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第二話「偽愛の褥」

작가: ひなた翠
last update 게시일: 2026-05-08 12:33:16

 ヴァレンの腕がリアンの身体を抱き上げた。

 視界の利かない中で、リアンの細身はまるで糸の切れた人形のように軽々と持ち上げられた。革と汗の混じった温もりが頬に触れ、耳のすぐそばでは重い心音が脈打っている。腕一本でリアンを抱え上げてなお、ヴァレンの歩みに乱れは見えなかった。数歩も進まないうちに、背中に柔らかな感触が広がり、厚手のシーツと羽毛の寝具が重みを受けて沈み込む。天蓋付きの広い寝台に、そっと横たえられたのだとリアンは悟った。

 頭上にぼんやりと広がる濃い影は、きっと天蓋の布なのだろう。暗闇と濃淡だけの視界の中では、重厚な垂れ布の輪郭さえ滲んで曖昧だった。

「……セレン」

 ヴァレンがもう一度、その名を呟いた。

 先刻、頬を両手に包まれたときの確認めいた響きとは違っていた。言葉にすることで過去の記憶を今この瞬間に引き寄せようとするような、縋るような掠れを孕んでいた。リアンは唇を噛み、胸の奥の痛みを飲み下した。その名で呼ばれるたびに、自分という存在は薄い影のようにかき消されていく。それでも、自分がここに居られる価値は、そこにしか根を持たないのだ。

 大きな身体が覆いかぶさってくる気配に、リアンは本能的に息を止めた。

 逞しい腕が身体の両脇に突かれ、逃げ場は完全に塞がれる。ヴァレンの顔がすぐ間近まで下りてきているのが、鼻先をくすぐる熱い呼吸だけでわかった。額、目蓋、頬へと、乱れた息が順番に落ちていく。香水の甘い匂いが、汗でぬるむ肌にじっとりと絡みついた。

 ヴァレンの手が、リアンの後頭部へと回った。

 暗くて視界は利かないが、重厚な色の布が垂れ下がっているのだけはわかった。ヴァレンの指が髪をかき分け、耳の後ろを愛おしむように撫でる。その体温がじわじわとリアンの身体に浸透し、緊張で鉄のようにこわばっていた肩の筋肉が、少しずつ緩んでいった。

「力を抜け」

 耳元で囁かれた声は命令口調だったが、響きはどこまでも穏やかだった。リアンは一度深呼吸をして、抗うのをやめて身体を預けた。

 ヴァレンの手つきは、驚くほど丁寧だった。

 急ぐことなく、リアンの身体をゆっくりと解きほぐすように指先が這う。首筋から肩へ、そして背中へと手が移動するたびに、リアンの呼吸は熱を帯びて変わっていった。薄い夜着越しに伝わる温もりが、頭の奥をじんわりと痺れさせていく。唇が首筋に触れ、肌を吸い上げるように動いた。舌がゆっくりと耳の後ろを舐め上げられ、リアンは堪らず小さな艶っぽい声を漏らした。

(兄様のために……)

 リアンは胸の中で自分に言い聞かせた。ここにいるのは兄の代わりとしてなのだと。ヴァレンの手が触れるたびに胸が高鳴り、心臓が早鐘を打つのは、単なる錯覚に過ぎない。この人が求めている相手は自分ではなく、兄なのだから。

 ヴァレンの唇が鎖骨のラインを辿り、胸へと下りていった。

「んっ……ッ」

 思わず声がこぼれる。ヴァレンの舌が先端を転がすように舐め上げ、そのまま熱い口内に含んだ。ゆっくりと吸い上げられ、甘く噛まれるたびに、腰の奥がきゅうっと締めつけられる。もう片方の手も同じように柔らかな肉を愛撫し、リアンの身体は逃げ場のない熱に浮かされていった。

 ヴァレンの手が夜着の裾を割り、内ももの柔肌をゆっくりと撫で上げた。

「……ッ」

 くすぐったさと強烈な緊張が混じり合い、リアンの足に力が入る。ヴァレンは決して急がなかった。太ももの内側を丹念に愛で、リアンの身体が慣れていくのを辛抱強く待ってから、ゆっくりと秘所へと触れた。指が繊細な割れ目をなぞり、蜜口の状態を確かめるように動く。

