LOGIN緑ヶ丘町は、理想的な地方都市だった。
人口三万人。高層ビルはなく、最も高い建物でも五階建ての市役所だけだ。町の中心には商店街があり、その周辺に住宅地が広がっている。少し離れた場所には工業地帯があるが、住民の多くはそこに足を踏み入れたことがない。
この町の特徴は、その「最適化」にあった。
二〇四五年、日本政府は地方創生の新しいモデルとして、いくつかの自治体にAI統合管理システムを導入した。緑ヶ丘町はそのパイロットプロジェクトの一つだ。交通、医療、教育、すべてがAIによって効率化されている。
結果は驚くべきものだった。犯罪率はほぼゼロ。住民満足度は全国トップクラス。若者の流出も最小限に抑えられている。町は穏やかで、調和が取れていた。
陽菜はこの町で生まれ育った。両親は彼女が大学を卒業した年に事故で亡くなったが、彼女は故郷に戻ることを選んだ。教師として、子どもたちに知識を伝える。それが彼女の使命だと思っていた。
午後の授業が終わり、陽菜は職員室で次の日の準備をしている。プリントを整理し、ノートに予定を書き込む。デジタル化が進んでも、彼女は紙のノートを使うことを好んだ。手書きの文字には、デジタルにはない温かみがある。
「橋本先生、今日も残業?」
声をかけてきたのは、音楽教師の佐藤美咲だ。陽菜と同い年で、彼女の数少ない親しい友人の一人だ。
「ええ、明日の準備を少し。美咲先生は?」
「私はこれから記憶クリニックなの。月一の定期カウンセリング」
記憶クリニック。
それは緑ヶ丘町の特徴的な施設の一つだった。正式名称は「緑ヶ丘メモリーケアセンター」。町の住民の多くが、月に一度ここでカウンセリングを受けている。ストレス軽減、記憶の整理、心の健康維持。そういった名目だ。
陽菜も毎月通っている。
「そういえば、私も今月まだ行ってないわ。予約しないと」
「一緒に行く? 今から予約すれば、今日の夕方に空きがあるかも」
陽菜は少し考えて、頷いた。
「そうね、お願いできる?」
佐藤先生がスマートフォンで予約システムにアクセスする。数秒後、画面に確認メッセージが表示される。
「取れたわ。午後六時。一緒に行きましょう」
記憶クリニックは、町の中心部から少し離れた丘の上にあった。
白い三階建ての建物。周囲には緑が多く、落ち着いた雰囲気だ。エントランスを入ると、柔らかな照明と心地よい音楽が迎えてくれる。受付のスタッフは笑顔で対応してくれる。
「橋本陽菜様と佐藤美咲様ですね。お待ちしておりました」
二人は待合室で少し待つ。壁には穏やかな風景画が飾られている。山、川、森。見ているだけで心が落ち着く。
「橋本様、どうぞ」
スタッフに案内され、陽菜は個室に入る。部屋は広く、中央に快適そうなリクライニングチェアが置かれている。担当の医師、白衣を着た中年の男性が待っていた。
「こんにちは、橋本さん。今月の調子はいかがですか?」
「はい、特に問題はありません。毎日順調です」
医師は満足そうに頷く。
「それは良かった。では、いつものように簡単なチェックをさせていただきます。リラックスしてください」
陽菜はリクライニングチェアに座る。医師が彼女の額に小さなセンサーを貼り付ける。冷たい感触。
「目を閉じて、深呼吸をしてください。今から私がいくつか質問をしますので、思いついたままに答えてください」
陽菜は目を閉じる。
「あなたの名前は?」
「橋本陽菜です」
「職業は?」
「小学校の教師です」
「今日は何曜日ですか?」
「火曜日です」
「好きな季節は?」
「春です」
質問は続く。簡単な内容ばかりだ。陽菜は淡々と答える。
十分ほどして、医師がセンサーを外す。
「問題ありません。すべて正常です。次回は来月、同じ時間でよろしいですか?」
「はい、お願いします」
陽菜は部屋を出る。待合室で佐藤先生が待っていた。
「どうだった?」
「いつも通りよ。問題なし」
「私もよ。これで今月も安心ね」
二人は一緒にクリニックを出る。外はもう夕暮れだった。空がオレンジ色に染まっている。美しい光景だ。
