まるで互いの心が通じたかのように、ネイヴァンは色鉛筆を静かにペン立てへ戻し、僕は日記を閉じて本立てに戻した。
見なかったことにしよう。
口には出さなかったが、僕はそう思ったし、ネイヴァンもそう思っていたと思う。
僕たちは、ネイヴァンが漁ったワードローブの引き出しを整え、その他の調度品やノート類もすべて元通りにして部屋をあとにした。
一階に下り、外へ出て入り口のドアを閉めると、ふたりともほとんど言葉を交わさないまま坂を下った。太陽はすっかり高くなり、町の中心地には日常の活気が溢れ始めていた。
僕たちは手頃なレストランに入った。料理の味もあまり感じられないまま言葉少なに食事を済ませ、『ル・シュクレ・ルナ(月のお砂糖)』の店主と約束した午後六時まで解散することに決めた。
「俺はちょっと、任せちまった撮影の様子を見てくるぜ。お前はどうする?」
「僕は、そうですね……散歩でもしようかな」
ネイヴァンはじゃあ、と軽く手を上げると、空間旅行《ホップステップ》で消え去った。
一人取り残された僕は、当てどなく南方面へ足を向けた。やがてビーチへの距離を示す看板が目につくようになってきたので、そのまま南海岸のビーチを目的地にした。
季節外れの海には人影ひとつなく、砂浜には波が静かに打ち寄せては引いていく。透き通った海水は陽光を受けてエメラルド色に煌めき、打ち寄せるたびに白い泡を散らした。遠く沖合には小さな島々が霞んで浮かび、空は底抜けに青かった。
そんな美しい光景を前にしても、僕の頭からはエルドリスへの疑惑と日記を盗み見た後悔が離れない。
禁忌を犯したという言葉。それを記載していただろうページが破られていた事実。
エルドリ
「へ、変態が釣れたって、どういう……」 僕は困惑しつつエルドリスに問いかけた。彼女は手に持った『蜜月の琥珀糖』の包装を指で軽く撫でながら言う。「昼間、君の上司が私の房を訪ねてきて言ったんだ。『30分クッキング』の出張調理の依頼が来た、とな」「えっ、出張調理……ついにですか!?」「ああ。それも、他の調理人でなく私を名指しでだ。君の上司は私に拒否権はないと偉そうに言ったが、こちらからすれば願ったり叶ったりだよ」 エルドリスは皮肉っぽく肩をすくめる。"偉そうに"という表現で、上司がどういう言い方をしたのか容易に想像できた。「出張日は三日後、具体的な時間と場所は追って連絡すると言っていた。だから、ああして準備をしていたわけだ」 彼女が調理台の上のナイフと砥石を顎で指した次の瞬間、視界の端に大柄な男が突如現れた。ネイヴァンだ。「エリィ、大変だ! 出張調理の依頼が来たぞ!」 ネイヴァンは興奮気味に息を切らしている。冷静なエルドリスとの温度差はさながらアフォガードのバニラアイスとコーヒーだが、あれは両方一緒に食べるから美味いのだ。「もう聞いた。三日後だろう」 エルドリスの反応に、ネイヴァンは「なんだ」と拍子抜けしたようだったが、めげずに続ける。「どこまで聞いてる? 食材の件は?」「いや。日にち以外何も聞いていない」 ネイヴァンが頷く。「オーケー。まず、魔物を含む食材はすべて、先方が用意するそうだ。しかも、どんな魔物かは当日の調理直前まで明かされない」「えっ、じゃあ魔物を見て、ぶっつけ本番で何を作るか決めなきゃいけないんです?」
まるで互いの心が通じたかのように、ネイヴァンは色鉛筆を静かにペン立てへ戻し、僕は日記を閉じて本立てに戻した。 見なかったことにしよう。 口には出さなかったが、僕はそう思ったし、ネイヴァンもそう思っていたと思う。 僕たちは、ネイヴァンが漁ったワードローブの引き出しを整え、その他の調度品やノート類もすべて元通りにして部屋をあとにした。 一階に下り、外へ出て入り口のドアを閉めると、ふたりともほとんど言葉を交わさないまま坂を下った。太陽はすっかり高くなり、町の中心地には日常の活気が溢れ始めていた。 