LOGIN「少し……考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」かろうじて紡がれた京司の言葉は、ひどく頼りなく空気に消えた。「もちろんかまわないよ。こちらはいつでも君を歓迎するから」慈悲深いその返答とは裏腹に、部屋を満たす空気は凍てつき、京司の肩に重くのしかかる。「……うちの山城の件、ありがとうございました。どうか……山城をよろしくお願いいたします」退出の間際、京司は踵を返し、入り口の冷たい床に正座した。極道の若頭という肩書きをすべて削ぎ落としたかのような、あまりにも無防備で、深い一礼。「山城補佐の心配は無用だよ。宇治宮組長がどれだけ血眼になって探そうと、あそこへは辿り着けない。法の網の目からも、組織の目からも外れた、とびきり静かな場所で静養させている」京司の目に安堵の色が滲んだ。「しかし、君のところの補佐は、まるで手負いの猪だな。組長の邸宅へ直談判に押し入り、凄まじい気魄でクスリの取引を撥ね退けたと聞いたぞ」京司の唇に、自嘲めいた微かな笑みが浮かぶ。「ええ……不器用で、あれしか生き方を知らない男ですから」ようやく幕を閉じた会食。しかし、美味であったはずの料理の味はとうに失せ、ただ底なしの沼に足を取られていたかのような、 悍ましい疲弊だけが彼の手元に残されていた。 京都へ帰る帰路、京司は車内に紫煙を燻らせ、ただとり留めのない思考の海に沈んでいた。窓外を流れる景色とともに、槇村の放った言葉がいつまでも脳裏にこびりついて離れない。――『看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ』「……そうかもしれへんな」吐き出した煙のゆくえを追うように、京司は小さく自嘲の笑みを漏らした。その呟きは、変わりゆく時代に取り残されゆく己への、静かな諦観だった。 鈴華は大阪の街を一人歩いていた。静寂を切り裂くように、鈴華のスマートフォンが不意に、高らかな電子音を響かせる。恐る恐る画面に視線を落とし、そこに浮かび上がった番号を目にした瞬間、彼女の指先が白くなるほどに端末を握りしめる。心臓の鼓動が、痛いほどの早鐘を打っていた。「……京司さん」零れ出たのは、祈りとも、あるいは怯えともつかない呟き。世界からすべての音が消え去ったかのような沈黙のなかで、鈴華は震える指で通話ボタンを滑らせ、耳元へと寄せた。「……もしもし」かろうじて
梅鈴は、膝から力が抜けるように床へ崩れ落ちた。地に伏せた額は冷たく、そこに触れるたび胸の奥の不安が形を持って迫り上がってくる。「李婆さん……どうか、もう少しだけここで働かせてください……」声は震え、言葉の端がかすれていた。追い出されるかもしれないという恐怖は、彼女の心を長く締めつけていた。この場所を失えば、自分の居場所はどこにもない――その思いが、背中を押しつぶすほど重かった。李婆は、その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。長年の経験で、誰かが必死に耐えてきた時間の重さは、目を見ればわかる。梅鈴の肩は細く、震えは小さく、それでも必死に堪えているのが伝わってきた。老いた手を伸ばし、そっと抱き寄せる。「梅鈴……。まったく、馬鹿だねえ、この子は」呆れたように言いながらも、その声には深い慈しみが滲んでいた。彼女は人を追い出すような性分ではない。むしろ、誰かが自分を頼ってくれることが、どこか嬉しくもあった。それでも、梅鈴がここまで怯えていることに気づけなかった自分を、少し責めてもいた。「いつまでだって、ここにいていいんだよ」その言葉が、梅鈴の胸の奥に静かに落ちていく。張りつめていた心がほどけ、息が深く吸えるようになる。安堵は涙となって頬を伝い、彼女は顔を上げられぬまま、李婆の温もりに身を委ねた。李婆はその涙を見て、ようやく理解した。この子は、ただ働きたいのではない。ここに「居たい」のだ。誰かに必要とされたいのだ。その願いがどれほど切実だったか、ようやく胸に届いた。「ほんとに……どこまでお人よしなんだい」呟いた声は、呆れよりも愛しさに近かった。