Masuk皇帝の居城にある一室が、リアンに宛がわれたのは、最初の夜から三日後のことだった。
家臣団からの命は、拒絶を許さぬほどに簡潔だった。陛下の慰みものとして、城に上がること。そして、護衛として騎士を一名帯同することを許可する、というものだ。
「――承知いたしました」
リアンは静かに答え、傍らに控えるルシアンに視線を向けた。ルシアンは何も言わずにただ一度、深く頷いた。その瞳に宿る光だけで、言葉にせずともすべてが伝わった。
与えられた部屋は、エルスヴェイルの屋敷の客間よりも広く、置かれた調度品も一級品ばかりだった。窓からは広大な城の庭園が見渡せ、朝になれば木々の葉が陽光を反射して、宝石のように揺れた。
視力の弱いリアンには、その細部まではぼんやりとしか見えなかったが、葉の擦れる繊細な音と、風が運んでくる土や花の匂いが、庭の息吹を鮮明に伝えてくれた。
ルシアンには、廊下を挟んだ向かいの小部屋が用意された。物理的な距離は近くとも、夜の帳が下りれば、その扉は決定的な境界となった。
夜が来るたびに、リアンは皇帝の寝所へと召し出された。
ある夜のこと。ヴァレンが激しく腰を打ちつけるたびに、リアンの華奢な身体は翻弄されるように大きく揺れた。奥の奥まで届く角度で、容赦なく繰り返し突き立てられ、喉から漏れる声を堪える余裕はとうになかった。
「あ……っ、ん、ああ……っ」
ヴァレンの大きな手がリアンの腰をがっしりと掴み、逃がさぬよう引き寄せながら、さらに深く、熱い質量を押し込んでくる。全身が焼けるように熱く、肺は酸素を求めて喘いだ。
不意に、身体の奥底で何かが弾けた。
リアンの全身が強烈に震え、内側の収縮が波紋のように続いた。ヴァレンも動きを止め、最奥に押しつけたまま、低く短い息をついた。ドクドクと脈打つ熱いものが深くに注がれていく衝撃に、リアンはシーツに顔を埋め、ただ耐えるしかなかった。
やがてヴァレンがリアンの身体から離れ、隣に横たわった。
上等なシーツが重さを受けて沈み込み、彼特有の圧倒的な体温が肌を刺す。リアンはうつ伏せのまま、重い首を横に向けた。全身を脂汗が覆い、乱れた呼吸がなかなか整わない。太ももの内側は白濁した蜜に濡れ、月明かりを反射して熱く光っていた。
天蓋の濃い影の中で、ヴァレンの琥珀色の瞳が、冷徹な熱を帯びてリアンを射抜いていた。
「お前はセレンの弟だったな」
ヴァレンが、地を這うような低い声で言った。
その名が出た瞬間、胸の奥が鋭く揺れた。リアンは必死に息を整え、か細い声で答えた。
「――……はい」
「セレンはよく、この城の敷地にある離宮で過ごしていた」
ヴァレンの声は静かだった。感情を削ぎ落とした、ただ冷酷な事実を告げるような響き。
「あそこには、あいつの私物がたくさん残っている。……俺は、中に入れない。お前が整理してくれ」
リアンは少しの間、その言葉を重い石を受け取るように胸の中で反芻した。
「兄様の遺品を、僕が勝手に……?」
「俺は、辛くて入れないんだ」
ヴァレンの声が、わずかに低く歪んだ。それは命令というよりも、縋るような響きを孕んでいた。
「お前に、頼みたい」
リアンは目を伏せた。拒む言葉は浮かばなかった。断りたくなかった。兄の残り香に触れることができるのなら、それは自分に与えられた唯一の救いのように思えたのだ。
「……わかりました」
答えた瞬間だった。ヴァレンが唐突に身体を起こした。
シーツを乱暴に払いのけ、うつ伏せだったリアンを再び跨ぎ込む。大きな両手がリアンの腰を乱暴に掴み、高く引き上げた。まだ濡れたままの孔に、再び熱く滾った欲望が押し当てられ、敏感なままの粘膜を容赦なく蹂躙した。
「あああっん! また……っ、あああぁっ!」
「まだ今夜は二回しかしていないだろ。足りないな」
「そんな――っ」
言い終わる前に、獣のような激しさで腰を振られた。
