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Author: 酔夫人
last update Last Updated: 2026-01-28 08:47:03

あやめの目の前に置かれた紙には、【婚姻届書】と確かに書いてあった。

ただ、初めて見る本物のそれは、あやめにはドラマの小道具のように見えた。

いまこの瞬間、他人の人生を脇から覗き込んでいるような感覚にあやめは陥った。

「何かの、冗談、ですか?」

「冗談でこんなものを用意しない」

父親の、呆れているのか、硬く冷めた声。

「桔梗、お前は神崎家に嫁にいくんだ」

「お父様っ!」

神崎家が、普通の家ならばあやめもここまで驚かなかった。

神崎家は龍神会の総長家。

その家主の妻となれば、清廉潔白である政治の世界とは完全に分かれることになる。

政治家の娘として生まれたあやめにとって、”全て”を奪われる気がした。

「あやめ、この結婚は、柊家と神崎家、両家のために必要なだけのものではない」

(じゃあ、なんのために……)

「二人の結婚は、日本の安全のために必要な結婚なんだ」

あまりの目的の大きさにあやめは驚き、父親の顔を見た。  

父親の目には、情も迷いもなかった。

政治家としての顔――冷徹で、計算高い目だった。

「日本の、安全?」

「朱雀会が動いている」

朱雀会は関西を中心に規模の大きな組織。

新興勢力だが海外との繋がりで一気に巨大化すると同時に、昔ながらの暗黙のルールに則らないため裏の世界でも持て余している存在だ。

「朱雀会の関東への進出はもはや時間の問題だ。 だが、龍神会と柊家が婚姻関係を結べば、東京の裏と表は一枚岩になる。それが、奴らへの最大の牽制になる」

あやめは、言葉を失った。  

龍神会に朱雀会。

近からずとも遠からずの任侠の世界が、音もなくあやめに近づき、突如その黒い口を開けた気がした。

(いつかは、何かのために結婚するとは思っていた)

初対面の男との結婚に、抵抗がないわけではないが、あやめも覚悟はしていた。

ただ、あやめにも、大臣・柊謙一の補佐をしてきた自負がある。

あやめが父親として慕ったことはない父親だが、あやめにとって全ての欠点を補って余りある美点が彼にはあった。

それは、父親が妻を、さくらとあやめたち姉妹の母親をいまも愛していることだ。

母親は早くに亡くなり、当時まだ男盛りで、政治家としても熟しはじめた柊謙一は周りに再婚を勧められた。

いまも、勧められていることも知っている。

それでも、父親は一度も首を縦に振らなかった。

その姿が、幼いあやめには嬉かった。

だから、あやめは母親の代わりに父親を、そして大臣・柊謙一を支えようと、政治家の秘書として必要なスキルを身につけ、経験を積んできた。

(でも、この結婚は”私”である必要はない)

柊家と神崎家を繋げるための楔になればいい存在。

柊家には、もう一人娘がいる。

姉のさくらだ。

柊謙一には二人の娘しかおらず、あやめが物心つく前から「柊謙一の娘婿」が柊謙一の地盤を継ぐとされていた。

あやめが中学生の頃には、「柊さくらの婿」が地盤を継ぐとされた。

柊謙一の後援会は、姉を重用している。

だから、後援会の者たちにとって柊謙一の娘は、柊さくら。

これに、あやめが反対したことはない。

父親のサポートを見れば、政治家の妻がどんなふうに振る舞わなければいけないか分かる。

あの煌びやかな世界は昔から苦手だ。

だから、あやめは柊家に婿がきたら、自分は父親の望む家との縁繋ぎのため地方の有力者の家に嫁ぐのだろうと漠然と思っていた。

それが形になっていなかったのは、父親たちが姉の婿ばかりを探していたから。

あやめのことは、二の次。

(いつもなら、お姉様が一番なのに。どうして、今回に限って)

あやめは、悔しかった。

「お父様。神崎様の家に嫁ぐのは私ではなく、お姉様のほうが……」

姉に相応しく、さらに、姉が望む役柄ではないか。

龍神会の組長といえば、大企業である神崎芸能のCEO。

それに、神崎冬弥は端正な顔立ちで、バランスのいい筋肉質な体はすらりと背が高い。

(神崎冬弥は、地位も見た目もお姉様の好みだわ)

「だめだ」

「なぜ」

「危ないからだ」

(……それは……)

父親の声が、あやめの心に冷たく響いた。  

(私なら、危なくても、いいの?)

「俺も、望んでいるわけじゃない」

あやめが思ったことを口にしようとした瞬間、神崎冬弥が初めて口を開いた。

低く、抑えた声だった。  

だがその中に、確かな意志があった。

「随分と俺との結婚を嫌がっているようだが、これは両家にとって必要な結婚であり、俺が望んだわけではない」 

淡々と、まるで分からず屋の幼子に言い聞かせるような口調。

あやめの顔が赤くなった。

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