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第5話

Author: エイスース
その日の夜、航が帰ってきたとき、紬はもう布団に入っていた。

彼女はドアに背を向け、静かに寝息をたてて、眠っているようだった。

航はベッドの脇に立ち、しばらく紬を見つめた。どうも、何かがおかしいと感じていた。

いつもなら、遅く帰ると紬はおずおずと話しかけてきたものだ。どれほど冷たくあしらっても、彼女はめげずに話しかけてきていた。

しかし、この数日の紬は、不気味なほど静かだった。

航が口を開こうとしたそのとき、外から突然、緊急の警報音が響き渡った。

それと同時に航が所属していた部隊の隊員が激しくドアを叩いた。「隊長!大雨のせいでダムが決壊しました!水が堤防を越え、周囲の民家を呑み込んでいます!上層部からの命令です、直ちに避難を!」

それを聞いて、航は表情を一変させて、急いで合羽を羽織った。

出ていく直前、彼は振り返って紬を起こして言った。「特殊部隊の隊長として俺はまず、一般市民の避難誘導を優先しないといけないから。君はこの俺の妻だから、強くあるべきだ!ひとまず自分で避難をしてくれ、後でまた様子を見にくる」

それだけ言うと、航は振り返ることもせず、土砂降りの雨の中に飛び出していった。

一方、紬はベッドにただ横たわったまま、遠ざかる足音を聞きながら、心に波風一つ立てなかった。

彼女はとっくに慣れていた。航にとって、自分はいつも後回しにされる側だから。

しかし、今回の洪水がこれほど激しいものだとは思わなかった。わずか30分ほどで、泥水が敷地に流れ込み、水位はみるみるうちに上がっていった。

紬は慌ててロフトへ上り、窓の外を覗いた。すでに官舎の団地全体が水没し、海のようになっているのだった。

さらに、時間が経つにつれて、官舎の団地から聞こえていた助けを求める声や泣き声は少なくなっていき、次第に静まり返った。

世界に取り残された自分は、たった一人だけ、水に呑まれていく孤島に囚われ、身動きが取れなくなってしまったようだ。

このまま見捨てられてしまうのだと思ったそのとき、雨の向こうから突然、聞き覚えのある声が届いた。

「隊長!奥さんがまだ中にいます!」

声のする方へ視線を向けると、航がびしょ濡れの制服姿で、足をとられながらも官舎を目指して必死に水の中を進んでくるのが見えた。

航は、来てくれた……

この時、紬の胸に自分でも情けなくなるほどの、ちっぽけな希望が芽生えた。だが次の瞬間、それは無残に打ち砕かれた。

航のすぐ後ろに、華奢な影がぴたりと寄り添っていたからだ。その人物は、航が着ていた大きな雨合羽を羽織っていた。

それは澪だった。

澪の家は、官舎の団地から遠く離れている。

航は避難誘導の合間に、あるいは避難が始まる前から、遠回りをして澪を迎えに行っていたのだ。そして彼女を傍に置いて自分の合羽を羽織らせて、雨に濡れないように守ってあげていたのだ。

だが、彼は自分がここにいると分かっていたはずだ。洪水がこれほど激しいことも分かっていたのに、それでも彼は自分を後回しにしていた。

航の頭の中では、一般市民が最優先で、澪はその次に大切だ。それに比べて自分は、いつだってどうでもいい存在だ。いつだって忘れられ、見捨てられる存在なんだ。

そう思っていると、航はすぐに下までたどり着き、ロフトの窓辺にいる紬を見上げて叫んだ。

「手を貸せ!」

紬が身を乗り出そうとしたそのとき、航の後ろにいた澪が突然、悲鳴をあげた。足を滑らせて波に足をとられ、一瞬にして数メートルも流されていった。

「航――」澪の恐怖に満ちた悲鳴が響いた。

一瞬にして、航の顔色が激変した。彼は差し出していた手をすぐに引っ込め、紬には目もくれず、澪のほうへ迷わず泳ぎだしていった。

ほぼ同時に、紬が乗っていた足場が大きく傾いた。彼女もバランスを崩し、冷たい水の中に勢いよく落下した。

氷のような水が容赦なく襲いかかり、鼻や口から濁り水が入り込む。もがきながら何とか頭を出し、迷わず澪の元へ急ぐ航の背中に向かって、紬は残された声を振り絞って叫んだ。「航!助けて――」

だが、濁流の轟音にかき消され、その声はひどく儚かった。

航に、届いただろうか?

おそらく聞こえたはずだ。

しかし、彼は振り返らなかった。

航の視線も、進むべき方向も、すべてが流されていく澪に向いていた。

冷たい泥水の中で溺れそうになりながら叫び声を上げている紬を、航は見捨てたのだ。やがて大きな波に飲み込まれ、紬は意識を失った。

……

紬が次に目を覚ましたとき、そこは病院のベッドの上だった。

周りには、誰もいなかった。

点滴の交換をしにきた看護師が、一人でいる紬を心配して声をかけてあげた。

「大丈夫ですか?お怪我がひどいので、どなたかご家族に付き添ってもらったほうがいいですよ。隣の病室の方は、大したお怪我ではないのに、ご主人とご両親がずっと付き添っておられているのに、あなたには誰も付き添いがいないのではさすがにまずいです」

ご主人とご両親?

その言葉に、胸を鋭い針で刺されたかのような痛みを感じた。紬はただ視線を伏せ、何も言わなかった。

そんな彼女を見て、看護師は小さくため息をつき、処置を終えると部屋を出ていった。

そして入れ違いに、病室のドアが開いた。入ってきたのは、紬の両親だった。

だが、二人の顔に心配している様子は全くなかった。それどころか、二人は彼女を責めるようにして言った。

「紬、目が覚めたなら早く起きてきなさい!澪も入院しているのよ。幸い軽傷だったけれど、ショックのせいか体調を崩しているのだから、誰かが付き添わないと。自分ばかりこんなところで寝ているなんて、よくそんな図々しい真似ができるね!早く看病しに行ってあげてよ!」

「そうだとも!澪は昔から体が弱いんだ。お前は昔から頑丈なんだから、これくらいの怪我は何でもないだろう?早く澪の看病をしにいってあげろ!」

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