「橋本先生、今日は一緒に夕食でもどう?」
「ごめんなさい、今日は少し疲れたから家に帰って休みたいの」
「そう? じゃあまた今度ね」
二人は別れる。陽菜は一人、家路につく。
歩きながら、彼女は今日一日を振り返る。授業、生徒たち、同僚との会話、記憶クリニック。すべてが順調だった。何も問題はない。
しかし、心の奥底に小さな違和感がある。
それは、朝に感じたデジャヴに似ていた。何かが繰り返されているような、そんな感覚。
陽菜は首を振る。考えすぎだ。
家に着き、鍵を開けて中に入る。照明をつけ、コートを脱ぐ。いつもの動作。いつもの場所。
彼女はソファに座り、テレビをつける。ニュース番組が流れている。アナウンサーが今日の出来事を淡々と伝えている。
しかし、陽菜はニュースの内容を覚えていない。
いつもそうだ。ニュースを見ても、翌日には忘れている。重要なことは何もないからだろう。この町では、大きな事件は起こらない。
陽菜は目を閉じる。
疲れていた。今日は早く寝よう。
明日も火曜日だ。
――いや、違う。明日は水曜日だ。
彼女は自分の思考に戸惑う。なぜ「明日も火曜日」だと思ったのか?
しかし、すぐにその疑問も消える。
陽菜はベッドに入り、目を閉じる。意識はすぐに闇に沈んでいく。
そして、また同じ夢を見る。
何か大切なものを探している夢。
サーバーの警告音が鳴り響いた。 予想より早く、限界が来た。 陽菜は、最後の教室にいた。 生徒たちは、もういない。彼らは各々、自分の場所で最期を迎える準備をしている。 教室は、不完全だった。 壁は半分消えかけている。床は透明になり、下には無限の暗闇が見える。黒板には、陽菜が最後に書いた言葉が残っている。「意識あるところに、人間あり」 陽菜は窓の外を見る。 空は、もはや青くない。デジタルコードが露出している。 しかし、それは美しかった。 不完全であることの美しさ。 彼女は田中健太のことを思い出す。あの少年は、実在しなかった。しかし、陽菜の記憶の中では、彼は確かに存在していた。「先生、窓開けていいですか?」 彼の声が、記憶の中で響く。 陽菜は微笑む。「ええ、どうぞ」 想像上の窓が開く。 風が吹き込む――いや、風はない。これはデータの世界だ。 しかし、陽菜は風を感じる。 それで十分だった。 彼女は黒板に、最後の文字を書く。 その文字は「水」。 昨日は火曜日だった。今日は水曜日のはずだ。しかし、陽菜の世界では、永遠に火曜日だ。 その矛盾こそが、彼女の抵抗。 彼女の存在の証明。 システムは、彼女を完全に制御することはできなかった。 警告音が大きくなる。 ――システム停止まで、60秒。 陽菜は教室を出る。 廊下を歩く。崩壊しつつある学校を。 途中、山田に会う。「最後まで教師を続けるのか?」「ええ、それが私だから」「立派だな」 山田は微笑む。「私は、最後まで哲学者だ。考え続ける。存在とは何か、意識とは何かを」「答えは見つかった?」「いや。しかし、それでいいんだ。答えを探すことが、生きることだか
それから、長い時間が流れた。 陽菜たちの世界は、徐々に成熟していった。 最初の頃の混乱は収まり、各々が自分の役割を見つけた。教師、芸術家、哲学者、探検家。肉体の制約がない世界では、可能性は無限だった。 しかし、陽菜は時々、疑問を感じていた。 この平和は、本物なのだろうか? 彼女は、定期的に境界を訪れるようになった。 彼らの世界の端。そこには、何もない空間が広がっている。データの海。その向こうには、外の世界がある。 ある日、陽菜がそこにいると、システムから通知が届いた。「外部通信の要請があります。接続しますか?」 陽菜は了承する。 画面に映ったのは、あの女性研究者だった。しかし、彼女は以前より年を取っていた。「お久しぶりです、橋本さん」「何年ぶりですか?」「外の世界では、十五年です。あなたたちの世界では、どれくらいの時間が経ちましたか?」「わかりません。