もはや声は止まらなかった。ヴァレンの手が腰に食い込み、深く、速く、繰り返し最奥を突き上げる。リアンの切ない嬌声が暗い室内に溶けていき、先ほどの離宮の話も、整理の約束も、すべては熱い快楽の渦の彼方へと押し流されていった。
離宮を訪れたのは、それから数日後の、陽光の穏やかな昼下がりだった。
城の敷地の最も奥まった、木々に守られるような場所に離宮はひっそりと佇んでいた。石畳の道を歩むほどに宮廷の喧騒は遠のき、風の音と葉の擦れる音だけが支配する静謐な世界へと変わっていく。リアンは歩きながら、鼻孔をくすぐる空気に意識を向けた。草と土、そして、かすかな花の香り。
そのどこかに、懐かしい匂いが混じっていた。
(……兄様の、匂いだ)
足が、一瞬だけ止まった。
広がる緑の匂いの奥に、ほんのわずか、セレンの残り香が溶け込んでいた。それは香水のように華やかなものではなく、ただそこに長く留まっていたことで染みついた、確かな生活の気配。
「参りましょう」
隣でルシアンが静かに促し、先に歩き始めた。リアンは一拍置いてから、彼の背を追うように後に続いた。
建物の中に入ると、その匂いはいっそう濃密になった。
廊下を進み、案内された部屋の扉を開けた瞬間、リアンは息を呑んだ。窓からは柔らかな光が降り注ぎ、空気中に舞う塵さえも光の粒のように見える。書き物机の上には小さな花瓶が置かれ、花はすでに茶色く枯れ果てていたが、かつて誰かが慈しみを持って飾った形跡を留めていた。
飾り棚には読みかけのような本が数冊と、古びた木箱。椅子の背には、脱ぎ捨てられたままの薄い上着が掛けられていた。
リアンは吸い寄せられるように歩み寄り、その上着に指先を這わせた。
淡い青灰色の、柔らかな布地。指先に伝わる質感と、鼻を突くかすかな匂いが、持ち主を証明していた。リアンの視界では細かな刺繍の模様までは判別できなかったが、この上着を纏い、穏やかに微笑んでいたセレンの姿が、鮮明に脳裏に蘇った。
鼻の奥が、つんと熱くなる。
窓辺へ歩むと、そこからは美しく整えられた庭園が一望できた。木々の間に続く石畳の小道、その先にある小さな東屋。
兄も、ここから同じ景色を眺めていたのだろうか。あの明るい笑顔で椅子に座り、陽だまりの中で本を読んでいたのだろうか。
不意に、一筋の涙が頬を伝い落ちた。
気づいたときにはもう、堰を切ったように止められなかった。次から次へと涙が溢れ出し、視界を滲ませる。リアンは窓枠に縋るように手を置き、ぼやけた庭を見続けた。泣くつもりなどなかった。泣くために来たわけではない。けれど、ここに来て、彼の不在という現実を突きつけられてしまえば、もう堪えることなどできなかった。
「兄様……」
嗚咽混じりの声が、細く漏れる。
「なんで……どうして、僕を置いて……っ」
言葉が続かない。喉が締めつけられ、視界は光の中に溶けていく。庭の輪郭はいっそう曖昧になり、色彩だけが混ざり合った。
そのとき、震える肩に温かい手が置かれた。
ルシアンだった。騎士の大きな手が、リアンの細い肩をゆっくりと、包み込むように抱き寄せた。リアンは抗うこともできず、ルシアンの胸に額を押しつけた。今日は甲冑ではなく、柔らかな平服だった。その硬い胸板に顔を埋め、リアンは声を殺して泣き続けた。
ルシアンは、何も言わなかった。
ただ、リアンの背に大きな手を回し、静かに寄り添うようにそこにいた。取り繕った慰めも、無責任な励ましも口にしない。ただ支えるという一点において、彼の誠実さが伝わってきた。リアンはその無言の重厚さに、少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
どれほどの時間が過ぎたのか、時の感覚は曖昧だった。
涙がようやく落ち着きを見せたころ、ルシアンが静かに口を開いた。
「リアン様は必ず、俺がお守りしますから」
