Masuk「生まれ変わる?」
起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。
ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。
「えぇ、そうです」
「ど、どう言う意味だ……?」
「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」
「別……人……。しかしっ……」
「では、他に方法が?」
そう言われてラヴェルは唇を噛む。
ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない。
ジェイドが言っている事は正論で、それでもまだ自分の中に公爵令息としてのプライドが残っている。
口に運ぶはずのフォークに刺さったままの肉を握り締め、俯いた。
「お気持ちは分かります、ラヴィ様。ですが、生半可な気持ちでは何も成せません」
席を立ち傍に来たジェイドは片膝をついてこちらを仰ぐ。
「ラヴィ様、選んで下さい。このまま泣き寝入りして暮らすのか、真実を負う為に己を御するか」
そう言われてラヴェルは眉根を寄せて歯噛みする。
泣き寝入りするつもりはない。
だが、自分を捨てて生きる事への抵抗が今すぐ消える訳じゃない。
下から煽る様に見たジェイドが、ふっと笑みをこぼす。
「沈黙するのも答えの一つです」
「すまない……成り行きとは言え、こんな犯罪者を匿う様な事を……」
「いいえ、寧ろ見つけたのが私で良かった。神の気まぐれに感謝しなければ」
ジェイドの瞳がこちらを捕らえる。
その瞳の奥には、憐憫も、分かりやすい優しさもない――
ラヴェルはその読めない視線が、冷たく暗い熱を帯びているように見えて、視線を逸らせなかった。
両の手を握り返す様に力を込めたジェイドに、ラヴェルは力なく微笑み返す。
「貴方が目的を果たすまで、それまでの辛抱です」
「ジェイド……」
その優しさが自分を絡めとり、重くのしかかる事を、この時ラヴェルはまだ知らない。
◇◇◇
それからラヴェルは別人となるべくデルメール家の屋敷で、淑女教育を受ける。
女装と聞いて最初は強く抵抗したが、それが一番バレにくいとジェイドに説得されてしまった。
「ベル様、お支度に来ました」
いつもこの女性特有のコルセットを締められる度に、内臓を吐くかというほど締め上げられるのに、いつまで経っても慣れない。
世のレディ達は毎日こんなものを付けて歩いているのか、と尊敬すらする。
ベル・デルメール――それがジェイドから新しく与えられた名だった。
毎日毎日、重いドレスを着て歩く練習から、言葉遣い、ジェイド本人から指南される。
そこにはいつもリゼルが付いており、湯浴みや着替えの世話を任されている様だった。
初めの頃は体の秘密を暴かれる懸念を抱えていたが、彼女は良くも悪くも他人に興味がないので、その警戒心も解かれてしまった。
その内、よく考えれば見ただけで分かるような秘密でもないのだから、と。
「今日はお支度が済みましたら、刺繍のお稽古です」
「はぁ……また刺繍?」
心底嫌そうにラヴェルは溜息を吐いた。
屋敷に閉じ込められ、毎日針仕事や礼儀作法を繰り返す。
まるで本物の淑女の様に。
その毎日の反復に何の意味があるのか。
ラヴェルはその焦燥をとじ込める様に胸元のボタンを閉めた。綿を詰めて作られた胸は、コルセットで絞められた腰のせいでより強調されている。
早く外へ出て情報収集なり、何か進展が欲しいのに――。
自分の家のことなのに、何一つ解決している実感がない。
「リゼル、例の件で何か動きは?」
そう問いかけると、リゼルは一瞬こちらを見て口を開いた。
「旦那様がお出かけになる前、情報屋が来ておりました」
「情報屋?」
「内容は存じません。立ち聞きすると、旦那様に叱られます」
「君は優秀な侍女だ」
ラヴェルは皮肉った様にそう言ったが、リゼルは無表情のまま今日の刺繍の道具をこちらへ差し出す。
これ以上喋る気はない。
彼女のその行動で、その意志だけは伝わって来る。
ラヴェルは黙ってそれを受け取り、針を刺すしかなかった。
あまり彼女の口を割らせるのは立場的にも得策ではないだろう。
何かあればジェイドに制裁を受けるのはリゼルという事になる。
主人を裏切らせる行為だと分かっていても、ただドレスを着て人形の様に座っているわけにはいかない。
そして重いドレスを着こなし、作法を覚え、立ち居振る舞いが様になり始めた頃――。