数日が過ぎたある昼下がり、店の喧騒の中に陽光の姿があった。昼時の忙しさは最高潮で、梅鈴は相変わらず細い体を惜しげもなく使い、客の間を風のように立ち回っていた。だが、その動きにはどこか影が差しているように、陽光には見えた。やがて客足が落ち着き、店内の空気がようやく深呼吸を許した頃。李婆が椅子に腰を下ろし、湯気の立つ茶碗を手にひと息ついたその瞬間、陽光はそっと近づいた。「なあ、李婆……梅鈴、何かあったのか」その声は、普段の軽さを潜めていた。陽光は人の変化に敏い。梅鈴の笑顔が、ほんの少しだけ遅れて咲くようになったこと。返事の声が、以前よりも小さくなったこと。それらを見
「あの老い損ないめ、どこまで恥の上塗りを…」京司の五指は掌に深く食い込み、怒りのあまりその輪郭を震わせていた。対する槇村の視線には、いっそのこと残酷なほどの静寂が宿っている。まるで、檻の中の猛獣を観察するかのような、絶対的な俯瞰。「……六穣会は今後、大阪港を九条組には一歩たりとも踏ませない。これが意味する断絶を、君が理解できないはずはないよね。実際六穣会にはそれが可能だ。うちは大阪港湾の利権の全てを掌握している。だからこれからの大阪港に九条組の影すら落とさせない。あの老害が別の流通ルートをゼロから開拓するなんて技、可能だとは到底思えないけどね」大阪湾の利権は、六穣会の絶対的な不可侵領域だ。九条組という老舗のブランド力をもってしても、そこに割り込む隙間など一ミリも残されてはいなかった。「薬なんぞ売らんでも、九条組は……死んじゃいません!」京司の絞り出すような怒号は、槇村の耳には、壊れたスピーカーのノイズ程度にしか響かなかった。「暴対法で首が回らないのは、君だってわかってるはずだ。看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ。九条組のようなオールドタイプの組織は、その毒(薬物)で命を繋ぎ止めねば、あとはただ枯れ果てるのみだ」京司の足元で、彼を支えていた世界が地鳴りを立てて崩れてゆく。仁義という名の虚飾、任侠という名の幻想、血の盃という名の呪縛。かつては彼の魂のすべてを形作っていたはずの絶対が、今や、祭りのあとに捨て置かれた安物の飾り物のように、惨めに、冷え冷えと転がっていた。「六穣会かて…同じ穴のムジナじゃないんですか!」京司の語尾は激しく波立ち、荒ぶる感情を隠そうともしなかった。対照的に、槇村の表情は氷のように凝固したままである。「うちは薬物には手を出さない方針でね。そんな不確かなリスクを背負う理由がないんだよ、六穣会は」槇村は皿の料理を綺麗に片付けると、ごく自然な動作で次の小鉢へと手を伸ばした。その平然とした捕食者のごとき佇まいが、京司の焦燥をいっそう深く削り取っていくようだった。「うちの命脈は、地下のカジノと、海の向こうで動く莫大な不動産取引にある。古臭い縄張りのあがりや、みかじめ料なんていう端金が、この巨大な組織をどう養うというんだい?」槇村の紡ぐ正論は、京司の守ってきた古い世界を容赦なく
「……俺に、九条組を裏切れと?」京司の射抜くような眼光が、まっすぐに槇村を捉えた。刃めいたその視線を浴びながらも、槇村のなかの静寂が揺らぐことはない。傾けられたグラスから、琥珀にも似たオレンジ色の甘い液体が滑り落ち、彼の喉を艶やかに潤していく。「裏切る、か……」槇村は低く、どこか楽しげにその言葉をなぞった。「誤解しないでほしいな。俺はなにも、九条の金や利権を、手土産に持ってこいと言っているわけじゃない。俺が渇望しているのは、君という存在そのものだよ。――それでも君は、それを『裏切り』という安直な言葉で片付けるのかい?」「それが……盃で結ばれた血の結束でしょう」槇村の放った言葉が、じわじわと己の深層へと染み込んでいくのを京司は感じていた。ありえない――自分が九条組を裏切るなど、天地が覆ろうとも。その絶対の矜持によって形作られている自らの輪郭が、足元から音を立てて崩れ去るような、底寒い恐怖が彼の胸奥を支配し始めていた。「そうか。では九条組が解散すれば少しは考えてくれるかな?」「……は?」槇村の口から零れ落ちた一言は、京司の足元の世界を根底から融解させるほどに重いものだった。