「濡れてきているな」

 ヴァレンが低く指摘すると、リアンの顔は火が出るほど熱くなった。

「……やっ」

「悪いことではない。入れやすくなる」

 指の先が入口を割り、ゆっくりと押し込まれてくる。第一関節まで入ったところで動きを止め、リアンの身体の強張りが解けるのを待つ。異物感はあるが、痛みというほどではない。ヴァレンはじっと動かず、リアンの呼吸が整うのをただ静かに待ち続けた。

「……大丈夫か」

「……はい」

 ヴァレンの指が、ゆっくりと躍動し始めた。浅く出し入れを繰り返しながら、内壁を丁寧にほぐしていく。リアンの身体は最初こそ緊張に震えていたが、指の愛撫が続くうちに、とろけるように力が抜けていった。蜜が溢れ、ぬぷりと卑猥な水音が静かな室内に響く。恥ずかしさで顔を覆いたくなるが、それ以上に快楽が思考を白く染めていく。

「力を抜いていろ」

「わかって、います……っ」

 指が二本に増え、内壁が内側から押し広げられる感覚に息が詰まった。ヴァレンは焦ることなく、職人のような手つきで動き続ける。角度を変えながら奥へと進み、内壁の一点を指の腹でぐっと押さえた瞬間、リアンの腰が跳ねた。

「ここか」

「……ッ、あ」

 ヴァレンはそこが急所だと確信したように、同じ場所を繰り返し刺激した。圧力をかけながらゆっくりと撫でられるたびに、鋭い痺れが全身に火花を散らす。声を押し殺そうとしても、喉の奥から切ない吐息が漏れ続けた。指の動きに合わせて腰が揺れ、シーツを掴む指先に力がこもる。

 じゅく、じゅくと情欲の音が部屋を満たした。

 三本目の指が加わった時、リアンはあまりの充満感に息を止めた。内壁がさらに押し広げられ、充分に解されていくのがわかる。ヴァレンの指が奥を繰り返し執拗に撫で回し、リアンの身体が絶頂の限界に近づいたその時、指がゆっくりと引き抜かれた。

「痛かったら言え」

 ヴァレンがリアンの足の間に入り込んできた。覆い被さる重厚な体重。熱く硬い質量が入口に触れる。先端が蜜口をゆっくりとなぞり、位置を定めるように圧力をかけてきた。

 入口が強引に押し広げられ、鋭い痛みがリアンを貫いた。

「――ッ、痛い、っ」

「力を抜け」

 ヴァレンは動きを止め、宥めるようにリアンの額に口づけた。続いて頬に、唇に、短い愛の徴をいくつも落としていく。リアンはその温もりに誘われるようにして、強張った身体を弛ませた。痛みが少しずつ引き、ヴァレンがまたゆっくりと奥へ進んでくるのを感じる。

「……全部、入った」

 ヴァレンがそう告げ、動きを止めた。

 繋がっているという実感が、腹の奥底からじわじわと広がっていく。それは恐ろしいほどに「充たされている」という感覚だった。ヴァレンがリアンの反応を一際細かく確かめながら、ゆっくりと腰を引いた。

 最初は浅く、確かめるような律動。

 リアンの吐息が変わるたびに、ヴァレンの動きも呼応するように変化した。深さと速さが精密に調整されていく。腰が深く押し込まれるたびに艶かな声が漏れ、引き抜かれるたびに切ない空虚さが生まれる。ヴァレンの手がリアンの腰をがっしりと支え、的確な角度で最奥を突いてきた。

「ああっ、……んっ」

「ここが、いいか。……そうなんだな?」

 返事などできなかった。ただ声を上げるだけで精一杯だった。ヴァレンの動きが加速度を上げ、身体が激しく揺れ、シーツが摩擦音を立てる。頭の中が真っ白に塗り潰されていくのと同時に、腹の奥底から制御不能な何かが込み上げてきた。

