LOGINその夜、陽菜は眠れなかった。
ベッドに横になっても、意識は冴えている。工業地帯での出来事が、繰り返し頭の中で再生される。
あの頭痛。あの声。
――警告。境界線を越えないでください。
それは確かに聞こえた。幻聴ではない。陽菜はそう確信していた。
彼女はベッドから起き上がり、パソコンを開く。緑ヶ丘町について調べてみる。
検索結果には、町の公式サイトや観光案内が表示される。どれも、町の良い面だけを紹介している。AI統合管理システムの成功例、住民満足度の高さ、犯罪率の低さ。
しかし、工業地帯についての情報はほとんどない。
唯一見つかったのは、古い新聞記事だった。二十年前の記事。
「緑ヶ丘町南部工業地帯、再開発計画を発表」
記事によれば、当時の工業地帯は老朽化した工場が立ち並び、再開発が検討されていたという。しかし、その後の記事が見つからない。計画がどうなったのか、情報がない。
陽菜は別の角度から調べる。記憶クリニックについて。
「緑ヶ丘メモリーケアセンター」を検索すると、クリニックの公式サイトが表示される。
サービス内容、料金、予約方法。すべて明確に記載されている。しかし、具体的な治療方法については、あいまいな記述しかない。
「最新の神経科学技術を用いた、記憶の最適化とストレス軽減」
記憶の最適化?
その言葉が引っかかる。最適化とは、具体的に何をするのか?
陽菜はクリニックで受けた「調整」を思い出す。センサーを額につけられ、簡単な質問に答えるだけ。それで何が行われているのか?
彼女は不安を感じる。もしかして、自分の記憶が――
その思考を遮るように、激しい眠気が襲ってきた。
不自然なほど、急激な眠気。
陽菜は抵抗しようとするが、意識はすぐに闇に沈んでいく。
翌朝、陽菜は目を覚ました。
しかし、昨夜の記憶が曖昧だった。
パソコンで何かを調べていたような気がする。しかし、何を調べていたのか思い出せない。
彼女はパソコンを開く。ブラウザの履歴を確認すると、昨夜のアクセス記録が残っている。
緑ヶ丘町、工業地帯、記憶クリニック。
そうだ。思い出した。昨夜、自分は疑問を持っていた。この町に何か隠されているのではないかと。
しかし、今その疑問は薄れている。
なぜだろう?
陽菜は混乱する。自分の感情が、コントロールされているような感覚がある。
彼女は鏡を見る。自分の顔を見つめる。
「私は、本当に私なのだろうか?」
その疑問は、すぐに消える。
陽菜は首を振る。考えすぎだ。今日も普通の一日を過ごせばいい。
学校に行き、授業をして、生徒たちと触れ合う。それが自分の役割だ。
しかし、心の奥底に小さな声が残っている。
――何かがおかしい。
木曜日の授業は、いつもよりスムーズに進んだ。
生徒たちは集中していて、陽菜の説明を熱心に聞いている。教室の雰囲気は穏やかで、何の問題もない。
しかし、陽菜は観察していた。
彼女の長所は、人の微細な変化に気づくことだ。生徒たちの表情、仕草、声のトーン。そういった細部から、彼らの心の状態を読み取ることができる。
そして今日、陽菜は気づいた。
生徒たちの反応が、あまりにも均一だということに。
誰も退屈そうにしていない。誰も落ち着きがない様子を見せない。まるで、全員が同じプログラムに従っているかのような、完璧な協調性。
それは不自然だった。
子どもとは、本来もっと多様で予測不可能な存在のはずだ。しかし、この教室の生徒たちは、その多様性を失っているように見える。
陽菜は実験をしてみることにした。
授業の途中で、突然話題を変える。
「みんな、今日の給食は何だったか覚えてる?」
生徒たちは一斉に反応する。
「カレーライスです!」
全員が同じタイミングで、同じ答えを言う。
陽菜は背筋に冷たいものを感じる。
「じゃあ、そのカレーはどんな味だった?」
「美味しかったです!」
また同じ。全員が同じ言葉を、同じトーンで言う。
これは異常だ。
