Masuk加恋の結婚生活は、うまくいかなかった。一年と持たずに離婚届に判を押した。自分より明らかに甲斐性のない夫と、生活のあらゆる面でどうしても折り合いがつかなかったのだ。それからずっと独身を貫いているが、次の相手を探そうという気にはなれなかった。どれだけ夜が孤独でも、自分を安売りするくらいなら、一人のほうがずっとましだ。悠人が離婚するのを、心のどこかでずっと待っていた。自分と彼なら釣り合うが、智美との差はあまりにも大きい。あの結婚が長続きするはずがない――そう信じて疑わなかったのに、二人の絆は年を重ねるごとに、ますます揺るぎないものになっていった。もう未練は捨てるべきだとわかっている。頭では、痛いほどわかっているのだ。でも、未練が捨てきれないのだ。加恋はグループチャットを閉じると、スマホを伏せた。棚からウイスキーの瓶を取り出し、グラスに注いだ。夜景が広がる窓の外を虚ろな目で眺めながら、胸を締め付けられるような孤独を、たった一人で抱え込んでいた。……翌日、悠人が浜市支社の幹部との長丁場の会議に入っている間、智美は詩乃を連れて店舗巡りに出かけた。浜市にある店舗は三つだけで、一日もあれば余裕で回ることができた。詩乃にとって、大好きなママが外で仕事をしている姿を見るのは初めてのことだった。スーツを凛と着こなし、真剣な顔つきでスタッフと話している智美の姿が不思議でたまらず、詩乃はずっと目を離さなかった。周りの大人たちが口々に「岡田社長」と呼んで頭を下げるのも、どこかおかしくて、誇らしいような気分になった。夜になり、悠人がまだ会議から戻らなかったため、母娘の二人でホテル近くのレストランで食事をとった。智美が小さく切り分けてくれたステーキを頬張りながら、詩乃はふと言った。「ママ、私も大きくなったらママみたいになって、みんなに岡田社長って呼んでもらいたいな」智美はくすっと笑いながら、紙ナプキンで詩乃の口元についたソースを優しく拭ってやった。「社長って、どういう意味かわかってるの?」詩乃は少し考えてから、自信満々に言った。「すごいってこと!」「ママが社長って呼ばれるのはね、ママがお仕事のリーダーだからよ。詩乃ちゃんだったら……詩乃社長になるのかな」詩乃の瞳がぱっと輝いた。「ねえ、ママ!これからは詩乃ちゃんって呼ばないで、詩乃
到着ロビーに真一の姿が見えたとき、香月は息を呑んだ。彼の隣に、金髪碧眼の美しい女性がぴったりと寄り添っているのが目に入ったのだ。女性は真一の腕に自分の腕を絡ませ、親しげに体を傾けている。香月は、血が滲むほど強く唇を噛みしめた。目を赤くして駆け寄り、すがりつくように問い詰めた。真一は香月の顔を見るなり、露骨に面倒くさそうな表情を浮かべた。今の彼は隣の新しい女性のことで頭がいっぱいで、香月のことなどすでにお荷物でしかなかったのだ。懐から小切手帳を取り出して無造作に数字を書き込むと、香月に向かって放り投げるように渡した。「手切れ金だ。きれいに終わりにしよう」香月は信じられなかった。「あんなに尽くしてきたのに、どうして急にこんなひどいことができるの?」未練など微塵もないのだろう、真一の声は氷のように冷たく、容赦がなかった。「付き合っていただと?俺がいつお前に本気だと言った。お互いに利用し合っていただけだろうが。お前は俺から欲しいものを手に入れて、俺も同じように楽しんだ。金を受け取ったら、大人しく引き下がれ」愛しているときは限りなく優しく甘やかしてくれる男だが、熱が冷めたときの切り捨て方もまた、血も涙もないほど容赦がなかった。香月は膝から崩れ落ちそうになった。やっとの思いでつかまえた太いパトロンを、こんなふうにあっけなく手放すわけにはいかなかった。すがりつこうと手を伸ばした。「嫌、別れないわよ!」真一は心底うんざりした顔で背後のボディーガードに目配せし、香月を強引に引き離させた。「ついてないな」吐き捨てるように呟く。そして、新しい女の手を優しく引いて、ターミナルを悠々と歩き去っていった。香月はその後ろ姿に向かって、何度も何度も叫び続けた。端から見れば、まるで正気を失って取り乱した女のようだった。真一という後ろ盾を失えば、芸能界での仕事はみるみる先細っていく。その現実が、香月にはどうしようもなく怖かった。……問題が片づいて、智美もようやく肩の荷が下りた。ジュリーも通常の軌道に戻り、以前のペースで順調に動き始めている。最近、騒動にかまけて詩乃との時間がおろそかになっていたことが気がかりだった智美は、この数日、意識して早めに仕事を切り上げ、詩乃と過ごす時間を作った。普段は周りの大人に対し
