Mag-log in目が覚めたとき、室内は白く満ちていた。
夜のうちは何も見えなかった窓が、朝の光を透かして薄い金色を帯びている。リアンは重い瞼をゆっくりと持ち上げ、天蓋の布が視界に入るのを確かめてから、自分がどこにいるのかを思い出した。身体の節々が鉛のように重く、腰の奥には鈍い痛みが居座っている。シーツは汗で湿り、自分の体温とは別の熱が、まだそこに色濃く染み付いていた。
リアンはゆっくりと首を動かした。朝の光の中では、昨夜の熱情よりもずっと鮮明にヴァレンの姿が見えた。枕に漆黒の髪が広がり、整った輪郭が静かな寝息を刻んでいる。眠っている顔は、昨夜、無理やり自分を抱いたときの苛烈さとは切り離されたように穏やかで、長い睫毛が頬に細い影を落としていた。固く結ばれていたはずの口元は力が抜け、わずかに開いている。
こんなに近くで見たのは、初めてだった。
かつて廊下の角から遠目に見たあの横顔を、ずっと胸の奥にしまい込んでいた。名前も知らない人への淡い、けれど決して許されない想いとして、蓋をして、忘れようとしていた。ヴァレンがいま、手を伸ばせば届く距離で、自分と同じベッドに眠っている。昨夜、リアンの頬をなぞった指も、リアンを強引に引き寄せた逞しい腕も、今は眠りの中で無防備に伸びていた。
そのうちの片腕は、リアンの腰の上に重く置かれたままだった。夜明け前、寝所を出て行こうとしたリアンを引き戻したあの腕が、眠りの中でもなお、離したくないというようにリアンを抱き込んでいる。
(兄様の夫だった人だ)
リアンは視線を再び天蓋へと戻した。ヴァレンを好きだと思ったことを、恥じてはいなかった。身代わりとして捧げられた昨夜の関係にも、後悔はない。リアンの身体で、ヴァレンにいっときでも安らぎを与えられるのであれば――。
冷遇されてきた自分でも、兄と生き写しのこの容姿であったことだけは、初めて良かったと思えた。
リアンはそっと呼吸を整え、腰に回されていたヴァレンの腕を、慎重に持ち上げた。
眠ったままの腕は重く、その重みをシーツの上に少しずつ預けるようにして置く。ヴァレンの眉がかすかに動いたが、寝息が乱れることはなかった。
ゆっくりと身体を起こす。
腰に力を入れると、ピリッとした痛みが走った。奥歯を噛んでそれをやり過ごし、夜明け前に袖を通した夜着の、眠っている間にはだけた襟元を丁寧に整える。立ち上がり、乱れたシーツを引き上げてヴァレンの肩まで掛けた。ヴァレンは目を覚まさなかった。深く、静かな寝息を立て続け、厚い布団を掛けられても身じろぎひとつしなかった。
(よく寝ている――良かった)
『俺が起きるまで、寝所を出て行くことは許さない』
昨夜、耳元で低く命じられた言葉を思い出す。けれど、この部屋のドアの向こう側から感じる、数多の視線の多さにこれ以上耐えられなくなっていた。
側卓の前に立ち、備えつけの小さな鏡を覗き込む。
朝の光の中でも、自分の姿はどこか現実味を欠いて見えた。髪はひどく乱れ、首筋には隠しようのない紅い痕が点在している。指で髪を梳かし、大まかに整えてから、扉へ向かった。
振り返らずに、重い取っ手を引く。
(昨日は、ありがとうございました)
心の中でだけ、眠れる獅子へ別れを告げた。
廊下に出た瞬間、冷ややかな視線が突き刺さった。
家臣たちが、間隔をあけて廊下の両側にずらりと並んでいた。昨夜と同じ顔触れなのか、別の者たちなのか、リアンの目には判別できなかった。ただ、黒い輪郭の塊がいくつも自分の方を向き、品定めするように見つめているのはわかった。
リアンは表情を動かさなかった。
顎を引き、視線を正面の一点に固定して、一歩ずつ廊下を歩き始めた。そのとき、一つの巨大な人影が列から離れて、リアンへと近づいてきた。足音の重さだけで、それが実の父親だとわかった。目の前で父は足を止めると、骨張った、大きな手がリアンの肩の上にのった。
「お勤めご苦労だった」
父が低く、押し殺した声で言った。リアンは前を向いたまま、小さく答えた。
「――いえ」
肩を掴む手に、ぐっと力がこもる。
「お前が初めてだ。陛下が朝までお休みになられたのは」
