金曜夜の新宿は、ゴールデンウィーク前の賑わいだ。どこの通りもごった返している。
雑居ビルの居酒屋で、わたしたち三人は待ち合わせしていた。
狭く、古いエレベーターがゆっくりと昇っていく、
地元の高校の同級生、
そろって上京した三人組だ。扉が開くなり、ふたりが手を振ってきた。
「ひさしぶり〜! 二年ぶりだね」「もうそんなになるんだね〜」
店内は賑やかだが、わたしたちも仕切り個室で再会の乾杯をした。
「るん、いまもギャラリーの仕事してるの?」そう聞かれて、ちょっと気恥ずかしいのには理由がある。
「まあね。社畜だけどね」
「うちらの出世頭だね〜」
「まあ、何をもって出世とするかだけどね……」
わたしはレモンサワーを一口飲んで、苦笑する。
アートディレクションという仕事は好きだ。クライアント相手に企画を通してデザインや展示をまとめていくのは、創作に似たやりがいがある。
「ディレクターだって!」
「やっぱ凄そうじゃん!」「でも、まだサポートだから……要はただの画廊スタッフだよ」
わたしは苦笑する。要はまだ見習い。十年目の使いっぱしりだ。
家も帰れば寝るだけのワンルーム。 慢性的な睡眠不足と、目の奥にじわじわ来ている老眼の兆し。 そして、おなじ場所の空気を吸うだけで心を錆びつかせる上司の身勝手。「かっこいい〜」なんて、とてもとても……
そんな仕事はまだできてないし、三人で思い描いていた生活でもない。それでもユッコとちーちゃんは、目を輝かせてくれる。
「るんるんってさ、美大行ってたよね? てことは今も自分で描いてるの?」
「確かに! るんの絵、めっちゃ上手かったもんね!」「いやいや、もう描いてないよ。今は企画側の仕事だから」
「企画側?」
「うん。ギャラリーの展示のしかたを企画したり……」
「え、なにそれ、やっぱかっこよ……! 展示ってどうやって決まるの?」
簡単に言うと、どのアーティストの作品を、どう見せるかを決める仕事だ。
例えば、この前の企画というかサポートした展示は、インド美術の企画展だったんだけど……
「並べるだけじゃなくて、〝見え方〟を工夫するのね」たとえば、柔和な微笑みにしなやかなポーズをしたおっとり系お姉さん女神パールヴァティ像を、現代の美少女アニメのフィギュア作品と並べて、腰のひねりや繊細な指先のポーズや笑顔に、時間と空間を超えた表現の可能性や共通性を感じてもらったり──。
「六〇〇年前のインドと現代日本のサブカルチャーが、おんなじような造形物に癒しや美を感じていたんだっておもうと、ふふってなるでしょ?」
そうすると〝推し〟も信仰の一形態なんだな、とか。
わたしは微笑む。
そう。いい作品も、ただあるだけじゃダメなんだ。
同じモノでも展示の仕方次第で、人が笑ったり、泣いたり、驚いたりする。 つまり、見に来た人の感情が動く。すなわち〝感動〟する。
そこは、絵を描けなくなったわたしには、今、唯一の表現の場だと言える。
「やだな、ちょっと語っちゃって…… きもかったでしょ。ごめん。」わたしは二人に謝った。
でもちーちゃんもユッコも首をふった。
「でもそれで言うとさ、るんるん、昔は自分で描く側だったじゃん? なんで展示する側になったの?」
サワーの氷が、音を立てた。
騒がしいはずの居酒屋に。「……そっちのほうが向いてたから、かな」
でもこれは、嘘。
根が深く、きっと長いイップスだ。
でも、微笑む。
「忙しくて描いてる時間もないし、ね」
ちーちゃんは、何かを察してくれたかのようにうなずいた。
「そっか……」
高校の時からそうだった。 ちーちゃんには、少しだけいつも、わたしの内側が見えている。 「でもさ、るんるんの絵、私たち好きだったよ。また見てみたいな」でも、その言葉はまだ、わたしの中ではちょっとした禁句で、空気を変えるように、ユッコが手を合わせて言った。
「でもさ、像の展示とか、クライアントってどんなお客さんたち?」
「んー、このあいだは六波羅蜜寺に行ったよ。職員さんもお坊さんがいっぱいでさ」
「出会いじゃん、すごー! いいなあー!」目を輝かす友人たちに、私は軟骨の串をつまみながら言った。
「でも用があったのは、人間じゃなくて、像だからね」
「像?」
「うん。空也上人の像。ほら、口から、こうやって仏さんが出てるお坊さんの像、見たことない?」
「…。あー!! 資料集で見たかも!」 「ミイラみたいで結構怖かったよね!」そのとき、ちーちゃんの携帯が、地震速報みたいなアラート音で鳴った。
「……あ。ハルだ」
ハルト。
その名も禁句だ。わたしは胸の奥がざわつくのを感じた。「ごめんね、なんか今ちょうど出張で東京来てるって言うから……」
ちーちゃんは申し訳なさそうに上目遣いをした。
わたしは平静を装う。