僕たちは手頃なレストランに入った。料理の味もあまり感じられないまま言葉少なに食事を済ませ、『ル・シュクレ・ルナ(月のお砂糖)』の店主と約束した午後六時まで解散することに決めた。「俺はちょっと、任せちまった撮影の様子を見てくるぜ。お前はどうする?」「僕は、そうですね……散歩でもしようかな」 ネイヴァンはじゃあ、と軽く手を上げると、空間旅行《ホップステップ》で消え去った。 一人取り残された僕は、当てどなく南方面へ足を向けた。やがてビーチへの距離を示す看板が目につくようになってきたので、そのまま南海岸のビーチを目的地にした。 季節外れの海には人影ひとつなく、砂浜には波が静かに打ち寄せては引いていく。透き通った海水は陽光を受けてエメラルド色に煌めき、打ち寄せるたびに白い泡を散らした。遠く沖合には小さな島々が霞んで浮かび、空は底抜けに青かった。 そんな美しい光景を前にしても、僕の頭からはエルドリスへの疑惑と日記を盗み見た後悔が離れない。 禁忌を犯したという言葉。それを記載していただろうページが破られていた事実。 エルドリ
翌朝、僕たちは日の出と共に再びエルネットを訪れた。 早朝の澄んだ空気に包まれた坂の上のレストランは、朝日にきらきらと照らされて、昨夜とはまた違った魅力を放っていた。 店内に入ると、柔らかな光がレースカーテン越しに差し込み、ホール全体が明るかった。僕たちは、昨夜確認できなかったキッチンへと向かう。 キッチンは、エルドリスのプロ意識が反映された空間だった。調理器具は種類ごとに壁掛けのフックに掛けられ、棚の上にはスパイスや調味料がラベルを前に揃えて並んでいる。カトラリーや食器類も美しく整頓され、几帳面な性格が見て取れた。 魔導冷蔵庫を開けてみると、異様な臭いがふっと鼻を突いた。見えるのは、黒い粘質なものが蒸発したような跡と、植物らしき繊維、そして、瓶詰めの真っ黒な何か。おそらく肉や野菜などの食材と、手作りのソースか何かなのだろう。僕は無言で冷蔵庫の扉を閉じた。 ネイヴァンに呼ばれて振り向くと、キッチンの隅に、鈍い光沢を放つ金属製のドアがあった。「何のドアでしょう?」「貯蔵庫か、冷凍室ってところだな」 ドアはしっかりと施錠されていた。ネイヴァンが力づくで開けようとするので、僕は慌てて止める。「駄目ですよ! ドアを壊したら、本当に強盗みたいです」 ネイヴァンは肩を竦めて「不法侵入してるんだからいい子ぶるなよ」と笑ったが、僕が食い下がると、渋々諦めてくれた。開いていたドアからこっそり入って探索するのと、中のものを壊すのとでは全然違う。 一階をあらかた見終えた僕たちは、キッチンとホールの間にある階段に目を向けた。そして軋む階段を静かに上っていく。 二階は姉妹が暮らしていた居住空間のようだった。廊下の左右に二つずつドアがあり、まっすぐ進んだ先にはリビングダイニングが広がっていた。シンプルながら居心地の良さそうな
僕たちは『ル・シュクレ・ルナ(月のお砂糖)』の店主が書いてくれた番地を頼りに、中心地から西へ向かって歩き始めた。沈みゆく夕日を追いかけながら、僕の胸は緊張で鼓動を速めていた。 目指す場所は、緩やかな坂の先にあるようだった。坂を上るごとに中心地の喧騒は遠のいていき、住宅の姿もまばらになる。 そしてその建物は現れた。三角屋根の二階建てレストラン。壁はクリーム色の漆喰で、窓枠と扉はセージグリーンの木材。外壁の一部には蔦が這い、花のないプランターが窓辺に吊るされている。木製の看板には今もはっきりと店名が残っている。手入れはされていないが、朽ちた印象はなく、むしろ時間の止まったような美しさがあった。 入り口の扉のノブを、ネイヴァンが掴む。そのまま彼が押すと、扉は軋むこともなく静かに開いた。「鍵は、掛かっていないんですね……」 人がいなくなって三年が経っているのだ。空き巣や悪戯な子どもにでも入られて、店内は荒らされているかもしれない。