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第二章:微細な亀裂

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-26 03:44:11

 水曜日の朝、陽菜は同じ時刻に目を覚ました。

 しかし、何かが違う。

 窓から差し込む光の角度が、わずかに異なるような気がする。いや、気のせいかもしれない。陽菜は起き上がり、いつものようにカーテンを開ける。

 空は曇っていた。

 それは珍しいことだった。緑ヶ丘町の天気は、驚くほど安定している。晴れの日が多く、雨が降るのは月に数日程度だ。曇りの日は、さらに少ない。

 陽菜は窓の外を見つめる。灰色の空。雲の層は厚く、太陽の光は完全に遮られている。

「今日は雨が降るのかしら」

 彼女は独り言を言う。

 準備を済ませ、家を出る。外の空気は少しひんやりしている。歩き始めると、いつもと違う感覚があった。

 道行く人々の表情が、わずかに硬い。

 いつもなら挨拶を交わす人々が、今日は視線を合わせない。花屋の田村さんも、今日は店の外にいない。店は開いているが、中で何かをしているようだ。

 陽菜は少し不安を感じる。しかし、それは些細なことだ。天気が悪い日は、誰でも気分が沈むものだ。

 学校に着くと、生徒たちは普段通り元気だった。それを見て、陽菜は少し安心する。子どもたちは天気に左右されない。

 授業は順調に進む。しかし、三時間目の休み時間、またあの瞬間が訪れた。

 田中健太が窓に近づいてくる。

「先生、窓開けていいですか?」

 陽菜は動きを止める。

 この質問。この光景。

 昨日も同じことがあった。いや、昨日だけではない。もっと前にも。何度も。

 デジャヴではない。これは確実に繰り返されている。

「田中君」

 陽菜は田中君を見つめる。

「あなた、いつも同じ質問をするわね」

 田中君は不思議そうな顔をする。

「え? そうですか?」

「ええ。いつも三時間目の休み時間に、窓を開けていいか聞くでしょう?」

 田中君は首を傾げる。

「そうでしたっけ? 覚えてないです」

 他の生徒たちも、陽菜の言葉に反応していない。まるで、何も異常を感じていないように。

 陽菜は混乱する。自分の記憶が間違っているのか? それとも、他の人々が気づいていないだけなのか?

「先生、開けていいですか?」

 田中君がもう一度聞く。

 陽菜は頷く。

「ええ、どうぞ」

 窓が開く。空気が流れ込む。

 しかし、今日の空気は冷たく、少し湿っている。昨日の爽やかさとは違う。

 陽菜は窓の外を見る。校庭の向こうに、町の風景が広がっている。住宅、商店街、そしてその先には――

 工業地帯。

 町の南側に広がる、誰も近づかない場所。煙突が並び、無機質な建物が立ち並ぶ。陽菜はあの場所に一度も行ったことがない。

 なぜだろう?

 考えてみれば、それは不自然だ。町に住んで三十四年、一度もあの場所を訪れたことがない。理由は? 危険だから? でも、具体的に何が危険なのか、誰も説明してくれない。

 陽菜は心の中でメモを取る。これは調べる必要がある。


 放課後、陽菜は職員室で佐藤先生に話しかけた。

「美咲先生、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「工業地帯のこと。あそこって、何があるの?」

 佐藤先生は一瞬、表情を硬くする。しかしすぐに笑顔に戻る。

「工業地帯? ああ、町の南側の。確か、古い工場とか倉庫があるんじゃなかったかな。でも、もう使われてないんじゃない?」

「誰か行ったことある人、知ってる?」

 佐藤先生は少し考える。

「うーん、聞いたことないわね。そもそも、行く理由がないでしょう? 何か用事でもあるの?」

「いえ、ただ気になって」

「変なこと考えてるわね」

 佐藤先生は笑う。しかし、その笑い方には、わずかな不自然さがあった。

 陽菜はそれ以上追及しなかった。しかし、心の中で決めた。今度、あの場所に行ってみよう。

 夕方、陽菜は一人で町を歩いていた。

 普段は通らない道を選ぶ。南側へ、工業地帯へ向かう道。

 歩いていくと、周囲の雰囲気が変わっていく。人通りが少なくなり、建物も古くなる。商店はまばらで、閉まっている店も多い。

 やがて、陽菜は境界線に辿り着いた。

 そこには小さな看板が立っていた。

「関係者以外立入禁止」

 シンプルな文言。理由は書かれていない。

 陽菜は立ち止まる。ここから先に進むべきか? しかし、何かが彼女を押し止める。目に見えない壁があるような感覚。

 彼女は深呼吸をする。そして、一歩を踏み出そうとした。

 その瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。

 陽菜は頭を押さえる。痛みは鋭く、まるで脳を針で刺されているような感覚だ。

 視界が歪む。目の前の景色が揺れる。

 そして、声が聞こえた。

 ――警告。境界線を越えないでください。

 それは、誰の声でもなかった。陽菜の頭の中で直接響く、機械的な声。

 陽菜は後ずさる。頭痛は徐々に収まっていく。

 彼女は混乱していた。今の声は何だったのか? 幻聴? それとも――

「大丈夫ですか?」

 背後から声がかかる。振り返ると、中年の男性が立っていた。作業服を着ている。

「あ、はい、大丈夫です」

「こんなところで何をしてるんです? ここは立入禁止ですよ」

「すみません、ただ道に迷って」

 男性は陽菜を見つめる。その視線には、何か測るようなものがあった。

「気をつけてくださいね。ここは危険ですから」

「何が危険なんですか?」

 陽菜の質問に、男性は少し驚いたような表情をする。

「……知らないんですか? 有害物質が残っているんですよ。昔の工場からの。近づくと健康に悪い」

 その説明には、説得力がなかった。しかし、陽菜はそれ以上聞くことができなかった。男性の視線が、何か圧力を持っているような気がした。

「わかりました。気をつけます」

 陽菜はその場を離れる。早足で、来た道を戻る。

 心臓が激しく鳴っている。

 何かがおかしい。この町には、何か隠されている。

 そして、陽菜は自分が何かの真実に近づいていることを、直感的に理解していた。

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