LOGIN冬真と結婚して、もう十年になる。 その間、彼が浮気してきた相手――歴代の「彼女たち」とは、全部顔を合わせてきた。 彼が飽きて新しい子に乗り換えたくなったとき、私の存在はいつも便利な口実だった。 「結婚したら、君も彼女みたいになるよ。慣れすぎて、何のドキドキもなくなる」 まるで見せしめみたいに、私を指してそう言う。 結婚記念日の今日、私は彼が振ったばかりの大学生の子の涙を拭いてる。 その頃、冬真は新しい子を連れて映画館でデート中。 一箱まるごとティッシュを使い切ったとき、ふと、昔の自分がそこに重なった。 ……だから、私は冬真に離婚を切り出した。 彼はめずらしく戸惑った顔をして、ぽつりとつぶやいた。 「もう少し待てばよかったんじゃない?俺が更生して、まともになるかもよ?」 私はただ静かに笑って、何も言わず、海の向こうへの片道切符を予約した。 あなたが振り向いてくれるのを待つより、 ――先に、行くね。
View Moreたまにお客さんと連れ立って展示を回ると、そのうちのひとりが私の首に腕を回して、もうひとりにこう紹介する。「この人、元・九条夫人よ……でもね、なんか彼の秘書っぽくない?」私は苦笑いで返した。「どうして?」「だってさ、正妻が別れ話の慰謝料を多めに請求するように説得してくるなんて、初めて見たよ。もう、どれだけ親切なのよ」二人の笑い声が重なった。私はその横顔を見ながら、心の中では静かな波が立っていた。……涙で顔を腫らすような再会じゃなかった。それだけでも、進んだ証なのかもしれない。でも、ほんの少しだけ、胸がチクリとした。――あの子、凛花。やっぱり、惜しかったな。そのあと、カフェの外に出てテイクアウトのコーヒーを取りに行ったとき、背後から誰かに呼び止められた。振り返ると、車椅子がゆっくりと近づいてくる。目が合った瞬間、私はすぐに冬真だと分かった。気温は上がってきていて、彼のシャツの襟元はゆるく開けられていた。それでも、脚は薄いブランケットで覆われたままだった。私の視線がそこに落ちたのを察したのか、彼は慌てて手で布を整えた。「……オープンしてから、まだ来たことなくてさ」何か言い訳を探すように、あるいは用意していた言葉を忘れたような口ぶりだった。私は微笑んだ。「九条社長は、私の昔の作品を並べるためにわざわざ美術館まで建ててくれたんでしょう?ギャラリーなんて、来る必要ないじゃない」そう言いながら、私は少し身をかがめて、彼の膝掛けを整えた。「それより……あなたの部下に四六時中つけ回させるの、やめてくれる?」視線の端に映ったのは、壁の陰にさっと隠れた黒い服の男。もう何ヶ月も続いていた。冬真は口を開きかけたけど、何も言えなかった。その目に浮かぶのは、寂しさだけだった。そのとき、ギャラリーの2階、吹き抜けのバルコニーから若い男性が顔を覗かせた。額の汗を拭きながら、冬真の方に一瞬だけ視線を投げて、眉間にしわを寄せ――すぐにほどいた。「心音、終わったら早くおいで。お腹すいた」私は、冬真の手が一瞬ギュッと強く握られたのを敏感に察した。その手の甲には、はっきりと血管が浮かび上がっていた。思わず彼の肩を軽く叩いて、笑いながら言った。「もういいって……来なくていいから」
私は、小さいころからずっと美遥の「引き立て役」だった気がする。ちゃんと形の整っていない彼女の影、その残像みたいな存在。彼の視線を避けながら、私は無言で布団の端を直した。……でも、その手が途中で止まった。沈み込んだ布団を見た瞬間、胸の奥がズキッとえぐられたようだった。彼は、少し気まずそうに笑った。「……もう、遊びまわる足も残ってないしね」私は思わず顔を上げて、彼を睨みつけた。胸の中から、一気に熱が込み上げてくる。「……冬真っ!あんた、正気なの?凛花を乗せてたのに、なんであんなスピード出したの!?」彼の手が、布団の上でかすかに震えていた。口元がわずかに動いたけど、そこにはもう軽薄な笑顔なんて微塵もなかった。「ほんの一瞬だったんだ……彼女が、お前に見えた」あの日、冬真は凛花と話をつけに行った。あまりに馬鹿げた日々を過ごしていたせいで、彼はもう、自分の心に押しつぶされそうになっていた。両親があの子を望んでいることなんて、もちろん彼も分かっていた。たとえ世間的に見ればどれだけ後ろ暗くても。玄関前で、彼は長いこと立ち尽くしていた。どんな言葉を使えば、どれだけの条件を提示すれば、彼女を引き下がらせられるか――それが、冬真にとっての「最後の賭け」だった。凛花が子どもを諦めて、どこかへ去ってくれるなら――きっと、その時初めて、心をまっすぐにして、私を迎えに来られるはずだった。……でも、事態は一瞬で狂った。凛花が階段から足を滑らせ、倒れた。ドアを開けて飛び込んだ彼が見たのは、階段に点々と残る血の跡だった。焦りと混乱のまま、彼は彼女を抱き上げて車に乗せ、病院へと走った。「ずっと泣き叫んでた……痛いって、助けてって、彼女が」時間が重なり、意識がぼんやりと遠のいた。「……もしあの日、もう少し早くお前を病院に連れて行ってたら、『助けて』ってお前が言った時、俺が背を向けなかったら――そしたら、まだやり直せてたのかな……?」スピードを上げた車の中で、彼はもう目的も忘れていた。なぜ凛花のもとへ向かっていたのかさえ、記憶から抜け落ちていた。泣き叫ぶ声と、手のひらいっぱいに広がる血の感触――その衝撃に、冬真は目を赤くしながら、歯を食いしばっていくつもの赤信号を無視して突っ走
