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第10話

作者: 一匹の金魚
礼央の身からにじみ出た威圧感に、千咲はびくっと肩をすくめ、小さな口をきゅっと結んだまま、か細い声で言い直した。「ありがとう……おじさん……」

目の奥がじんと熱くなり、胸が苦しくなる。とても、とても悔しかった。

だけど彼女は唇をぎゅっと噛みしめて、意地でも涙はこぼさなかった。

パパが、ようやく自分を受け入れてくれたのかもしれない――そう思って、少し嬉しかったのに。

真衣はその場面に息をのんだ。千咲が倒れかけた方向が自分と逆で、手を伸ばしても届かなかった。

幸いにも、娘は無事だった。

真衣は礼央の腕の中から千咲をそっと引き取り、やわらかな声で優しく語りかけた。「びっくりしたでしょう?どこか痛いところはない?」

千咲は黙って首を横に振った。

返事をしたら、その瞬間に涙がこぼれそうだったから。

翔太は少し離れたところでその様子を見つめていた。胸の奥が、ざらりとする。

以前、ママもあんなふうに、自分をあたたかく抱きしめてくれた。そして、あんなふうにやさしく声をかけてくれたのだ。

ママは、もうずっと家に帰ってきていなかった。そして、ずっと――自分を抱きしめてくれることもなかった。

翔太は胸の奥で、ひっそりと母親を恋しく思っていた。

さっき「あんたにはママがいない」と言われたときも、少し、悲しかった。

だけど、もしママがいなくても、萌寧さんがそばにいてくれるなら……そう考えると、悪くない気もしてきた。

どうせママは、本気で自分を捨てたりしないはずだ。さっきのは、怒った勢いで言っただけのはず。

真衣は、礼央を完全に無視した。一瞥もくれず、千咲をしっかりと抱いたまま、静かに背を向けて立ち去った。

礼央はわずかに眉をひそめた。

以前の真衣の熱意を思えば、今の冷たさに気づかないはずがない。

……また何か子供じみた意地を張ってるのか。

「子供ですらありがとうって言えるのに、お前は言えないのか?」

背後から飛んできたその言葉に、真衣は足を止めた。そして振り返り、冷ややかな笑みを浮かべながら言い放った。「あんたが千咲に負ってるもの、それだけじゃ済まないでしょう?」

そう言い残すと、真衣は礼央の表情など一切気にせず、千咲を抱いたまま、ためらいもなくその場を離れた。

彼女の口から出たその一言は、礼央にとってまるで意味がわからない、不可解なものだった。

礼央は眉を沈め、全身に冷え冷えとした空気を纏っていた。まるで氷霜のような、近づきがたい冷気を放っている。

もし見間違いでなければ。真衣の目に宿っていたあの強い感情、それは……恨みだったのか?

そのとき、近くにいた高史が、鼻で笑いながら口を開いた。「おいおい、本当にあれが俺の知ってるベッタベタな真衣か?どうして急にそんな冷たい態度とるんだよ?もしかして手口を変えて、逃がすつもりで捕まえる戦法にでも切り替えたのか?」

礼央はその言葉に、さらに眉をひそめた。

注意力はただ「逃がすつもりで捕まえる」に集中した。

おそらく本当にそうなのだろう。

たしかに、それなら説明がつく。

-

国防展が終了した後。

真衣は千咲を連れて、恩師との食事に向かおうとしていたところだった。そのとき、松崎沙夜(まつざき さや)から電話がかかってきた。電話に出ると、受話器の向こうからいきなり怒りに満ちた声が飛び込んできた。「真衣!SNSのトレンド見た!?」

沙夜は、真衣の幼なじみであり、気心の知れた親友だった。その剣幕に、真衣は思わず笑いながら返した。「トレンド?またあなたの推しが炎上でもしたの?」

「のんきに私をからかってる場合じゃないわよ!」沙夜は歯ぎしりするような声で叫んだ。「あなたの高瀬社長、浮気してるってば!今どこにいるの!?今すぐそっちに行って、あのクソ野郎をぶった斬ってやる!」