「あ、……ッ、あっ、あっ」

 全身が激しく収縮し、視界が明滅した。蜜筒がヴァレンを必死に締めつけ、痙攣を繰り返す。ヴァレンも呼吸を荒らげ、リアンの腰を強く掴んで最奥へと一際深く突き入れた。熱い奔流が深くに注ぎ込まれていくのを、リアンは全身で受け止めた。

 しばらくの間、二人はそのまま一つになったまま動かなかった。

 ヴァレンは自分の体重でリアンを押し潰さないよう、腕で支えながら覆い被さっている。荒い呼吸が少しずつ整っていき、リアンは天蓋を見上げたまま、そっと目を閉じた。全身の力が抜け、汗ばんだ肌がベッドに溶け込んでいくようだった。

 これで終わった――そう思った瞬間、ヴァレンがリアンの身体を横向きにさせた。

 背後から抱きしめられ、逞しい胸板の熱が背中に押しつけられる。腰に腕が回り、逃げられないように引き寄せられた。まだ繋がっているものが奥で脈打つ感触。次の瞬間、背後から再び深く押し込まれた。

「ま、まだ……ッ」

「黙っていろ」

 ヴァレンの声は低く、静謐だった。そこには怒りではなく、底知れない欲が滲んでいた。横向きのまま腰を引き寄せられ、後ろから深く抉るように突かれる。正面から抱かれるのとは全く違う角度で奥を蹂躙され、リアンの喉からは止めようのない喘ぎが漏れ続けた。

 ヴァレンの手が前に回り、先ほど解されたばかりの敏感な場所を弄ぶ。

「や、……っ、そこ、もう、無理っ」

「煩い」

 一度絶頂を迎えたばかりの身体はあまりに過敏で、触れられるたびに跳ねるように反応した。ヴァレンは焦ることなく、後ろから腰を動かしながら、前も丁寧に刺激し続ける。リアンの呼吸は乱れ、腰が彼の動きに吸い寄せられるように揺れた。

「あっ、……んっ、ああ、」

 後ろから奥を突き上げられるたびに、ヴァレンの手に押しつけられるように腰が動く。二つの快感が重なり合い、リアンの思考は甘く溶けて消えた。先ほどよりもさらに深く、魂そのものを引きずり出されるような感覚に、リアンは堪らずヴァレンの腕を強く掴んだ。

「……ッ、あ、あっ、ああっ」

 二度目は、一度目よりも深い断崖で弾けた。蜜が溢れ、全身が震え、声が止まらない。ヴァレンの腕がリアンを壊さんばかりに抱きしめ、熱い吐息が耳元を焼いた。腰の動きは止まらず、リアンが意識を失う寸前まで揺さぶり続けられた。

 体位がさらに変わった。

 リアンはうつ伏せにされ、腰を高く持ち上げられた。背後から容赦なく深く押し込まれる。さっきよりも直接的な角度で最奥を執拗に突かれ、リアンは顔をシーツに押しつけて耐えた。

「あっ、……ッ、深、い、っ」

 ヴァレンの手がリアンの腰の両側をしっかりと掴み、強引に引き寄せながら突いてくる。腰と腰がぶつかる激しい音が室内に響き渡り、リアンは声を上げる他に術がなかった。動きは深く、力強く、どこまでも容赦がなかった。

「……ッ、ああ、っ、あっ、あっ」

 呼吸が追いつかない。腹の奥が焼けるように熱く疼き、ヴァレンが特定の角度で深く突くたびに視界が真っ白になった。息が獣のように荒くなり、腰の動きが最高潮へと加速していく。

「一緒に、いけ」

 低い声が耳を打ち、最奥を強く押さえつけられた。リアンの全身が痙攣し、視界が弾け飛ぶ。ヴァレンも同時に動きを止め、熱いどろりとしたものが深くに注ぎ込まれるのを、リアンは鮮明に感じ取った。