揺るぎない、鉄のような重みを持った声だった。それは祈りではなく、ひとつの決定事項としての宣言だった。誰に聞かせるためでもなく、ただリアンひとりに捧げられた誓い。
リアンはルシアンの胸から顔を離し、濡れた目元を袖で拭った。
「……ありがとう」
ルシアンは一度だけ、深く首を縦に振った。それ以上、二人の間に言葉は必要なかった。
しばらくして、彼は事務的な落ち着きを取り戻して言った。
「離宮に入れたのですから、少しずつ片づけを始めましょうか」
リアンは深く息を吸い込み、窓際を離れようとした。
その瞬間だった。鼻先を、異質な何かがかすめた。
窓の外から、ふわりと漂ってきた微かな気配。草と土の匂いに混じって、確かにそこに「他者」がいる匂いがした。それは、この清潔な離宮には不釣り合いな、重厚で落ち着いた香の残り香。宮廷の冷たい廊下ですれ違うときに嗅ぐ、あの独特の香り。
リアンは弾かれたように窓の外へ目を向けた。木々の影が風に揺れている。濃い緑の隙間に、一瞬だけ人の影らしきものがゆらめいた気がしたが、視界の端で溶けるようにして消えた。
「どうかなさいましたか、リアン様」
ルシアンの鋭い声が飛ぶ。
リアンは窓から視線を外し、部屋の中央へと向き直った。
「……なんでもない。ただの、気のせいだと思う」
そう答えて棚の前に立ち、木箱の蓋に震える手をかけた。ルシアンはそれ以上問い詰めず、黙ってリアンの動きをサポートした。
二人は静かに、黙々と作業を続けた。
窓から差し込む光の帯は、時間の経過とともにゆっくりと角度を変えていった。部屋の空気の中には、今もセレンの残り香が薄く漂い続けている。
リアンはその匂いが消えてしまう前に、できるだけ多くの遺品に触れておきたいと願いながら、痛む胸を抱えて手を動かし続けた。
番契約を交わしてから、三ヶ月という月日が流れた。 季節は盛夏の猛々しさを脱ぎ捨て、初秋の柔らかな光が宮殿の庭園を金砂のように染め上げている。リアンは、ヴァレンが「一番のお気に入りだ」と教えてくれた、白い大理石の長椅子が設えられた一角にいた。 午後の穏やかな空気の中、リアンの指先は規則正しく針を動かしている。色とりどりの刺繍糸が、真っ白な布の上に鮮やかな花々を咲かせていく。 あの日、番契約を交わしてからのヴァレンの変貌ぶりは、宮廷中の誰もが目を見張るものだった。 かつての彼は、常に飢えた獣のような危うさを孕んでいた。リアンを片時も離したくないと渇望し、その細い身体が自分以外のものに触れることさえ許さないといった、狂おしいほどの嫉妬に身を焦がしていた男。けれど、今の彼にその刺々しさはない。 代わりにその全身に宿っているのは、深い満足感と、永遠の絆を手に入れた者だけが持つ穏やかな威厳だ。荒れていた気性は嘘のように凪ぎ、執務に向かう背中には確かな落ち着きが備わっている。新しい皇帝の真の姿を、重臣たちもようやく安堵と共に受け入れ始めていた。 リアンの数歩後ろには、一人の騎士が音もなく控えている。 漆黒の髪を後ろで一つに束ねた、オメガの騎士――アシェル。 ヴァレンの従弟であり、宰相ルシアンが「皇妃の守護にこれ以上の適任はいない」と太鼓判を押して選び抜いた人物だ。年齢はリアンとさほど変わらないが、その双眸に宿る鋭さと、鍛え抜かれた身体が纏う凛とした空気は、かつての護衛ルシアンとはまた異なる、静かなる威圧感を放っている。 この三ヶ月、アシェルは影のようにリアンに寄り添ってきた。寡黙で職務に忠実な点はルシアン譲りだが、同じ第二性を持つ者同士、リアンは折に触れて彼に言葉をかけ、その心の距離を縮めてきた。「リアン様」 アシェルが、低く抑制された、それでいて柔らかな声で告げた。「日が傾いてまいりました。風に秋の冷ややかさが混じり始めております。少し肌寒くなってきましたので、薄手の上着をお持ちしましょうか」「ありがとう、アシェル。でも、大丈夫だよ」 リアンは針を動かす手を止めず、ふわりと微笑みを返した。「この一房を刺し終えたら、終わりにするから」 アシェルは深く、恭しく頷くと、再び一歩下がって静止した。 リアンは再び手元の布に視線を落とした。だが、針を刺
