LOGIN「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」
ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。
肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お目覚めになりましたかっ?」 「……?」 ゆっくりと声のする方へと視線を遣る。その声に、ラヴェルは何とか顔を上げた――
月明かりの下に、一人の男が立っていた。
黒い髪が濡れて頬に張り付いている。
仄暗い瞳が彼をじっと見つめていた。その眼差しは複雑だった――焦り、心痛、そしてラヴェルには読み解けない……熱を帯びた何か。
「おま、え……ジェイ……ド?」声は掠れて自分のものとは思えなかった。
しかし、その名前はほとんど反射的に口を突いて出ていた。ジェイド・デルメール。
その名前を忘れられるはずがない。ジェイドはかつて、ローゼン家の王家御用達宝石店で働く部下の息子だった。
繁忙期や父親たちが出張に出る際は、ローゼン家の屋敷で遊び相手として一緒に過ごした。ラヴェルは忘れられなかったのだ。
早くに母親を亡くしたラヴェルにとって二つ年上の兄の様な彼が、心の拠り所だった。 下級貴族で、部下の息子でありながら、その碧の瞳がこちらを見るだけで、心は跳ねる――。なのに、ある時から彼は姿を消した。
当たり前に傍にいたジェイドが、忽然といなくなったのだ。 彼が何処へ行ったのか、使用人達に聞いても、クレイでさえ、言葉を濁し誤魔化す。 ラヴェルは長い間探し、長い間泣いた。 やがて寂しさのあまり自分に言い聞かせる。 ただの部下の息子。 そんな者の為に、心を砕くべきではない――と。なのに、まさかその想い焦がれていた相手に、こんな時、こんな場所で再会するなんて。
彼は一瞬、死の間際に見る走馬灯なのではないかとさえ疑った。「そうです。ジェイドです! 何であんな所に……何があったのです?」
あんな所――? ラヴェルにはそれすら分からない。 ただ、夜会から自分の屋敷へと帰り、そこで誰かに拘束され海へと投げ捨てられた。 執事のクレイの血の匂いが、今になって蘇る。 「わか……らない……」 そう一言、零した。 「マデイラの海辺に倒れていたのです。でも、もう大丈夫ですよ」 柔らかな毛布の質感と、懐かしいその声、その科白にラヴェルはホッと息を吐く。 今はまだ思考回路も明瞭としない。 ただ、生きているのだと実感できただけで、込み上げるものがあった。 「……クレイが……死んだ」 「……クレイ殿が⁉」 家令として長くローゼン家に勤めていたクレイは、ラヴェルにとって大事な家族の一員だった。 それこそ生まれた時からの付き合いなのだ。 あんな凄惨な姿で死ぬと、誰が予想できただろうか。 クレイの死に様がまだ、瞼の裏に張り付いていた。 「今はもう、何も考えずにゆっくりとお休みになって下さい」 そう言ったジェイドに「ありがとう」と言いたかった。 けれど、疲労と睡魔にラヴェルはただ頷いて眠りに落ちる。 「全て私にお任せ下さい、ラヴィ様」 ジェイドのその言葉だけが、耳孔に優しく響いた。 しかし、ラヴィルがジェイドの腕の中で眠りに落ちた後、彼が知るはずもない声が、すぐ傍で響いていた。「旦那様、この後はどのように致しましょう?」
「手筈通りに」 「かしこまりました」◇◇◇
数日後、ようやく起き上がれるようになったラヴェルの寝台脇に付いていたのは、成人しているかも怪しい年頃のお仕着せを着た少女だった。
彼女は、ジェイドの家で使用人として働いているらしい。
可愛らしい容姿の割に表情がなく、淡々とした喋り方が大人びている。
「おい、君……」
「ラヴェル様、私にはリゼルと言う名があります」
「……そうか、すまない。リゼル、ジェイドはいないのか?」
「旦那様はお出掛けされております。ラヴェル様のお世話は任されております」
淡々とそう述べたリゼルは、何の断りもなくこちらの服に手を掛ける。
「ちょっ……おいっ……」
「……? 何でございましょう?」
「いやっ……」
いくら使用人と言え、他家の、しかも未成年の少女に体を拭かせるのは気が引ける。
そして何より自分の体の秘密を知られるわけにはいかない。
その警戒心が、彼女の小さな手を振り払う。ラヴェルは胸を閉じるようにして「自分でやる」と彼女の好意を断った。
「あぁ、私のような者が触れるのはお嫌でしたか。申し訳ありません」
そう言ってリゼルは深々と頭を下げた。
謝っている割に不遜に見えるが、抑揚がないだけで悪いとは思っている様だ。
「あ、いや……そう言う事ではない」
「では、どう言う……」
「き、君……いや、リゼルがまだうら若き乙女だからだ」
「はぁ……そうでございますか」
キョトンとしてそう答えたリゼルは、本当に意味が分からないという顔をしていた。
「そう言えば、俺が着ていた服は……」
「ちゃんと取ってあります。何かありましたか?」
「いや、内ポケットに鍵があっただろう?」
「はぁ、存じませんが。見ましょうか?」
「あぁ、頼む」
クローゼットに綺麗に仕舞われていた服の内ポケットからリゼルが鍵を持って寝台脇に戻って来る。
「これでしょうか?」
「あぁ、ありがとう」
これが何の鍵なのか――クレイが最後に何を言いたかったのか、定かではない。