 二人とも、しばらくは指一本動かせなかった。

 繋がったまま、リアンは腰をヴァレンの腹に預けていた。息が整わない。ヴァレンの手がリアンの背中を慈しむように撫で、汗で貼りついた髪を優しくかき分けた。

「疲れたか」

 ヴァレンが低く問いかけた。リアンは少しの間、沈黙を守った。

「――少し」

「そうか」

 ヴァレンがリアンを引き起こし、横向きに転がした。繋がりが解け、言いようのない空虚さが襲いかかる。ほっとしたのか、それとも寂しさを覚えたのか、リアン自身にも判断がつかなかった。

「ならもう一度、いいな」

 それは問いの形を借りた、絶対的な命令だった。

 リアンが答える隙も与えず、正面から再び押し倒された。片足を肩に担ぎ上げられ、これまで以上に深い角度で押し込まれてくる。

 思わず悲鳴のような声が上がった。先ほどまでとは比べ物にならない深さで奥を蹂躙され、リアンは必死にヴァレンの腕にしがみついた。ヴァレンは容赦しなかった。リアンの悲鳴を糧にするかのように、的確に快楽の在処を捉え、繰り返し激しく突いてきた。

「ああっ、……ッ、ああ、あっ、あっ」

 声が枯れそうだった。ヴァレンの動きは留まることを知らず、リアンの身体は何度も何度も限界の先へと追い詰められた。泣き声のような喘ぎしか出なくなった頃、ヴァレンがリアンの足をさらに引き寄せ、最後の一突きで奥を強く、深く押さえた。

 全身が弓なりに反り、リアンはシーツに顔を埋めたまま深く震えた。

 最奥に脈打つヴァレンの熱と、耳元に落ちる荒い吐息に繋ぎ止められるようにして、リアンの意識はかろうじて闇の底から引き戻された。どれほどの時間が経ったのだろうか。重い瞼を必死で持ち上げると、視界の中でヴァレンの輪郭がぼんやりと揺れていた。

 ヴァレンはしばらくリアンに覆いかぶさったまま動かなかったが、やがてゆっくりと身体を離した。腹の奥から零れ落ちていく熱いものの感触に、リアンの頬はじわりと熱を帯びる。ベッドの端に腰を下ろしたヴァレンが、側卓の水差しから水を注いで一気に呷るのが、水音だけで伝わってきた。

 ガラスの杯が卓に戻される音がして、沈黙が降りた。

 先ほどまで室内を支配していた獣のような熱気は、幕が下りるように遠ざかっていった。代わりに満ちてきたのは、張り詰めた、氷のような静謐さだった。リアンは仰向けのまま、浅い呼吸を繰り返した。ヴァレンの中で何かが切り替わったのを、肌が先に察知していた。熱に浮かされていた雄の気配は潮が引くように失われ、一人の男の冷静さが戻りつつあった。

 ベッドの縁に座ったヴァレンが、ゆっくりと首を巡らせる気配があった。

 リアンの視界では、彼の表情までは捉えられなかった。ただ、自分に注がれる視線の質が根本から変わったことだけは、鋭く刺さる気配となって肌に伝わってくる。

「お前……誰だ」

 低く、削ぎ落とされた声だった。

 怒りも哀しみも、まだ籠ってはいない。事実を問う、剣の刃のような鋭さだけが、その一言を貫いていた。

 リアンの心臓が大きく跳ねた。

 嘘をつき通すべきだと理性が叫んでいた。失敗は死を意味すると告げられた廊下の冷たさが、鮮烈に蘇ってくる。熱気が引いたいまのヴァレンの前で、兄の香水の残り香に縋って誤魔化せるとは思えなかった。何より、自分の身体には、もう偽りを重ねるだけの余力が残っていなかった。

 リアンは震える唇を必死に動かした。

「……陛下。わたくしは、エルスヴェイル家のリアン、と申します」

 声は掠れていたが、言葉は辛うじて形を保った。

「セレンの弟になります」

 沈黙が、一段と深く落ちた。

 ヴァレンは何も言わなかった。ぼやけたリアンの視界の中で、彼の輪郭が一度だけ大きく揺れた気がした。顔を片手で覆ったのか、髪を掻き上げたのか、あるいはただ深く息を吐いただけなのか、判別はつかない。

