Masukジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。
巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。
「さて、どうするか……」ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。
王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。
だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。
静かに、沈殿するように。
そんな昔の事を呆然と浮かべていると、来客を知らせるベルが鳴った。
マデイラの海辺で彼を拾い、屋敷へ連れ帰った事が厄介なヤツに知られていたらしい。
「やぁ、デルメール男爵」
「お前か。今は何の情報もない。帰れ」
「あ、そんな連れねぇ事言って。ちゃんと土産持って来たってのに」
「土産?」
軽薄で掴みどころのない情報屋であるセルジオは、色素の薄い色男で街でも浮世離れしている。
庶民の間を放浪し、娼館や裏の人間とも精通しているので、こちらが都合よく利用していた。
裏の人間ではあるものの、情報をかぎつければお零れを貰いにこうして訪ねて来るのだ。
「最近、港に酔っぱらった海賊が紛れてるって話ですぜ」
「……そうか」
「ところで、男爵。昨日海で拾い物したでしょ?」
「そっちが本題か。別にお前の飯の種なるような話は……」
「またまたぁ……公爵家のお坊ちゃまが窃盗犯として逃亡してるそうじゃないっすか。そんなタイミングであんな錆びれた海に宝石が漂着したんだ」
「ジオ、公爵領からマデイラの海までどれだけあると思っている? もし、公爵家の嫡男が海へ逃げ込んだとして漂着する前に死ぬのがオチだ」
「それはそうですけど、どこで海に入ったかなんて分かんねぇじゃないですか」
「今日は自棄に食い下がるな」
「こっちも食い扶持稼がねぇと海に身投げしなきゃならねぇ」
「安心しろ。見つけてもそのままにしといてやる」
「ひでぇや。そこは助けて下さいよ」
「兎に角、お前の腹を満たす情報はない。帰れ」
「ちぇー、あっ……一個だけ! その拾い物、男でした? 女でした?」
そう聞かれてジェイドは扉に手を掛けたまま「女だ」と迷いなく答えた。
◇◇◇そのセルジオの動きが気になって、寝ているラヴェルをリゼルに任せて街へ行った。
庶民のような成りをして、商人達が集う港へと紛れ込み、情報を探る。
「領主様、王都の偉い人が王様の大事な物を盗んで逃げたって噂が……」
「それに領主様が拾ったあの“宝石”が、その逃亡者だって言う者もおります」
そう言って群がる領民達に、ジェイドは眉一つ動かすことなく答えた。
「逃げているのは公爵家の令息。私が拾った“宝石”は女だよ」
そう言うと、彼らは口々に「なぁんだ」「それはそうか」と単純に信じる。
「もし宝石様が犯人なら、領主様も厄介な事になるんじゃねぇかって、心配してたんです」
気候の良さも相まって領民達は人が良い。
それが警戒心の薄さ故に、騙される者も多いが。
その後も転々と店を周りながら、ジェイドは話を聞いて回る。
港は逃走犯と宝石の話でもちきりだった。
その度にジェイドは打ちあがった宝石は「女だ」と伝えた。ジェイドは十三でデルメールの領主となった。
貿易を取り上げられ、父は病に倒れ、領民は追い込まれる。
それを一人で背負って来たジェイドは、灰色の手段を使い、黒い足跡を厭わず、彼らの生活を守って来た。「領主様がそう言うなら安心だ」
無垢なほど信奉する領民達を見ていると、心配になる事もあるが。
ジェイドは気の良い領主の顔の裏で、冷たく沈む感情を瞳に滲ませる。
ジェイドにとって全ては、必然の結果だった。
だからジェイドは品行方正で優しいだけの自分を、捨てた。