父の声に、珍しく隠しきれない感情が混じっていた。
陛下――この国の王たるヴァレンが、最愛の妻であったリアンの兄を亡くしてから、重度の不眠症に陥ったのは周知の事実だった。さらに、結婚前は穏和だった性格が影を潜め、今では独身時代よりも苛烈で横暴な性格になってしまったと言われている。
陛下の心を少しでも慰められる人間を、父たちは何人も用意しては送り込んできた。だが、その誰もが数分もしないうちに、怒号と共に追い出されていたのだ。それが昨晩、リアンを一晩中抱き、そして今もまだ安らかな眠りの中にいる。その事実が、父たち家臣には何よりも喜ばしく、価値のあることなのだろう。
「良かった――」
父の安堵で溢れた言葉を聞いてから一拍置いて、リアンは背筋を正したまま答えた。
「陛下のお力になれて、光栄です」
嘘だった。光栄などという言葉では足りないほどに胸が痛む。
父の手が、肩から離れた。
「今日は屋敷に戻り、ゆっくり休め」
「承知いたしました」
父が下がる気配がして、リアンは再び歩き始めた。廊下に残る無数の視線をひとつひとつ通り抜けながら、足を前へ運ぶ。腹の奥には、かすかな熱い痛みが残っていた。昨夜、初めてヴァレンに貫かれたときの、鈍く深い衝撃の名残。身体がまだ、あの激しい夜を鮮明に覚えていた。廊下の視線から逃げるように、リアンは少しだけ歩く速さを上げた。
◇◇◇
屋敷に戻ったのは、朝の光が庭の石畳を白く照らし始めたころだった。
夜着の上に羽織ったコートを胸元できつく合わせたまま、リアンは屋敷の勝手口から音を立てずに中へ入った。薄暗い廊下に、一つの人影があった。壁際に立ち、腕を組んで待っていた従者のルシアンが、扉の音に反応して顔を上げた。
「お戻りになりましたか」
「戻りました」
リアンは短く答えながら、コートの留め金を外した。ルシアンが音もなく歩み寄り、脱いだコートを恭しく受け取った。リアンの自室へと二人で向かいながら、ルシアンが周囲を警戒するように声を潜めて聞いた。
「陛下の様子は」
「……朝まで、ぐっすりと眠っておられました」
「怖い思いはしませんでしたか?」
「大丈夫。荒ぶる様子はありませんでした。ただ、少し……」
言葉を切る。昨夜のヴァレンの、飢えた獣のような激しさを思い出すと、顔が熱くなる。
ルシアンが静かに頷いた。
自室に入ると、リアンは真っ先に洗面台の前に立った。濡れ布巾を固く絞り、首筋を何度も拭う。兄が愛用していた、あの甘ったるい香水の匂いがまだ肌にこびりついていて、こめかみのあたりで鈍い頭痛が続いていた。
元来、鼻が利く性質のせいか、自分ではない誰かの強い香りには弱い。
「匂いが、きつくて」
リアンは自分に言い聞かせるように呟きながら、夜着の紐を解いた。肩から布を滑り落とし、濡れ布巾で腕を、首を、胸を、丹念に拭っていく。香水の甘さが少しずつ薄れていくのと引き換えに、自分の、何の色もついていない素の匂いが戻ってきた。それがひどく、自分を安心させた。
鏡に映る自分の肌を、ぼんやりと見つめる。
首筋には、はっきりとした赤い痕が残っていた。鎖骨にも、胸にも、脇腹にも。昨夜、ヴァレンの熱い唇が執拗に触れた場所が、朝の光の中で残酷なほどくっきりと浮かび上がっている。数えようとして、あまりの多さに途中で指を止めた。身体のあちこちに散らばっている愛の、あるいは暴力の痕跡を、リアンはしばらく鏡越しに眺めていた。
(すごい……)
「……すごいな」
背後から、ルシアンの声がした。
振り返ると、ルシアンが目を丸くしてリアンの身体を凝視していた。普段は何があっても鉄面皮を崩さない彼が、珍しく驚愕を顔に出している。リアンの頬に、みるみるうちに沸騰するような熱が上がった。
「いや、これは……」
「僕も今、気づきました」
足音が近づいてきて、ルシアンが背後に立った。気配だけで、彼の視線が自分の背中に注がれているのがわかる。次の瞬間、長い指が、首筋から肩甲骨へと、確かめるようにスゥーッと滑り落ちた。
「……ぁ、っ」
思わず漏れた声が、あまりにも甘い色を含んでおりリアンの心が羞恥心に触れた。
