LOGIN「冗談じゃない」安浩は繰り返し、その口調に揺らぎは全くなかった。「離婚しよう」「……」沙夜の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。先ほどまで期待に輝いていた瞳は瞬時に曇り、瞳孔がわずかに収縮した。まるで冷たい水を頭から浴びせられたかのように、全身が凍りつき硬直している。その場に立ち尽くす彼女は手足が冷え切り、呼吸さえも苦しくなる。見えない手に心臓を強く鷲掴みにされたような痛みに、立っているのもやっとだった。「どうして?」震える声は、まともな声になっていなかった。「どうして急に……離婚なんて言うの?」安浩は彼女から目を逸らし、喉仏をわずかに動かす。その口調は冷酷なほど淡々としていた。「理由なんてない。任務は終わった。最初から契約は終了することになっていたんだ。今、すべてが終わった。離婚するのは当然のことだ」「当然のこと?」沙夜はありえない冗談を聞いたかのように、途端に目頭を赤くし、抑えきれない涙を溢れさせた。一歩前に出た彼女は、抑えきれない震えと信じられないという思いを声に滲ませた。「安浩さん、教えてよ。これまでのすべてが、あなたにとってはただの契約だったの?ただの任務で、当然のことなの?瓦礫の中で、あなたが身を挺して私を守ってくれたのは、契約のおかげなの?私がベッドのそばにいて、目を覚ましたあなたが見せたあの眼差しも、契約のおかげなの?私の実家で問題が起きて、常陸家から離婚を迫られた時、あなたが『離さない』と言い切ってくれたのも、契約のおかげなの?海外のレストランで、わざと挑発してきた相手に対して彼女のことは知らないと断言して、私を信じてくれたのも、契約のおかげなの?一緒に砲火をくぐり抜け、内通者に立ち向かい、生死を共にしたあの日々……それらすべてが、あなたの目には、ただ契約通りに演じ切っただけの芝居だったの?」沙夜が一つひとつ問い詰める間にも、涙が頬を伝い落ちる。声を詰まらせて絞り出す言葉のすべてに、身を引き裂かれるような痛みがこもっていた。考えたこともなかった。すべての嵐が過ぎ去り、誰もが二人はこのまま円満に結ばれると思っていた矢先に、安浩が突然離婚を切り出すなんて。喧嘩でも、すれ違いでも、家族からのプレッシャーでも、外部からの妨害でもない。すべてが丸く収まり、一件落着したこの
沙夜は、安浩の異変に気づいていなかった。彼女の心は、任務を終えて帰国し、帰国後、松崎家の株式譲渡の手続きを終え、安浩と平穏な毎日を送ることへの期待でいっぱいだった。常陸家からの圧力や松崎家の危機、異国での危険、見知らぬ者からの挑発……すべての嵐は過ぎ去り、晴れ渡る空が二人を待っている。撤収作業は円滑に進んだ。人員の点呼、機材の梱包、書類の封入、警備による護送。出発前、真衣は最後に拠点全体を見渡し、見落としや危険な箇所がないことを確認した。静かな、がらんとした部屋に、温かな陽射しが差し込んでいた。沙夜は安浩の腕を組み、笑顔で言った。「帰ったら、おばあさまに会いに行って、それから松崎家の問題を片付けましょう」安浩は彼女に複雑な眼差しを向け、ただ「うん」というだけだった。沙夜は、彼が疲れているのだと思い、それ以上は何も言わず、帰国後の生活に思いを馳せた。飛行機は十数時間の飛行を経て着陸した。地に足をつけた瞬間、皆は安堵の息をついた。懐かしい空気と懐かしい言葉が、確かな安らぎをもたらしていた。一行が任務を円満に達成したという知らせは瞬く間に広がり、彼らは高い評価を得た。真衣は真っ先に実家に駆けつけた。千咲が「ママ」と叫びながら走り寄ってくる姿を見て、彼女は涙を流しながら娘を抱きしめた。傍にいた礼央は、優しい眼差しで、静かに二人を見守っていた。一方。沙夜と安浩は一緒に空港を離れ、車で都心へ向かっていた。車内で、沙夜は松崎家の会社の再建計画から、二人の新居のインテリアのことまで、喜々として話続けた。安浩は終始沈黙し、時折頷くだけだった。車が、二人のマンションの下で止まった。ここは当初、偽装結婚した二人のために用意された住まいだったが、今では沙夜の数え切れないほどの真心や期待を宿していた。車を降り、階段を上り、ドアを開けて部屋に入る。見慣れた間取り、清潔で整った部屋。すべてが普段通りで変わっておらず、危険な異国での暮らしがまるで夢だったと錯覚するほどだった。沙夜は荷物を置き、微笑んで安浩を見た。「まず着替えよう。それから何か食べるものを注文して、ゆっくり休んで、明日また――」「沙夜」安浩が突然口を開いた。彼の声は落ち着いていたが、どこか暗く、重い響きを帯びていた。沙夜は立ち