人好きのする笑顔の裏で、どの駒をどこに置き、どの駒を捨て、どう動かすか。
そんな事ばかり考えて来たジェイドの瞳は、冷たい猜疑の色を帯びている。王家はエルメダの日記を探している。
彼らは恐れているのだ。
あの日記が公になれば、世界の均衡が崩れる事になるのだから。
だから“彼”も返すつもりはない。
あの海辺に落ちていた宝石を、これから自分の色へと染めていく。
碧夜という宝石箱の中に、閉じ込める。
これ以上――誰にも奪わせない。
「ベル様、今日はいかがしましょうか?」 リゼルがいつものように支度を手伝いながらそう聞いて来る。 あの晩以来、何もする事が無く部屋で軟禁されているようなものだった。 許可されているのは部屋のテラスから出られる庭と、近くにある書庫だけ。 皇太子に言われた言葉たちは日増しに重みを増していく。「書庫に行って借りて来た本をお庭で読みましょうか」 ラヴェルの脳内は皇太子との婚約話をどう回避するかでいっぱいだが、リゼルにそれを悟らせたくなかった。 自分が皇太子妃になれば、全ては丸く収まる。 ジェイドも、デルメール領の民も、何も失わずにいられるのかもしれない。 自分がジェイドを手放せば――そこまで考えて、また振出しに戻る。 ラヴェルは首につけた夜境石のネックレスを無意識に握った。 支度の間、部屋の外で待たせていたランベルトは「どちらへ?」と短く問う。「書庫に本を取りに行くだけよ。貴方はお茶の用意を誰かに頼んでくれないかしら?」「かしこまりました」 本来なら護衛に頼む事でもない。 だが、先日のリゼルの件があってラヴェルは彼女をむやみに一人で歩かせたくなかった。 部屋から書庫へ行く途中、人の声が聞こえてラヴェルは足を止める。 後ろから付いて来ていたリゼルがすかさず一歩前に出て、様子を窺う。「お父様、勝手に入っては叱られてしまいますわ」「何、迷ったと言えば良い」 若い女性と、低い男性の声だ。 部屋に引き返すか、否か、迷っている内に彼らが突き当りの角から姿を現した。「……ここは皇太子殿下の居城だというのに、どこのご令嬢かな?」 体格のいい軍服を纏った男は、そう言ってこちらを不躾に舐めるように見る。 その隣には可憐を絵に描いたような少女が、似合わない赤いドレスを着せ
上着もはおらず軽装のまま姿を見せた皇太子は、リゼルの怪我を聞きつけて見舞いに来たらしい。「ベル、侍女の怪我の具合はどうだ?」「殿下、恐れ入ります。本人は大丈夫だと……」「こちらの通達が遅れたばっかりに、すまなかった」「いえ……」 ラヴェルは殊勝な皇太子の態度に、反論も出来ずただやり過ごそうとした。 傍に立って首を垂れるリゼルは、きっとまだ痛いままだというのに……。「少し、話せるか?」 そう言った皇太子は、こちらではなくランベルトとリゼルの方へと視線をやる。 暗に“出て行け”と言いたいのだ。「では、我々は外で待機しております」 こちらの返答も聞かずにランベルトはリゼルを連れて部屋を出る。 仕方ない。 この状況では、皇太子を拒否する事は出来ない。「何のお話でしょうか? 殿下」「まぁ、そう急くな」 皇太子はソファに腰掛け、足を組み、対面に座れと促す。 若い後継者ではあるが、ラヴェルはこの男を侮るほど世間知らずにもなれなかった。 夜会では礼儀的に声を掛け合う程度、仲良く話した記憶もあまりない。「侍女には悪い事をした。後で詫びを贈ろう」 詫び、といいながら表情が詫びているように見えない。 でも彼にはそれが許されるだけの権力がある。「いえ、その様なお心遣いは無用です」「その内、私の婚約者が城内に招かれていると噂になるだろう」「左様でございますか」「ベル」 名を呼ばれて顔を上げると、皇太子が前のめりに肘をつき見つめている。 嫌な予感がした。「何でございましょう?」「君はとても美しいな」「はぁ……恐