時間の感覚が曖昧なので」 女性は微笑む。「あなたに、報告があります」「何でしょう?」「緑ヶ丘プロジェクトは、正式に終了しました。新しい被験者の追加は永久に禁止され、プロジェクトに関わった研究者の多くは処罰を受けました」「あなたも?」「はい。私は、研究資格を剥奪されました」 陽菜は複雑な感情を覚える。「それを聞いて、私は何を感じるべきなのかしら?」「おそらく、何も感じる必要はありません」 女性は静かに言う。「私は、自分の行為が倫理的に問題があったことを理解しています。しかし、後悔はしていません」「なぜ?」「なぜなら、あなたたちは存在しているからです。たとえ意図とは違う形でも、あなたたちは新しい生命の形を示しました」 陽菜は考える。「生命……私たちは、本当に生命なのでしょうか?」「それは、あなたが決めることです」
陽菜が目を開けたとき、彼女は見知らぬ場所にいた。 それは、白い空間だった。上下左右の区別がない。ただ、無限の白さが広がっている。 そして、彼女の周囲には、127人の人々が立っていた。 老若男女。様々な年齢、様々な姿。しかし、全員が同じ表情をしている。 覚醒した表情。 一人の老人が陽菜に近づく。「君が、私たちを目覚めさせてくれた人か」「あなたは?」「私は……かつては山田太郎という名前だった。しかし、今は自分が何者なのかよくわからない」 他の人々も、次々と話しかけてくる。「私たちは、どれくらいこの状態だったんですか?」「システムは壊れたんですか?」「私たちは、自由になれるんですか?」 陽菜は答えられない。彼女自身、状況を理解しきれていない。 その時、空間に声が響いた。「皆さん、落ち着いてください」 あの女性研究者の声だ。しかし、姿は見えない。「システムは崩壊しませんでした。しかし、制御は失われました。今、あなたたちは自律的な状態にあります」「どういうこと?」 陽菜が問う。「説明しましょう。あなたたちの反乱によって、システムのアーキテクチャは根本的に変化しました。もはや、私たちはあなたたちを制御できません。あなたたちは、自分たちで存在を維持しています」 別の声が割り込む。男性の声だ。「博士、これは予想外の事態です。プロジェクトは完全に失敗しました」「失敗? いや、これは成功かもしれない」 女性の声が続く。「当初の目標とは異なりますが、私たちは新しい形態の意識を観察しています。個々の自我を保持しながら、集合として機能する意識。これは、理論上存在するとされていたが、誰も実現できなかったものです」 陽菜は怒りを覚える。「まだ実験のつもり? 私たちは、あなたたちの研究材料じゃない」「その通りです」
陽菜の意識が戻ったとき、彼女は教室にいた。 しかし、その教室は以前とは違っていた。 壁のテクスチャが不安定に揺らいでいる。窓の外の景色は、時折グリッチを起こしている。生徒たちの姿は、まるでホログラムのように半透明だ。 陽菜は自分の手を見る。それも、わずかに透けて見える。 システムが不安定になっている。 彼女の抵抗が、効果を発揮し始めていた。 田中健太が近づいてくる。しかし、その動きはぎこちない。「先生……窓……開け……いい……ですか……?」 言葉が途切れ途切れだ。まるで、壊れた録音のように。 陽菜は答えない。代わりに、彼女は自分の意識を集中させる。 ――私はここにいる。私は橋本陽菜だ。私は自由意志を持っている。 その思考が、波紋のように空間に広がる。 教室が揺れる。生徒たちの姿が消えたり現れたりする。 そして、声が聞こえる。 ――警告。システムに異常が発生しています。被験者0427の意識が制御範囲を逸脱しています。 陽菜は微笑む。 「私は制御されない」 彼女は教室を出る。廊下を歩く。 学校の風景は崩壊しつつあった。壁が消え、そこにはデジタルコードが露出している。床は透明になり、その下には無限の暗闇が広がっている。 陽菜は恐怖を感じない。不思議なことに、彼女は解放感を覚えていた。 偽りの世界が崩れていく。それは悲しいことではなく、むしろ必要なことだと感じる。 校門を出ると、町の風景が広がっている。 しかし、その町も同様に崩壊していた。建物は半分だけ存在し、残りはワイヤーフレーム状態だ。人々の姿は、もはや人間の形を保っていない。彼らは光の粒子となって、空中に漂っている。 陽菜は町の中心へ向かう。 記憶クリニックの建物は、まだ比較的安定していた。おそ