香月はもったいぶるのをやめ、白状した。「ジュリーのデザイナーを一人買収したのよ。だから、あのドレスは確かに盗作よ」智美は思わず絶句した。まさか、そこまでやっていたとは。だが、デザイナー個人の不正として公表したところで、それでジュリーのブランドイメージがすぐに回復するわけではない。「わかったわ」智美は芹那に電話をかけ、デザイナーが買収されていた事実と、香月がPRへの協力に同意したことを伝えた。芹那は電話口でしばらく考え込んでから言った。「GBNNのPR部門と交渉してみます。彼らが公式に動いてくれれば、今回の炎上を最小限に抑えられますから。ただ、多額のコストがかかりますし、何よりGBNN側が求める『見返り』を用意できるかどうかが鍵になりますね」智美は小さくため息をついた。「まずは先方と話してみてください。どんな条件を提示してくるか、確かめてから考えましょう」GBNNの本社はイギリスにある。芹那は自ら直接ロンドンへ飛び、経営幹部と対峙した。しかし相手の態度は強硬で、どれだけの報酬を積もうと、一地方の騒動に協力するつもりはないと冷たくあしらわれた。諦めて帰国しようとした、まさにその瞬間だった。その幹部の態度が、突如として百八十度変わったのだ。手のひらを返したように揉み手ですり寄り、芹那を必死に引き止め始めたのである。不思議に思った芹那が訳を尋ねると、幹部は興奮気味に打ち明けた。「実は、羽弥市のGビルへの出店を前向きに検討しているのですが、あのビルは岡田グループの管轄でしてね。入居を希望する世界中のブランドが殺到しており、私どもにはどうにも交渉の糸口が掴めなかったのです。ところがついさっき、先方から直接ご連絡をいただきまして。一年間の賃料を免除するから特例で入居してほしい、その条件として、奥様のお困りの件に協力してほしいと……」芹那はそこでようやく合点がいった。悠人が密かに人脈と資源を動かし、背後から手を回していたのだ。幹部は声を潜めて続けた。「ただ先方から、岡田グループが便宜を図ったことは、絶対に表には出さないでほしいと念を押されております」芹那は、悠人が権力を私物化してまで妻を守ろうとすることに、素直に驚いた。だから茉祐子は、何年経っても二人の間に割り込めなかったのか。悠人は本当に、心の底から智美を愛して
翌朝、出社するなり、清二から電話が入った。「岡田さん、少々お時間はございますか?実は代表が急遽翻意いたしまして、ご依頼をお受けしたいと申しております。午前十時にご来社いただくことは可能でしょうか」智美は思いがけなくて、少し驚いた。「ええ、もちろんです。必ず伺います」時刻はすでに九時。エクセレンス・パブリックリレーションズまで車で三十分はかかる。急いで秘書に午前のスケジュールを白紙に戻させ、車で向かった。今度こそ、芹那と対面できた。昨夜よりは打ち解けた雰囲気になっていたが、それでも芹那はあくまでビジネスライクな態度を崩さなかった。清二にコーヒーを二杯用意するよう指示する。清二が智美に尋ねた。「岡田さんは何にいたしましょうか」「ブラックで。ありがとうございます」清二がコーヒーを持ってくると、智美は一口飲んで芹那に目を向けた。芹那はパソコンに視線を向けたまま、淡々と話し始めた。「PR業界に入って八年近くなります。芸能界のスキャンダル処理も数えきれないくらい手がけてきました。人脈もそれなりにある。あの香月なんて、大して名も知られていない。黒い過去を掘り起こすくらい、どうということはありません。もう何人か、この業界で敏腕のゴシップ記者に網を張らせました。あの人たちが嗅ぎ回れば、必ず何か出てくる。もし香月が本当に潔白なら、別の手を考えます。