ラヴェルの体は男とは思えぬほどの細腰をドレスで包み、長く伸びた髪を上げると項が色香を放つ。
燭台の灯に照らされた鎖骨や、緩やかに弧を描く薄い唇には、淑女らしい柔らかさを帯びている。
ただ、長く伸びる睫毛に隠れたロゼリアの瞳――それだけが意志の強さを秘めている。
「ベルも飲むか?」
いつものようにジェイドの誘いでテラスにて晩酌に付き合っていた。
寝る時でさえ薄いワンピースを着せられ、月明かりがその薄い生地を通り抜け、体の線は怪しく浮かび上がる。
その裾が夜風にふわりと靡いた。
ジェイドはグラスを片手にこちらへと近づき、持っていたグラスを差し出す。
その視線、仕草、香り、全てが甘くラヴェルの心を捕らえた。
「体はどうですか?」
「え?」
ジェイドが近づく。
唇が耳に付く程近く、その吐息の熱にラヴェルは息を飲んだ。
「熱を持て余しているのでは?」
「どう……言う……いみ……?」
ラヴェルは伏した睫毛を上げ、ジェイドを見つめる。
薄い夜着の裾を握り締め、口の端をぎゅっと結んだ。
妙に沈黙が煩い。
自分の心音が鼓膜の内側から煩く響いた。
ジェイドは眉尻を下げ心配する様な素振りで、靡く髪をそっと払う。
そしてゆっくりと口角を上げ囁いた。
「知っていると言ったでしょう? 貴方の秘密――」
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない。 ジェイドが言っている事は正論で、それでもまだ自分の中に公爵令息としてのプライドが残っている。 口に運ぶはずのフォークに刺さったままの肉を握り締め、俯いた。「お気持ちは分かります、ラヴィ様。ですが、生半可な気持ちでは何も成せません」 席を立ち傍に来たジェイドは片膝をついてこちらを仰ぐ。「ラヴィ様、選んで下さい。このまま泣き寝入りして暮らすのか、真実を負う為に己を御するか」 そう言われてラヴェルは眉根を寄せて歯噛みする。 泣き寝入りするつもりはない。 だが、自分を捨てて生きる事への抵抗が今すぐ消える訳じゃない。 下から煽る様に見たジェイドが、ふっと笑みをこぼす。「沈黙するのも答えの一つです」「すまない……成り行きとは言え、こんな犯罪者を匿う様な事を……」「いいえ、寧ろ見つけたのが私で良かった。神の気まぐれに感謝しなければ」 ジェイドの瞳がこちらを捕らえる。 その瞳の奥には、憐憫も、分かりやすい優しさもない―― ラヴェルはその読めない視線が、冷たく暗い熱を帯びているように見えて、視線を逸らせなかった。 両の手を握り返す様に力を込めたジェイドに、ラヴェルは力なく微笑み返す。「貴方が目的を果たすまで、それま
ジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。 巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。 「さて、どうするか……」 ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。 王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。 だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。 静かに、沈殿するように。 そんな昔の事を呆然と浮かべていると、来客を知らせるベルが鳴った。 マデイラの海辺で彼を拾い、屋敷へ連れ帰った事が厄介なヤツに知られていたらしい。「やぁ、デルメール男爵」「お前か。今は何の情報もない。帰れ」「あ、そんな連れねぇ事言って。ちゃんと土産持って来たってのに」「土産?」 軽薄で掴みどころのない情報屋であるセルジオは、色素の薄い色男で街でも浮世離れしている。 庶民の間を放浪し、娼館や裏の人間とも精通しているので、こちらが都合よく利用していた。 裏の人間ではあるものの、情報をかぎつければお零れを貰いにこうして訪ねて来るのだ。「最近、港に酔っぱらった海賊が紛れてるって話ですぜ」「……そうか」「ところで、男爵。昨日海で拾い物したでしょ?」「そっちが本題か。別にお前の飯の種なるような話は……」「またまたぁ……公爵家のお坊ちゃまが窃盗犯として逃亡してるそうじゃないっすか。そんなタイミングであんな錆びれた海に宝石が漂着したんだ」「ジオ、公爵領からマデイラの海までどれだけあると思っている? もし、公爵家の嫡男が海へ逃げ込んだとして漂着する前に死ぬのがオチだ」「それはそうですけど、どこで海に入ったかなんて分かんねぇじゃないですか」「今日は自棄に食い下がるな」