「……そうか」

 ようやく落ちてきたのは、たった一言だった。

 感情を削ぎ落とした、平坦な声。咎めているのでも、驚いているのでも、哀しんでいるのでもなかった。あるいは、そのすべてが一度に込み上げたせいで、どれひとつも外に出せずにいるのかもしれなかった。

 ヴァレンはしばらく動かなかった。

 やがて側卓に重ねられた布のうち一枚を手に取ると、機械的な手つきでリアンの腿に零れた熱いものを拭い去った。触れる指には、先ほどまでの熱が微塵も残っていない。用を済ませると、ヴァレンは使い終えた布を卓の端に寄せ、無言でリアンの隣に横たわった。

 天井を見据えたまま、何も言わない。

 リアンは沈黙の重さに耐えきれず、目蓋を閉じた。零れそうになる涙を必死で押し戻した。失敗は死を意味するという宰相の冷ややかな声が、今になってずしりと胸にのしかかってくる。

 けれど、いくら待っても、ヴァレンの手がリアンの首にかかることはなかった。

 荒かった呼吸が少しずつ凪いでいき、やがて深く安定した眠りのリズムへと変わっていった。

 外が、白んでいた。

 窓の隙間から薄い光が差し込み、室内が朝の冷ややかな気配を孕み始めていた。

 リアンはしばらくの間、微動だにできなかった。

 天蓋がぼんやりと見える。夜明けの光のおかげで、ようやくその輪郭が視界に入ってきた。身体の奥が熱く重く、指一本動かすのも億劫だったが、リアンは気力を振り絞って身体を起こした。

 側卓には、まだ手を付けていない清潔な布がきちんと畳まれて残されていた。リアンは畳まれた布の一枚を手に取り、ヴァレンの額と首筋に浮かんだ汗をそっと拭った。

 眠っている顔は驚くほど穏やかで、先ほどまでのあの苛烈な声と行為が嘘のようだった。艶やかな黒髪が額にかかり、長い睫毛が端正な頬に影を落としている。リアンは布団を引き上げ、ヴァレンの肩まで丁寧に掛けた。

 散らばっていた夜着を拾い上げ、震える手で袖を通すと、ベッドの端に腰を下ろして床に足を踏み出した。

 だが、次の瞬間、膝から崩れるように力が抜けた。

 厚手の絨毯の上に、膝と手のひらをついた。恥ずかしさよりも、身体を支配する鉛のような重さが勝っていた。夜着の裾を伝い落ちる熱い感触に顔が熱くなったが、リアンはしばらく床に座り込んだまま、荒い息を整えることしかできなかった。

 ようやく立ち上がろうと床に手を突いた瞬間、手首を強く掴まれた。

 抗えない、強い力だった。

 顔を上げると、ベッドの中からヴァレンの手が伸びていた。眠っていたはずの目が、うっすらと開いている。射抜くような琥珀色の瞳が、リアンを静かに見据えていた。

「俺が起きるまで、寝所を出て行くことは許さない」

 声は不機嫌で、低く、そして疑いようのない命令だった。手首を掴む力は緩むことなく、リアンは抗う術もなくベッドへと引き戻された。

 ヴァレンの太い腕がリアンの身体を背後から包み込み、強く引き寄せる。

 外では鳥が鳴き始めていた。夜明けの光が室内を薄白く染めていく。リアンの瞳にも、今はすべての輪郭がはっきりと見えていた。ヴァレンの腕の中に収まりながら、リアンは静かに目を閉じた。

