ANMELDEN茉祐子が子どもを産んで結婚したのは、ちょうど一年前のことだった。相手は海外育ちの帰国子女で、博士号を持ち、今は大学で教授を務めている。年は十歳上だった。見た目は地味で、若い頃は理想が高すぎてずっと独身を貫いてきたが、婚期を逃すことを恐れて、ようやく妥協を決めたのだ。そうして出会ったのが茉祐子であり、彼もしぶしぶ承諾したというわけだ。今日も子ども連れで外出してはいたが、夫は終始うんざりした様子で、事あるごとに茉祐子に難癖をつけた。「ベビーシッターを連れてくればよかっただろう。お前が嫌だと言うから、こういうことになる。子どもがぐちゃぐちゃに汚して、どうするつもりだ?」自分が拭いてやるつもりなど、毛頭ないらしかった。さっき見かけた悠人の、我が子へ向ける穏やかな眼差し。そして今、目の前にある夫の不機嫌な顔。そのあまりの落差に、茉祐子の胸には虚しさが込み上げた。今日だって、茉祐子が泣きついて、ようやく引きずり出したにすぎない。普段は研究を口実にして、子どものことには一切関わろうとしない。茉祐子にだって仕事があるのに、夫も義母も育児を丸投げにするため、結局は彼女ひとりで背負うことになる。ベビーシッターに手伝ってもらっていても、理不尽な不満が澱のように溜まっていた。離婚という言葉が頭をよぎるたびに、茉祐子はそれを心の奥底へ押し込めてきた。この人は、今の自分が結婚できる相手の中で最善の選択だ。家柄も釣り合い、学歴も高く、立派な職業に就いていて、結婚時はまだ独身だった。もし離婚して再び相手を探したところで、これ以上の条件の人に出会える保証はどこにもない。妥協して後悔するくらいなら、惨めな結末を迎えるだけだ。世間体のためにも、この冷え切った結婚生活を維持していくしかなかった。子どもの泣き声が煩わしかったのか、夫はスマホを手に立ち上がった。「電話してくる」茉祐子は冷ややかな目で夫の背中を見送り、しかたなく自分で子どもを抱き上げようとした。しかし、汚れた手で自分のスカートを触られるのが嫌で、結局はベビーシッターを呼ぶことにした。智美と悠人が笑い合いながら詩乃を連れて店を出ていく後ろ姿を見つめていると、茉祐子の胸の奥に、どす黒い嫉妬が渦巻いた。どうして智美だけが、欲しいものをすべて手に入れているのだろうか。ベビーシッター
翌朝、目を覚ますと、悠人も詩乃の姿も、どちらもいなかった。智美は時計を見ると、もう十時半だった。悠人ったら、起こしてくれればよかったのに――と思ったが、今日は土曜日だから、それでもよかった。顔を洗って身支度を整えて階下へ下りると、ちょうど悠人が詩乃を連れて帰ってくるところだった。詩乃のおでこにはうっすらと汗が光り、ほっぺたが真っ赤になっていた。智美はハンカチを取り出して汗を拭ってやりながら聞いた。「パパとどこへ行ってたの?」詩乃は顔を上げ、ぱっちりした目を細めながら嬉しそうにママを見上げた。ママ、きれい……!「パパとボール打ったの」悠人が横から口を挟んだ。「テニスを教えてた」二歳でテニス?智美には少し早すぎる気がした。悠人は察したように笑った。「詩乃に合わせた小さいラケットを用意してもらったんだよ。すごく気に入ってた」体を動かすのはいいことだ、と悠人は思っていた。普段は詩乃の相手をしてやれないから、週末くらいはたっぷり一緒に過ごしてやりたかった。ベビーシッターが詩乃を連れて着替えに行った。智美はテーブルにつき、朝食をとり始めた。ベビーシッターがお粥と、半分に切ったとうもろこしを持ってきてくれた。食べながら悠人に聞いた。「今日、仕事は大丈夫?」以前の悠人は週末も忙しいことが多く、年末になれば岡田グループの用事がさらに増えていた。悠人は答えた。「平気。秘書に今日明日のスケジュールを全部調整してもらったから」智美はとうもろこしを食べ終えてお粥に移りながら言った。「最近、詩乃との時間がなかなか取れてなかったから、今日は三人でどこか出かけない?」「どこがいい?」少し考えて、智美は言った。「遊園地は?」悠人はスマホを取り出した。「秘書に手配させる」詩乃が着替えを終えて下りてきた。遊園地と聞いた瞬間、目をきらきらさせて飛び跳ねんばかりに喜んだ。智美はお粥を食べ終えて口を拭うと、詩乃を抱き上げた。「何か少し食べてから行く?」遊びのことで頭がいっぱいの詩乃に、食欲などあるはずもなかった。智美の首にぎゅっとしがみついて、大きな声で言った。「いらない!遊びに行きたい!」悠人が準備を終えるのを待って、智美は詩乃を抱いて外へ出た。悠人が靴を履き終えると、詩乃を腕に移して智美が靴を履けるよう