「そりゃ、顔くらいだすよね」
もう十年会っていない幼馴染。
彼氏……だったこともある。
それがいま新宿駅に着いたと言うのだ。
──外は夕暮れだった。 台所のシンクには、大小の皿が水に浸されている。 和室では、塗り絵の上でアオがすうすうと寝息を立てていて、お腹に、タオルをかけてやる。 わたしは縁側に出た。 ヒコさんがいた。夕焼けを見ている。 その横に腰をおろすと、少し心強い気がした。 わたしはマグカップを手にした彼に言う。「おかわりはどう」 ヒコは首を横に振った。「ありがとう、もう大丈夫」 しばしの沈黙。 風が、湖と頬をなでる。 ヒコがぽつりとつぶやいた。「そうか……。るんちゃんのこの家には、そんな悲しい思い出があったんだ」 わたしは頷いた。 だから魔界に来たとき、魔王の馬車で、この湖のほとりに着いた時、びっくりした。 ほんとうに息が止まった。 うれしいのか、嬉しくないのか、正直、混乱して分からなかった。 この家が建っているのを見て、心底びっくりしたのだ。 焼けて、焦げた柱だけになった家が。むかしの姿で、そこにあったから。 わたしはおもわず、いそいで家に駆け込んだ。 そして父を呼び、家中をさがして回った。 和室にも寝室にもいなくて、意を決して、手を触れた洋間のドアノブにも、父の姿は無かった。 アトリエの天窓から光がさしこんでいて、イーゼルの上でキャンバスが、背中を向けていた。 大雨が降り、深夜に火が出た、あの夜のまま。 父を驚かせたくて、わたしが水差しを描いたキャンバス。 つまり、魔王は、この家が出火するほんの少し前に時計を巻き戻して、そっくりそのまま、この湖のほとりに再現したのだ。 わたしは唇を噛んだ。 この家を復活させるのと、父を復
わたしも頭にタオルを巻いて、天袋の隙間に入っていく。 ヒコさんが手を引いてくれた。 屋根裏は、ランタンモードに切り替えた彼の懐中電灯が、ぽうっと全体的に照らしている。 埃っぽいかと思っていたが、それほどでもない。 むしろ空気が冷たい。 時間が止まっていた空間の匂いだ。 アトリエとも違う、人がそもそも入らない空間の、眠っていたようなにおいだ。 アオを肩に乗せ、懐中電灯を手に、わたしはヒコの指さす先に光を向けた。 梁の上を、電気の配線が走っている。「……危険な箇所って、あの配線のこと?」「うん。黒い配線の真ん中あたりを見てみて」 私は目を凝らした。「カバーが破れてるだろ」 ヒコの声が、いつになく低く、真剣だ。 言われてよく見ると、太めの配線の黒いビニール外装《カバー》が、ほつれたようにあちこちで剥がれている。 中から赤色っぽい金属の反射が覗いている。「あそこで銅線が剥き出しになっているんだ」「──どうして…… 勝手に、電気コードが破れることなんてある?」 なんか怖い。それこそ誰かが屋根裏に忍びこんで、配線のカバーを剥いていったなんて思ったら、寒気がしてきた。「……まさか、コウモリが?」 つぶやくと、ヒコさんが言った。「いや。ネズミが齧《かじ》ったんだと思う」 わたしは思わず反芻する。「ネズミ!?」「そう。ネズミが前歯でかじったんだよ。あいつら歯が伸びるだろ。だから伸びすぎると、柱だって壁だって、なんでも齧るんだ。ムズムズしてさ」「だからって……配線までかじるものなの?」 普通にビリッてしないのかな……「するかもねぇ。でもアイツらには木も枝も電線も関係ないからなぁ……。──あとほら、こんどは上を
点呼をとる声が、和室に響く。「番号、イチ!」「にっ!」 ヒコさんとアオだ。(ふたりしか居ないのに、点呼、いる?)「持ち物確認! 懐中電灯、ヨシッ!「お菓子、ヨシ!」 おやつ持ってくんかい…… ついつい平たい目で突っ込んでいるけれど、男の子って楽しそうよね……。 と言うのも、このふたり、これから天井裏に大冒険なのだが、いい大人と子供が目を輝かせながら押入れの天袋へとよじ登っていくその背中を、わたしはお尻のポケットに気になる手紙を入れたまま見送った。(……やっと読める) そう内心で思っているものの、彼らは別に遊びにだけ行くわけじゃない。 屋根に穴が開いているかもしれず、チェックに行ってくれるのだ。「いってらっしゃい、ご安全に〜!」 いちおう、それっぽく、笑顔で手を振る。 ずらした板の中へと、ふたりは屋根裏に消えていった。 ──さて。 ……わたしは息を吐き、いそいそと、さっきお尻のポケットにねじ込んだ封筒を取り出す。子供が寝た後に、って感じだ。(ああ、もう、ドキドキする!) 縁側テラスに小走りする。 湖の上では、空が晴れ渡り、わたしは封筒を鼻先をあてる。 ヒコさんじゃないけれど、森の匂いに、マヌルの背中が思い浮かぶ。 ほのかな心音のぬくもりに、浸っていたかった。 だが、そこに、あのヒコの顔が重なる。「──!」 うっかりまた心臓が跳ね上がった。 淡い封筒からの波長を、犬の濡れた鼻先が上書きしてしまったようだ。 廊下の壁に手をついて、うなだれる。 動悸が止まらない。 ──くそう、あの無自覚イケメン犬め……! 距離感バグってるヒコの、目を閉じたあの顔が
