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仄暗い瞳

Author: エチカ
last update publish date: 2026-06-05 00:35:06

「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」

 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。

 肺が引き裂かれたように痛む。

 呼吸の一つ一つが拷問だった。

「ゔっ……」

「ラヴィ様っ! お目覚めになりましたかっ?」

「……?」

 ゆっくりと声のする方へと視線を遣る。

 その声に、ラヴェルは何とか顔を上げた――

 月明かりの下に、一人の男が立っていた。

 黒い髪が濡れて頬に張り付いている。

 仄暗い瞳が彼をじっと見つめていた。

 その眼差しは複雑だった――焦り、心痛、そしてラヴェルには読み解けない……熱を帯びた何か。

「おま、え……ジェイ……ド?」

 声は掠れて自分のものとは思えなかった。

 しかし、その名前はほとんど反射的に口を突いて出ていた。

 ジェイド・デルメール。

 その名前を忘れられるはずがない。

 ジェイドはかつて、ローゼン家の王家御用達宝石店で働く部下の息子だった。

 繁忙期や父親たちが出張に出る際は、ローゼン家の屋敷で遊び相手として一緒に過ごした。

 ラヴェルは忘れられなかったのだ。

 早くに母親を亡くしたラヴェルにとって二つ年上の兄の様な彼が、心の拠り所だった。

 下級貴族で、部下の息子でありながら、その碧の瞳がこちらを見るだけで、心は跳ねる――。

 なのに、ある時から彼は姿を消した。

 当たり前に傍にいたジェイドが、忽然といなくなったのだ。

 彼が何処へ行ったのか、使用人達に聞いても、クレイでさえ、言葉を濁し誤魔化す。

 ラヴェルは長い間探し、長い間泣いた。

 やがて寂しさのあまり自分に言い聞かせる。

 ただの部下の息子。

 そんな者の為に、心を砕くべきではない――と。

 なのに、まさかその想い焦がれていた相手に、こんな時、こんな場所で再会するなんて。

 彼は一瞬、死の間際に見る走馬灯なのではないかとさえ疑った。

「そうです。ジェイドです! 何であんな所に……何があったのです?」

 あんな所――?

 ラヴェルにはそれすら分からない。

 ただ、夜会から自分の屋敷へと帰り、そこで誰かに拘束され海へと投げ捨てられた。

 執事のクレイの血の匂いが、今になって蘇る。

「わか……らない……」

 そう一言、零した。

「マデイラの海辺に倒れていたのです。でも、もう大丈夫ですよ」

 柔らかな毛布の質感と、懐かしいその声、その科白にラヴェルはホッと息を吐く。

 今はまだ思考回路も明瞭としない。

 ただ、生きているのだと実感できただけで、込み上げるものがあった。

「……クレイが……死んだ」

「……クレイ殿が⁉」

 家令として長くローゼン家に勤めていたクレイは、ラヴェルにとって大事な家族の一員だった。

 それこそ生まれた時からの付き合いなのだ。

 あんな凄惨な姿で死ぬと、誰が予想できただろうか。

 クレイの死に様がまだ、瞼の裏に張り付いていた。

「今はもう、何も考えずにゆっくりとお休みになって下さい」

 そう言ったジェイドに「ありがとう」と言いたかった。

 けれど、疲労と睡魔にラヴェルはただ頷いて眠りに落ちる。

「全て私にお任せ下さい、ラヴィ様」

 ジェイドのその言葉だけが、耳孔に優しく響いた。

 しかし、ラヴィルがジェイドの腕の中で眠りに落ちた後、彼が知るはずもない声が、すぐ傍で響いていた。

「旦那様、この後はどのように致しましょう?」

「手筈通りに」

「かしこまりました」

◇◇◇

 数日後、ようやく起き上がれるようになったラヴェルの寝台脇に付いていたのは、成人しているかも怪しい年頃のお仕着せを着た少女だった。

 彼女は、ジェイドの家で使用人として働いているらしい。

 可愛らしい容姿の割に表情がなく、淡々とした喋り方が大人びている。

「おい、君……」

「ラヴェル様、私にはリゼルと言う名があります」

「……そうか、すまない。リゼル、ジェイドはいないのか?」

「旦那様はお出掛けされております。ラヴェル様のお世話は任されております」

 淡々とそう述べたリゼルは、何の断りもなくこちらの服に手を掛ける。

「ちょっ……おいっ……」

「……? 何でございましょう?」

「いやっ……」

 いくら使用人と言え、他家の、しかも未成年の少女に体を拭かせるのは気が引ける。

 そして何より自分の体の秘密を知られるわけにはいかない。

 その警戒心が、彼女の小さな手を振り払う。

 ラヴェルは胸を閉じるようにして「自分でやる」と彼女の好意を断った。

「あぁ、私のような者が触れるのはお嫌でしたか。申し訳ありません」

 そう言ってリゼルは深々と頭を下げた。

 謝っている割に不遜に見えるが、抑揚がないだけで悪いとは思っている様だ。

「あ、いや……そう言う事ではない」

「では、どう言う……」

「き、君……いや、リゼルがまだうら若き乙女だからだ」

「はぁ……そうでございますか」

 キョトンとしてそう答えたリゼルは、本当に意味が分からないという顔をしていた。

「そう言えば、俺が着ていた服は……」

「ちゃんと取ってあります。何かありましたか?」

「いや、内ポケットに鍵があっただろう?」

「はぁ、存じませんが。見ましょうか?」

「あぁ、頼む」

 クローゼットに綺麗に仕舞われていた服の内ポケットからリゼルが鍵を持って寝台脇に戻って来る。

「これでしょうか?」

「あぁ、ありがとう」

 これが何の鍵なのか――クレイが最後に何を言いたかったのか、定かではない。

 だが扉の鍵と言うには小さなその鍵が、人の手に渡ってはいけない物だという事は確かだ。

 ラヴェルはその赤いロザリアの嵌められた小さな鍵を手の内で握りしめる。

「ラヴェル様、身を清めて下さいませ」

「あ、あぁ……すまない」

 掴みどころがない無表情な彼女から濡らされたリネンを受け取る。

「部屋を出ていてくれないか?」

「それは出来ません。旦那様より目を離すなと申しつかっておりますので」

 目を離すな――この言葉に、僅かな引っ掛かりを覚えた。

 だが、心配故の言葉だと思い直して「僅かな間だ……」と零したラヴェルの言葉は、部屋の扉が開く音でかき消された。

「旦那様、おかえりなさいませ」

「リゼル、後は私がやろう。下がって良い」

「かしこまりました」

 リゼルはジェイドの言葉に素直に頭を下げ、一瞬、こちらを見て部屋を出る。

 その意味深な視線に、ラヴェルは不安を覚えた。

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