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永遠に、お前を失った

永遠に、お前を失った

By:  黒紅嵐樹Completed
Language: Japanese
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冬真と結婚して、もう十年になる。 その間、彼が浮気してきた相手――歴代の「彼女たち」とは、全部顔を合わせてきた。 彼が飽きて新しい子に乗り換えたくなったとき、私の存在はいつも便利な口実だった。 「結婚したら、君も彼女みたいになるよ。慣れすぎて、何のドキドキもなくなる」 まるで見せしめみたいに、私を指してそう言う。 結婚記念日の今日、私は彼が振ったばかりの大学生の子の涙を拭いてる。 その頃、冬真は新しい子を連れて映画館でデート中。 一箱まるごとティッシュを使い切ったとき、ふと、昔の自分がそこに重なった。 ……だから、私は冬真に離婚を切り出した。 彼はめずらしく戸惑った顔をして、ぽつりとつぶやいた。 「もう少し待てばよかったんじゃない?俺が更生して、まともになるかもよ?」 私はただ静かに笑って、何も言わず、海の向こうへの片道切符を予約した。 あなたが振り向いてくれるのを待つより、 ――先に、行くね。

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Chapter 1

第1話

九条冬真(くじょう とうま)と結婚して、もう十年になる。

その間、彼が浮気してきた相手――歴代の「彼女たち」とは、全部顔を合わせてきた。

彼が飽きて新しい子に乗り換えたくなったとき、私の存在はいつも便利な口実だった。

「結婚したら、君も彼女みたいになるよ。慣れすぎて、何のドキドキもなくなる」

まるで見せしめみたいに、私を指してそう言う。

結婚記念日の今日、私は彼が振ったばかりの大学生の子の涙を拭いてる。

プレイボーイと結婚するには、修行が要る。手元のティッシュがどんどん薄くなっていくのを見ながら、ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。