皇帝に抱かれて帰ってきたばかりの、まだ熱の名残を宿した素肌。そこに散る無数の紅い痕。それを目にした瞬間、ルシアンの中で何かが堰を切ったのだろう。
普段の鉄壁の自制心では押さえきれない、もうひとつの面影が、今この瞬間にだけ滲み出てしまった。
「……こんな風に、セレン様も愛されていたんですかね」
ぽつりと落とされた声には、いつもの抑揚が綺麗に抜け落ちていた。問いかけというよりは、行き場を失った独り言のような響きがあった。
リアンは何も答えなかった。
ゆっくりと視線を落とし、目を閉じる。瞼の裏では、ヴァレンの熱に蹂躙されながら深く愛される兄の姿が浮かんだ。
いつも穏やかに微笑んでいた兄が、あの逞しい腕の中で、どんな声を漏らしていたのか――想像は止まらなかった。
ルシアンの指が背中に触れたまま、止まっている。きっとリアンと同じような想像をしているのだろう。
今は亡き人へ、二人で別々の角度から想いを馳せる、ただそれだけの沈黙が続く。
ルシアンの指先が、ふっと離れた。
短い、けれど深い息が、背後から落ちる。次に聞こえてきた声は、いつものルシアンに戻っていた。
「これほどまでになっているとは、思いませんでした」
硬い口調と裏腹に、その声色には微かな失笑が混じっていた。ついさっきまでの切なさを振り払うように、彼はわざと素っ気なく言ったのだ。リアンも、その意図を汲んだ。
「……数えないでください」
「数えてはいません。数えきれませんから」
(確かに)
リアンは慌てて新しい夜着を引き寄せた。頭から被り、袖を通し、紐を二重に結ぶ。振り返ると、ルシアンの口元がわずかに痙攣したのをリアンは見逃さなかった。明らかに、笑いを噛み殺している。
「笑っているでしょう」
「……笑っていません」
「嘘です。笑ってる」
ルシアンは答えなかった。その沈黙こそが、饒舌な答えだった。
リアンはふらつく足取りでベッドに近づき、掛け布を引き上げてその中に逃げ込むように潜り込んだ。枕に頭を預けると、昨夜の狂乱の疲れが一気に身体の奥底から押し寄せてきた。目を閉じると、瞼の裏に朝の光の中で見たヴァレンの寝顔が浮かぶ。穏やかな表情、枕の上に広がっていた鴉の羽のような黒髪。それが、意識の混濁と共に静かに滲んで消えていく。
「お疲れでしょう。午前中は、ゆっくりとお休みください」
ルシアンの声が、遠い海の底から聞こえるように響いた。
リアンは目を閉じたまま、小さく、消え入りそうな声で頷いた。身体のあちこちに残る紅い痕が、ひとつひとつ鼓動に合わせてほんのりと熱を持っている。腹の奥の鈍い痛みも、まだ消えずにそこにある。全部、昨夜、ヴァレンと繋がっていた証だ。
(兄様の代わりでいい。……また、あの寝台に呼ばれたい)
リアンは、深い眠りの淵へと落ちていった。
番契約を交わしてから、三ヶ月という月日が流れた。 季節は盛夏の猛々しさを脱ぎ捨て、初秋の柔らかな光が宮殿の庭園を金砂のように染め上げている。リアンは、ヴァレンが「一番のお気に入りだ」と教えてくれた、白い大理石の長椅子が設えられた一角にいた。 午後の穏やかな空気の中、リアンの指先は規則正しく針を動かしている。色とりどりの刺繍糸が、真っ白な布の上に鮮やかな花々を咲かせていく。 あの日、番契約を交わしてからのヴァレンの変貌ぶりは、宮廷中の誰もが目を見張るものだった。 かつての彼は、常に飢えた獣のような危うさを孕んでいた。リアンを片時も離したくないと渇望し、その細い身体が自分以外のものに触れることさえ許さないといった、狂おしいほどの嫉妬に身を焦がしていた男。けれど、今の彼にその刺々しさはない。 代わりにその全身に宿っているのは、深い満足感と、永遠の絆を手に入れた者だけが持つ穏やかな威厳だ。荒れていた気性は嘘のように凪ぎ、執務に向かう背中には確かな落ち着きが備わっている。新しい皇帝の真の姿を、重臣たちもようやく安堵と共に受け入れ始めていた。 リアンの数歩後ろには、一人の騎士が音もなく控えている。 漆黒の髪を後ろで一つに束ねた、オメガの騎士――アシェル。 