それなのに、彼の口調はどこまでも乾いていて、軽い。そのあまりに無邪気な軽快さこそが、京司の胸の奥底へ、底なし沼のような不安をじわじわと広げていくのだった。(なんなんや、この人は……。一体何を言うてんねん。九条組が解散? ありえへん、そんなこと……)京司の脳裏を支配した怯えを、槇村は冷酷に射抜いていた。紡がれる言葉は、甘い幻想を容赦なく打ち砕く、剥き出しの現実。その圧倒的な冷たさに、京司はただ息を呑むしかなかった。「九条組が捌いてるクスリのルート、あれ全部、大阪湾の六穣会のシマ(港湾)を通ってるんだよ。俺が首を横に振った時点で、九条組の取引は完全にストップする。……その顔を見る限り、本当に何も知らされてなかったみたいだな」その言葉は、京司の脳をダイレクトに殴りつけた。あまりに唐突で、あまりに致命的な真実。自分がこれまで信じていた世界の前提が、足元から音を立てて崩壊していく。頭が真っ白になり、京司は喉の奥がカラカラに乾いていくのを自覚した。槇村の顔から、営業用の笑みが綺麗に消えた。「うちの組織は、香港の三合会と利権の深いところ
「山城銀行頭取の娘さんとの結婚の話、進んでるの?」向けられた言葉が、京司の背中にじっとりとした冷たい汗を滲ませていく。「……ご存知だったのですね」絞り出すような声とともに、彼は再び、額が擦り切れるほど畳に深く頭を垂れた。室内を包む沈黙が、罪人を断罪するように重くのしかかる。「私の分不相応な身勝手が、鈴華さんを深く傷つけてしまいました。どのようなお咎めを受けようとも、弁解の余地などございません」喉の奥から絞り出したのは、彼が持ち得る限りの、一切の虚飾を排した本心の謝罪だった。「それは鈴華と君、二人の間の問題だ。俺が口を挟むような筋合いじゃない。ただ……わざわざ神野の厳父に頭を下げてまで、君をこの奈良の地に呼び寄せてもらった意味は、どうやら泡沫に帰してしまったようだな」「あれは……会長の、お計らいだったのですか」その瞬間、京司の脳裏に、これまで霧の彼方にあった神野からの招きの真意が、鮮烈な光を伴って結像した。すべては仕組まれた、しかしあまりにも不器用で温かい、救いの手だったのだと。「九条組のために、君の人生全部を放り出すつもり?」槇村の口からこぼれたのは、場の空気にそぐわないほど軽やかな問いだった。しかし、それがかえって刃のように鋭く、京司の胸の奥を抉る。「……それが、盃を交わした者の、恩義ですから」喉の奥で幾重にも渦巻く迷いを無理やり押し殺し、京司はあらかじめ用意されていたかのような、味気ない言葉を吐き出した。割り切れない自らの心を、冷え切った義務感の仮面で覆い隠すように。「九条組は、君が人生のすべてを賭すに値する器かい?」槇村の放った言葉は、夜の静寂を切り裂く容赦のない光となって、京司の胸の空洞を射抜いた。「それは……」唇を衝いて出るべき言葉が、喉の奥で凍りつく。望まぬ婚姻、闇を這う薬物の白濁した澱み――。それらは、彼がかつて憧憬を抱き、命を捧げると誓った“”九条組の気高き輪郭を、内側からじわじわと侵食し、意図せぬ形へと歪めていくようだった。「実はね。君をここに呼んだのは、京都での恩義に報いるためだけではないんだ」京司はゆっくりと顔を上げ、その真っ直ぐな視線を槇村へと注いだ。「烏丸君……どうだろう、六穣会に身を委ねてみる気はないかい?」
「それで、会長の護衛を?」「俺の護衛をするようになったのは、二年ほど前からだよ。鈴華が、どうしてもと言ってきかなくてね」「彼女が、ですか」「この国に降り立ったばかりの彼女には、一般社会の“常識”なんて概念は存在しなかった。香港の組織で彼女が教え込まれてきたのは、ただ一つ――いかにして確実に息の根を止めるか、それだけだったからね」男の淡々とした声が、座敷の空気を凍らせる。その冷気に抗うように襖が静かに開き、次の皿が、二人の間にそっと差し出された。「日本語もろくに話せなかった彼女の面倒を、ゼロから見たのは宏一なんだよ」「あの男が? ……すみません、意外だったもので」槇村の唇が、愉快そうに弧を描いた。その笑みには、過去を知る者特有の余裕が滲んでいる。