一方その頃、セルジオは皇太子の私室にいた。「計画通りだな、ナハト」「そうですね。しかしこれからが本番です」 そう言うと、皇太子は「ふん」と鼻で笑う。「ベル嬢が男爵を裏切るとは思えません」「しかし、男爵を質に取れば、彼女も言う事を聞くだろう」「こちらの裏切りがバレたら、一巻の終わりですよ」「あんな南の辺境まで行ったんだ。必ず手に入れてみせるさ」 そう言った皇太子に無言のまま敬礼し、セルジオは部屋を出る。 ジェイド・デルメールは野放しに出来ない。 まだ何かを隠し持っているのではないか? そう思わせる程、用意周到な男でもある。 流れの情報屋のふりをして近づいたが、結局最後まで信頼される事もなかった。 皇太子の私室から軍の詰所へと向かう途中、大きな声が聞こえてセルジオは足を止める。「跪けッ! 動くなッ!」 声の方へと歩いて行くと、下級の兵士がお仕着せを着た小さな侍女を捕まえて声を荒げている。「お前は何処から入った⁉ 何者だッ! 言わんかッ!」 兵士は持っていた警棒で、彼女の大腿部を強く叩いた。 セルジオは見兼ねて声をかける。「おい」「……これは、ナハト大尉! お戻りになっていたのですね」「お前は何をしている?」 兵士は男爵家の侍女リゼルの片腕を、引っ張り上げたままだ。「この怪しい者が場内をうろついておりまして」「いや、俺今、お前に何しているか聞いたよな?」 セルジオは軽い調子の言葉とは裏腹に、しっかりと兵士を見て問い返した。「ふ……不審者に尋問しておりました」「放してやれ」「ですがっ……」「殿下の客人の侍女
翌朝、目が覚めると隣にはもうジェイドはいなかった。 裸のまま半身を起こすと、体中に彼が付けた所有の証が朝陽で良く見える。「……着替えないと」 リゼルを呼びつけ着替えを用意して貰ったが、明らかな事後にリゼルに手伝って貰うのも気が引けた。「自分で出来るわ」「ダメです」 間髪入れず断ったリゼルは無表情のままコルセットを持って待機している。 おずおずと恥ずかし気に寝台を出たラヴェルは、大人しくリゼルの前に立った。 ジェイドはバロー領へと早朝に出発したらしい。 起こしてくれたらよかったのに、と思いながらも、黙って出て行く所がジェイドらしいとも思える。「本日のドレスは旦那様がお選びになりました」 リゼルがそう言って出して来たのは、美しい碧いドレスだ。 まるで人魚の鱗の様にシルクの生地が幾重にも重なって揺れ動く。 首元まで隠れるクラシカルなデザインで、昨夜咲いた花達はしっかり隠せる。 自分の瞳の色を纏わせて、他の男の婚約者を演じさせる所も、彼らしい。 一年前なら困惑していたかもしれない。 でも、今なら分かる。 ジェイドの熱を全身全霊で受けた今、何も疑う余地はない。 昨晩の余韻がドレスの内側に仕舞われる頃――。 部屋の扉がノックされ、リゼルが扉へと向かう。「おはよう、侍女殿」 声の主はセルジオらしい。「レディをお迎えに上がりました。殿下が馬車でお待ちです」「お待たせしてしまっているのね。リゼル、行きましょう」 身を翻し部屋を出たラヴェルたちを待っていたのは、豪奢で大きな馬車だった。 乗り込むと皇太子はもう暇そうに頬杖をついて、車窓の外を眺めている。「おはようござ
そこから先はもう、ただお互いに空いた隙間を埋める。 唇から、掌から、互いの熱を奪い合う。 ジェイドは乱雑にラヴェルのドレスを剥ぎ取り、背中で編み上げられたコルセットを器用に解く。 伸びたラヴェルの髪が絡まないように、ゆっくりと指を滑らせ、撫でた。 その間にラヴェルはお前も脱げ、と言わんばかりに性急にこちらの服を脱がせる。「ジェイド……」 ラヴェルは露になった胸板に甘えた猫のようにすり寄って来る。 きっとこの皇太子の件で自分を売られたと誤解した事だろう。 でもそれでいい。 その不安があったからこその、今なのだから。「ラヴィ……腰が細くなったな」「毎日締めてたらそうなるわ」「でも綺麗だ」 夕日に染まったような美しい髪も、飴色の瞳も、昔から変わらない。 自分が十三で領地を背負い、ローゼン家という大きな後ろ盾を失った暗い時代に、たった一つ瞬いていた星。 