ヴァレンの従弟であり、宰相ルシアンが「皇妃の守護にこれ以上の適任はいない」と太鼓判を押して選び抜いた人物だ。年齢はリアンとさほど変わらないが、その双眸に宿る鋭さと、鍛え抜かれた身体が纏う凛とした空気は、かつての護衛ルシアンとはまた異なる、静かなる威圧感を放っている。 この三ヶ月、アシェルは影のようにリアンに寄り添ってきた。寡黙で職務に忠実な点はルシアン譲りだが、同じ第二性を持つ者同士、リアンは折に触れて彼に言葉をかけ、その心の距離を縮めてきた。「リアン様」 アシェルが、低く抑制された、それでいて柔らかな声で告げた。「日が傾いてまいりました。風に秋の冷ややかさが混じり始めております。少し肌寒くなってきましたので、薄手の上着をお持ちしましょうか」「ありがとう、アシェル。でも、大丈夫だよ」 リアンは針を動かす手を止めず、ふわりと微笑みを返した。「この一房を刺し終えたら、終わりにするから」 アシェルは深く、恭しく頷くと、再び一歩下がって静止した。 リアンは再び手元の布に視線を落とした。だが、針を刺
正妃の宣言から数週間が経った夜のことだった。 リアンの身体に、馴染み深い熱がゆっくりと這い上がってきていた。指先からじわりと広がるそれは、肌の奥深くを内側からじりじりと焼くような熱。下腹部の中心が疼き、肺の空気が足りなくなるように呼吸が浅くなっていく。(――ヒートだ) 寝台の上で、リアンの本能が抗いようもなく動き始めていた。乱れたシーツの位置を整え、枕を寄せ、その中にヴァレンの脱ぎ捨てた上着を一枚、丁寧に紛れ込ませる。普段なら使わない厚手の毛布まで運び込み、寝台の中央に小ぶりの巣(ネスト)を作っていく。指が勝手に動き、布の柔らかな手触りを確かめながら、最も心地よい配置を本能のままに探っていた。 オメガが、番のために巣を作る。 理性の片隅では、その獣じみた本能を恥ずかしく思う気持ちもあった。けれども、身体は止まらなかった。ヴァレンの残り香が深く染み込んだ上着を巣の中央に置き、その周囲を城壁のように枕で囲む。完成した巣を見つめて、リアンは熱に浮かされた瞳で満足げに息を吐いた。 その時、扉が静かに開いた。 リアンの背中越しに、ヴァレンの重厚な気配が近づいてくる。剣油の微かな匂いと、清潔な布地の香り、そしてヴァレンの肌の奥から漂う、あの懐かしい体温の匂い。リアンの身体が、瞬時に沸騰した。下腹部の奥で、これまで以上に強烈な熱が燃え上がる。「リアン」 ヴァレンが、低く名を呼んだ。 リアンが振り向こうとするより早く、ヴァレンの大きな身体がすでに背後にあった。逞しい腕がリアンの腰に回され、寝台の中央へと優しく引き寄せられる。ヴァレンの琥珀色の瞳が、リアンの作った不格好で愛らしい巣をゆっくりと見下ろしているのが、その沈黙から伝わってきた。「いい子だ」 ヴァレンが、リアンの白金の髪に唇を寄せて囁いた。「上手にできているじゃないか」 リアンの胸の奥が、深く、深く温かくなった。 褒められた。ただそれだけで、オメガの本能が歓喜に震える。リアンはヴァレンの厚い胸板に背中を預け、思わず甘く、切ない吐息を漏らした。「陛下……」「ヒートか」 ヴァレンが、リアンの首筋に熱い唇を押し当てながら、地響きのような低音で尋ねた。「はい……っ」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の前をゆっくりと、けれど拒絶を許さない確かな力で開いていっ
大広間に、再び家臣たちが集められた。 ルシアンの叙爵から、十日ほどが経った日のことだった。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの装いは、これまでのどの儀式よりも華やかで、空気は凛とした緊張感に包まれていた。 壇上には、ヴァレンが堂々と立っていた。軍服の肩に飾られた金色の飾緒が、シャンデリアの光を反射して眩い。 その隣には、リアンが少し離れて、控えめに佇んでいた。今日のリアンは、冬の陽だまりを思わせる白を基調とした優美な衣装を纏っている。