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第03話「今度は私が依頼人」

last update publish date: 2026-10-20 12:52:48

「私の、夫を調べてください」

 横浜市内の静かなオフィスビルの一室。篠原法律事務所の応接室で、柚木千景は目の前に座る弁護士に向かってそう告げた。

 声が微かに震えていた。膝の上で固く組んだ手は、ひどく冷たくなっている。

 相手は、離婚や男女問題の実績が豊富な弁護士、篠原玲子だった。四十六歳の彼女は、感情を取り乱す依頼人を数え切れないほど見てきたのだろう。千景の震える声を聞いても表情を変えず、静かに頷いた。

「早瀬拓真さん。ご結婚されて四年半ですね。……現在、具体的な不貞の証拠はお持ちですか?」

「いえ。ただ、先週から今朝にかけて、夫のスケジュールと実際の行動、そして家計の決済履歴にいくつもの矛盾があることを確認しました。今週の木曜日、五日から大阪へ出張に行くと言っていますが、夫婦の共有アプリには、横浜市内のホテルの予約履歴が残されています」

 千景は持参したノートを開き、事実だけを簡潔に伝えた。

「なるほど。不貞行為を立証し、離婚や適切な財産分与、慰謝料の請求を進めるためには、推測や決済履歴だけではなく、肉体関係を伴う客観的な証拠――具体的には、ホテルへの出入りなどの記録が必要になります。調査会社を利用するおつもりですね?」

「はい。そのための準備として、まずは篠原先生にご相談に伺いました」

 離婚と財産分与の要点に関するやり取りは、わずか三往復程度で終わった。千景自身が浮気調査員であり、法的要件を理解しているため、無駄な感情論を省くことができたからだ。

 しかし、知識として知っていることと、自分が「依頼人」の席に座ることは、天と地ほど違った。他人の家庭の崩壊には冷静にメスを入れられるのに、自分の婚姻関係を書類上の手続きとして解体していく作業は、息が詰まるほどの痛みを伴った。

「千景さんは岬リサーチにお勤めですよね。ご自身の会社を使って調査をされる方もいらっしゃいますが」

 篠原の問いに、千景ははっきりと首を横に振った。

「絶対に使いません。職権の私的濫用になりますし、何より……」

 桐生朔の顔が浮かんだ。彼の妻である「奈緒」と、自分の夫が繋がっている可能性。それを社内の権限を使って裏付けようとすれば、朔の正規の依頼資料を覗き見ることになる。

「会社の資料や、他の依頼人の方の案件と、私の個人的な問題は完全に切り離します」

 その言葉に、篠原は口元にわずかな笑みを浮かべ、「わかりました。賢明なご判断です」と頷いた。

 その日の午後、千景は関内から少し離れた場所にある「アーク調査事務所」を訪れた。

 代表の千田剛は五十代のベテラン調査員で、岬リサーチとも以前から面識があった。

「まさか、岬さんのところの優秀な調査員から、直接ウチに仕事が来るとはね」

 千田は苦笑しながら、千景が差し出した資料に目を通した。

「十一月五日の木曜日。ご主人は大阪出張と言っているが、実際の予約はこの横浜のホテル。ここを張って、対象者の動向と接触者を特定してほしい、と」

「はい。対象者がホテルにチェックインする前後、および翌朝のチェックアウト時の対象者の撮影をお願いします」

 千景は淡々と告げた。千田は少し探るような目で千景を見た。

「ウチとしては仕事をもらえるのはありがたいが……本当にいいのかい? あんたのところの会社を使えば、融通が利くはずだ」

「だからこそ、頼めないんです。私は、自分の手で正当に依頼をしたい」

 千景の強い視線を受け、千田は短く息を吐いて「わかった」と頷いた。

「正規の依頼として引き受けよう。着手金と実地調査、報告書の作成費用を合わせて、四十五万円になる」

 千景は持参した自分の手元資金――結婚前からコツコツと貯めていた特有財産の口座から下ろした現金――を差し出した。

 四十五万円。決して安い金額ではない。だが、このお金を支払った瞬間、千景の中で何かが確かに変わった。

 夫の嘘に怯え、家計アプリの通知から目を背けていた受動的な妻はもういない。彼女は今、自らの意思と対価を払い、自分の人生を取り戻すための反撃を始めた「依頼人」になったのだ。朔の案件の情報を盗み見るような、卑怯な真似はしない。自分の力で、正規の証拠を手に入れる。

 夜、千景が自宅のマンションに帰ると、リビングの照明が点いていた。

 拓真は寝室か脱衣所にいるらしく、姿は見えない。千景はコートを脱ぎながら、ふとダイニングテーブルの上に目をやった。

 そこには、拓真のスマートフォンが画面を上にして置かれている。そしてその横には、結婚当初に買った古い共用のタブレット端末が無造作に転がっていた。

 千景はキッチンへ向かおうとしたが、その瞬間、拓真のスマートフォンが微かに震え、画面が明るく発光した。

 千景は足を止めた。

 他人のスマートフォンを無断で操作したり、パスコードを解除して中身を覗き見たりすることは、プライバシーの侵害であり不正アクセス行為に当たる。調査員である千景は、その一線を越えることの危うさを誰よりも理解していた。だから、手は出さない。絶対に触れない。

 だが、発光した画面に浮かび上がったプッシュ通知のプレビューの文字列だけが、千景の視界に暴力的に飛び込んできた。

『奈緒:薬指の指輪のサイズだけど……』

 千景の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。

「奈緒」

 間違いない。先日の応接室で、桐生朔が口にした彼の妻の名前だ。

 あのカフェで向かい合っていた、時計の男と、顔の不鮮明な女。

 点と点が、千景の頭の中で決定的に結びついた。社内の顧客ファイルなど覗かなくても、たったこれだけで十分だった。拓真の浮気相手は、朔の妻である桐生奈緒だ。そして、二人は指輪の話をしている。妻である自分には、贈った時計をつけていない言い訳をしておいて。

「お、帰ってたのか」

 背後から声がして、千景は咄嗟にスマートフォンから視線を外し、キッチンへと向き直った。

 リビングに入ってきた拓真は、スーツ姿のままだった。そして、その手には、普段なら絶対に買ってくることのない、小さなガーベラの花束が握られていた。

「駅前で売っててさ。たまにはいいかと思って」

 拓真はわざとらしいほど明るい声で言い、花束を千景に差し出した。

 不倫をしている男が、罪悪感や妻の機嫌を取るために突然花やケーキを買って帰ってくるのは、浮気調査における典型的な行動パターンの一つだ。千景は心の奥底で冷たく嗤いながら、表面上は穏やかな妻の顔を作ってそれを受け取った。

「ありがとう。珍しいね」

「最近、千景も仕事で疲れてるみたいだったからさ」

 拓真はネクタイを緩めながら、ダイニングの椅子に腰を下ろした。そして、何気ない雑談を装うように、千景の顔色をじっと窺いながら口を開いた。

「そういえば、今日はお前、遅かったな。何か面白い依頼でもあったのか? ほら、厄介な不倫の案件とか」

 その言葉の裏に潜む、ねっとりとした探りの気配。

 千景は花束を花瓶に生けながら、背中越しに夫の視線を感じていた。

その視線は千景が「職場の権限」を使って、誰かの案件を調べていることを期待しているかのようだった。

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