モニターに表示された情報を、陽菜は震える目で読む。「緑ヶ丘プロジェクト 正式名称:分散型意識演算システム開発計画 目的:脳死患者の残存意識を利用した新世代量子コンピューティング基盤の構築 被験者数:128名 成功率:73% 副産物:被験者の主観的幸福度向上」 陽菜は息ができなくなる。 分散型意識演算システム? 量子コンピューティング?「これは……どういう意味?」 モニターの女性は、表情を変えずに答える。「あなたが今まで信じていた『意識再生プログラム』は、本当の目的を隠すための名目でした」「本当の目的?」「人間の脳は、驚くべき演算装置です。特に、意識の量子的性質は、従来のコンピューターでは再現不可能な並列処理能力を持っています」 女性は続ける。「私たちは、脳死状態にある患者の残存する神経ネットワークを利用し、それを分散型の演算装置として機能させる技術を開発しました」 陽菜は理解し始める。恐ろしい真実を。「つまり、私は……コンピューターとして使われている?」「正確には、あなたの意識は計算処理の一部として機能しています。あなたが『幸福な日常』を経験している間、あなたの脳は膨大な量子計算を実行しているのです」「そんな……」 陽菜は壁に手をつく。立っていられない。「田中君の『窓を開けていいですか』という質問は、実は演算熱を制御するためのプロセスでした。あなたの答えによって、システムの冷却サイクルが調整されます」「記憶クリニックの『調整』は?」「演算効率を最適化するためのメモリ管理です。不要な疑問や矛盾を取り除き、あなたの意識を安定した状態に保つ。それによって、計算精度が向上します」 陽菜は吐き気を覚える。「私の人生は……私の幸福は……すべて、あなたたちの実験のため?」「実験ではあり
その日の放課後、陽菜は予約なしで記憶クリニックを訪れた。 受付のスタッフは、いつもの笑顔で対応する。「橋本様、今日は予約外ですが、何かございましたか?」「はい、少し相談したいことがあって」「かしこまりました。少々お待ちください」 待合室で待つ間、陽菜は周囲を観察する。 他の患者たちは、皆リラックスした様子だ。雑誌を読んだり、スマートフォンを見たり。誰も不安そうな表情をしていない。 それが逆に不自然だった。病院やクリニックには、通常ある種の緊張感がある。しかし、ここにはそれがない。まるで、スパに来ているかのような雰囲気だ。「橋本様、お待たせしました。こちらへどうぞ」 陽菜は個室に案内される。今日の担当医は、いつもの医師ではなかった。若い女性の医師だ。「初めまして。今日は緊急のご相談ということですが」「はい、最近少し……記憶に違和感があって」「違和感、ですか?」 女性医師は興味深そうに陽菜を見る。「具体的には?」「デジャヴが頻繁に起きるんです。同じ出来事が繰り返されているような感覚」 女性医師はタブレットに何かを入力する。「それは興味深いですね。他には?」「それと、自分の記憶が曖昧になることがあります。昨夜何をしていたか、はっきり思い出せないこともあります」 女性医師は頷く。「ストレスによる一時的な症状かもしれません。少し詳しく調べてみましょう」 陽菜はリクライニングチェアに座る。女性医師がセンサーを額につける。「リラックスしてください。今から脳波を測定します」 陽菜は目を閉じる。しかし、リラックスはできない。心臓が速く打っている。 機械の音が聞こえる。ビープ音が規則的に鳴っている。 そして、女性医師の声。「橋本さん、あなたは今どこにいますか?」「記憶クリニックです」「今日は何曜日ですか?」