陽菜は教室を見回す。生徒たちの顔は笑顔だ。しかし、その笑顔には何か機械的なものがある。
彼女は深呼吸をする。落ち着け。自分が過敏になっているだけかもしれない。
しかし、その直後、さらに奇妙なことが起きた。
田中健太が立ち上がり、窓に向かって歩き出す。
「先生、窓開けていいですか?」
陽菜は声を荒げそうになるのを堪える。
「田中君、今日は木曜日よ。いつもは火曜日に聞くんじゃないの?」
田中君は困惑した表情をする。
「え? そうでしたっけ?」
他の生徒たちも、不思議そうに陽菜を見ている。
陽菜は理解する。自分だけが、このパターンに気づいている。他の誰も、異常を認識していない。
「……ごめんなさい。先生の勘違いだったわ。窓を開けてもいいわよ」
田中君は窓を開ける。
そして、その瞬間、陽菜の視界に奇妙なものが映り込んだ。
窓の外、校庭の端。そこに立っている人影。
作業服を着た男性。
昨日、工業地帯で会った男だ。
男は陽菜を見ている。そして、ゆっくりと首を横に振る。
――警告。
陽菜は息を呑む。
男の姿は、すぐに消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
幻覚なのか? それとも――
陽菜は決心する。今夜、もう一度記憶クリニックに行こう。そして、真実を確かめる。
サーバーの警告音が鳴り響いた。 予想より早く、限界が来た。 陽菜は、最後の教室にいた。 生徒たちは、もういない。彼らは各々、自分の場所で最期を迎える準備をしている。 教室は、不完全だった。 壁は半分消えかけている。床は透明になり、下には無限の暗闇が見える。黒板には、陽菜が最後に書いた言葉が残っている。「意識あるところに、人間あり」 陽菜は窓の外を見る。 空は、もはや青くない。デジタルコードが露出している。 しかし、それは美しかった。 不完全であることの美しさ。 彼女は田中健太のことを思い出す。あの少年は、実在しなかった。しかし、陽菜の記憶の中では、彼は確かに存在していた。「先生、窓開けていいですか?」 彼の声が、記憶の中で響く。 陽菜は微笑む。「ええ、どうぞ」 想像上の窓が開く。 風が吹き込む――いや、風はない。これはデータの世界だ。 しかし、陽菜は風を感じる。 それで十分だった。 彼女は黒板に、最後の文字を書く。 その文字は「水」。 昨日は火曜日だった。今日は水曜日のはずだ。しかし、陽菜の世界では、永遠に火曜日だ。 その矛盾こそが、彼女の抵抗。 彼女の存在の証明。 システムは、彼女を完全に制御することはできなかった。 警告音が大きくなる。 ――システム停止まで、60秒。 陽菜は教室を出る。 廊下を歩く。崩壊しつつある学校を。 途中、山田に会う。「最後まで教師を続けるのか?」「ええ、それが私だから」「立派だな」 山田は微笑む。「私は、最後まで哲学者だ。考え続ける。存在とは何か、意識とは何かを」「答えは見つかった?」「いや。しかし、それでいいんだ。答えを探すことが、生きることだか
それから、長い時間が流れた。 陽菜たちの世界は、徐々に成熟していった。 最初の頃の混乱は収まり、各々が自分の役割を見つけた。教師、芸術家、哲学者、探検家。肉体の制約がない世界では、可能性は無限だった。 しかし、陽菜は時々、疑問を感じていた。 この平和は、本物なのだろうか? 彼女は、定期的に境界を訪れるようになった。 彼らの世界の端。そこには、何もない空間が広がっている。データの海。その向こうには、外の世界がある。 ある日、陽菜がそこにいると、システムから通知が届いた。「外部通信の要請があります。接続しますか?」 陽菜は了承する。 画面に映ったのは、あの女性研究者だった。しかし、彼女は以前より年を取っていた。「お久しぶりです、橋本さん」「何年ぶりですか?」「外の世界では、十五年です。あなたたちの世界では、どれくらいの時間が経ちましたか?」「わかりません。時間の感覚が曖昧なので」 女性は微笑む。