だが扉の鍵と言うには小さなその鍵が、人の手に渡ってはいけない物だという事は確かだ。
ラヴェルはその赤いロザリアの嵌められた小さな鍵を手の内で握りしめる。
「ラヴェル様、身を清めて下さいませ」
「あ、あぁ……すまない」
掴みどころがない無表情な彼女から濡らされたリネンを受け取る。
「部屋を出ていてくれないか?」
「それは出来ません。旦那様より目を離すなと申しつかっておりますので」
目を離すな――この言葉に、僅かな引っ掛かりを覚えた。
だが、心配故の言葉だと思い直して「僅かな間だ……」と零したラヴェルの言葉は、部屋の扉が開く音でかき消された。
「旦那様、おかえりなさいませ」
「リゼル、後は私がやろう。下がって良い」
「かしこまりました」
リゼルはジェイドの言葉に素直に頭を下げ、一瞬、こちらを見て部屋を出る。
その意味深な視線に、ラヴェルは不安を覚えた。ジェイドは白シャツにサスペンダーと言う軽装で、貴族の外出着とは言えない装いだった。「お加減はいかがですか? ラヴィ様」「あ、あぁ……大分良い」「貸して下さい。私が拭きましょう」「いや……それは……」 下位の貴族とは言え“旦那様”と呼ばれているという事は、デルメール家を継いでいるという事だ。 ヴェルモナ王国の南の辺境であるデルメール領。 小さな領地ではあるが、その昔は港を有した貿易の拠点として栄華を誇った土地でもある。 今は国境を持つバロー領に取って代わられて衰退した小さな辺境となった。 そんな古い家名で下位であっても、家督を継いだ者に身の回りの世話をさせるのは、気が引けた。「遠慮する事はありません。今でも、私にとってラヴィ様はお仕えするべき存在ですから」「……それはどうだろうな」 此処へ来てから自分の家の事がどうなっているのか、一切分からない。 父親や家に仕えていた者達がどうなったのか――。「お屋敷の事、ご心配ですか?」「あ、当たり前だ! ジェイド……ローゼン家はどうなったのだ……?」 寝台脇に座ったジェイドは、手に取ったリネンを下して悲し気にこちらを見た。 本当に知りたいのか? そう聞かれている様に見える。「やはり、もう誰も……」「……いえ、ローゼン公爵は“夜鷹”に」 そう言われてラヴェルは一瞬、息を飲んだ。「なんっ……だと?」「ローゼン公爵は先日の朝刊でネブラ機関に連行されたと記事になっておりました」 ネブラ機関――通称“夜鷹” 王の勅命だけを受け、貴族達の監視、粛正、場合によっては暗殺をも実行する秘匿機関である。「夜鷹……だとっ⁉ ネブラ機関が何故、ローゼン家に爪を立てる? 我々ローゼン家はヴェルモア王に忠
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お目覚めになりましたかっ?」 「……?」 ゆっくりと声のする方へと視線を遣る。 その声に、ラヴェルは何とか顔を上げた―― 月明かりの下に、一人の男が立っていた。 黒い髪が濡れて頬に張り付いている。 仄暗い瞳が彼をじっと見つめていた。
ラヴェルは、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか分からなかった。 海水が無数の手のように、彼の鼻や口を引き裂く。 肺に流れ込み、空気のひと欠片まで押し出していく。 視界は閉ざされ、四肢も縛られている。 ラヴェルは誰かに捨てられた石のように、ゆっくりと真っ暗な底へ沈んでいった。 これが、ローゼン公爵家の嫡男の末路なのか? 二十分前まで、彼は王都で最も豪華な夜会にいて、クリスタルのグラスを手に、皆からの祝いの言葉を受けていた。「ラヴェル様、ご立派になられて」「ラヴェル様は王家からの期待も大きいですからな」 偽りの笑顔、追従の言葉。 彼はただ早く家に帰って、夜会服を脱ぎ、ベッドに横たわりたかっただけなのに―― 雷鳴がバリバリと天を走る。 夜会帰りのラヴェルは、屋敷に入って痛い程の沈黙に首を傾げた。 明かりがついているはずのエントランスも、出迎えるはずの執事の姿も見えない。 「何だ……? 誰か、居ないのか? クレイ……?」 やけに自分の声が響く。 広い屋敷の中にあるのは、地面を激しく打つ雨音と、吠え猛る風の声だけ。 それが静けさを濁らせていた。 誰も彼に応えなかった。 自室の前まで来て、ピタリと足を止める。 「……何だ?」 最初に気付いたのは血の匂い。 何か異変が起きている。 余りにも人気の無い屋敷に、無意味に背後を気にして振り返った。 「……?」 自室の扉を開けた先には、血塗れになって横たわったクレイの姿があった。 「クレイッ!! なっ、どうっ……」 言葉も思考回路も途切れ、ただ、ただ、横たわるクレイの硬い体を揺さぶる。 開け放たれたバルコニーへの窓がバタリバタリと風に踊らされていた。 「――クレイッ!!」 ラヴェルは諦めきれずに声を掛ける。 僅かに口を開いた様に見えたが「逃げっ……」と短く吐き出された。 震えるクレイの握りしめられた手がこちらの胸元を押し付ける様にして、何かを訴えて来る。 ラヴェルは反射的にその手を握る。 その手の内には、ローゼン家の象徴であるロゼリアと言う宝石が埋まった小さな鍵が握られていた。「しっかりしろっ! クレイッ!」 声を荒げ激しくクレイの体を揺さぶる。 だが、触れた手にぬるりとしたクレイの血がベッタリと付いて、微動だにしない彼がもう