玄関側に回ると、オークの姉さんが笑顔で手を振っていた。 「こんちは、調子はどう?」 わたしも自然と笑顔になれた。 「おかげさまで、なんかスッキリです」 オーク姉さんは、おなじみの荷車から小包をひとつ取り出しながら、「まずはいつものね」と言った。 「伯爵も懲りない人よねえ」 まとめて送り返したのに、また吸血鬼からのプレゼントだ。 「すみません、今日から受け取り拒否で……」と、わたしはサインしながら、申し訳なくて口をへの字にした。 「でも持ってきてもらってこれだと、お姉さんもストレスになるでしょ……」 オーク姉さんは笑ってくれる 「そんなことないよ、ちゃんと料金は向こうから発生しているからね。そこはご心配なく」 そして彼女は、「で、今日はもう一つあるのね」と、一通の封筒を取り出した。 受け取った封筒の裏面に、わたしの目は思わず輝いた。 差出人に、〝フクロウの森のマヌル〟とある。 やっぱり、マヌルの返事だ!…… 姉さんは、「よかったわね!」と、満面の笑みを残して荷車を引き、去っていった。 * * * 裏庭の湖が、きらきらと揺れている。 縁側のテラスで、わたしは左右を見回し、背後まで確認し、念のため見上げて軒先をチェックする。コウモリもいない。 ──よし。 そして、封筒を手に、ハサミを握る。 マヌルさんが書いたのであろう文字で、〝睡蓮の湖の相川〟と宛先がしてある。字を見つめているだけで、なんだが胸が波立つ。
──翌日、昼過ぎ。 ぽかぽかとした春の光の中で、ヒコさんが訪ねてきた。 彼は、わたしがテラスでチラシの裏に落書きをしていることに驚いた。 「……絵、描けるようになったの?!」 わたしは、はにかんだ。絵というほどのものではないけれど…… 「えへへ、そうなんですよ」 描いていたのは、昨夜のアオがコウモリに食いつこうとした顛末の四コマ漫画だ。 線もヨレヨレだし、下書きも無しの一発描きで、楽しいから描いただけのものだ。 「──ははは! たしかにあいつ、コウモリとか食べそうだ」 でも、ヒコさんには、このとおり好評で良かった。 チャリン……、と、懐のポケットでアプリの通知音がした。 そう。わたしは発見したのだ。こんなラクガキでも正のエネルギーが貯まるのだと言うことを……! 「面白かったよ、また描いたら見せてね」 すると、チャリン……と、またスマホが鳴った。 「なんの音?」と、ヒコさんは興味深そうだった。 「ええと…… なんていうか、仕事、みたいなものかな?」 わたしは誤魔化した。 それにしても、四コマでも人に絵を見せたからポイントが加算になったのだろうか。わたしは少し考え込んだ。……いや、反応が返ってきたことに、わたしの心が嬉しかったからだろうか。 わたしの横で、ちょっと離れてヒコさんがあくびをしながら、「おれも座っていい?」と、縁側に腰掛けた。 「朝から王都に仕事行ってきた帰りなんだ」 「大工さんのお仕事?」 「んにゃ。きょうは魔王さまの王宮で、庭師さ」 ……とっさにピンと来なくて、私
今夜は、サラダと煮っ転がし。 ヒコさんにも食べていけばと誘ったが、なんだか明日は早いらしい。 ものすごく残念そうに、肩と尻尾を落として帰って行った。 だから今夜は簡単に、タコをサトイモと煮た。 魔界にも醤油があるのが微妙に嬉しい。 わたしはエプロンをかけ、トマトを切っている。 こうして、夕暮れどきに夕飯を作る生活にも、だいぶ慣れてきた。 時計を見るとまだ十八時。 社畜だった頃は、この時間だと、追加の残業が降ってくることにイライラしていたはずだ。 背後では、アオが塗り絵をしている。 クレパスがテーブルの上でカツカツと踊る音がしている。 「それで、絵葉書にはなんて書いたのさ?」 「んー、なんてことは書いてないよ。今度はうちに遊びにきてください。一緒に湖を見ましょう、って」 それでダメなら、何を言ってももうダメってことだろう。 レタスを洗いながら、わたしは答える。 アオが手を止めて、ちょっとためるように言った。 「……一緒に、って、ぼくもいっしょにってことだよね?」 かわいいけど、めんどくさいスライムだな…… わたしはレタスの葉をちぎりながら言った。 「まぁ、そういうことになるね。でもお利口さんにするんだよ」 アオは勝ち誇ったような顔をしてるんだろうな。 言わなくても分かる。クレパスの音が楽しそうに変化している。