あの日、彼が帰ってきたのはもう夜中を過ぎた頃だった。体からは、香水とお酒の匂いが混ざった空気が漂っていた。私は緊張しながら、父に渡された投資計画書を彼に手渡した。そのとき、冬真の目に浮かんだ嫌悪感は――まるで獰猛な獣がこちらを食らい尽くそうとするような強さだった。どうやってソファに押し倒されたのか。どうして服が破かれたのか。その後の記憶は、細切れでよく思い出せない。激しく噛みつかれるような痛みと、それに耐えきれず漏れた泣き声――その夜のすべてが、今でも私の悪夢になっている。冬真がようやく正気を取り戻したのは、止まらなかった出血だった。血でぐっしょりと濡れたカーペットが、それを教えてくれた。私たちに子どもがいると分かった瞬間から、その命が消えてしまうまで――ほんの半日足らずの出来事だった。「……医者の言ってたこと、聞こえてた。お前が彼に、私には違う説明をしろって脅してたのもな」私は何か言おうと口を開いたけど、彼の複雑な表情を見ているうちに、言葉が出なくなった。「冬真、もしかしたら私たち、どこかでお互いを愛してたのかもしれない……でも、その『愛してた時間』が、ずれてたんだと思う。振り返ってみたら、残ってるのは……苦しい記憶ばかり。そんな関係に、もう意味なんてある?」冬真は何も言わなかった。ただ、きつく引き結ばれた口元と、わずかに下を向いた顔が印象的だった。どれくらい時間が経ったのか。彼はようやく立ち上がり、静かに部屋を出ていった。ドアを閉めるその後ろ姿が、妙に小さく見えた。数日後――十年ぶりに、私は独り身に戻った。霧国から連絡が届いた。あの展示会で出した絵が、すべてまとめて高額で買い取られたらしい。口座には、見慣れない額が振り込まれていた。そして再び、冬真の名前を耳にしたのは、それからさらに半月以上たった頃だった。昔、彼が夜遅くまで帰らなかったとき、私はいつも夜通しテレビをつけていた。雑音が欲しかった。誰もいないあの家に、少しでも「人の気配」が欲しかった。その頃の私は、毎晩悪夢を見ては目を覚まし、そして、現実の「悪い知らせ」を受け取るのが常だった。スピードの出しすぎで事故死したとか、ワイドショーにぴったりな浮気スキャンダルだとか。そして今、電話
「私はね、彼女たちのこと――全部『元カノ』って呼んでたの。たとえ、私たちがまだ結婚してる間に出会った女の子でも、そう言ってた。でも、彼女たちは誰一人として、私たちの結婚を壊したわけじゃないの。この十年、私を少しずつ蝕んでいったのは――あなただけよ、九条冬真」彼女たちはみんな、通りすがりだった。あっという間に現れて、あっという間に消えていった。私はずっと、彼女たちは少なくとも私よりは「特別」だったのかもしれないと思ってた。少しぐらい、冬真の心に何か残したのかもしれないって。でも――その目に、ただ迷いしか浮かべられない彼を見ていたら、突然、彼女たちに対して深い同情が湧いた。「……覚えてないの?この子は、あなたが特に気に入ってたわ。付き合って一年以上、最後はウェディングドレスまで着て戻ってきた。この子は、私の両親にバレて問い詰められたから、あなた、腹いせに稲留家の融資を何件も止めた」この十年、両親が私に言ってきた理不尽な要求は、数えきれないほどある。だから正直、いま彼らの話をしても、私の心はそんなに波立たなかった。でも、冬真は違った。その手のひらに、じわりと汗が滲んでるのがわかった。しばらくして、彼はようやく口を開いた。「……そうだっけ?いや……覚えてないな」三千日以上の歳月、そして数えきれない女の子たち。咲いては枯れて、また咲いて――壁一面に広がるその「花」の数に、目が眩む。私は「花のように咲く」の絵に向かって歩き出そうとした。だけど、彼が私の手を強く引き止めた。目にはどうしようもない焦りが宿っていて、唇が震えている。「もう……やめよう。もう見なくていい……帰ろう、俺、これからはずっとそばにいるから。ふたりだけでいいんだ」私はまっすぐに彼の目を見た。「もう一度言って」ほっとしたように彼は頷きながら、ひとことずつ、しっかりと繰り返した。彼の手が、少しずつ温もりを取り戻していく。「でも、私はもう望んでないの。九条冬真」彼のポケットのスマートフォンが震えている。その振動が、規則的に鳴り響くたび、私は何かを思い出す。あれは、ずっと昔から鳴りやまなかった「音」だった。離婚には、思った以上に時間がかかった。最終的には訴訟へと進むことになった。