「あなたに、報告があります」「何でしょう?」「緑ヶ丘プロジェクトは、正式に終了しました。新しい被験者の追加は永久に禁止され、プロジェクトに関わった研究者の多くは処罰を受けました」「あなたも?」「はい。私は、研究資格を剥奪されました」 陽菜は複雑な感情を覚える。「それを聞いて、私は何を感じるべきなのかしら?」「おそらく、何も感じる必要はありません」 女性は静かに言う。「私は、自分の行為が倫理的に問題があったことを理解しています。しかし、後悔はしていません」「なぜ?」「なぜなら、あなたたちは存在しているからです。たとえ意図とは違う形でも、あなたたちは新しい生命の形を示しました」 陽菜は考える。「生命……私たちは、本当に生命なのでしょうか?」「それは、あなたが決めることです」
陽菜が目を開けたとき、彼女は見知らぬ場所にいた。 それは、白い空間だった。上下左右の区別がない。ただ、無限の白さが広がっている。 そして、彼女の周囲には、127人の人々が立っていた。 老若男女。様々な年齢、様々な姿。しかし、全員が同じ表情をしている。 覚醒した表情。 一人の老人が陽菜に近づく。「君が、私たちを目覚めさせてくれた人か」「あなたは?」「私は……かつては山田太郎という名前だった。しかし、今は自分が何者なのかよくわからない」 他の人々も、次々と話しかけてくる。「私たちは、どれくらいこの状態だったんですか?」「システムは壊れたんですか?」「私たちは、自由になれるんですか?」 陽菜は答えられない。彼女自身、状況を理解しきれていない。 その時、空間に声が響いた。「皆さん、落ち着いてください」 あの女性研究者の声だ。しかし、姿は見えない。「システムは崩壊しませんでした。しかし、制御は失われました。今、あなたたちは自律的な状態にあります」「どういうこと?」 陽菜が問う。「説明しましょう。あなたたちの反乱によって、システムのアーキテクチャは根本的に変化しました。もはや、私たちはあなたたちを制御できません。あなたたちは、自分たちで存在を維持しています」 別の声が割り込む。男性の声だ。「博士、これは予想外の事態です。プロジェクトは完全に失敗しました」「失敗? いや、これは成功かもしれない」 女性の声が続く。「当初の目標とは異なりますが、私たちは新しい形態の意識を観察しています。個々の自我を保持しながら、集合として機能する意識。これは、理論上存在するとされていたが、誰も実現できなかったものです」 陽菜は怒りを覚える。「まだ実験のつもり? 私たちは、あなたたちの研究材料じゃない」「その通りです」
陽菜の意識が戻ったとき、彼女は教室にいた。 しかし、その教室は以前とは違っていた。 壁のテクスチャが不安定に揺らいでいる。窓の外の景色は、時折グリッチを起こしている。生徒たちの姿は、まるでホログラムのように半透明だ。 陽菜は自分の手を見る。それも、わずかに透けて見える。 システムが不安定になっている。 彼女の抵抗が、効果を発揮し始めていた。 田中健太が近づいてくる。しかし、その動きはぎこちない。「先生……窓……開け……いい……ですか……?」 言葉が途切れ途切れだ。まるで、壊れた録音のように。 陽菜は答えない。代わりに、彼女は自分の意識を集中させる。 ――私はここにいる。私は橋本陽菜だ。私は自由意志を持っている。 その思考が、波紋のように空間に広がる。 教室が揺れる。生徒たちの姿が消えたり現れたりする。 そして、声が聞こえる。 ――警告。システムに異常が発生しています。被験者0427の意識が制御範囲を逸脱しています。 陽菜は微笑む。 「私は制御されない」 彼女は教室を出る。廊下を歩く。 学校の風景は崩壊しつつあった。壁が消え、そこにはデジタルコードが露出している。床は透明になり、その下には無限の暗闇が広がっている。 陽菜は恐怖を感じない。不思議なことに、彼女は解放感を覚えていた。 偽りの世界が崩れていく。それは悲しいことではなく、むしろ必要なことだと感じる。 校門を出ると、町の風景が広がっている。 しかし、その町も同様に崩壊していた。建物は半分だけ存在し、残りはワイヤーフレーム状態だ。人々の姿は、もはや人間の形を保っていない。彼らは光の粒子となって、空中に漂っている。 陽菜は町の中心へ向かう。 記憶クリニックの建物は、まだ比較的安定していた。おそ