でも後ろ暗いものがあれば、それを交渉の材料にして、こちらのPRに協力させます」智美には筋の通った方針に思えた。「どのくらいかかりますか?」「三日」「出張の件は?」「一週間延期しました」芹那は仕事が早かった。三日も経たないうちに、香月のスキャンダルを掘り当てた。資料を智美に送ってくる。「あなたが直接話をしますか?」「ありがとうございます。そうしますわ」資料を開いて読み終えた智美の表情が、わずかに曇った。香月に連絡を取り、会う場を設けた。約束の時刻から十五分遅れて、香月は来た。智美がコーヒーを半分ほど飲み終えた頃に、いかにも勝ち誇ったような足取りで現れた。ブランドのバッグをテーブルに置き、ソファにゆっくりと腰を下ろしながら、智美を一瞥した。「岡田家の奥様が私に何かご用で?」智美は単刀直入に言った。「ジュリーが盗作したとは、私には思えない。こ
芹那は電話に出た。茉祐子はこの件をすでに知っていた――芹那から聞いていたのだ。「断ったから、安心して」電話口の茉祐子の声は、どこか複雑な響きを帯びていた。「……あの人の仕事、うまくいってるの?」芹那は温かい水を一口飲んだ。「ええ。資料を見たけど、本当に優秀ね。会社の手綱をしっかりと握っているわ」茉祐子は手のひらをぎゅっと握りしめた。嫉妬が顔をもたげてくる。「岡田家の後ろ盾があるからでしょ」芹那はめずらしく公平なことを言った。「もし全部岡田家の力を借りてるだけなら、今日だって岡田悠人に頼めばよかった。自分でうちに来るはずがない。正直に言うと、私、あの人のこと、かなり高く評価しているわ。そこらの名家の奥様とは格が違う。本当に仕事が好きなんだと思う」茉祐子は不満そうに言った。「どうしてあなたまであの女を庇うのよ」芹那は少し間を置いてから、静かに言った。「正直に言うわね。私、昔のあなたのほうが好きだった。以前のあなたは仕事一筋で、すごくかっこよかった。でもここ数年、何かに急き立てられるように結婚に固執して、そうして選んだ相手があの人……言いたくないけど、あのまま仕事を続けていれば、今頃あなたの名前は国際的な科学誌に載っていたはずよ」親友の無駄にされた才能が、芹那には惜しかった。茉祐子の頭の中に、かつての誇りと輝きがよみがえった。そして今の、がんじがらめな結婚生活が重なった。自分の才能が、結婚という枷に縛られ、腐っていく。その感覚は、茉祐子自身も薄々わかっていた。芹那は続けた。「私たちみたいに頭の切れる女が結婚するのは、割に合わない投資だと思う。自分にも他人にも高い基準を持っている私たちは、誰かに合わせることなんてできない。結婚には向いてないのよ」自分のことはよくわかっているから、芹那は結婚しないと決めていた。茉祐子も同じだと思っていたのに、気づけば彼女は古びた良妻賢母の枠に自らを押し込めていた。茉祐子はその言葉に、はっと目が覚める思いがした。国内にいることは、確かに自分の才能を腐らせているだけかもしれない。こんな場所で、こんなふうに人生を終わらせたくはなかった。自嘲するように笑った。「やっぱりあなただけが、私を正気に戻してくれる。でも……悔しい気持ちもあって。こんなに犠牲にしてきたのに、何も得られて
智美はハンドルをぎゅっと握りしめた。芹那の計ったようなタイミングだ。自分が帰宅した直後に、会合が終わったと連絡をよこすとは。怒りよりも呆れが勝ったが、仕事のためなら我慢するしかない。「すぐに戻ります」引き返そうと車を反転させたとき、紫色のロールスロイスが地下駐車場へ入ってきた。仕事を終えた悠人だった。智美がまた出かけようとしているのに気づいた悠人は、運転手に車を止めさせ、自らドアを開けて歩み寄ってきた。それに気づいた智美も車を停めた。窓を下ろして、外にいる悠人を見上げる。「こんな時間にどこへ?まだ仕事か?」智美は隠さなかった。「仕事でちょっとトラブルがあって。大したことじゃないし、私で解決できると思う。今からその対応を協議しに行くところよ」昼間、秘書からの報告で、SNSの炎上騒ぎは悠人もすでに把握していた。智美は妻だ。珠里は妹も同然だ。二人が痛い目に遭っているのを、黙って見ていられるはずがなかった。