正妃の宣言から数週間が経った夜のことだった。 リアンの身体に、馴染み深い熱がゆっくりと這い上がってきていた。指先からじわりと広がるそれは、肌の奥深くを内側からじりじりと焼くような熱。下腹部の中心が疼き、肺の空気が足りなくなるように呼吸が浅くなっていく。(――ヒートだ) 寝台の上で、リアンの本能が抗いようもなく動き始めていた。乱れたシーツの位置を整え、枕を寄せ、その中にヴァレンの脱ぎ捨てた上着を一枚、丁寧に紛れ込ませる。普段なら使わない厚手の毛布まで運び込み、寝台の中央に小ぶりの巣(ネスト)を作っていく。指が勝手に動き、布の柔らかな手触りを確かめながら、最も心地よい配置を本能のままに探っていた。 オメガが、番のために巣を作る。 理性の片隅では、その獣じみた本能を恥ずかしく思う気持ちもあった。けれども、身体は止まらなかった。ヴァレンの残り香が深く染み込んだ上着を巣の中央に置き、その周囲を城壁のように枕で囲む。完成した巣を見つめて、リアンは熱に浮かされた瞳で満足げに息を吐いた。 その時、扉が静かに開いた。 リアンの背中越しに、ヴァレンの重厚な気配が近づいてくる。剣油の微かな匂いと、清潔な布地の香り、そしてヴァレンの肌の奥から漂う、あの懐かしい体温の匂い。リアンの身体が、瞬時に沸騰した。下腹部の奥で、これまで以上に強烈な熱が燃え上がる。「リアン」 ヴァレンが、低く名を呼んだ。 リアンが振り向こうとするより早く、ヴァレンの大きな身体がすでに背後にあった。逞しい腕がリアンの腰に回され、寝台の中央へと優しく引き寄せられる。ヴァレンの琥珀色の瞳が、リアンの作った不格好で愛らしい巣をゆっくりと見下ろしているのが、その沈黙から伝わってきた。「いい子だ」 ヴァレンが、リアンの白金の髪に唇を寄せて囁いた。「上手にできているじゃないか」 リアンの胸の奥が、深く、深く温かくなった。 褒められた。ただそれだけで、オメガの本能が歓喜に震える。リアンはヴァレンの厚い胸板に背中を預け、思わず甘く、切ない吐息を漏らした。「陛下……」「ヒートか」 ヴァレンが、リアンの首筋に熱い唇を押し当てながら、地響きのような低音で尋ねた。「はい……っ」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の前をゆっくりと、けれど拒絶を許さない確かな力で開いていっ
大広間に、再び家臣たちが集められた。 ルシアンの叙爵から、十日ほどが経った日のことだった。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの装いは、これまでのどの儀式よりも華やかで、空気は凛とした緊張感に包まれていた。 壇上には、ヴァレンが堂々と立っていた。軍服の肩に飾られた金色の飾緒が、シャンデリアの光を反射して眩い。 その隣には、リアンが少し離れて、控えめに佇んでいた。今日のリアンは、冬の陽だまりを思わせる白を基調とした優美な衣装を纏っている。白金の髪は丁寧に結い上げられ、襟元の細い首から、滑らかな鎖骨の線が繊細に浮かび上がっていた。 ヴァレンが、静まり返った家臣たちを見下ろした。「本日、正式に皇妃を定める」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に響いた。 家臣たちの間に、さざ波のような僅かなざわめきが走った。けれども、主君の放つ圧倒的な威圧感に、誰もがすぐに静まり返り、深く頭を垂れて続く言葉を待った。「我が皇妃となる者は——」 ヴァレンが、ゆっくりと隣のリアンの方へと振り向いた。