 兄が愛用していた香水の残り香が、まだ微かに漂っている。

 甘い花の香りが、二人を薄いベールのように包み込んでいた。

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     しばらくの静寂の後、ヴァレンがふと口を開いた。「——で?」 その声は不意に質を変え、低く地を這うような響きを帯びた。「詳しく聞かせてもらおうか?」 リアンの背筋が、僅かに強張った。「牢にいたモルセルと、お前が何をしたか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたことのない種類の、抑制された嫉妬が昏く滲んでいた。 次の瞬間、リアンの身体はヴァレンの大きな手によって寝台に押し倒されていた。逞しい身体がリアンの上に跨り、逃げ場を塞ぐ。至近距離から見下ろす琥珀色の瞳が、獲物を射抜くような鋭さを秘めていた。「陛下……」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の襟元をゆっくりと割った。鎖骨の上、そして白皙の首筋——そこに残る、宰相が刻みつけた忌まわしい赤い痕が、午後の光の下に晒される。ヴァレンは、その痕を一つずつなぞるように、冷徹な眼差しで確かめていった。 不意にヴァレンの指が、その痕の一つを強く圧した。「痛っ……」 リアンの口から、思わず小さな悲鳴が漏れた。「ここにある痕は、俺がつけたものじゃない」 ヴァレンの声が、さらに低く落ちた。「その理由を、聞きたい」「それは……」 リアンの声が、消え入りそうに細くなる。「リアンは、『俺だけ』だと、誓ったはずだ」 そこには、嫉妬と、そして隠しきれない傷が滲んでいた。「俺以外の痕が、お前の身体にあるのは、おかしいだろう」 リアンは、たまらず目を伏せた。 すべてを、告げなければならない。そう覚悟を決め、リアンは震える唇を開いた。「兄様にしたことを、聞き出したくて……香に、媚薬と睡眠効果のあるものを、混ぜて使いました」 リアンは、できる限り淡々と、事実だけを語り続けた。「口移しで、毒入りのワインを飲ませて、意識が朦朧としている彼に、少しだけ……身体を許しました。でも、最後まではしてません。睡眠作用で寝たのを確認してから、牢を出ました」「ほう……」 ヴァレンの声が、不気味なほど穏やかになった。「睡眠効果のある香を使うのは、よしとしよう。だが、なぜそこに、媚薬効果のあるものが必要だったんだ?」「そういう……気分にならせて、ほしいなら、ちゃんと話して、と言うためです」「あげるつもりだったと?」「いいえ」 リアンは、首を強く振った。「話を引き延ばしながら、彼が眠

  • 毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜   第二十四話「白金の遺言」

     深い闇の底から、リアンの意識はゆっくりと浮上していった。 最初に感じたのは、規則正しい鼓動の音だった。耳元のすぐ近くで、誰かの心臓が、確かなリズムを刻み続けている。次に、温かな体温。逞しい腕が、自分の華奢な身体を包み込んでいる感触。その安心感に、リアンは一瞬、自分がどこにいるのかを忘れそうになった。(――死んで、ない?) 重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。 霞んだ視界の中に、見慣れた天蓋が広がっていた。寝室——ヴァレンの寝所だ。窓から差し込む光の角度から、もう昼を過ぎていることがわかった。リアンの身体は、淡い寝衣に着替えさせられ、絹のシーツに沈み込んでいた。 すぐ隣で、ヴァレンが寝台の縁に腰掛けて、リアンの顔をじっと見つめていた。 その輪郭は、いつもの皇帝の威厳を僅かに失っていた。漆黒の上着の襟元は乱れ、髪も整えられていない。自分の眠っていた間、ヴァレンがずっとそばで見守り続けてくれたようだ。「……陛下」 リアンは、掠れた声で呼んだ。 ヴァレンの琥珀色の瞳が、深い安堵に揺れた。けれども、その奥には、抑えきれない怒りがまだ燻っていた。大きな手がリアンの頬を包み込み、親指でゆっくりと撫でる。その指先からは、僅かな震えが伝わってきた。「目を覚ましたか」 ヴァレンの声は、低く、震えていた。「よかった……もう、駄目かと思って――」 言葉が、最後まで続かなかった。 ヴァレンの肩が、僅かに震えている。リアンは、その震えに気づいて、胸の奥が痛んだ。死のうとしていた事実が、この男にどれほどの恐怖を与えたか——今、その全貌を知った気がした。最愛のセレンを失った男に、再び同じ絶望を与えようとしていたのだ。 残った側の気持ちを全く考えていなかったと反省する。(罪を犯したから、消えるのが一番だと思ったけど――違うのかもしれない)「陛下、ごめんなさい」 リアンは、震える指でヴァレンの手を握った。「ばか者が」 ヴァレンの声に、抑制された怒りが滲んだ。「罪を、あんな形で清算しようとするとは……許さないぞ」 リアンは、目を伏せた。「殺した罪は、僕が背負わなければなりません。だから——」「殺した罪? なんのことだ」 ヴァレンが、リアンの言葉を遮った。 リアンは、目を見開いた。「え……? だってモルセルに毒を」「モルセルは妻殺しの罪で、処刑した。