そう一瞬覚悟したが、杞憂だった。 中は整然としていていた。二人掛けのテーブル席がふたつと、四人掛けのテーブル席が五つのホール。放置された年月相応の塵や埃は積もっていたが、それ以外はいたって普通。営業終了後に閉店作業を終えた店、という感じ。まるで昨日まで営業していたかのような。 椅子はきちんとテーブルに引き込まれ、赤と白のチェック柄のクロスの上には人数分のランチョンマットが置かれている。 キッチンと繋がった提供用カウンターの脇には、次の営業に備えてか、カトラリーの入った編みカゴが積んである。その横にはワインレッドのメニューブックも数冊立て掛けられていた。 壁には牧歌的な風景画と、夜間用のランタンが交互に掛かっている。 フォーマルすぎずカジュアルすぎない、居心地の良さそうな店内だと思った。 僕は提
西の空が真っ赤に染まったころ、小瓶一杯にルミリカの蜂蜜が集まった。 僕たちはネイヴァンの空間旅行《ホップステップ》を使い、セリカの町の菓子店『ル・シュクレ・ルナ(月のお砂糖)』の前へと戻ってきた。 扉を開けて入ると、西日の差し込む店内に充満する砂糖菓子の甘い香りが、鼻腔を満たした。扉の開く音を聞きつけて奥から駆け出てきた店主の女に、僕とネイヴァンは小瓶を掲げて見せる。「ただいま戻りました。花蜜たくさん取れましたよ!」 店主の目が、信じられないというふうに見開かれた。「すごい……! あの、おふたりとも、怪我はしなかったですか!?」 しなかった、といったら嘘になるが、花蜜を集める間に回復魔法で治療したので、現状はしていない。そういう意味で頷くと、店主の緊張した肩からふっと力が抜けるのがわかった。 それから僕たちは手短に、事の顛末を話した――死刑囚島《タルタロメア》のことは少しぼかして、『魔物しかいない島へ飛ばした』という言い方をしたが。 なにはともあれ、これで町の人たちは安心して森へ入ることができる。店主も『蜜月の琥珀糖』のための花蜜採取を再開できるわけだ。「本当にありがとうございます。さっそく町の人たちに、森が安全になったことを伝えなきゃ」 顔を綻ばせる店主へ僕は尋ねる。「あの、それで、『蜜月の琥珀糖』はどれくらいでできるでしょうか」「えっと、そうですねぇ……」 店主は西日で赤くなった窓辺に近づき、空を見上げた。「今夜は晴れそうですので、今夜から取り掛かれそうです。『蜜月の琥珀糖』を作るには、その名のとおり月の力が必要でして。硬
その赤褐色の瞳には小さな驚きが見てとれた。僕が視線を逸らさずいると、ネイヴァンは目を伏せ、おどけたように口元を緩めた。「なんでわかった?」「勘です」 としか答えようがないのが事実。第六感的なものが捉えた小さな違和感。それはきっと、彼を近くで見続けていなければ気づけない。 死刑囚島《タルタロメア》での濃密な三日間と昨日からの旅路が、僕の中でネイヴァン・ルーガスという男の解像度を上げた結果だ。「育てたら、『30分クッキング』のいい食材になると思うんだけどなぁ」「駄目です」 僕は真っ直ぐにネイヴァンを見据えて言う。「ちゃんと、あのルミエラビットのそばに転送してください」 ネイヴァンは肩をすくめて、「はいはい」と片手をひらひら振った。「空間旅行《ホップステップ》」 熊の魔物の幼体が、物も言わず消えた。 僕は改めてネイヴァンの瞳を見据える。その奥の真実を。あの子をきちんと母の元へ送ったのか。 ネイヴァンは今度こそ、目を逸らさなかった。 それでも言わずにはいられない。「ネイヴァンさん、あんな猟奇的な番組を作っているからって、あなたまで猟奇的になっては駄目です。人の心を失わないでください。……あなたは、ぜんぶ人間でしょう?」 魔物の血が混じった僕と違って、という言葉は言わないでおく。自分のコンプレックスを抉るだけだ。「ああ、わかったよ」 彼はひとひらの笑みもなく答えた。そのことに僕は、安堵を覚えるのだった。