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Auteur: 酔夫人
last update Date de publication: 2026-03-06 11:00:28

「美咲さん」

話している途中で、不意に司狼が名を呼んだ。

その声音は先ほどまでと変わらず穏やかだったが、視線は美咲ではなく、その向こうの空席に向けられている。

「悪いけど、席を変わってくれないか?」

「別にいいですけれど……」

理由を聞く間もなく、美咲は頷いて立ち上がった。

視線を向けた先の空席に首を傾げるが、ちょうどエアコンの風が気になっていたこともあり、その申し出は都合がよかった。

(お店に入ったときは気にならなかったけれど、思ったよりも長居しちゃっている)

そんなことを考えながら席を移動したタイミングで、扉のベルが鳴るよりも少し早く、階段の方から人の気配が流れ込んできた。

次の瞬間、男性の二人組が店に入ってくる。声はやや大きく、笑い方にも遠慮がない。整えられた空間の中では、ほんの少しだけ粗野に見える空気だった。

そのうちの一人の視線がこちらをかすめ、美咲は無意識に背筋を固くする。しかし、「お二人様ですね」とバーテンダーが自然に声をかけ、司狼の向こう側にある空席を示したことで、その視線も流れていった。

「タイミングが良かったですね」

バーテンダーの言葉に、美咲は小さく頷く。席を変わったことで、先ほど感じた居心地の悪さが嘘のように薄れていた。

安堵した途端、喉の渇きを自覚する。美咲はグラスを持ち上げ、ジンウーロンを一口飲んだ。

さっぱりとした苦味が、さきほどのざわつきを少しだけ洗い流す。

「それにしてもお客さん、耳がいいですね」

バーテンダーの何気ない言葉に、司狼が肩をすくめる。

「そうですか?」

「先ほどから、扉が開く前に扉を見ているでしょう?」

その指摘に、美咲は思わず司狼を見る。確かに、彼は何度か無意識のように扉へ視線を向けていた。

「階段を下りる足音が聞こえただけですよ」

あっさりと答える司狼に、美咲はわずかに目を見開く。

(そう、なの?)

「ここの階段はタイル張りで、革靴やヒールの人は慎重に降りるから、一歩一歩の音がはっきりするんです」

そう説明されて、美咲は自分が階段を降りたときのことを思い出した。

確かに滑らないように、少し気をつけていた気がする。

「さすが、小説家さんですね」

「ありがとうございます。ああ、ほら、また」

司狼が視線を扉へ向ける。まだ閉じられたままの扉を、まるでその先にある気配を見透かすように。次の瞬間、カラン、とベルが鳴った。

扉が開き、サラリーマン風の男性が入ってくる。美咲には何も聞こえなかった。

ただ、目の前で現実が追いついただけだった。

司狼は何事もなかったようにグラスを傾けている。

「どうした?」

「いえ……」

言葉を濁しながら、美咲は小さく首を振る。

(……そういえば蒼太も)

ふと、記憶が顔を出す。

よく気がつく人だった。

細かいことにすぐ気づいて、何気なくフォローしていた姿。思い出しかけたその像を、美咲は振り払うようにグラスを傾けた。

「あまり勢いよく飲むと、酔うぞ」

「大丈夫です」

即答したものの、司狼の表情は明らかに信じていない。

「それなら何か腹に入れとけ」

そう言って司狼が注文したのは、ポテトサラダやチョリソーといった、塩気や辛みのある軽い料理だった。

アルコールの進みを和らげるような選び方。

「甘い物は?」

「食べたいなら頼むけど、別に好きではないだろう?」

その一言に、美咲は思わず瞬きをする。そんなふうに言われたのは初めてだった。

ふわりとした髪と柔らかい顔立ちのせいか、これまで何度も「甘い物が好きそう」と言われてきた。

嫌いではないが、積極的に選ぶこともない程度なのに。

「どうして分かったんですか?」

「勘」

そう言って、司狼は口角を上げる。その笑い方が、妙に得意げで、どこか悪戯が成功した子どものようで―――一瞬、蒼太の表情と重なった。

(どうして……)

名前も違う。顔も、声も、匂いも、何一つ同じではない。それなのに、なぜか断片的に似て見える瞬間がある。

(同じところなんて、背の高さくらいなのに……どうして……)

混乱しかけた思考を、不意に遮る声があった。

「うわっ……」

司狼の、あからさまに嫌悪を含んだ声だった。

顔を向けると、眉間に深い皺を寄せ、不快感を隠そうともしていない。

「どうしました?」

「いや、ちょっと……」

言いかけて、さらに顔をしかめる。その直後、美咲の後ろを一人の女性が通り過ぎた。

ふわりと残る香水の匂いが、遅れて漂う。

(もしかして、これ……?)

美咲自身も香水はあまり得意ではない。だからこそ、匂いには敏感なほうだと自覚している。だが、今の香りはそこまで強いものではなかった。

甘さも抑えられていて、むしろ控えめな印象ですらある。

(……ここまで?)

司狼の反応は、大袈裟にも見えるほどだった。

「……悪い」

「いえ、鼻がいいんですね」

「多分ね」

曖昧な返事に、美咲は小さく首を傾げる。

(多分……まあ、嗅覚は他人と比べられるものじゃないし)

それでも、なぜか引っかかる。この感覚もまた、蒼太と重なる部分だったからだ。

「作家って、そういうの大事なんですか?」

「何が?」

「匂いとか」

司狼は少しだけ考え、グラスの中の氷を静かに揺らした。

「大事だと思う」

短く、しかしはっきりとした答えだった。

「人って、匂いで覚えてること多いから」

「匂いで?」

「記憶、思い出……昔の恋人との時間とか」

その言葉は、穏やかな声で語られたにもかかわらず、美咲の胸の奥に深く沈んだ。

持ち上げかけていたグラスを、思わず止める。匂いと記憶が結びつくという感覚。それは理解できるはずなのに、今はそれ以上の意味を持って迫ってきた。

まるで、逃げ場を塞ぐように。

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