智美はすぐ傍の机に向かい、溜まった仕事の処理に追われていた。ただ母と娘が寄り添っているだけなのに、その空間にはなんとも穏やかで心地よい時間が流れていた。詩乃は遊んでいる合間に、ことあるごとに智美の膝元へすり寄ってきては抱っこをせがんだ。そのたびに智美はマウスから手を離し、しばらくの間、愛娘をぎゅっと抱きしめてやる。ママの体がふんわりと柔らかく、大好きな甘い匂いがするものだから、詩乃はすっかり安心しきって、なかなかその腕から離れようとしなかった。おもちゃより、今はただひたすらに甘えたいのだ――智美には、その無邪気なサインがすぐにわかった。智美はくすっと笑いながらノートパソコンを閉じ、詩乃を抱き上げて悠人の待つ寝室へと向かった。寝室では、ちょうど悠人がシャワーを浴び終えて出てきたところだった。智美は腕の中の詩乃を彼に託した。「少しの間、抱っこしてあげて。私もシャワーを浴びてくるから」「わかった」と短く応じ、悠人は詩乃を受け取ると、本棚から絵本を一冊選び出し、静かに読み聞かせを始めた。詩乃はその絵本をちらりと横目で見ると、不満そうに首を振った。「にいにはね、英語の絵本しか読んでくれないもん」もともと、就寝前の読み聞かせは家庭教師の役目だった。しかし、いつの間にか拓真と謙太もそこに混ざるようになり、やがて拓真が「先生の話は簡単すぎる。これじゃあ妹の教育によくない」と独断で切り捨て、自分の英語の絵本を持ち込んで読み聞かせるようになったのだ。すっかりお株を奪われた家庭教師は、しばらくの間、どうすべきかと途方に暮れていたほどだ。悠人は面白がるように詩乃に確かめた。「英語の意味がちゃんとわかってるのかい?」詩乃がこくんと力強く頷き、ベッドから這い降りて、とてとてと隣の自分の部屋へと駆けていく。やがてお気に入りの英語の絵本を抱えて戻ってくると、それをベッドの上に広げ、「パパ、これ読んで」とおねだりした。それが幼児向けのごく簡単な絵本だと確認すると、悠人は滑らかな発音でページをめくり、読み始めた。詩乃はパパのお腹の上にまたがり、ぽすっとその大きな胸にもたれかかりながら、真剣な眼差しで絵本を見つめる。悠人が試しにわざと単語を読み間違えてみると、詩乃はすかさず「違うよ」と正しい発音に直してみせた。悠人は思わず笑みをこぼした。も
そこへ拓真と謙太が飛び込んできて、詩乃を遊びに誘い出した。従兄たちに声をかけられると、詩乃はころりと機嫌を直した。二人の手をしっかりと握り、満面の笑みを浮かべて部屋を出ていく。その愛らしい後ろ姿を見送るうちに、智美の胸をよぎっていた一抹の寂しさも、すうっと溶けていった。これほど温かな家族がそばで見守ってくれているのだから、詩乃のことは何も案ずる必要はない。その後、智美は香代子とともに洋城や海知市など各地を巡り、全十一公演に及ぶコンサートツアーを見事に完走した。香代子にとっても、デビュー以来これほどの過密スケジュールをこなしたのは初めての経験だった。ツアーの幕が下りる頃には、さすがの香代子もすっかり精根尽き果てた様子で、「今回ばかりは、絶対に長めのお休みをもらうからね」と言い切った。智美は二つ返事で快諾した。これほど身を粉にして働いてくれたのだ。会社にもたらした貢献は、もはや言うまでもない。彼女の奮闘のおかげで、次なる事業拡大へ向けた資金にも十分な余裕が生まれていた。智美が羽弥市へ帰り着いたのは、もう年の瀬も押し迫った頃のことだった。時を同じくして、悠人もまた長期出張から帰宅していた。彼を乗せた車が岡田家のガレージに滑り込むと、そこにはちょうど帰り着いたばかりの智美の姿があった。久方ぶりの再会だというのに、二人の間には気恥ずかしいような、どこかぎこちない空気が漂った。