目の前の女の子、名前は朝倉凛花(あさくら りんか)。まだ大学四年生らしい。

ここに来てから、もう二時間も泣きっぱなしだ。

そもそも、彼と付き合ってからまだ一ヶ月しか経ってない。

そこまでメイクぐしゃぐしゃにして泣くような間柄じゃないはずなんだけどなあ。

何か声をかけようとした瞬間、彼女が目を赤くしながら私を見た。

「彼、言ってたの。私ってあなたにちょっと似てるって……こうして見てみると、確かに似てるかも」

私は一瞬固まった。

今まで冬真の彼女たちがそんなこと言ってきたことは、一度もなかった。

凛花は鼻をすすりながら、目元を拭った。

その口調には、痛々しい嘲りすら混じっている。

「慰めなんていらない。あなたのほうが、よっぽど可哀想よ」

……まあ、そうかもしれない。

浜市じゃ誰でも知ってる話だ。冬真って、すっごく「良い奥さん」貰ったんだって。

浮気されても黙ってて、しかも彼の元カノたちを慰める。

彼が次々に手を出していた子たちのことを、私はいつも「元カノ」と呼んでた。

その度に、私は正妻のプライドなんて地面に落としてたんだ。

テーブルに置いたスマホがブルブル震える。

画面には、冬真の名前。

【まだ終わらないの?映画もうすぐ始まるよ】

……映画、ね。

私はスマホを伏せて、真っ赤な目をした凛花と視線を合わせた。

「何か補償が欲しいなら、言って。私が話を通すから」

このセリフ、何度も口にしてきた。

今ではすっかり慣れた口調。まるでリストラ担当の人事部みたいだ。

凛花は鼻で笑って、勢いよく立ち上がる。

「何もいらない」

私はため息をついた。

「せめて、何かもらっときなよ」

お金でも、車でも、家でも――ちゃんと手に残るものを。

でも、彼女の目はどこまでも冷たくて。

そして、次の瞬間。

彼女は、手元の冷えきったカフェオレを、ゆっくり私の頭からぶちまけた。

「……妊娠してるの。私は、産むつもりだから」

私は呆然と彼女を見つめたまま、何も言えなかった。

慰めの言葉も、もう浮かばなかった。

……それにしても、冬真。

あなたがくれた約束――一つも、果たされてないね。

髪からしずくが落ちるまま、びしょ濡れで助手席に座り込んだとき、冬真は電話の最中だった。

隠そうともせず、相手が誰かはすぐに分かった……また、新しい子がいるんだ。

私は無意識にシートベルトをぎゅっと握りしめてた。

指先が痛くなるほど力が入っていた。

電話の向こうで何か言われたのだろう。

冬真は目尻にしわを浮かべるほど笑って、言った。

「はいはい、今夜は君のところ行くから」

電話を切ると車のエンジンをかけ、ふと私に目を向けた。

けれど、ハンドルを握る手が急に強くなって、顔もみるみるうちに険しくなる。

「……あれ、あいつにやられたのか?」

私はもうティッシュを引き抜いて、頭を拭いていた。

黙っていると、彼が身を寄せてきて、そのティッシュを取り上げた。

「動くな」

思わず体をそらすと、冷たい声とともに、ぐいっと腕を引かれて抱き寄せられた。

冬真は無言で、でも丁寧に私の髪を拭いてくれる。

その眉間には深いしわが寄っていて、顔つきも険しいままだ。

「お前さ……ただ黙って座ってるだけで、あんなのぶっかけられたのか?