その琥珀色の瞳が、慈しむようにリアンを捉える。「リアン・エルスヴェイル」 壇上のリアンの肩が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの背中にそっと添えられた。大きく、温かい手のひら。その熱を感じたリアンは、あまりの気恥ずかしさと畏れに、思わず一歩、ヴァレンの後ろへと隠れるように下がろうとした。けれども、ヴァレンの手は、それを許さず、逃げ場を失わせるように、リアンを前へと押し出す。優しく、しかし揺るぎない力強さで彼を支えていた。「隠れるな」 ヴァレンが、リアンにだけ聞こえる低い声で囁いた。 その声には、逃避を咎める響きはなかった。ただ、愛する者を、家臣たちの前に堂々と立たせたい——そんな静かな誓いが宿っていた。リアンは、震える唇をぎゅっと結び、深く息を吸った。それから、ヴァレンの隣に並んで、家臣たちの視線を真っ直ぐに受け止めた。 大広間の家臣たちが、一斉に頭を垂れた。「皇妃陛下に、忠誠を」 誰かが、静かに声を上げた。続いて、別の声が、また別の声が、地鳴りのような唱和を始めた。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの誰もが、深く頭を垂れている。かつて彼を「慰みもの」と侮っていた者も、「淫乱オメガ」と陰口を叩いていた者も——皆が、今、リアンを正妃として、新たな皇国の母として
モルセルの最期は、公的には「獄中での病死」として処理された。 長年宰相の座にあった男に対する、せめてもの体面だった。妻殺しと正妃候補への毒害、そして強姦未遂――。そのおぞましい罪状は重臣たちの間でのみ正確に共有され、外向けには「病による静かな最期」として記録される。家臣たちの間にも、この不自然な処理を疑う者はいなかった。皇帝の腕の中で意識を失いかけたあの番候補の、痛々しい姿を誰もが目にしていたのだ。 モルセルの娘も、宮廷から速やかに退けられた。 遠い属州の貴族家へと嫁がされる形での、実質的な国外追放。父の罪に直接関わってはいなかったとはいえ、その身体には「毒を運んだ手」としての記録が刻まれてしまっている。リアンは、娘が宮廷を発つ日の朝、窓辺から遠ざかる馬車を静かに見送るだけにとどめた。 すべての後処理が、冬の冷たい空気が澄んでいくように淡々と進んでいった。 その間も、リアンの身体は静かに回復を続けていた。解毒剤の効果が全身の隅々まで行き渡り、陶器のように白かった頬には、少しずつ桜色の血色が戻ってくる。ヴァレンは公務の合間を縫っては寝室に戻り、リアンの様子を確かめ続けていた。皇帝としての威厳を捨てた、一人の男としての献身――。その姿を、宮廷の誰もがもう、当たり前の風景として受け入れていた。 そして、すべての後処理が終わった、ある雲一つない晴れた日のことだった。 大広間に、再び家臣たちが集められていた。 あの断罪の日と同じ場所。けれども、そこに流れる空気の質は完全に違っていた。あの日、宰相の処刑によって浄化された大広間には、新しい時代の始まりを予感させる、清々しい光が満ちていた。 壇上に、ヴァレンとリアンが並んで立っている。 リアンは、深い藍色の正装を纏っていた。白金の髪は、朝の支度で丁寧に整えられている。「ルシアンを、前へ」 ヴァレンが、重厚な低音で命じた。 大広間の中央、深紅の絨毯の上に、騎士装束のルシアンが進み出てきた。一段高い壇上の前で、片膝をつき、深く頭を垂れる。漆黒の髪が、午前の陽光を受けて静かに揺れた。「ルシアン」 ヴァレンが、ゆっくりと言葉を紡いだ。「お前の長年の忠義、そして、宰相モルセルの罪を暴き、皇帝の番候補の命を守った功績――これに報いるため、本日付で、伯爵位を授ける」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に