先に動いたのは悠人だった。無言のまま歩み寄ると、そのまま智美の体をそっと腕の中に抱き寄せた。馴染み深い体温と、ふわりと漂う懐かしい香りに包まれた瞬間、智美の中で張り詰めていた何かが静かに解けていく。気付けば、彼女の両手も自然と彼の背中へと回されていた。二人はしばらくの間、ガレージに立ったまま抱擁を交わしていた。やがて指を絡ませて手を繋ぐと、並んで家の中へと足を踏み入れた。荷物はすべて運転手が運び入れてくれた。リビングへ入ると、詩乃がソファにちょこんと座り、和也が買ってきたというレゴブロックを真剣な面持ちで見つめていた。すぐ隣では謙太が、妹の遊びに根気よく付き合ってくれている。愛しい娘の顔を見た瞬間、智美の胸の奥にじんわりとした温もりが広がり、目元には自然と涙が滲んだ。詩乃のほうも気配を感じ取ったのか、ふっと顔を上げた。愛するママの姿を認めた瞬間、
智美はくすっと笑った。「ええ、詩乃が好きなことを、思い切りやらせてあげたいと思っています」子どもを自分たちの都合で急き立てるつもりは、少しもなかった。自分がピアノを始めたのは、半分は純粋に好きだったから。でも残りの半分は、彩乃に強要されたからだった。十歳のとき、彩乃は誰かと張り合って、二年以内にピアノの検定で最高グレードを取るよう命じてきた。当時の智美はそれに反発し、もうピアノなんてやりたくないと思い詰めた。そのせいで、こっぴどく叱られたこともある。あの頃の傷ついた気持ちは、今も鮮明に残っている。母と同じ育て方を、詩乃にはしたくなかった。この子には、もっと自由に。もっと伸び伸びと育ってほしい。自分が歩んだ息苦しい子ども時代を、詩乃に繰り返させるつもりはなかった。一方で悠人も、相変わらず多忙な日々を送っていた。岡田グループの海外事業部で権力争いが勃発し、この半年ほどで手痛い不祥事が続いてしまったのだ。その後始末に追われ、悠人は出張続きの毎日だった。二人が顔を合わせる機会は、めっきり減った。それでも悠人は、出張中も欠かさず、智美が眠りにつく前にビデオ通話をかけてきた。智美も少しずつ、離れている時間に慣れていった。そのことを聞いた祥衣は、少し納得がいかない様子だった。ラインで智美にこう送ってきた。【詩乃もまだ小さいのに、二人ともそんなに忙しくて、すれ違いが続いたら、夫婦関係に亀裂が入ったりしない?】竜也とほとんど四六時中一緒にいる祥衣には、智美と悠人の距離感がどうにも理解できなかった。智美は返信した。【私たち、二人とも仕事が好きだし、べったり一緒じゃないと寂しいタイプでもないから、今のところ大丈夫。全然問題ないよ】悠人のことが恋しくないといえば、嘘になる。でもだからといって、仕事を投げ打って海外の悠人に同行するかといえば、そんな気にはなれなかった。祥衣はそれを読んで、素直に感心したように返した。【私には無理だわ。竜也が子供連れて三日以上実家に帰ったら、もう機嫌が悪くなる自信ある】祥衣には、傍にいてくれることと、情緒的な心の通い合いが欠かせなかった。今ならよくわかる。自分の性格には、同じように仕事一筋のタイプは向かない。家族を一番に考えてくれる竜也みたいな人だからこそ、うまくいくのだ。智美は微笑んで返信した
梨沙子は、自分が惨めだとは微塵も思っていなかった。以前のようなブランドバッグは買えなくなったけれど、生活は十分に充実していたし、何より自分で稼いだお金を使うという確かな誇らしさがあった。世間の厳しさに身を置くうちに、梨沙子はずいぶんと変わった。自分の意見をしっかり持てるようになったし、物事の受け止め方も以前とはまるで違う。実の母の嘲りを前にしても、梨沙子は動じなかった。「佐倉さん、私のことはご心配なく。今のほうがずっと満たされていますから。名家の奥様なんて暮らし、今は少しも未練はありません」あの家の駒として使われる日々には、もう二度と戻りたくなかった。「佐倉さん」と呼ばれた瞬間、史子は怒りで顔を強張らせた。この薄情な娘め。史子がさらに言い返そうとした、そのとき。少し離れたところに目をやると、崇樹がじっと梨沙子を見つめているのが目に入った。――変だわ。