稲留(いなどめ)、お前、昔は俺に噛みつく勢いだっただろ?その元気はどこ行ったんだ?」

昔――そう言われて、さっきから胸の奥に広がっていた虚しさがさらに深く染み込んでいく。

私は彼の腕からするりと抜けて、冷たく言った。

「妊婦に怒鳴り散らすような人間にはなりたくなかったのよ……あなたは、どう?」

冬真はばつが悪そうな顔をして、それでも無言で髪を拭き続けた。

その後、車内には言葉がなくなった。

彼は黙々と運転し、私はずっと窓の外を見ていた。

でも、視線の端にはちゃんと映ってた。

彼が、時折こちらをちらちら見てくることが。

心の中で、波紋が静かに、けれど確かに広がっていく。

もう失望すら通り過ぎた――ただ、何も感じなくなっていた。

映画は、ほとんど覚えていない。

彼は終始スマホをいじって、誰かとメッセージをやり取りしていた。

「結婚記念日」なんて言葉は、スクリーンが暗くなる頃には完全に忘れ去られていた。

いや、最初から存在してなかったのかもしれない。

それでも私は、エンディングの後、彼の隣に座って「夫婦のふり」を続けた。

滑稽だけど、それが今夜の役目だったから。

招かれたのは、親族と昔なじみばかり。

冬真の実家からの招待状は、半月も前に届けられていたらしい。

会場では、グラスが交わされ笑顔が飛び交う中、彼は相変わらず軽やかに立ち回って――その合間に、私のために器用にエビの殻を剥いてくれた。
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第1話
九条冬真(くじょう とうま)と結婚して、もう十年になる。その間、彼が浮気してきた相手――歴代の「彼女たち」とは、全部顔を合わせてきた。彼が飽きて新しい子に乗り換えたくなったとき、私の存在はいつも便利な口実だった。「結婚したら、君も彼女みたいになるよ。慣れすぎて、何のドキドキもなくなる」まるで見せしめみたいに、私を指してそう言う。結婚記念日の今日、私は彼が振ったばかりの大学生の子の涙を拭いてる。プレイボーイと結婚するには、修行が要る。手元のティッシュがどんどん薄くなっていくのを見ながら、ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。目の前の女の子、名前は朝倉凛花(あさくら りんか)。まだ大学四年生らしい。ここに来てから、もう二時間も泣きっぱなしだ。そもそも、彼と付き合ってからまだ一ヶ月しか経ってない。そこまでメイクぐしゃぐしゃにして泣くような間柄じゃないはずなんだけどなあ。何か声をかけようとした瞬間、彼女が目を赤くしながら私を見た。「彼、言ってたの。私ってあなたにちょっと似てるって……こうして見てみると、確かに似てるかも」私は一瞬固まった。今まで冬真の彼女たちがそんなこと言ってきたことは、一度もなかった。凛花は鼻をすすりながら、目元を拭った。その口調には、痛々しい嘲りすら混じっている。「慰めなんていらない。あなたのほうが、よっぽど可哀想よ」……まあ、そうかもしれない。浜市じゃ誰でも知ってる話だ。冬真って、すっごく「良い奥さん」貰ったんだって。浮気されても黙ってて、しかも彼の元カノたちを慰める。彼が次々に手を出していた子たちのことを、私はいつも「元カノ」と呼んでた。その度に、私は正妻のプライドなんて地面に落としてたんだ。テーブルに置いたスマホがブルブル震える。画面には、冬真の名前。【まだ終わらないの?映画もうすぐ始まるよ】……映画、ね。私はスマホを伏せて、真っ赤な目をした凛花と視線を合わせた。「何か補償が欲しいなら、言って。私が話を通すから」このセリフ、何度も口にしてきた。今ではすっかり慣れた口調。まるでリストラ担当の人事部みたいだ。凛花は鼻で笑って、勢いよく立ち上がる。「何もいらない」私はため息をついた。「せめて、何かもらっときなよ」お金でも、
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第2話
目の前の皿には、殻を剥いたエビが小山みたいに積まれていた。けれど私はただ、冬真が袖をまくった手首を、ぼんやりと見つめていた。……あのゴム、誰の?胸の奥がぞわっとして、もう食欲なんてどこかへ吹き飛んでいた。自分の手でエビを剥いてくれる人だからって、それが愛とは限らない。結婚して十年、記念日を欠かさず覚えてくれる人でも、愛してるとは限らない。指輪を風呂のときでさえ外さないような人でも――それでも、愛じゃないこともある。そういうこと、全部冬真が教えてくれた。まだ子どもの頃、幼なじみだった二人、さらには釣り合いの取れた家柄。でも、それは全部――冬真と、私の姉、稲留美遥(いなどめ みはる)の話。私はその風景の、ほんの端っこにいたに過ぎない。恋愛なんてまだ何も分からない頃から、九条家とうちが将来ひとつになるって話は聞かされてた。姉が彼と会うたびに、頬を赤らめていたことも知ってる。そして、あの傲慢で名高い冬真が、姉の前ではやけにおとなしくしていたことも。