白金の髪は丁寧に結い上げられ、襟元の細い首から、滑らかな鎖骨の線が繊細に浮かび上がっていた。 ヴァレンが、静まり返った家臣たちを見下ろした。「本日、正式に皇妃を定める」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に響いた。 家臣たちの間に、さざ波のような僅かなざわめきが走った。けれども、主君の放つ圧倒的な威圧感に、誰もがすぐに静まり返り、深く頭を垂れて続く言葉を待った。「我が皇妃となる者は——」 ヴァレンが、ゆっくりと隣のリアンの方へと振り向いた。その琥珀色の瞳が、慈しむようにリアンを捉える。「リアン・エルスヴェイル」 壇上のリアンの肩が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの背中にそっと添えられた。大きく、温かい手のひら。その熱を感じたリアンは、あまりの気恥ずかしさと畏れに、思わず一歩、ヴァレンの後ろへと隠れるように下がろうとした。けれども、ヴァレンの手は、それを許さず、逃げ場を失わせるように、リアンを前へと押し出す。優しく、しかし揺るぎない力強さで彼を支えていた。「隠れるな」 ヴァレンが、リアンにだけ聞こえる低い声で囁いた。 その声には、逃避を咎める響きはなかった。ただ、愛する者を、家臣たちの前に堂々と立たせたい——そんな静かな誓いが宿っていた。リアンは、震える唇をぎゅっと結び、深く息を吸った。それから、ヴァレンの隣に並んで、家臣たちの視線を真っ直ぐに受け止めた。 大広間の家臣たちが、一斉に頭を垂れた。「皇妃陛下に、忠誠を」 誰かが、静かに声を上げた。続いて、別の声が、また別の声が、地鳴りのような唱和を始めた。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの誰もが、深く頭を垂れている。かつて彼を「慰みもの」と侮っていた者も、「淫乱オメガ」と陰口を叩いていた者も——皆が、今、リアンを正妃として、新たな皇国の母として
モルセルの最期は、公的には「獄中での病死」として処理された。 長年宰相の座にあった男に対する、せめてもの体面だった。妻殺しと正妃候補への毒害、そして強姦未遂――。そのおぞましい罪状は重臣たちの間でのみ正確に共有され、外向けには「病による静かな最期」として記録される。家臣たちの間にも、この不自然な処理を疑う者はいなかった。皇帝の腕の中で意識を失いかけたあの番候補の、痛々しい姿を誰もが目にしていたのだ。 モルセルの娘も、宮廷から速やかに退けられた。 遠い属州の貴族家へと嫁がされる形での、実質的な国外追放。父の罪に直接関わってはいなかったとはいえ、その身体には「毒を運んだ手」としての記録が刻まれてしまっている。リアンは、娘が宮廷を発つ日の朝、窓辺から遠ざかる馬車を静かに見送るだけにとどめた。 すべての後処理が、冬の冷たい空気が澄んでいくように淡々と進んでいった。 その間も、リアンの身体は静かに回復を続けていた。解毒剤の効果が全身の隅々まで行き渡り、陶器のように白かった頬には、少しずつ桜色の血色が戻ってくる。ヴァレンは公務の合間を縫っては寝室に戻り、リアンの様子を確かめ続けていた。皇帝としての威厳を捨てた、一人の男としての献身――。その姿を、宮廷の誰もがもう、当たり前の風景として受け入れていた。 そして、すべての後処理が終わった、ある雲一つない晴れた日のことだった。 大広間に、再び家臣たちが集められていた。 あの断罪の日と同じ場所。けれども、そこに流れる空気の質は完全に違っていた。あの日、宰相の処刑によって浄化された大広間には、新しい時代の始まりを予感させる、清々しい光が満ちていた。 壇上に、ヴァレンとリアンが並んで立っている。 リアンは、深い藍色の正装を纏っていた。白金の髪は、朝の支度で丁寧に整えられている。「ルシアンを、前へ」 ヴァレンが、重厚な低音で命じた。 大広間の中央、深紅の絨毯の上に、騎士装束のルシアンが進み出てきた。一段高い壇上の前で、片膝をつき、深く頭を垂れる。漆黒の髪が、午前の陽光を受けて静かに揺れた。「ルシアン」 ヴァレンが、ゆっくりと言葉を紡いだ。「お前の長年の忠義、そして、宰相モルセルの罪を暴き、皇帝の番候補の命を守った功績――これに報いるため、本日付で、伯爵位を授ける」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に