任務はようやく最終段階を迎えていた。拠点の明かりは昼夜灯り続けていたが、現場にはかつてのような焦燥感はなく、任務を終える前の秩序と確信が漂っていた。改ざんされたデータは修復され、その他の成果物も安全に保管され、専用ルートを通じて本国へ移送されようとしていた。周辺の情勢は次第に収まり、現地の協力者への引き継ぎ業務も完了し、増援部隊は撤収していった。拠点全体が、ようやく本当の意味での平穏を取り戻しつつあった。そして、皆の心に暗い影を落としていた問題――拠点内部に潜入していたスパイは、綿密な調査の末、ようやく特定された。彼は、増援部隊の技術補助員の一人で、無口で勤勉なため、誰も彼を警戒していなかった。彼は宗一郎に買収され、立場を利用して拠点の防衛体制や実験の進捗を密かに漏洩していた。また、砲撃を受けた際、通信妨害装置を起動させ、礼央と真衣の通信を妨げたのも彼だった。また、沙夜の家庭の事情を知り、安浩との仲を引き裂き、拠点の内情を混乱させる意図から、子供連れの女性に芝居をさせたのも彼だった。スパイの正体が暴かれ、拠点にいたすべての者は安堵の息をついた。スパイはその場で拘束され、その後の処分については関係部門に委ねられた。また、スパイが逮捕されたことにより、エリアスと宗一郎は内部の情報源を失い、さらに彼らの居場所が完全に露呈してしまった。礼央は国境から遠隔指揮を執り、現地の者と協力して包囲したことで、彼らは敗北を喫した。長らく続いた危機は、ついに解消された。拠点にいた者たちは、危機が解消されたことを大いに喜び、皆で温かい食事を楽しんだ。連日続いていた疲労や恐怖、緊張から、彼らはようやく解放された。沙夜は、目に涙をためながら、傍にいる安浩の顔を見つめた。彼はいつも、この不安定な土地で、自分に寄り添ってくれていた。また、危険な環境で戦い、生死を共にしたことで、沙夜は安浩こそが、今後の人生を共に歩む人だと確信していた。真衣はゆっくりと深呼吸し、ようやく安堵の息をついて微笑んだ。任務が達成され、成果は守られ、チーム全員が無事で、スパイは摘発された。真衣は、背負った責任、母国、そして遠く離れた地で彼女を案じてくれる人たちに決して背かなかった。陰ながら彼女を守り、心の支えになってくれていた礼央にも、家
礼央の身体から、ほのかにタバコの匂いが漂い、真衣の心を落ち着かせた。真衣は、できることなら時間が止まってほしいと願った。このままずっと、彼の傍にいられたらいいのに。しかし、時間は止められない。礼央はそっと彼女の背中を叩き、優しい声で言った。「もう行かなきゃ。帰国の便に間に合わなくなるといけない」真衣は目に涙をためながら、懸命に笑顔を作った。「うん」彼女は、そっと彼の唇にキスをした。キスに、たくさんの想いを込めて。礼央は驚いて身体を硬直させたが、その後、自ら進んでキスを深めた。二人は、胸の内を伝え合うように、長い間唇を重ね合った。しばらくして、礼央はゆっくりと真衣から手を離した。「帰りを待っていてくれ」彼は力強く言った。「うん」真衣も涙を流しながら力強く頷いた。「待ってる」礼央は最後にもう一度、真衣の姿を目に焼き付けるように、彼女をじっと見つめた。その後、彼は背を向け車に乗り込んだ。車はゆっくりと発車し、走り去っていった。真衣はその場に立ち尽くし、走り去る車を見つめた。車はどんどん遠ざかり、小さな点となり、やがて視界から消えていった。彼女の涙はついに溢れ出し、頬を伝って地面に落ちた。真衣は手を上げて口を押さえ、肩を震わせながら泣いた。