しばらくの静寂の後、ヴァレンがふと口を開いた。「——で?」 その声は不意に質を変え、低く地を這うような響きを帯びた。「詳しく聞かせてもらおうか?」 リアンの背筋が、僅かに強張った。「牢にいたモルセルと、お前が何をしたか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたことのない種類の、抑制された嫉妬が昏く滲んでいた。 次の瞬間、リアンの身体はヴァレンの大きな手によって寝台に押し倒されていた。逞しい身体がリアンの上に跨り、逃げ場を塞ぐ。至近距離から見下ろす琥珀色の瞳が、獲物を射抜くような鋭さを秘めていた。「陛下……」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の襟元をゆっくりと割った。鎖骨の上、そして白皙の首筋——そこに残る、宰相が刻みつけた忌まわしい赤い痕が、午後の光の下に晒される。ヴァレンは、その痕を一つずつなぞるように、冷徹な眼差しで確かめていった。 不意にヴァレンの指が、その痕の一つを強く圧した。「痛っ……」 リアンの口から、思わず小さな悲鳴が漏れた。「ここにある痕は、俺がつけたものじゃない」 ヴァレンの声が、さらに低く落ちた。「その理由を、聞きたい」「それは……」 リアンの声が、消え入りそうに細くなる。「リアンは、『俺だけ』だと、誓ったはずだ」 そこには、嫉妬と、そして隠しきれない傷が滲んでいた。「俺以外の痕が、お前の身体にあるのは、おかしいだろう」 リアンは、たまらず目を伏せた。 すべてを、告げなければならない。そう覚悟を決め、リアンは震える唇を開いた。「兄様にしたことを、聞き出したくて……香に、媚薬と睡眠効果のあるものを、混ぜて使いました」 リアンは、できる限り淡々と、事実だけを語り続けた。「口移しで、毒入りのワインを飲ませて、意識が朦朧としている彼に、少しだけ……身体を許しました。でも、最後まではしてません。睡眠作用で寝たのを確認してから、牢を出ました」「ほう……」 ヴァレンの声が、不気味なほど穏やかになった。「睡眠効果のある香を使うのは、よしとしよう。だが、なぜそこに、媚薬効果のあるものが必要だったんだ?」「そういう……気分にならせて、ほしいなら、ちゃんと話して、と言うためです」「あげるつもりだったと?」「いいえ」 リアンは、首を強く振った。「話を引き延ばしながら、彼が眠
深い闇の底から、リアンの意識はゆっくりと浮上していった。 最初に感じたのは、規則正しい鼓動の音だった。耳元のすぐ近くで、誰かの心臓が、確かなリズムを刻み続けている。次に、温かな体温。逞しい腕が、自分の華奢な身体を包み込んでいる感触。その安心感に、リアンは一瞬、自分がどこにいるのかを忘れそうになった。(――死んで、ない?) 重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。 霞んだ視界の中に、見慣れた天蓋が広がっていた。寝室——ヴァレンの寝所だ。窓から差し込む光の角度から、もう昼を過ぎていることがわかった。リアンの身体は、淡い寝衣に着替えさせられ、絹のシーツに沈み込んでいた。 すぐ隣で、ヴァレンが寝台の縁に腰掛けて、リアンの顔をじっと見つめていた。 その輪郭は、いつもの皇帝の威厳を僅かに失っていた。漆黒の上着の襟元は乱れ、髪も整えられていない。自分の眠っていた間、ヴァレンがずっとそばで見守り続けてくれたようだ。「……陛下」 リアンは、掠れた声で呼んだ。 ヴァレンの琥珀色の瞳が、深い安堵に揺れた。けれども、その奥には、抑えきれない怒りがまだ燻っていた。大きな手がリアンの頬を包み込み、親指でゆっくりと撫でる。その指先からは、僅かな震えが伝わってきた。「目を覚ましたか」 ヴァレンの声は、低く、震えていた。