しばらくの静寂の後、ヴァレンがふと口を開いた。「——で?」 その声は不意に質を変え、低く地を這うような響きを帯びた。「詳しく聞かせてもらおうか?」 リアンの背筋が、僅かに強張った。「牢にいたモルセルと、お前が何をしたか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたことのない種類の、抑制された嫉妬が昏く滲んでいた。 次の瞬間、リアンの身体はヴァレンの大きな手によって寝台に押し倒されていた。逞しい身体がリアンの上に跨り、逃げ場を塞ぐ。至近距離から見下ろす琥珀色の瞳が、獲物を射抜くような鋭さを秘めていた。「陛下……」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の襟元をゆっくりと割った。鎖骨の上、そして白皙の首筋——そこに残る、宰相が刻みつけた忌まわしい赤い痕が、午後の光の下に晒される。ヴァレンは、その痕を一つずつなぞるように、冷徹な眼差しで確かめていった。 不意にヴァレンの指が、その痕の一つを強く圧した。「痛っ……」 リアンの口から、思わず小さな悲鳴が漏れた。「ここにある痕は、俺がつけたものじゃない」 ヴァレンの声が、さらに低く落ちた。「その理由を、聞きたい」「それは……」 リアンの声が、消え入りそうに細くなる。「リアンは、『俺だけ』だと、誓ったはずだ」 そこには、嫉妬と、そして隠しきれない傷が滲んでいた。「俺以外の痕が、お前の身体にあるのは、おかしいだろう」 リアンは、たまらず目を伏せた。 すべてを、告げなければならない。そう覚悟を決め、リアンは震える唇を開いた。「兄様にしたことを、聞き出したくて……香に、媚薬と睡眠効果のあるものを、混ぜて使いました」 リアンは、できる限り淡々と、事実だけを語り続けた。「口移しで、毒入りのワインを飲ませて、意識が朦朧としている彼に、少しだけ……身体を許しました。でも、最後まではしてません。睡眠作用で寝たのを確認してから、牢を出ました」「ほう……」 ヴァレンの声が、不気味なほど穏やかになった。「睡眠効果のある香を使うのは、よしとしよう。だが、なぜそこに、媚薬効果のあるものが必要だったんだ?」「そういう……気分にならせて、ほしいなら、ちゃんと話して、と言うためです」「あげるつもりだったと?」「いいえ」 リアンは、首を強く振った。「話を引き延ばしながら、彼が眠
深い闇の底から、リアンの意識はゆっくりと浮上していった。 最初に感じたのは、規則正しい鼓動の音だった。耳元のすぐ近くで、誰かの心臓が、確かなリズムを刻み続けている。次に、温かな体温。逞しい腕が、自分の華奢な身体を包み込んでいる感触。その安心感に、リアンは一瞬、自分がどこにいるのかを忘れそうになった。(――死んで、ない?) 重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。 霞んだ視界の中に、見慣れた天蓋が広がっていた。寝室——ヴァレンの寝所だ。窓から差し込む光の角度から、もう昼を過ぎていることがわかった。リアンの身体は、淡い寝衣に着替えさせられ、絹のシーツに沈み込んでいた。 すぐ隣で、ヴァレンが寝台の縁に腰掛けて、リアンの顔をじっと見つめていた。 その輪郭は、いつもの皇帝の威厳を僅かに失っていた。漆黒の上着の襟元は乱れ、髪も整えられていない。自分の眠っていた間、ヴァレンがずっとそばで見守り続けてくれたようだ。「……陛下」 リアンは、掠れた声で呼んだ。 ヴァレンの琥珀色の瞳が、深い安堵に揺れた。けれども、その奥には、抑えきれない怒りがまだ燻っていた。