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無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙
無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙
Author: 清水雪代

第1話

Author: 清水雪代
「智美、書類はまだ届かないのか?」

電話の向こうの男の声は、明らかに苛立ちを帯びていた。

「もうすぐ、すぐに着くわ」

渡辺グループのビルまであと2キロ。しかし前の道路工事の影響で、車は完全に動かない。

智美は窓の外の土砂降りの雨を見つめた。歯を食いしばって運転手にお金を払い、車を降りた。

彼女は上着を脱いで書類フォルダーを抱え、雨の中を足早に走り出した。

冷たい雨が服を濡らした。

だが、もう見た目など気にしていられなかった。とにかく一刻も早く、渡辺ビルに辿り着きたかった。

ようやく建物に着いたものの、全身びしょ濡れの彼女を見て、警備員は中に入れてくれなかった。床が濡れるからだという。

仕方なく彼女は入り口で受付の女性に頼み、書類を代わりに届けてもらうことにした。

その後、彼女は祐介とその秘書のLINEに、【書類を届けた】とメッセージを送った。

しかし返事はなかなか来なかった。

受付のもう一人の女性が、彼女の質素な身なりを見て配達員だと勘違いし、「大変ですね」と労いの言葉をかけて、温かいお茶を出してくれた。

智美は感謝してそれを飲み干し、渡辺ビルを後にしようとした。

そのとき、ロビー中央のエレベーターが開き、背の高い男が姿を現した。

渡辺グループの総裁であり、彼女の夫、祐介だった。

彼が入り口へ向かってくるのを見て、智美は思わず身を引いた。

「社長、佐藤さんの車が道で故障しました。すでに運転手を向かわせております」

祐介はスマホを見ながら眉をひそめた。「千尋ちゃんにずっと電話してるのに繋がらない。秘書に連絡を取ってくれ」

「承知しました」

隅に立っていた智美は、千尋という名前を耳にして表情がこわばった。

佐藤千尋(さとう ちひろ)が帰国したのだ。

彼女は足早に車に乗り込む祐介の後ろ姿を見つめ、冷ややかな笑みを浮かべた。

さっきまでは緊急の会議だと言い、何度も自分を急かしたくせに。その本人はあっさり会議を放り出して、何のためらいもなく初恋の相手を迎えに行った。

一方の自分は、ずぶ濡れのまま門前に立ち尽くすだけ。その姿さえ彼は気にも留めなかった。

頬の雨を拭いながら、智美は「私って、本当にかわいそう」だと思った。

邸宅に戻った智美は、濡れた服を脱ぎ、温かいお茶を一杯飲んでから、祐介の母親・渡辺瑞希(わたなべ みずき)に電話をかけた。

「お義母さん」

電話越しの瑞希の声は優しかった。「どうしたの?声が変ね、風邪でもひいた?」

「いいえ」智美は受話器を握りしめ、深く息を吸ってから、ようやく言葉を吐き出した。「祐介と……離婚したいんです」

受話器の向こうに、一瞬、沈黙が流れた。

智美は続けた。「私たちが交わした契約は三年間でした。もう時間です。それに、佐藤さんも戻ってきました」

瑞希は、深くため息をついた。「わかった。弁護士に離婚協議書と離婚届を用意させるわ。それから、前に約束した大桐市の別荘。すぐに名義をあなたに移すように手配する」

智美はその申し出を素直に受け入れた。「ありがとうございます」

三年前、大学を卒業したばかりの彼女は、楽団と契約して夢を追いかけるつもりだった。

しかし突然の家業の倒産に父の自殺、そして母の精神崩壊。

高額な費用を払えず、追い詰められていた彼女の前に現れたのが瑞希だった。

瑞希は楽団の出資者でもあり、智美の事情を知ると支援を申し出た。ただし、それは条件付きだった。

その条件とは、息子祐介との契約結婚。事故で歩けなくなり、初恋の相手にも見捨てられた息子に、立ち直るきっかけを与えたいと。

お金が必要だった智美は、承諾した。

なぜ自分なのかと尋ねたとき、瑞希はこう答えた。「あなたは、祐介の初恋相手の佐藤さんに少し似ているの。それに、佐藤さんもピアノをやっていたわ」

代役として、彼女は選ばれたのだ。

彼女は夢を諦め、祐介と結婚し彼を看病し続けた。

食事、リハビリ、日々の世話。まるで母親のように彼の傍にいた。

半年ほど前、祐介はついに歩けるようになった。

彼は最初にしたことは、千尋を訪ねるためにイギリス行きのチケットの購入だった。

それ以降、彼は毎月のようにイギリスへ。

彼の妹・渡辺麻祐子(わたなべ まゆこ)もイギリス在住だ。智美は彼女のSNSで、三人の一緒に写った写真を何度も目にしてきた。

自分には無表情な祐介が、そこでは穏やかに笑っていた。

千尋の手に抱かれたシャンパンローズの花束――それを見るたびに、胸が締めつけられた。

バレンタインの日、祐介の秘書が毎年自分にシャンパンローズを届けてくれた。

最初は嬉しかった。けれど、なぜこの花なのかと疑問に思っていた。

真実を知ったのは、SNSの写真を見てからだ。その花は千尋の好きな花だったのだ。本当は、千尋に贈るつもりだったのだ。

自分はただの代役だった。

そして今、千尋が戻ってきた。この役目も、もう終わり。

智美は大学時代の先輩中村祥衣(なかむら さちえ)に電話をかけた。

彼女は音楽スクールの講師を経て、今はビジネスパートナーとして経営に携わっている。

この三年間、何度も智美を誘ってくれていたが、彼女は祐介の世話のため全て断ってきた。

だが今は違う。もう一度、人生を歩き出さなければ。

電話を受けた祥衣は、喜びを隠さず言った。「本当に?よかった!ずっと待ってたのよ、智美ちゃん。若くして結婚して、家庭に入ってしまったのが惜しくてならなかったわ」

三年のブランクがあっても、自分を受け入れてくれるその優しさに、智美の目が潤んだ。「ありがとうございます。先輩、今度ご飯をご馳走させてください」

「楽しみにしてるわ」

電話を切った後、智美は書類を整理し始めた。

結婚写真を取り出し、そこに写る自分と祐介を見て、しばし呆然とした。

瑞希の紹介で渡辺家に入り、彼の世話を始めた。

祐介は最初拒絶した。結婚など論外だった。

何度も自殺を図った彼を彼女は必死に止めた。

眠れぬ夜には、アロマと音楽で彼を支えた。

怒鳴られても、手を上げられても、彼女は決して逃げなかった。

やがて彼は折れ、智美と結婚した。

結婚したばかりの頃、彼は優しかった。

だから、彼女は少しだけ期待してしまった。

このままずっと彼のそばにいられるかもしれない。

けれど、その思いも脆く崩れた。彼が結婚を決めたのは、千尋が新しい恋人を作ったと知りショックを受けたからだと、麻祐子から聞かされた。

彼に期待していた自分が愚かだった。

契約は終わった。手放す時が来たのだ。

そもそも祐介は自分を愛していなかった。

この結婚も最初から偽物だった。

三年間の青春と引き換えに大桐市の別荘を手に入れることができたのだ。それで十分だと思うことにした。

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