「他人のために泥を被るような男には見えないだろう?」「……ええ、正直なところ」「鈴華が日本にやってきた頃、俺はまだ六穣会を立ち上げる前だった。ビジネスの足場が大阪になく、あちこちを飛び回る日々でね。だから、彼女のすべてを、宏一に委ねるしかなかったんだ」「宏一さんが……鈴華さんの面倒を、ですか?」「ああ。はじめは随分と嫌がっていたよ。けれど、あいつ自身も親の温もりを知らずに育った身だ。見過ごすことなど出来なかったのだろうね」それは、京司の記憶にある“宏一”という男の冷徹な輪郭からは、どうしても結びつかない光景だった。「今うちで若頭補佐をやってる早緑と二人で日本語の読み書きから、卓上の作法、この世界の生きていくための常識に至るまで……すべてはあの二人が、あの娘の真っ白な頭に根気強く刻み込んだものさ」京司は今更のように、宏一と鈴華の間に横たわる絆の深さに、ただ圧倒されていた。「……無礼を承知で申し上げますが。宏一さんの彼女への執着は、少々、常軌を逸しているように映るのですが」「そうなんだよね……」槇村は淡々と箸を動かしながら、諦念の混じったため息を零れさせる。「ああ、けれど誤解しないでくれ。宏一のそれは、男女の情愛とは一線を画するものだ。――君が彼女に抱いているものとはね」鈴華との関係性を薄皮一枚隔てて鋭く突かれたような、じっとりとした居心地の悪さが、京司の胸の奥底へと染み込んでいった。
幾重にも折れ曲がる細路地の最果て、朽ちゆく廃屋の群れに紛れるようにして、 その店は息を潜めていた。時の流れに取り残されたかのようなその佇まいに人の気配は感じられない。外界との繋がりを断ったその店は、ただひっそりとそこに存在するだけの ものとなっていた。指先をかけた古びた扉が開く事はなく、ため息を吐くような重みで 沈黙を守っているだけだった。 「ガサが入ってからけっこうな時間がたってるさかいなぁ。パクられたか体をかわしたか…」 ※パクられ…逮捕される 体をかわす…逃亡する 揺らめく煙が彼の輪郭を曖昧にぼかす。彼は指先の火影を見つめたまま、断続的な言葉を夜の闇へ放り投げた。
「特別な意図などありません。ただ久々に友人に会いたかったという、私的な逍遥に過ぎません」「ほう、、、六穣会は関係ないと?」腑に落ちぬ表情を隠そうともせず、彼はあからさまな不快を滲ませた。 しかし、それ以上の追究が空隙を埋めることはないと悟ったのか、 やがて重い口を閉ざし、言葉の礫を投げるのを止めた。「・・・で、君をどこに送ったらええんや?」答えを拒むかのように、鈴華の視線がわずかに彷徨う。 喉元まで出かかった言葉を一度飲み込み、彼女は覚悟を決めたように、彼に向かって目的地を口にした。「西木屋町にあるスナックです」「西木屋町、、、うちのシマやな。なんて名前の店や?」「…ヨ
彼女は呼吸ひとつ分の沈黙を経て、『はい』とだけ告げた。彼女の沈黙という深淵に、どのような想像が沈んでいるのか。彼は一瞬その淵を覗き込もうとしたが、すぐにそれを止めた。ただ静かに言葉を紡ぎ、その静寂を破る。「そういうたら、まだ名前をきいてへんかったなぁ。君なんて名前?」「鈴華、、、槇村鈴華です」「鈴華、、、ええ名前やな。、、、で、君何者やの?カタギの娘が血生臭い九条組の『顔』に辿り着くはずがあらへん」「私はしがない小娘にすぎません。ただ、父が六穣会という場所に身を置いておりますので、普通の方なら知り得ないようなことが、自然と耳に届いてしまうのです」「六穣会の槇村やと⁉」溢
車内に乗り込んだ彼女を確認し、ほっとした表情を一瞬浮かべ、エンジンをかける。静かに走り出した窓越しの街灯が彼女の長い黒髪を柔らかく照らしている。 「君みたいなお嬢さんが一人歩きするのは、やっぱり心配やからな」 「九条のシマで問題は起こしません」※シマ…組の縄張り。管理地域。 煙草の煙を指先で弄りながら薄くほほ笑む。車内の照明が彼の彫り込まれた眉間に影を作る。 「そうやろうなぁ。こないな綺麗な娘さんが問題を起こすとは思えへんけど、用心に越したことはあらへん」 会話の途切れ目だった。ふいに、彼女が車のシートから身を乗り出し、囁くような声とともに、彼女の顔が彼の口元へと寄せられた







