、俺がつけたものじゃない」 ヴァレンの声が、さらに低く落ちた。「その理由を、聞きたい」「それは……」 リアンの声が、消え入りそうに細くなる。「リアンは、『俺だけ』だと、誓ったはずだ」 そこには、嫉妬と、そして隠しきれない傷が滲んでいた。「俺以外の痕が、お前の身体にあるのは、おかしいだろう」 リアンは、たまらず目を伏せた。 すべてを、告げなければならない。そう覚悟を決め、リアンは震える唇を開いた。「兄様にしたことを、聞き出したくて……香に、媚薬と睡眠効果のあるものを、混ぜて使いました」 リアンは、できる限り淡々と、事実だけを語り続けた。「口移しで、毒入りのワインを飲ませて、意識が朦朧としている彼に、少しだけ……身体を許しました。でも、最後まではしてません。睡眠作用で寝たのを確認してから、牢を出ました」「ほう……」 ヴァレンの声が、不気味なほど穏やかになった。「睡眠効果のある香を使うのは、よしとしよう。だが、なぜそこに、媚薬効果のあるものが必要だったんだ?」「そういう……気分にならせて、ほしいなら、ちゃんと話して、と言うためです」「あげるつもりだったと?」「いいえ」 リアンは、首を強く振った。「話を引き延ばしながら、彼が眠
深い闇の底から、リアンの意識はゆっくりと浮上していった。 最初に感じたのは、規則正しい鼓動の音だった。耳元のすぐ近くで、誰かの心臓が、確かなリズムを刻み続けている。次に、温かな体温。逞しい腕が、自分の華奢な身体を包み込んでいる感触。その安心感に、リアンは一瞬、自分がどこにいるのかを忘れそうになった。(――死んで、ない?) 重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。 霞んだ視界の中に、見慣れた天蓋が広がっていた。寝室——ヴァレンの寝所だ。窓から差し込む光の角度から、もう昼を過ぎていることがわかった。リアンの身体は、淡い寝衣に着替えさせられ、絹のシーツに沈み込んでいた。 すぐ隣で、ヴァレンが寝台の縁に腰掛けて、リアンの顔をじっと見つめていた。 その輪郭は、いつもの皇帝の威厳を僅かに失っていた。漆黒の上着の襟元は乱れ、髪も整えられていない。自分の眠っていた間、ヴァレンがずっとそばで見守り続けてくれたようだ。「……陛下」 リアンは、掠れた声で呼んだ。 ヴァレンの琥珀色の瞳が、深い安堵に揺れた。けれども、その奥には、抑えきれない怒りがまだ燻っていた。大きな手がリアンの頬を包み込み、親指でゆっくりと撫でる。その指先からは、僅かな震えが伝わってきた。「目を覚ましたか」 ヴァレンの声は、低く、震えていた。「よかった……もう、駄目かと思って――」 言葉が、最後まで続かなかった。 ヴァレンの肩が、僅かに震えている。リアンは、その震えに気づいて、胸の奥が痛んだ。死のうとしていた事実が、この男にどれほどの恐怖を与えたか——今、その全貌を知った気がした。最愛のセレンを失った男に、再び同じ絶望を与えようとしていたのだ。 残った側の気持ちを全く考えていなかったと反省する。(罪を犯したから、消えるのが一番だと思ったけど――違うのかもしれない)「陛下、ごめんなさい」 リアンは、震える指でヴァレンの手を握った。「ばか者が」 ヴァレンの声に、抑制された怒りが滲んだ。「罪を、あんな形で清算しようとするとは……許さないぞ」 リアンは、目を伏せた。「殺した罪は、僕が背負わなければなりません。だから——」「殺した罪? なんのことだ」 ヴァレンが、リアンの言葉を遮った。 リアンは、目を見開いた。「え……? だってモルセルに毒を」「モルセルは妻殺しの罪で、処刑した。
離宮の片付け作業の合間、僅かに陽の差し込む穏やかな昼下がりだった。 リアンは南向きのテラスで、指先に春の名残のような日差しを感じながら、静かに針を動かしていた。石造りの床は午前の光をたっぷりと吸い込んでおり、素足に履いた柔らかな室内靴越しにも、じんわりとした温もりが伝わってくる。頬を撫でる風は心地よく乾いていて、咲き誇る花の香りと瑞々しい芝の匂いとを、ほどよく入り混ぜた淡い甘さで鼻先を満たしていた。 糸を引き、針を通し、一針ごとに細やかな模様を白布に編み込んでいく。 この日、国王ヴァレンはリアンの部屋へ、午後の茶を共にすると知らせを寄越していた。中庭で刺繍をしているところを見つかって
夜の帳が下りるころ、静寂の支配する廊下を渡って、寝所への呼び出しが届いた。 侍女たちの手で湯浴みを済ませたあと、リアンは鏡台の前に座り、重厚な装飾の施された兄の香水の小瓶を手に取った。 最初の夜、侍女が惜しみなく振りかけたものとは違う、ごく控えめな量だ。栓を慎重に抜き、指先に一滴だけ琥珀色の雫を落とすと、脈打つ首筋の片側に祈るような心地で薄く塗り広げた。鼻の利く自分にとって、強すぎる香りは目に見えない刃と同じだった。 鏡の中に映る自分は、どこか知らない他人のように青白い。リアンは震える手で小瓶に栓をした。 ふと、昼間の出来事が脳裏を掠めた。汚れたハンカチを「お前の匂いがする」と囁い
ヴァレンの腕がリアンの身体を抱き上げた。 視界の利かない中で、リアンの細身はまるで糸の切れた人形のように軽々と持ち上げられた。革と汗の混じった温もりが頬に触れ、耳のすぐそばでは重い心音が脈打っている。腕一本でリアンを抱え上げてなお、ヴァレンの歩みに乱れは見えなかった。数歩も進まないうちに、背中に柔らかな感触が広がり、厚手のシーツと羽毛の寝具が重みを受けて沈み込む。天蓋付きの広い寝台に、そっと横たえられたのだとリアンは悟った。 頭上にぼんやりと広がる濃い影は、きっと天蓋の布なのだろう。暗闇と濃淡だけの視界の中では、重厚な垂れ布の輪郭さえ滲んで曖昧だった。「……セレン」 ヴァレンがもう
廊下の端から端まで、人の気配が並んでいた。 リアンにはそれが、ぼんやりとした輪郭の塊としてしか見えなかった。等間隔に壁へ固定された燭台の灯りは、通常の視力を持つ者にとっては充分な明かりなのだろうが、リアンの目にはほとんど意味をなさない。夕刻を過ぎたころから視界は霞み始め、夜が深まるにつれて世界はいっそう曖昧になっていく。輪郭が滲み、色が溶け、眼前に広がるのはただ濃淡だけの、頼りない世界だった。 廊下に居並ぶ家臣たちの視線が、物理的な重さを持って肌に刺さる。 見えているわけではない。ただ、肌を焼くような感覚でわかるのだった。針の先をそっと押し当てるような痛みが首筋のあたりに集まり、リア