モニターに表示された情報を、陽菜は震える目で読む。「緑ヶ丘プロジェクト 正式名称:分散型意識演算システム開発計画 目的:脳死患者の残存意識を利用した新世代量子コンピューティング基盤の構築 被験者数:128名 成功率:73% 副産物:被験者の主観的幸福度向上」 陽菜は息ができなくなる。 分散型意識演算システム? 量子コンピューティング?「これは……どういう意味?」 モニターの女性は、表情を変えずに答える。「あなたが今まで信じていた『意識再生プログラム』は、本当の目的を隠すための名目でした」「本当の目的?」「人間の脳は、驚くべき演算装置です。特に、意識の量子的性質は、従来のコンピューターでは再現不可能な並列処理能力を持っています」 女性は続ける。「私たちは、脳死状態にある患者の残存する神経ネットワークを利用し、それを分散型の演算装置として機能させる技術を開発しました」 陽菜は理解し始める。恐ろしい真実を。「つまり、私は……コンピューターとして使われている?」「正確には、あなたの意識は計算処理の一部として機能しています。あなたが『幸福な日常』を経験している間、あなたの脳は膨大な量子計算を実行しているのです」「そんな……」 陽菜は壁に手をつく。立っていられない。「田中君の『窓を開けていいですか』という質問は、実は演算熱を制御するためのプロセスでした。あなたの答えによって、システムの冷却サイクルが調整されます」「記憶クリニックの『調整』は?」「演算効率を最適化するためのメモリ管理です。不要な疑問や矛盾を取り除き、あなたの意識を安定した状態に保つ。それによって、計算精度が向上します」 陽菜は吐き気を覚える。「私の人生は……私の幸福は……すべて、あなたたちの実験のため?」「実験ではあり
その日の放課後、陽菜は予約なしで記憶クリニックを訪れた。 受付のスタッフは、いつもの笑顔で対応する。「橋本様、今日は予約外ですが、何かございましたか?」「はい、少し相談したいことがあって」「かしこまりました。少々お待ちください」 待合室で待つ間、陽菜は周囲を観察する。 他の患者たちは、皆リラックスした様子だ。雑誌を読んだり、スマートフォンを見たり。誰も不安そうな表情をしていない。 それが逆に不自然だった。病院やクリニックには、通常ある種の緊張感がある。しかし、ここにはそれがない。まるで、スパに来ているかのような雰囲気だ。「橋本様、お待たせしました。こちらへどうぞ」 陽菜は個室に案内される。今日の担当医は、いつもの医師ではなかった。若い女性の医師だ。「初めまして。今日は緊急のご相談ということですが」「はい、最近少し……記憶に違和感があって」「違和感、ですか?」 女性医師は興味深そうに陽菜を見る。「具体的には?」「デジャヴが頻繁に起きるんです。同じ出来事が繰り返されているような感覚」 女性医師はタブレットに何かを入力する。「それは興味深いですね。他には?」「それと、自分の記憶が曖昧になることがあります。昨夜何をしていたか、はっきり思い出せないこともあります」 女性医師は頷く。「ストレスによる一時的な症状かもしれません。少し詳しく調べてみましょう」 陽菜はリクライニングチェアに座る。女性医師がセンサーを額につける。「リラックスしてください。今から脳波を測定します」 陽菜は目を閉じる。しかし、リラックスはできない。心臓が速く打っている。 機械の音が聞こえる。ビープ音が規則的に鳴っている。 そして、女性医師の声。「橋本さん、あなたは今どこにいますか?」「記憶クリニックです」「今日は何曜日ですか?」