真衣は一瞬足を止め、ゆっくりとスマホを開いた。画面いっぱいに広がるのは、国防展に関するトレンド。

「我が国が強くなった」「技術の飛躍に誇りを感じる」そんな誇らしげな言葉で、タイムラインは賑わっていた。

しかし、その中に、明らかに違和感のある一つのトピックが混ざっていた。

#高瀬社長一家和やかに国防展を観覧#。

その一行の文字を見た瞬間、真衣の胸に鋭い痛みが走った。

掲載されていた写真には、礼央と萌寧、そして翔太が寄り添い合い、まるで本当の家族のように笑顔を交わしていた。

やり直したこの人生で、彼らの関係が単なる友人ではないことは、真衣も知っていた。けれど、それでも。こんな風に、堂々と「家族」として扱われているトレンドを突きつけられると、心が突き刺されるのを感じずにはいられなかった。

まるで自分が滑稽なピエロだ。他人の子どもを、まるで我が子のように、五年間も必死に育ててきたなんて。

笑えることに、真衣は翔太を実の子のように思い、五年間、心を込めて育ててきた。しかしその実の母親が戻ってくると、翔太は萌寧が一番だと思っていた。

もし萌寧が戻ってこなかったら、もしあのままずっと自分と一緒に過ごしていたら、翔太がこんなにも母としての自分を嫌っているなんて、きっと一生気づけなかっただろう。

そう思えば納得がいく。前世のこの時期、翔太が妙に冷たく、しょっちゅう癇癪を起こしていたのも、すべてはそのせいだったのだ。

五年間、注いできた愛情、それは、まるで野良犬に餌を与えただけのように虚しく感じた。

真衣は静かにスマホの画面を閉じ、平然とした声で言った。「展示会で彼らを見かけたわ」

「それでまだこんなに冷静なの?」沙夜の声はますます怒気を帯びていた。「怒りで気が狂ったんじゃないの?」

「沙夜」真衣は落ち着いた声で言った。「私は彼と離婚するつもりよ」

「離婚?」沙夜は一瞬呆然とした。

まさか真衣が、自分からそんな決断を口にするなんて、彼女には想像すらできなかった。

誰よりも、真衣がどれだけ礼央を愛していたかを知っていたのは、沙夜自身だった。

そんな真衣が「離婚」と言い出すなんて、よほどのことがあったに違いない。

「礼央に何かされたの?」沙夜の声は、先ほどまでの怒りとは違う、重みのある真剣なものになっていた。「もし彼があんたを傷つけたんなら、私が絶対に許さない。離婚なんかじゃ済ませないからね」