だから、私は……こっそり彼の好きそうなレコードを集めていたけど、結局、全部しまい込んだ。三人で過ごしていたあの頃、私はいつも姉の影だった。日が昇りきるように、ふたりの関係が深まっていくなかで――私の居場所なんて、最初からなかった。そんなふたりの関係に、突然の終わりが来たのは、姉が二十歳になった年。いつも品のあった姉は、婚約式の前夜、家を出てしまった。けれど……その翌日、あの飛行機事故で帰らぬ人になった。同時に、姉が残した日記が見つかった。そして、九条家が抱えていた破綻寸前の危機と、その裏の醜さも――もう隠しようがなくなった。あの奥ゆかしさも、恥じらいも、全部演技だったんだ。姉はずっと、親の都合に振り回される「取引材料」として生きてきた。お見合いの裏には、夢のような恋なんて存在しなかった。あるのは、私の両親の計算と打算だけ。あの時、姉がたった一度だけ、自分のために選んだ道――それが、命を賭けることになるなんて。私はほとんど、稲留家の最後の望みを背負うような形で、急かされるまま冬真との婚約を決めて、結婚まで進められた。九条家の顔を立てるために。破綻寸前だった我が家を救うため。そのすべてが終わる
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第3話
あの時のことは、今でも忘れられない。病室の外に現れた冬真の、あの冷たい声――「……よかったんじゃないか。もともと、いるはずのなかった子だ」それ以来、私たちはまるで何かの「了解」を交わしたように、互いに干渉しなくなった。彼はそのままプレイボーイを続けた。稲留家が……完全に潰れさえしなければ、それでいい。彼がどれだけ恋人を作ろうが、結婚さえしなければ、それでいい。少なくとも――「命」に関わるようなことが起きなければ。……なのに、約束を破ったのは、冬真の方だった。稲留家はもう、とっくに両親を失い、空っぽの殻だけが残ってる。もう、無理して守る意味なんてなかった。私の額には熱がこもり、車窓にもたれかかると、吐息すら火照っている。冬真は凛花を落ち着かせると、戻ってきて私の側へ。ドアを開け、私の手を取って首の後ろにまわし、そのまま抱きかかえるようにして救急へ向かった。彼の肩越しに、私は凛花の表情を見た。鼻をすすりながら、私の方を憎らしげににらみつけていた。すれ違うとき、彼女は彼の服を掴もうとした――けれど、それも空振りだった。冬真は迷いのない足取りで進む。どんな名彫刻家でも再現できない、その整った顔に険しい影を浮かべて。彼はいつも、私に「錯覚」をくれる。どれだけ他の誰かに傾いても、いずれは、私の元に帰ってくるんじゃないか――って。でも、今回は違った。私は首を小さく振る。目が覚めたのは、今度こそ私の方だった。「……冬真、私たち、離婚しよう」その言葉に、彼の歩みが一瞬止まる。けれど視線は、私に向けられなかった。「……え?」「離婚、してくれる?」彼の顔には、複雑な感情が交錯していた。重く沈んだ表情から、困惑、そして――やがて苦笑。「もう少し待てばよかったんじゃない?あと数年すれば……」彼は私をひと目見て、口元をゆがめた。その笑みに込められていたのは、からかいの色。「俺が更生して、まともになるかもよ?」私も笑った。けど、目の奥がじんわり熱くなる。たぶん、熱がまた上がってきたんだと思う。「……そしたらどうしようね?新鮮味もないし――じゃあ、兄妹ってことで仲良くしよっか?」その瞬間、冬真の顔がピクリと固まった。噛みしめた奥歯にぎゅっと力が
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第4話
その頃の私は、まだ知らなかった。冬真が私を探して、浜市をまるごとひっくり返す勢いで動いていたことなんて。霧国。そこはかつて、美遥が行きたがっていた場所だった。彼女は叶えられなかったけど、私はこうして来ていた。さびれていく街をひとりで歩いていると、ふと自分が美遥になったような気がした。誰も知らなっかた、私がこっそり絵を学びはじめたのは、心から絵を好きだったからじゃない。そうすれば、彼女に――美遥に、少しでも近づける気がしたからだ。彼女に似ていれば、きっと冬真の近くにいられる。もっと、もっと近くに。だけど皮肉なことに、美遥は途中で絵をやめてしまった。筆を置いた彼女と入れ替わるようにして、「絵が語りかけてくる」ってまで言われる、天才画家――それが私になっていた。冬真と結婚していた十年間。その時期こそが、私の作品が最も評価された時期でもあった。今では、あの頃描いた何十もの作品が、霧国でいちばん大きな美術館に飾られている。私は、ぼんやりした日々を過ごしながらも、美術館に足を運ぶことはなかった。そして展示の最終日が近づいたある日、ようやく中に入った。予想通り、観客はまばらになっていた。厚手のコートを羽織った私は、ようやくひとつひとつの絵と、ちゃんと向き合えた。「燃焼」「囚われの鳥」と見てまわり、私は「花のように咲く」の前で足を止めた。