大きな手がリアンの頬を包み込み、親指でゆっくりと撫でる。その指先からは、僅かな震えが伝わってきた。「目を覚ましたか」 ヴァレンの声は、低く、震えていた。「よかった……もう、駄目かと思って――」 言葉が、最後まで続かなかった。 ヴァレンの肩が、僅かに震えている。リアンは、その震えに気づいて、胸の奥が痛んだ。死のうとしていた事実が、この男にどれほどの恐怖を与えたか——今、その全貌を知った気がした。最愛のセレンを失った男に、再び同じ絶望を与えようとしていたのだ。 残った側の気持ちを全く考えていなかったと反省する。(罪を犯したから、消えるのが一番だと思ったけど――違うのかもしれない)「陛下、ごめんなさい」 リアンは、震える指でヴァレンの手を握った。「ばか者が」 ヴァレンの声に、抑制された怒りが滲んだ。「罪を、あんな形で清算しようとするとは……許さないぞ」 リアンは、目を伏せた。「殺した罪は、僕が背負わなければなりません。だから——」「殺した罪? なんのことだ」 ヴァレンが、リアンの言葉を遮った。 リアンは、目を見開いた。「え……? だってモルセルに毒を」「モルセルは妻殺しの罪で、処刑した。
大広間の空気が、再び凍りついた。 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、リアンの背筋を、氷の刃でなぞられたような冷たい戦慄が走り抜ける。家臣たちの間には、困惑と恐怖が混じり合った、新しい質のざわめきが波紋のように広がっていった。(——そろそろ、だね) 胸の中で、リアンは小さく呟いた。 指先から急速に体温が奪われ、感覚が遠のいていく。視界の端から白く霞み始め、まるで世界が少しずつ溶けていくかのようだった。ドクン、ドクンと、心臓の鼓動が奇妙に重く、泥を打つような速度に変わっていく。 これは——昨夜、自らの唇に塗ってまで飲んだ毒の効果が、ようやくその牙を剥き始めた証だった。 額から
大広間の高い天井から、午前の光が斜めに差し込んでいた。 長い大理石の床の中央には、深紅の絨毯が一直線に伸びている。その奥、一段高い壇上に据えられた皇帝の玉座と、その隣に並ぶ番候補の椅子。家臣たちは左右に整然と並び、息を詰めて壇上を見守っていた。誰も、声を発する者はいない。靴音さえ立てないよう、皆が己の呼吸を抑えている。空気には、これから始まる断罪の重みが、見えない圧として満ちていた。 壇上の中央に、ヴァレンは堂々と腰掛けている。 漆黒の正装に金の縁取りを施した上着、片手には皇帝の象徴である長剣の柄。琥珀色の瞳には、いつもの威圧的な冷たさを通り越した、底冷えするような怒りが宿っていた。
窓を覆う厚手のカーテン。その僅かな隙間を縫うようにして、白磁のような淡い夜明けの光が、忍び寄るように寝室へと差し込んでいた。 リアンの寝室は、未だ底知れぬ薄闇の中に沈んでいる。天蓋付きの広い寝台の上で、彼は深く、まるで意識を闇の向こう側へ溶け込ませるかのように眠りについていた。昨夜、重い木扉の前で力なく泣き崩れたあと、ようやく寝台へと辿り着いた頃には、すべての涙が枯れ果てていた。枕元には、昨夜焚かれた香の残り香が、甘く、それでいて重たい糸のように漂っている。その香りは、気づかぬうちにリアンを深い昏睡の淵へと引きずり込んでいた。 静寂を切り裂いたのは、扉を叩く微かな音だった。薄闇の中で反
夜の牢獄は、肺の奥まで冷やすような、湿った石の匂いが立ち込めていた。 地下へと続く長い螺旋階段を、リアンは深い藤色のローブを纏って静かに降りていく。その手には、震える光を宿した銀の燭台と、小さな籠が携えられていた。 重厚なローブの裾の下、肌に直接触れているのは、心許ないほど薄い絹の夜着のみである。 胸元は鎖骨の窪みが露わになるほど深く抉られ、滑らかな薄絹の生地は、動くたびにリアンのしなやかな身体の輪郭を、残酷なほど鮮明に透かし出していた。普段の彼ならば、決して身につけないであろう、妖艶で淫らな装い。鏡に映った己の姿を直視した際、あまりの恥ずかしさに、リアンは思わず意識を失いそうなほど