最近、崇樹が梨沙子にアプローチしているという噂は、あちこちで耳にしていた。離婚歴があって、たいした取り柄もない娘のことを、あの深田崇樹が本気で相手にするはずがない。どうせ暇つぶしに決まっているとそう甘く見ていたのだが、噂はいつまで経っても消えなかった。そして今、崇樹が梨沙子を見る目を目の当たりにして、認めたくはないけれど、史子にもわかってしまった。あの男は本気だ、と。もっとも、深田家が梨沙子を受け入れるかどうかは別の話だが。史子は胸の内で悪態をついた。仕事ごっこに現を抜かす暇があるなら、崇樹を落として深田家に嫁いでしまえばいいのに。そうなれば、佐倉家も梨沙子を認めてやる気になるというものを。この頑固な娘ときたら、何が大事かもわかっていない。まあいい。どうあれ自分の娘なのだから、機会を見てまた話してみよう。史子はそう自分を納得させた。もちろん、梨沙子がそんな話に耳を貸すつもりなど、毛頭なかったのだが。……詩乃が一歳の誕生日を迎えた頃、智美と梨沙子は羽弥市に八店舗目の支店を出した。香代子との芸能事務所のほうも、所属アーティストが十人を数えるまでになっていた。そのうち新人の二人がバラエティ番組で少し注目を集め、じわじわと知名度が上がり、バラエティや連続ドラマの脇役のオファーが舞い込むようになった。香代子は自らのコンサートに向けた準備にも着手し、有望な新人を
智美は子供の頃、それなりに裕福な家庭で育ったが、岡田家のような歴史ある格式には遠く及ばなかった。加えて、母親の出自も決して高くはなかったため、富豪の奥様たちは母を遊びの輪に加えることはほとんどなかった。そのため、智美自身もこれまで、いわゆる「上流階級の社交界」というものに参加した経験が皆無に等しかったのだ。「嫌なら、母さんに言って今後は行かなくても済むように取り計らうよ」悠人はいつだって彼女の気持ちを第一に考え、尊重してくれる。しかし、智美は彼を横目で見て首を振った。「それはダメよ。お義母さんに私がわがままだと思われたら困るもの!それに、お義母さんはこれでもかというくらい私のこ
智美は興味津々で身を乗り出した。「その人、一体どんな高望みをしてたの?」「依頼人の男性は、地元出身の30代後半、身長165センチ、体重80キロ、持ち家はあるがローン残債あり、短大卒、車なし、年収は平均以下。対して彼が女性に求めた条件は、20代前半、初婚、モデル並みの容姿、大卒、公務員か大企業勤務で年収500万以上、かつ家事が完璧で親と同居可能な人。相談所は『条件が厳しすぎる』と諭したが、彼は聞かなかった。それでも相談所は努力して何人か紹介したんだが、彼は『売れ残りの訳あり物件ばかり寄越しやがって』と全却下して、挙句の果てに訴えたんだ。相談所の担当者は法廷で、『身の程知らずにも程
祥衣は深く頷いた。「本当はね、そんなに早く子供を作るつもりじゃなかったの。もう少し二人の時間を楽しみたかったんだけど……数年後に欲しくなったとき、授かりにくくなっていたら嫌でしょう?だから、心の余裕がある今のうちから準備を始めることにしたのよ。それに竜也が言ってくれたの。『子供が生まれたら俺が家で面倒を見るから、安心して仕事を続けてくれ』って。そんな鉄壁のサポートがあるなら、産まない理由なんてないわよね」「竜也さん、本当に理想的な父親って感じね」智美が思わず笑みをこぼすと、祥衣も愉快そうに同意した。「そうなのよ。おかげで私は一家の主になった気分。家のことは何一つ心配いらないわ。
二時間後、「手術中」の表示灯が消え、美羽の父親がストレッチャーで運び出されてきた。美羽たちは慌てて駆け寄り、医師に状況を尋ねた。執刀医がマスクを外すと、端正で知的な顔立ちが現れた。彼は淡々とした口調で美羽に術後の経過と注意事項を説明し、美羽は一言も漏らさぬようメモを取った。「はい、分かりました!成田先生、本当にありがとうございました!」美羽が深々と頭を下げて立ち去ろうとすると、背後から呼び止められた。「『脱走中のメスゴリラ』さん……だよね?これからもネット掲示板で俺を罵倒し続けるつもりか?」美羽の足がピタリと止まった。彼が大っぴらに自分の恥ずかしいハンドルネームを呼んだ