未練、心配、不安、恋しさ……あらゆる感情が、胸に一気に込み上げた。真衣は分かっていた。今回の別れは、決して一時的なものではない。前途には依然として嵐が吹き荒れ、危機が潜んでいる。拠点に残って業務を担い、エリアスと宗一郎の陰謀に立ち向かい、スパイを暴き、松崎家と常陸家の問題に対処しなければならない。それらはすべて、容易なことではない。しかし、後には引けなかった。なぜなら、彼女は真衣で、部隊の指揮者であり、娘の母親で、礼央の最愛の人だからだ。彼女は強く、勇敢でなければならない。自分と仲間を守り、彼の帰りを待たなければならないのだ。どれくらい経っただろう。真衣はようやく振り返り、拠点への帰路についた。しかし、依然として気持ちは沈み、足取りは少し重く、彼女は何度も車が去った方向を振り返らずにはいられなかった。拠点に戻ると、オフィスにはまだ明かりが灯っていた。沙夜と安浩が心配そうな表情を浮かべて、彼女の帰りを待っていた。「礼央さん
二人はそのまま抱き合い、暖かな灯りの下で、互いの体温を感じ合った。時間が少しずつ過ぎていく。しばらくして、礼央はそっと手を離し、指先で彼女の涙を拭った。礼央は真衣の赤くなった目を見つめて言った。「泣かないで。きっとまたすぐに会える。くれぐれも、身体には気をつけるんだ」彼は真剣な口調で続けた。「徹夜はほどほどに。時間通りに食事するんだぞ。何か困ったことがあったら、すぐに電話してくれ。絶対に無理をするな。亮太たちはお前の指示通りに動いてくれる。彼らは全力を尽くしてお前を守ってくれる。もし、またあの女が現れたり、何か異変があったらすぐに知らせてくれ」「わかった」真衣は力強く頷いた。「あなたも、自分の身体を大切にしてね。しっかり休みを取って。千咲はまだ小さいから、あなたが傍にいてあげないと。国境の方も、あまり無理をしないで」彼女は少し間を置き、付け加えた。「これからも、毎日メッセージを送るわ。あなたも同じよ。何かあったら、絶対に私に知らせて。もう隠し事はしないで」「ああ」礼央は応え、指先でそっと彼女の頬を撫でた。「約束する。必ず毎日メッセージを送るよ。国内の状況や、千咲の近況をお前に知らせる。もし千咲に尋ねられたら、ママは大事な仕事が終わったら、すぐに家に帰ると伝えてやれ」「うん」真衣は力強く頷き、必死に笑顔を作った。「そうする」二人はもう一度、長い間見つめ合った。多くを語らなくとも、互いの気持ちが痛いほどわかった。礼央を見送る道中、二人は終始無言だった。窓の外の景色が、まるで終わりを迎えようとしている時間を追いかけるように後退していく。車は拠点の入り口にある検問所に停まった。ここで二人はしばしの別れを告げる。礼央が車を降りると、真衣も続いて降りた。警備員たちは二人を見ると、気配りをして脇に下がった。礼央は真衣の前に立ち、手を上げて、そっと彼女の髪に触れた。彼の指は微かに震え、顔にはまだ名残惜しそうな表情を浮かべていた。「拠点に戻ってくれ」彼は優しく言った。「ちゃんと見送る」真衣は首を振り、彼の手を取って、道端の花壇の傍まで歩いていった。二人は沈黙したまま、並んで立った。吹き抜ける風が、遠くから草木や硝煙の匂いを運んできた。真衣は花壇の縁にもたれ、礼央を見つめた。
「でも千咲は国内にいるのよ」真衣は続けた。「千咲はまだ小さい。あなたのことを尋ねられたら、何て答えればいいの?」彼女は彼の手をそっと撫でた。「それに、国境の方だってあなたを必要としているわ。防衛線の要であるあなたがいなくなったら、作戦に穴が開き、エリアスや宗一郎に付け入る隙を与えてしまうかもしれない。あなたは、もう十分やってくれたわ。これ以上、国境での重要な任務を遅らせないで。後のことは、私に任せて」礼央は言った。「店に現れた女は絶対に怪しい。奴らは必ずまた手を出して来るだろう。松崎家のことも注視すべきだし、スパイの調査も……誰かが目を光らせておく必要がある。俺がいることで、お前の負担を減らせる」「あなたの気持ちは、十分理解しているわ」真衣は彼の目を見つめた。「でも、私のことを信じてほしいの。私はもう、ただあなたの後ろに隠れているだけのか弱い真衣じゃない。