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第02話 知らなかったのではない

Penulis: 他力本願寺
last update Tanggal publikasi: 2026-10-20 12:52:44

 静まり返った早朝のリビングで、柚木千景は一人、ダイニングテーブルに向かっていた。

 手元には仕事用のまっさらなノートと、黒いボールペン。その横には、自分のスマートフォンが置かれている。画面に表示されているのは、夫婦で共有している家計管理アプリの履歴画面だ。

 千景は画面をスクロールし、一行ずつノートに文字を書き写していく。

『六月十四日・会社の飲み会と申告。同日二十三時、恵比寿のレストランにて二名分のカード決済』

『八月二日・ゴルフコンペと申告。同日午後、湘南エリアのコインパーキング決済履歴あり。ETC降車インターとゴルフ場の位置関係に矛盾』

『九月二十八日……』

 ペンの滑る音だけが、薄暗い部屋に響く。

 わずか三十分ほど履歴を遡り、夫の過去のスケジュールと照らし合わせただけで、食い違いは十一件にも上った。

 ノートに箇条書きにされた十一の痕跡。それは、早瀬拓真という人間の不貞を強く示唆する、真っ黒な事実の羅列だった。他人の家庭の嘘を暴くことを生業にしている千景からすれば、呆れるほど脇が甘く、分かりやすい証拠の数々だ。

 しかし、千景を何よりも動揺させたのは、その十一件の嘘を目の前にしても、自分の目から一滴の涙もこぼれないことだった。

 裏切られた悲しみで取り乱すことも、激しい怒りでノートを破り捨てることもない。ただ、淡々と対象者の行動記録を整理する「浮気調査員」としての冷ややかな思考だけが、頭の中で稼働している。

 泣けない自分が、恐ろしかった。

 十五歳の嫌な記憶がまた蘇る。自分の知識が、言葉が、取り返しのつかない破壊をもたらしたのだと思い続けてきた。

 だから、千景は自分の家庭にだけは盲目を貫いた。疑わしいことがあっても、決して調べない。知らなければ、家は保たれると信じたかった。だが、見ないふりをして感情に蓋をし続けた結果、自分は夫に対する正当な悲しみすらも失ってしまったのだ。

「おはよう。早いな」

 寝室のドアが開き、拓真があくびをしながらリビングに現れた。千景は素早くノートを閉じ、スマートフォンを裏返して立ち上がった。

「おはよう。コーヒー、淹れるね」

 千景は極めて自然な声を出した。キッチンのカウンター越しに、拓真が椅子に座ってテレビのニュースをつけるのを眺める。

 マグカップにコーヒーを注ぎながら、千景は背中越しに尋ねた。

「そういえば、最近あの腕時計していないね。去年の結婚記念日にあげたやつ」

 昨日、桐生朔が提示した写真に写っていた、文字盤に欠けのある紺色ベルトの腕時計。

 拓真はテレビの画面から目を離さず、食パンに手を伸ばしながら答えた。

「ああ、あれ。少し調子が悪くてさ。いま修理中なんだ」

 その声には、一切の淀みも、かすかな震えもなかった。呼吸をするのと同じくらい自然な、見事な嘘だった。

「そうなんだ。早く直るといいね」

 千景はコーヒーをテーブルに置きながら、左手の親指で人差し指の爪をそっとなぞった。

 背筋を冷たいものが這い上がっていく。この男は、毎日こうやって完璧な仮面を被り、自分に微笑みかけていたのか。

 拓真が家を出た後、千景はクローゼットの奥から小さな手提げ金庫を引き出した。中から自分の名義の通帳、婚前からの貯蓄の記録、それに結婚時に交わした賃貸や保険関係の書類の控えを取り出す。

 持ち出すのは、あくまで自分自身に閲覧と保持の権限がある「自己保有資料」だけだ。

 会社のデータベースを使って夫を検索することは絶対にしない。調査員としての特権を私的に流用すれば、自分自身が立っている倫理の土台が崩れる。千景はそれらの私物を慎重に鞄の底へ沈め、マンションを出た。

 午前九時前。関内のオフィスビルが立ち並ぶ通りには、冷たい海風が吹き抜けていた。

 岬リサーチが入るビルのエントランスに近づいた千景は、不意に足を止めた。

 入り口の少し手前、街路樹のそばに、見覚えのある黒い工具鞄を持った男が立っていた。桐生朔だ。

 昨日の今日で、追加の資料でも持ってきたのだろうか。朔も千景の姿に気づき、軽く会釈をした。千景は彼に近づいたが、仕事の具体的な進捗については一切口にしなかった。

「おはようございます。昨日は、その……」

 朔は言い淀み、少し疲れたような顔で千景を見た。ひどく眠りの浅い夜を過ごした人間の顔だった。

 千景は首を横に振った。

「私は何もしておりません。担当の者が、しっかりと対応させていただいているはずです」

 業務上の模範解答だった。朔は少しだけ目を伏せ、それからふと、千景の方へわずかに左耳を傾けた。

「……黙っていたんです」

 ぽつりと、風に溶けるような声だった。

「妻の様子がおかしいことには、もっと前から気づいていました。でも、黙っていた。家が壊れるのが、怖くて」

 その言葉は、鋭い刃のように千景の胸の奥を突き刺した。

 朔は、千景がなぜ担当を降りたのか、写真を見て何を悟ったのか、深い事情を探ろうとはしなかった。ただ、自分自身の弱さを、目の前の昨日名刺を受け取ったばかりの調査員にこぼしただけだ。

 しかし、千景には痛いほどわかった。彼もまた、自分と同じなのだ。

 真実を知ることで居場所が失われることを恐れ、目隠しをして綱渡りを続けてきた。その結果が、一枚の残酷な写真となって返ってきた。

「……私も」

 千景の口から、無意識のうちに言葉が漏れていた。

「私も、同じです」

 朔が少し驚いたように顔を上げる。千景はそれ以上は何も言わず、ただ深く一礼してビルのエントランスへと歩き出した。

 他人の嘘を暴くことに長けた調査員と、わずかな音の狂いを聞き分ける調律師。二人の臆病な人間が、同じ傷を抱えてすれ違った瞬間だった。

 その日の夜。

 夕食を終え、ソファでスマートフォンをいじっていた拓真が、思い出したように口を開いた。

「来週の木曜日、五日なんだけどさ。急に大阪へ出張になったよ」

 千景は食器を拭く手を止めずに「そうなんだ」と相槌を打った。

「たぶん一泊になると思う。クライアントからの急な呼び出しでさ、参っちゃうよ」

 拓真は苦笑いを浮かべ、立ち上がって脱衣所へと向かった。シャワーの音が聞こえ始める。

 千景はタオルを置き、自分のスマートフォンを手に取った。

 共有家計アプリを立ち上げ、これからのスケジュールに関連する「宿泊予約履歴」の項目をタップする。夫婦の口座やクレジットカードに紐づいた正当な閲覧権限だ。

 画面が切り替わり、最新の予約履歴が表示される。

 そこには確かに「十一月五日」の宿泊予約が入っていた。

 しかし、行き先は大阪ではない。

『予約完了:十一月五日・横浜ベイエリアホテル・ツインルーム』

 自宅から電車でわずか数十分の距離にある、横浜のホテル。

 千景は静かに画面を閉じ、もう一度、左手の親指で人差し指の爪をなぞった。

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