その隣に、誰かが立っていた。視線は私と同じく、枯れた少女の頬に向けられていた。「花開くっていうのはさ、命を燃やすこと。でも――所詮は無駄な蛾の火遊びだ」彼は軽く笑ったが、その目に笑みはなかった。ちらりとこちらを見たその瞳に、私は見透かされるような居心地の悪さを覚える。まるで私じゃなくて、別の「誰か」を見てるような目。その視線に、強い嫌悪感が湧いた。過去十年、冬真に感じ続けてきた、あの嫌な目とまったく同じだったから。私は足を動かし、彼から離れようとした。でも彼は、急ぐでもなく、ゆっくりと私のあとをついてくる。「君たち、よく似てるよ」思わず足が止まり、指先がピクリと震えた。彼の声が、低く静かに背後から届く。「美遥が言ってた。君の方が絵の才能は上だって。それに、稲留家に嫁ぐのも君の方が向いてる。君は生まれつき翼を持ってて
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第5話
冬真はようやく我に返り、ぐっと手を引っ込めた。少し面倒くさそうに手を振り払って言った。「もういい、行けよ。例の条件は……うちの秘書に伝えておけ」彼の後ろに控えていた男たちが、その合図で悠を連れて行こうとする。私は思わず、二歩前へ出て叫んだ。「待って!さっきの話って……どういう意味!?」冬真がすぐに私の前に立ちはだかり、鉄のような手で私の肩を掴んだ。「気にするな。帰るぞ」その言葉を振り切って、私は全身の力を込めて逃れ、悠の襟元を掴んだ。「……お金が欲しいんでしょ?あげる。だから、さっき言ったこと、ちゃんと説明して!」心臓がドクドクと騒がしく鳴る。聞きたくない。でも、知りたい。この胸のざわつきが、今まで感じたことのない恐怖に変わっていく。悠は束縛からすでに逃れていた。私を見下ろしながら、ゆっくりと視線を冬真へと向ける。「先月さ、あんたの出資をずっと待ってた時、俺はようやく色々と悟ったんだ」「十年だぞ。十年あれば、向いてない道は何をやっても上手くいかないって証明するには十分だった。だから、あんたたちの離婚の話を耳にした時、正直……ほっとした。やっともう一人、自由になれる奴が出てきたって思ったよ。ただひとつだけ悔やまれるのは、俺の美遥だけだ」その目は、燃えるように真っすぐだった。私を見据えるその視線に、何かを焼きつけるように続ける。「――あの時のこと、知ってるか?結婚式の前夜だ。九条は、あの時すでに分かってたんだ。美遥が逃げようとしてたこと。逃亡を手助けしたのも、彼だった。迎えの手配も、飛行機のチケットも、全部――美遥を連れ出すために、九条が準備したものだった」耳の奥に、十年前の声がぐるぐるとこだまする。あの夜、扉の向こうで、両親が冬真に必死で縋っていたのを思い出す。「式、前倒しにできませんか……?とにかく『九条家と稲留家の縁組』って言ってるだけで、姉か妹かなんて、誰も気にしませんから……」沈黙ののち、冬真の声が――あまりにも冷たく、感情のないトーンで返ってきた。「できるだけ早く進めてくれ。九条家の名に、稲留家みたいな泥は塗りたくないからな」悠は、笑いながら言った。「そこまでして彼女を嫁にした結果が、それか?十年かけて、心音を浜市の笑い者にしただけ
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第6話
胸の奥から、またあの底知れぬ距離感がせり上がってきた。私は静かに顔を上げて、冬真を見つめた。「美遥は、全部知ってたの。私が、あの頃どれだけあなたのことが好きだったかを。覚えてる?私の最初の個展――結局うまくいかなかったあの展示。会場中に並んだのは、私が描いた『あなた』ばかりだったの」唇に、ほろ苦い笑みが滲む。「姉さんがそれを見たら悲しむと思って……だから私は、こっそり彼女の絵も何枚か飾ったの。『付き合って一年記念のプレゼント』ってことにして」あの時、私は三ヶ月もかけて準備した。緊張しながら、個展のチケットを姉さんの机の引き出しに入れて。そして階下に降りた瞬間、あの浮かれた空気に押しつぶされた。翌日が、二人の――婚約発表の日だった。絵には嘘がつけない。筆に込めた感情は、どうしたって滲み出る。美遥はきっと、何度も私のアトリエを覗いていた。白い布をそっとかけて隠していたキャンバス――それも、見ていたはずだ。冬真を描くときの、私の胸の奥にある想い。言葉にできなかった感情。全部、彼女の目には映っていた。今なら、ようやく分かる。私はようやく、当時を少し離れた場所から見られるようになった。あの観覧車に乗った日のこと。美遥は高所恐怖症で、私をそそのかして冬真と乗せようとした。ふたりで並んで降りてきたとき、彼女はニコニコしながら言った。「ねえ、あんたたち、こうして並んでると案外お似合いかもよ?」顔が一気に熱くなった。私は、まさか――心の奥を見透かされた気がして、動揺した。けれど、冬真はその横でわざと目をそらしながら笑った。「心音?笑わせんな!兄妹のほうがまだいいかも」軽い口調で続けた。「無口で面白くねぇし。なあ、兄貴って呼んでみ?これから守ってやるよ」私は真っ赤になって、急いでその場を離れた。でも胸の中では、苦しさだけが波のように押し寄せていた。――あれから、私は「絵を描く」って言い訳をして、アトリエにこもるようになった。彼らの誘いも、すべて断った。あの頃、まだ心をコンクリートで封じ込めることができなかった。でも今は、冬真がこの十年かけて、しっかりと固めてくれた。彼と目を合わせても、もう――胸は騒がない。彼の目に浮かんだ「気づいたよう