  • 毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜   第七話「月影草の残り香」

     離宮の片付け作業の合間、僅かに陽の差し込む穏やかな昼下がりだった。 リアンは南向きのテラスで、指先に春の名残のような日差しを感じながら、静かに針を動かしていた。石造りの床は午前の光をたっぷりと吸い込んでおり、素足に履いた柔らかな室内靴越しにも、じんわりとした温もりが伝わってくる。頬を撫でる風は心地よく乾いていて、咲き誇る花の香りと瑞々しい芝の匂いとを、ほどよく入り混ぜた淡い甘さで鼻先を満たしていた。 糸を引き、針を通し、一針ごとに細やかな模様を白布に編み込んでいく。 この日、国王ヴァレンはリアンの部屋へ、午後の茶を共にすると知らせを寄越していた。中庭で刺繍をしているところを見つかって

  • 毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜   第六話「誰にも届かぬ愛の告白」

     夜の帳が下りるころ、静寂の支配する廊下を渡って、寝所への呼び出しが届いた。 侍女たちの手で湯浴みを済ませたあと、リアンは鏡台の前に座り、重厚な装飾の施された兄の香水の小瓶を手に取った。 最初の夜、侍女が惜しみなく振りかけたものとは違う、ごく控えめな量だ。栓を慎重に抜き、指先に一滴だけ琥珀色の雫を落とすと、脈打つ首筋の片側に祈るような心地で薄く塗り広げた。鼻の利く自分にとって、強すぎる香りは目に見えない刃と同じだった。 鏡の中に映る自分は、どこか知らない他人のように青白い。リアンは震える手で小瓶に栓をした。 ふと、昼間の出来事が脳裏を掠めた。汚れたハンカチを「お前の匂いがする」と囁い

  • 毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜   第五話「白日の密やかなる蹂躙」

     謁見の間の天井は、見上げるたびに首が痛くなるほど高かった。 リアンの霞んだ視界には、天井に描かれているはずの繊細な装飾画は届かない。ただ、頭上から降り注ぐ柔らかな光と、無数の燭台が放つ橙色の光だけが、ぼんやりと混ざり合って広間を満たしているのが感じ取れた。空気は冷ややかに張り詰めており、磨き上げられた大理石の床から這い上がってくる冷気が、薄絹の衣装越しに足首を撫でていく。 玉座の前から数歩離れた位置に、リアンは静かに立っていた。 兄の正妻としての地位を継ぐわけではなく、ただ皇帝陛下の慰みものとして城に上がった身である。家臣たちの並ぶ場での扱いは、ある意味で当然のものだった。それでも、

  • 毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜   第四話「残り香の檻」

     皇帝の居城にある一室が、リアンに宛がわれたのは、最初の夜から三日後のことだった。 家臣団からの命は、拒絶を許さぬほどに簡潔だった。陛下の慰みものとして、城に上がること。そして、護衛として騎士を一名帯同することを許可する、というものだ。「――承知いたしました」 リアンは静かに答え、傍らに控えるルシアンに視線を向けた。ルシアンは何も言わずにただ一度、深く頷いた。その瞳に宿る光だけで、言葉にせずともすべてが伝わった。 与えられた部屋は、エルスヴェイルの屋敷の客間よりも広く、置かれた調度品も一級品ばかりだった。窓からは広大な城の庭園が見渡せ、朝になれば木々の葉が陽光を反射して、宝石のように

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