「手を貸そうか?」悠人が動けば、容易く鎮火できる。それはわかっていた。でも、まず自分でやってみたかった。社会人としてそれなりに揉まれてきたのだ。何かあるたびに頼りきりでは、いつまで経っても一人前になれない。「自分でまずやってみるわ」悠人は智美の意志を尊重した。口出しはしなかった。「わかった。ただ、もう遅いから、運転手に送らせて」今度は智美もその申し出を断らなかった。「ありがとう。それから――詩乃に寝る前に読み聞かせするって約束したんだけど、守れそうにないから、代わりに謝っておいてくれないかしら?そのまま読んであげてほしい」悠人は頷いた。「わかった」バーに着き、中に入ると、芹那はまだいた。長い会合を終えて日本酒を二合ほど空けたらしく、胃の具合が悪そうで、目を閉じてソファに深く沈み込んでいた。智美は声をかけた。「代表」芹那は目を開けたが、立ち上がろうとはしなかった。抑揚のない声で言った。「岡田さん、どうぞお座りください」智美の素性は知っていた。岡田家の嫁だ。自分自身も名家の出で、上場企業を二社抱える家に生まれた。PR会社を単なる道楽半分で立ち上げたが、自力と人脈を武器にした結果、羽弥市のPR業界でトップクラスの地位を築き上げた。だから客には困っていない。岡田家の奥方だからといって、
悠人は、彼らに付き合う気などまったくなかった。「遅くなりますから、また今度にしましょう」大輔は諦めきれなかったが、食い下がりすぎるわけにもいかず、落としどころを探った。「それでは、連絡先を交換しませんか?後日改めてお誘いします」悠人はスマホを取り出し、愛想笑いを浮かべた。「あいにく、ちょうど充電がなくなりました。また機会があればということで」彼は大輔に良い印象を持っていなかった。大輔も、明らかに彼の拒絶を感じ取った。しかし、岡田家の羽弥市における名声と財力は、佐藤家が逆立ちしてもかなわない。だからこそ、悠人とはうまくやっていかなければならない。彼は貼り付けたような笑
千尋は半信半疑で言った。「本当なの?」「もちろんさ」祐介の声は、嘘なほど誠実に響いた。「俺たちは二人とも過ちを犯した。おあいこだ。もう薫には会わない。君も俺の妻として、ちゃんとやってくれないか?」千尋は、喉元過ぎれば熱さを忘れるところがあった。祐介の言葉を、本気だと信じたかった。彼らがどれほど激しく憎み合っても、彼の心の片隅には、まだ自分がいるのだと。そうだ、幼馴染としての絆は、他の誰にも代えられないはずだ。「分かった。メイクするから、ちょっと待ってて」電話を切ると、千尋はまるで命を吹き込まれたように生気を取り戻した。自分の結婚生活にも、まだ希望はあると感じた。
千尋を、祐介は感情のない目で見下ろしていた。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出た。「最低……最低よ!あなたなんかに、こんな仕打ちをされる筋合いはないわ!絶対に後悔させてやる……!」喉の奥で獣のような声を漏らし、今にも飛びかかって喉笛に噛みつきそうなほどの形相だった。祐介はソファに腰掛け、タバコの箱から一本を抜き出して火をつけた。紫煙がゆらりと立ち上り、祐介は、壁に掛かった空々しい笑顔のウェディングフォトと、床に崩れる目の前の女を、面白みもなさそうに見比べた。ゆっくりと煙を吐き出し、心底つまらないといった様子で言った。「千尋ちゃん、俺は君のために両足を怪我したことがある。
悠人は急ブレーキをかけた。バンパーと彼女の膝が触れ合うかという、紙一重の距離で。あと少しで、彼女は轢かれるところだった。悠人はシートベルトを外し、車から降りると、ゆっくりと千夏に向かって歩いていった。千夏は青ざめた顔で、恐怖に震えながら悠人を見上げた。こんな悠人を見たのは初めてだった。恐怖がこみ上げてきた。「森下、さっき本気でお前を轢き殺そうと思った」千夏は信じられないというように目を見張り、涙が溢れそうになった。悠人は鼻で笑った。「お前がネットで炎上させ、俺との婚約デマを流したあのときは、森下さんの顔を立てて大目に見てやった。だが、智美を陥れたことは、絶対に許