ここには、多くの仲間も、後藤さんも、沙夜や先輩もいる。みんなで力を合わせれば、きっと対処できるわ」彼女は彼の頬を優しく撫でて言った。「だからもう、心配しないで。自分の身を守り、ここでの業務を全うすることを、あなたに約束するわ。エリアスや宗一郎がいくら狡猾でも、私たちの防衛線を容易に突破することは不可能よ。店に現れた女性については、みんなと一緒に調査を続ける」礼央は、彼女の真剣な眼差しを見て、心配は少し和らいだが、それでも彼女と離れるのが名残惜しかった。彼は手を伸ばし、真衣をしっかりと胸に抱き寄せて囁いた。「真衣……」その声は、ことさら切なく響いた――心配、気遣い、悔しさ、そして言葉にできないほどの寂しさ。礼央は真衣の傍を離れたくなかった。ずっと傍で、彼女を守りたかった。彼女が疲れた時、真っ先に抱きしめ、この危険が潜む異国の地で、全ての嵐が過ぎ去るまで、ずっと彼女の傍にいたかった。しかし、その願いは叶わない。千咲も国境も彼を必要としている。自分の都合で娘に寂しい思いをさせ、国境を危機に陥らせるわけにはいかない。真衣は彼の胸に寄りかかり、彼の力強い鼓動を聞くと、胸に切なさが込み上げた。彼女は腕を伸ばして彼の腰をしっかりと抱きしめて言った。「私も本当は、あなたと離れるのがとても寂しいの」彼は腕に力を込めて、彼女をより強
彼の顔には程よい笑みが浮かび、とても穏やかだった。真衣はスプーンを持って、保温容器に入っているスープをかき混ぜていた。彼女の頭の中には多かれ少なかれそういった考えがあった。なぜならみんなもそう推測していたからだ。「それなら――」「俺が帰国したのは、ただここでシンプルに生活を送りたいだけであって、高瀬家の家業を継ぐわけではない。家業が俺のものであろうとなかろうと関係ない。帰国したら自分で生計を立てる必要もあるから、バンガードテクノロジーに入社したんだ」延佳は彼女を見て、「俺は世間で言われているような人間ではない。人を陥れるようなことはしたくないし、権力争いも望んでいない」
萌寧は決して善人などではない。もし彼女が頂点に立ったら、どんなことをしでかすかわかったものではない。これが安浩が心配していることだ。こういう人間にわざわざ嫌がらせを必要はない。だが、一方で萌寧をあるべき位置に押さえつけておく必要も確かにある。真衣はもちろんこれらの道理を理解していた。萌寧がもし本当に頂点に立つ日が来たら、間違いなく業界にとって害となるだろう。「礼央さんは本当にそんな人間を助けるのか?」安浩が聞いた。「それとも礼央さんは外山さんの本性を知らないだけなのか?」「真衣が知っている礼央さんって、どんな人?」真衣と礼央の間には個人的なわだかまりもあるが
萌寧は悩ましそうにこめかみを揉んだ。これらの出来事は、すでに萌寧に深刻な影響を与えていた。そして、会社全体の運営にも影響を及ぼしていた。萌寧の秘書から今日連絡があり、複数の取引先がすでに契約を取り消したと報告があった。彼女はこのことで頭を悩ませていた。公徳が圧をかけて、契約の取り消しを迫ったとされている。しかし、実際に公徳は何もしておらず、ただ創立記念パーティーで真衣が礼央の嫁であること明らかにしただけだ。そして、萌寧を追い出したことが、すべてを物語っていた。賢い人間にはわかる。このタイミングでエレトンテックと協業しようとする者は、ただのアホだと。契約の
「上林会長、真相がわかるまでは……どうか私にチャンスを与えてください」萌寧は一貫して、人々が先入観で自分が盗用したと思い込んでいるのだと考えていた。公徳は低い声で言った。「結論がどうであれ、あなたを冤罪に陥れることは決してない。悪人は一人も逃さず、善人を理由もなく貶めることもない」「公徳さんも、私に問題があると思っているのですか?」萌寧はただ可笑しく思えた。萌寧は真衣を見て言った。「ソフィアが開発したブルーバードエックスセブンにもこれらの技術が一部使われているわ。ソフィアの論文でも提唱されていて、参考文献もたくさんある。本当にあなたの実力かもしれないし、あなたが常陸社長から何か