ジェイドは白シャツにサスペンダーと言う軽装で、貴族の外出着とは言えない装いだった。「お加減はいかがですか? ラヴィ様」「あ、あぁ……大分良い」「貸して下さい。私が拭きましょう」「いや……それは……」 下位の貴族とは言え“旦那様”と呼ばれているという事は、デルメール家を継いでいるという事だ。 ヴェルモナ王国の南の辺境であるデルメール領。 小さな領地ではあるが、その昔は港を有した貿易の拠点として栄華を誇った土地でもある。 今は国境を持つバロー領に取って代わられて衰退した小さな辺境となった。 そんな古い家名で下位であっても、家督を継いだ者に身の回りの世話をさせるのは、気が引けた。「遠慮する事はありません。今でも、私にとってラヴィ様はお仕えするべき存在ですから」「……それはどうだろうな」 此処へ来てから自分の家の事がどうなっているのか、一切分からない。 父親や家に仕えていた者達がどうなったのか――。「お屋敷の事、ご心配ですか?」「あ、当たり前だ! ジェイド……ローゼン家はどうなったのだ……?」 寝台脇に座ったジェイドは、手に取ったリネンを下して悲し気にこちらを見た。 本当に知りたいのか? そう聞かれている様に見える。「やはり、もう誰も……」「……いえ、ローゼン公爵は“夜鷹”に」 そう言われてラヴェルは一瞬、息を飲んだ。「なんっ……だと?」「ローゼン公爵は先日の朝刊でネブラ機関に連行されたと記事になっておりました」 ネブラ機関――通称“夜鷹” 王の勅命だけを受け、貴族達の監視、粛正、場合によっては暗殺をも実行する秘匿機関である。「夜鷹……だとっ⁉ ネブラ機関が何故、ローゼン家に爪を立てる? 我々ローゼン家はヴェルモア王に忠
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お目覚めになりましたかっ?」 「……?」 ゆっくりと声のする方へと視線を遣る。 その声に、ラヴェルは何とか顔を上げた―― 月明かりの下に、一人の男が立っていた。 黒い髪が濡れて頬に張り付いている。 仄暗い瞳が彼をじっと見つめていた。
ラヴェルは、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか分からなかった。 海水が無数の手のように、彼の鼻や口を引き裂く。 肺に流れ込み、空気のひと欠片まで押し出していく。 視界は閉ざされ、四肢も縛られている。 ラヴェルは誰かに捨てられた石のように、ゆっくりと真っ暗な底へ沈んでいった。 これが、ローゼン公爵家の嫡男の末路なのか? 二十分前まで、彼は王都で最も豪華な夜会にいて、クリスタルのグラスを手に、皆からの祝いの言葉を受けていた。「ラヴェル様、ご立派になられて」「ラヴェル様は王家からの期待も大きいですからな」 偽りの笑顔、追従の言葉。 彼はただ早く家に帰って、夜会服を脱ぎ、ベッドに横たわりたかっただけなのに―― 雷鳴がバリバリと天を走る。 夜会帰りのラヴェルは、屋敷に入って痛い程の沈黙に首を傾げた。 明かりがついているはずのエントランスも、出迎えるはずの執事の姿も見えない。 「何だ……? 誰か、居ないのか? クレイ……?」 やけに自分の声が響く。 広い屋敷の中にあるのは、地面を激しく打つ雨音と、吠え猛る風の声だけ。 それが静けさを濁らせていた。 誰も彼に応えなかった。 自室の前まで来て、ピタリと足を止める。 「……何だ?」 最初に気付いたのは血の匂い。 何か異変が起きている。 余りにも人気の無い屋敷に、無意味に背後を気にして振り返った。 「……?」 自室の扉を開けた先には、血塗れになって横たわったクレイの姿があった。 「クレイッ!! なっ、どうっ……」 言葉も思考回路も途切れ、ただ、ただ、横たわるクレイの硬い体を揺さぶる。 開け放たれたバルコニーへの窓がバタリバタリと風に踊らされていた。 「――クレイッ!!」 ラヴェルは諦めきれずに声を掛ける。 僅かに口を開いた様に見えたが「逃げっ……」と短く吐き出された。 震えるクレイの握りしめられた手がこちらの胸元を押し付ける様にして、何かを訴えて来る。 ラヴェルは反射的にその手を握る。 その手の内には、ローゼン家の象徴であるロゼリアと言う宝石が埋まった小さな鍵が握られていた。「しっかりしろっ! クレイッ!」 声を荒げ激しくクレイの体を揺さぶる。 だが、触れた手にぬるりとしたクレイの血がベッタリと付いて、微動だにしない彼がもう