「よかった……もう、駄目かと思って――」 言葉が、最後まで続かなかった。 ヴァレンの肩が、僅かに震えている。リアンは、その震えに気づいて、胸の奥が痛んだ。死のうとしていた事実が、この男にどれほどの恐怖を与えたか——今、その全貌を知った気がした。最愛のセレンを失った男に、再び同じ絶望を与えようとしていたのだ。 残った側の気持ちを全く考えていなかったと反省する。(罪を犯したから、消えるのが一番だと思ったけど――違うのかもしれない)「陛下、ごめんなさい」 リアンは、震える指でヴァレンの手を握った。「ばか者が」 ヴァレンの声に、抑制された怒りが滲んだ。「罪を、あんな形で清算しようとするとは……許さないぞ」 リアンは、目を伏せた。「殺した罪は、僕が背負わなければなりません。だから——」「殺した罪? なんのことだ」 ヴァレンが、リアンの言葉を遮った。 リアンは、目を見開いた。「え……? だってモルセルに毒を」「モルセルは妻殺しの罪で、処刑した。
離宮の片付け作業の合間、僅かに陽の差し込む穏やかな昼下がりだった。 リアンは南向きのテラスで、指先に春の名残のような日差しを感じながら、静かに針を動かしていた。石造りの床は午前の光をたっぷりと吸い込んでおり、素足に履いた柔らかな室内靴越しにも、じんわりとした温もりが伝わってくる。頬を撫でる風は心地よく乾いていて、咲き誇る花の香りと瑞々しい芝の匂いとを、ほどよく入り混ぜた淡い甘さで鼻先を満たしていた。 糸を引き、針を通し、一針ごとに細やかな模様を白布に編み込んでいく。 この日、国王ヴァレンはリアンの部屋へ、午後の茶を共にすると知らせを寄越していた。中庭で刺繍をしているところを見つかって
夜の帳が下りるころ、静寂の支配する廊下を渡って、寝所への呼び出しが届いた。 侍女たちの手で湯浴みを済ませたあと、リアンは鏡台の前に座り、重厚な装飾の施された兄の香水の小瓶を手に取った。 最初の夜、侍女が惜しみなく振りかけたものとは違う、ごく控えめな量だ。栓を慎重に抜き、指先に一滴だけ琥珀色の雫を落とすと、脈打つ首筋の片側に祈るような心地で薄く塗り広げた。鼻の利く自分にとって、強すぎる香りは目に見えない刃と同じだった。 鏡の中に映る自分は、どこか知らない他人のように青白い。リアンは震える手で小瓶に栓をした。 ふと、昼間の出来事が脳裏を掠めた。汚れたハンカチを「お前の匂いがする」と囁い
ヴァレンの腕がリアンの身体を抱き上げた。 視界の利かない中で、リアンの細身はまるで糸の切れた人形のように軽々と持ち上げられた。革と汗の混じった温もりが頬に触れ、耳のすぐそばでは重い心音が脈打っている。腕一本でリアンを抱え上げてなお、ヴァレンの歩みに乱れは見えなかった。数歩も進まないうちに、背中に柔らかな感触が広がり、厚手のシーツと羽毛の寝具が重みを受けて沈み込む。天蓋付きの広い寝台に、そっと横たえられたのだとリアンは悟った。 頭上にぼんやりと広がる濃い影は、きっと天蓋の布なのだろう。暗闇と濃淡だけの視界の中では、重厚な垂れ布の輪郭さえ滲んで曖昧だった。「……セレン」 ヴァレンがもう
廊下の端から端まで、人の気配が並んでいた。 リアンにはそれが、ぼんやりとした輪郭の塊としてしか見えなかった。等間隔に壁へ固定された燭台の灯りは、通常の視力を持つ者にとっては充分な明かりなのだろうが、リアンの目にはほとんど意味をなさない。夕刻を過ぎたころから視界は霞み始め、夜が深まるにつれて世界はいっそう曖昧になっていく。輪郭が滲み、色が溶け、眼前に広がるのはただ濃淡だけの、頼りない世界だった。 廊下に居並ぶ家臣たちの視線が、物理的な重さを持って肌に刺さる。 見えているわけではない。ただ、肌を焼くような感覚でわかるのだった。針の先をそっと押し当てるような痛みが首筋のあたりに集まり、リア