真衣は視線を落とした。沙夜が本気で自分を心配してくれているのが、伝わってくる。

真衣は一度深く息を吸い込み、ゆっくりと答えた。「違うわ。私がやっと悟っただけ」

その言葉を聞いて、沙夜は少しだけ安心したように息をついた。それでも、まだ心配は拭いきれない様子だった。「本当?もし何かあったら、必ず私に言ってよ」

「安心して。何かあったら、あなたを巻き込むのを忘れたりしないから」

「……とっくに彼と別れるべきだったのよ。ようやく目が覚めたのね」

沙夜は向こうでべらべらと愚痴をこぼしていた。

真衣は彼女のぶつぶつとした独り言を聞きながら、唇に淡い微笑を浮かべていた。

真衣は娘の手を握り、青空と白い雲の下を歩きながら、携帯電話からは親友のくどい声が聞こえていた。

なるほど、幸せとはこんなにも簡単なものだったのか。

そして前世では、彼女の注意力は礼央だけに向けられていたため、周りのこんなにも多くの美しいものを見逃していた。

-

沙夜との電話を切ると、真衣は安浩と約束した場所に到着した。

彼らは個室を予約していた。

真衣は早めに個室に到着して待っていた。

彼女が先生にどう向き合うべきか思い悩んでいると、個室の扉が開かれた。

2人の恩師・龍平と安浩が一緒に入ってきた。

真衣は千咲の手を引いて立ち上がった。「加賀美先生……」

久しぶりに会う恩師は、ずいぶん年老いて見え、こめかみには白髪が目立っていた。

龍平は返事をしなかった。

彼女は深く息を吸い、胸の奥がきゅっと締め付けられた。そうだろう。

自分はもう、とっくに弟子として先生と呼ぶ資格を失っていたのだ。

その資格は、かつて迷いなく、自分の手で捨てたものだった。

真衣は唇を引き結び、千咲に目を向けた。「ほら、おじいさんに挨拶しなさい」

千咲は素直で礼儀正しく言った。「おじいさん、こんにちは」

少女の声は柔らかく愛らしく、くりくりとした大きな瞳もにこにこと笑っていた。

龍平は、その愛らしい少女を見てこわばった顔にふっと笑みを浮かべ、千咲の頭を優しく撫でながら真衣に言った。「お前の娘は、よくできた子だな」

千咲は礼央と真衣の良い遺伝子を受け継ぎ、まるで西洋人形のように精巧で愛らしい顔立ちをしていた。

安浩が口を開いた。「先生、立ったままでなく、どうぞ座って一緒に食事を」

この食事の場は、もし安浩が雰囲気を和ませてくれていなければ、真衣は恩師にどう向き合えばよいか本当に分からなかっただろう。

今となっては、先生がこの恩知らずの教え子と食事をともにしてくれただけで、彼女にとっては十分すぎるほどの光栄だった。

彼女は、龍平がこの一生で自分と再会することはないだろうと思っていた。

「時の流れは本当に早いものだよな。寺原さんは当時、意気盛んなおてんば娘で、毎日僕と食べ物の取り合いをしてたのに……今や娘がこんなに大きくなってるとは」

安浩は懐かしそうに昔を振り返り、あの頃のことを思い出しては、当時真衣が夢を手放したのはつくづく惜しいことだったと思った。

龍平は相変わらず口数が少なく、鼻で冷たく笑った。「そうだな。男のためなら、何だって捨てるんだ」

千咲がいる手前、龍平はあまり厳しい言葉は控えた。子供に聞かせるものではないと配慮したのだろう。

真衣は娘に視線を向けて言った。「千咲、店員さんを呼んで、おじいさんとおじさんにお茶を淹れてもらって。それと、自分が飲みたいジュースも選んでいいからね」

「はーい〜」千咲は素直に返事をし、ぴょんぴょん跳ねながら個室を出ていった。

千咲が去った後。

龍平は真衣を見て言った。「安浩から聞いたが、お前は離婚の準備をしていて、業界内の仕事も探したいそうだな?」

「はい……」真衣は唇を噛んだ。「ただ、私は当時博士一貫コースを諦めたので、今は確かに仕事が見つかりにくいです」

彼女は今の社会では、学歴がまさに最も基本的な要件だと思い知らされた。たとえ礼央の会社での経験があっても、それを評価してくれるところは少なかった。

「お前の履歴書を見たが、当院の採用基準には合わない」

龍平に断られても、真衣はさして驚かなかった。恩師に許しを請うような面の皮は、自分にはもうなかった。

安浩は空気を察し、すぐに話を変えた。「まあまあ、久しぶりなんですからさ。そんな重たい話はやめて、まずは飯にしましょう」

-

一方その頃。

千咲は店員にお茶を淹れてもらった後、自分で冷蔵庫の前に立ち、飲み物を見ていた。

ちょうどそのとき、礼央の一行が店に入ってきて、彼女にばったり出くわした。

高史は千咲を見て、舌打ちしながら言った。「しつこいなあ。飯食うだけでもついてくるなんて。偶然を装うにしても無理があるだろ。真衣の魂胆、顔に出てるぞ」

千咲は冷蔵庫に一本だけ残っている飲み物を見つけた。一本しかないということは、きっと美味しいに違いない。そう思い、冷蔵庫のドアを開けて取ろうとした。

ところが、彼女よりも早く手が伸びてきた。「やった!僕、これ大好きなんだ!」

翔太が飲み物を手に取り、千咲に向かって得意げに言った。「冷蔵庫開けてくれてありがとね〜」

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