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第7話
「私はね、彼女たちのこと――全部『元カノ』って呼んでたの。たとえ、私たちがまだ結婚してる間に出会った女の子でも、そう言ってた。でも、彼女たちは誰一人として、私たちの結婚を壊したわけじゃないの。この十年、私を少しずつ蝕んでいったのは――あなただけよ、九条冬真」彼女たちはみんな、通りすがりだった。あっという間に現れて、あっという間に消えていった。私はずっと、彼女たちは少なくとも私よりは「特別」だったのかもしれないと思ってた。少しぐらい、冬真の心に何か残したのかもしれないって。でも――その目に、ただ迷いしか浮かべられない彼を見ていたら、突然、彼女たちに対して深い同情が湧いた。「……覚えてないの?この子は、あなたが特に気に入ってたわ。付き合って一年以上、最後はウェディングドレスまで着て戻ってきた。この子は、私の両親にバレて問い詰められたから、あなた、腹いせに稲留家の融資を何件も止めた」この十年、両親が私に言ってきた理不尽な要求は、数えきれないほどある。だから正直、いま彼らの話をしても、私の心はそんなに波立たなかった。でも、冬真は違った。その手のひらに、じわりと汗が滲んでるのがわかった。しばらくして、彼はようやく口を開いた。「……そうだっけ?いや……覚えてないな」三千日以上の歳月、そして数えきれない女の子たち。咲いては枯れて、また咲いて――壁一面に広がるその「花」の数に、目が眩む。私は「花のように咲く」の絵に向かって歩き出そうとした。だけど、彼が私の手を強く引き止めた。目にはどうしようもない焦りが宿っていて、唇が震えている。「もう……やめよう。もう見なくていい……帰ろう、俺、これからはずっとそばにいるから。ふたりだけでいいんだ」私はまっすぐに彼の目を見た。「もう一度言って」ほっとしたように彼は頷きながら、ひとことずつ、しっかりと繰り返した。彼の手が、少しずつ温もりを取り戻していく。「でも、私はもう望んでないの。九条冬真」彼のポケットのスマートフォンが震えている。その振動が、規則的に鳴り響くたび、私は何かを思い出す。あれは、ずっと昔から鳴りやまなかった「音」だった。離婚には、思った以上に時間がかかった。最終的には訴訟へと進むことになった。
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第8話
あの日、彼が帰ってきたのはもう夜中を過ぎた頃だった。体からは、香水とお酒の匂いが混ざった空気が漂っていた。私は緊張しながら、父に渡された投資計画書を彼に手渡した。そのとき、冬真の目に浮かんだ嫌悪感は――まるで獰猛な獣がこちらを食らい尽くそうとするような強さだった。どうやってソファに押し倒されたのか。どうして服が破かれたのか。その後の記憶は、細切れでよく思い出せない。激しく噛みつかれるような痛みと、それに耐えきれず漏れた泣き声――その夜のすべてが、今でも私の悪夢になっている。冬真がようやく正気を取り戻したのは、止まらなかった出血だった。血でぐっしょりと濡れたカーペットが、それを教えてくれた。私たちに子どもがいると分かった瞬間から、その命が消えてしまうまで――ほんの半日足らずの出来事だった。「……医者の言ってたこと、聞こえてた。お前が彼に、私には違う説明をしろって脅してたのもな」私は何か言おうと口を開いたけど、彼の複雑な表情を見ているうちに、言葉が出なくなった。「冬真、もしかしたら私たち、どこかでお互いを愛してたのかもしれない……でも、その『愛してた時間』が、ずれてたんだと思う。振り返ってみたら、残ってるのは……苦しい記憶ばかり。そんな関係に、もう意味なんてある?」冬真は何も言わなかった。ただ、きつく引き結ばれた口元と、わずかに下を向いた顔が印象的だった。どれくらい時間が経ったのか。彼はようやく立ち上がり、静かに部屋を出ていった。ドアを閉めるその後ろ姿が、妙に小さく見えた。数日後――十年ぶりに、私は独り身に戻った。霧国から連絡が届いた。あの展示会で出した絵が、すべてまとめて高額で買い取られたらしい。口座には、見慣れない額が振り込まれていた。そして再び、冬真の名前を耳にしたのは、それからさらに半月以上たった頃だった。昔、彼が夜遅くまで帰らなかったとき、私はいつも夜通しテレビをつけていた。雑音が欲しかった。誰もいないあの家に、少しでも「人の気配」が欲しかった。その頃の私は、毎晩悪夢を見ては目を覚まし、そして、現実の「悪い知らせ」を受け取るのが常だった。スピードの出しすぎで事故死したとか、ワイドショーにぴったりな浮気スキャンダルだとか。そして今、電話