社会からの信頼、他者を傷つけない良心、善悪の境界。 ジェイドが色んなものを失う中で、暗い航路を導いていたのがラヴェルだ。「お前だけは絶対に誰にも渡さない」 着衣を全て剥ぎ取ったラヴェルの肢体は、暮れる夕日を浴びて色付く果実のようだった。 首につけた夜境石のネックレスだけが残り、まるで所有の首輪のように見える。 ジェイドも裸体となって白い寝台に彼を押し倒し、彼の膝の間に割って入った。 期待に勃ち上がり始めた彼の欲棒を、優しく指で撫ぜる。 下から恍惚と見上げたラヴェルは、薄らと微笑み返して来た。「あまり見ないで」 そう言ってラヴェルは少し顔を背ける。「何故?」
リゼルが扉を開けた向こうに姿を見せたのはジェイドだった。 言葉もなく部屋に入ったジェイドは、ただこちらを見て様子を窺っている。 ラヴェルは悔しさも相まってジェイドを睨んだ。「怒っているな、ベル」「当たり前でしょ! こんな、急にっ……」 言いたい事はたくさんあるのに、目の前に立たれると言葉が詰まる。 一瞬、皇太子に売られたかと思ったのだ。 あの瞬間の気持ちを思い出して、コルセットで絞められた胸は余計に軋むようだった。「聞いてくれ、ベル」「やめてッ! 触らないでッ!!」 伸びて来たジェイドの手を振り払うと、ジェイドは両手を上げて“降参”の意を示した。「分かった。触れないから、聞いてくれ」 聞かなくても分かっている。 ジェイドが何をしようとしているのか。 だからこそ、あの場で承諾し、明後日には王都へ向かうのだ。 でも、それでも、自分のあずかり知らぬ所で“偽装結婚”を反故にされていた悔しさがラヴェルをかき乱す。「私は、お前を日陰者にはしたくない」 そうポツリと零したジェイドは、窓の外を見遣る。 名残惜しそうに海に沈む夕陽を見て、何かを懐かしむ様に瞼を伏せた。「祖母の様に、匿って過ごさせるのは嫌なんだ」 行方不明のローゼン家公爵家の嫡男がいる限り、現王は諦めたりしないだろうとジェイドは言った。 だからこそ、力を奪い、悪行の根を絶つ必要がある。「わ、分かっているわ! ジェイドがラヴェルをこの世界から消し、ベル・デルメールと言う女にした理由も、貴方が何をしようとしているのかくらいは分かっている! でもっ……」 偽装で良いから結婚して欲しいと言った時、受けると言ってくれたのに――! その言葉が、ラヴェルの喉に
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない
ジェイドは白シャツにサスペンダーと言う軽装で、貴族の外出着とは言えない装いだった。「お加減はいかがですか? ラヴィ様」「あ、あぁ……大分良い」「貸して下さい。私が拭きましょう」「いや……それは……」 下位の貴族とは言え“旦那様”と呼ばれているという事は、デルメール家を継いでいるという事だ。 ヴェルモナ王国の南の辺境であるデルメール領。 小さな領地ではあるが、その昔は港を有した貿易の拠点として栄華を誇った土地でもある。 今は国境を
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お
ラヴェルは、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか分からなかった。 海水が無数の手のように、彼の鼻や口を引き裂く。 肺に流れ込み、空気のひと欠片まで押し出していく。 視界は閉ざされ、四肢も縛られている。 ラヴェルは誰かに捨てられた石のように、ゆっくりと真っ暗な底へ沈んでいった。 これが、ローゼン公爵家の嫡男の末路なのか? 二十分前まで、彼は王都で最も豪華な夜会にいて、クリスタルのグラスを手に、皆からの祝いの言葉を受けていた。「ラヴェル様、ご立派になられて」「ラヴェル様は王家からの期待も大きいですからな」 偽りの笑顔、追従の言葉。 彼はただ早く家に帰って、夜会服を脱ぎ