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第9話
私は、小さいころからずっと美遥の「引き立て役」だった気がする。ちゃんと形の整っていない彼女の影、その残像みたいな存在。彼の視線を避けながら、私は無言で布団の端を直した。……でも、その手が途中で止まった。沈み込んだ布団を見た瞬間、胸の奥がズキッとえぐられたようだった。彼は、少し気まずそうに笑った。「……もう、遊びまわる足も残ってないしね」私は思わず顔を上げて、彼を睨みつけた。胸の中から、一気に熱が込み上げてくる。「……冬真っ!あんた、正気なの?凛花を乗せてたのに、なんであんなスピード出したの!?」彼の手が、布団の上でかすかに震えていた。口元がわずかに動いたけど、そこにはもう軽薄な笑顔なんて微塵もなかった。「ほんの一瞬だったんだ……彼女が、お前に見えた」あの日、冬真は凛花と話をつけに行った。あまりに馬鹿げた日々を過ごしていたせいで、彼はもう、自分の心に押しつぶされそうになっていた。両親があの子を望んでいることなんて、もちろん彼も分かっていた。たとえ世間的に見ればどれだけ後ろ暗くても。玄関前で、彼は長いこと立ち尽くしていた。どんな言葉を使えば、どれだけの条件を提示すれば、彼女を引き下がらせられるか――それが、冬真にとっての「最後の賭け」だった。凛花が子どもを諦めて、どこかへ去ってくれるなら――きっと、その時初めて、心をまっすぐにして、私を迎えに来られるはずだった。……でも、事態は一瞬で狂った。凛花が階段から足を滑らせ、倒れた。ドアを開けて飛び込んだ彼が見たのは、階段に点々と残る血の跡だった。焦りと混乱のまま、彼は彼女を抱き上げて車に乗せ、病院へと走った。「ずっと泣き叫んでた……痛いって、助けてって、彼女が」時間が重なり、意識がぼんやりと遠のいた。「……もしあの日、もう少し早くお前を病院に連れて行ってたら、『助けて』ってお前が言った時、俺が背を向けなかったら――そしたら、まだやり直せてたのかな……?」スピードを上げた車の中で、彼はもう目的も忘れていた。なぜ凛花のもとへ向かっていたのかさえ、記憶から抜け落ちていた。泣き叫ぶ声と、手のひらいっぱいに広がる血の感触――その衝撃に、冬真は目を赤くしながら、歯を食いしばっていくつもの赤信号を無視して突っ走
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第10話
たまにお客さんと連れ立って展示を回ると、そのうちのひとりが私の首に腕を回して、もうひとりにこう紹介する。「この人、元・九条夫人よ……でもね、なんか彼の秘書っぽくない?」私は苦笑いで返した。「どうして?」「だってさ、正妻が別れ話の慰謝料を多めに請求するように説得してくるなんて、初めて見たよ。もう、どれだけ親切なのよ」二人の笑い声が重なった。私はその横顔を見ながら、心の中では静かな波が立っていた。……涙で顔を腫らすような再会じゃなかった。それだけでも、進んだ証なのかもしれない。でも、ほんの少しだけ、胸がチクリとした。――あの子、凛花。やっぱり、惜しかったな。そのあと、カフェの外に出てテイクアウトのコーヒーを取りに行ったとき、背後から誰かに呼び止められた。振り返ると、車椅子がゆっくりと近づいてくる。目が合った瞬間、私はすぐに冬真だと分かった。気温は上がってきていて、彼のシャツの襟元はゆるく開けられていた。それでも、脚は薄いブランケットで覆われたままだった。私の視線がそこに落ちたのを察したのか、彼は慌てて手で布を整えた。「……オープンしてから、まだ来たことなくてさ」何か言い訳を探すように、あるいは用意していた言葉を忘れたような口ぶりだった。私は微笑んだ。「九条社長は、私の昔の作品を並べるためにわざわざ美術館まで建ててくれたんでしょう?ギャラリーなんて、来る必要ないじゃない」そう言いながら、私は少し身をかがめて、彼の膝掛けを整えた。「それより……あなたの部下に四六時中つけ回させるの、やめてくれる?」視線の端に映ったのは、壁の陰にさっと隠れた黒い服の男。もう何ヶ月も続いていた。冬真は口を開きかけたけど、何も言えなかった。その目に浮かぶのは、寂しさだけだった。そのとき、ギャラリーの2階、吹き抜けのバルコニーから若い男性が顔を覗かせた。額の汗を拭きながら、冬真の方に一瞬だけ視線を投げて、眉間にしわを寄せ――すぐにほどいた。「心音、終わったら早くおいで。お腹すいた」私は、冬真の手が一瞬ギュッと強く握られたのを敏感に察した。その手の甲には、はっきりと血管が浮かび上がっていた。思わず彼の肩を軽く叩いて、笑いながら言った。「もういいって……来なくていいから」
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