Masuk
失敗した。
それだけは分かった。大好きな人の困った顔を見た瞬間、後悔の河に沈んでいった。
最低だ、俺。もう消えてしまいたい。
『なら何故河を渡らない?』
戻るのか進むのかはっきりしろ。
素っ気なく吐き捨てる、声の主は白い粒に見えた。その隣にはもうひとつ、青白い球体が浮かんでいる。
……よく見ると、俺も同じ姿をしていた。
『拒絶されたことに囚われてるんだろう? だがな、そこにいる奴はお前のことを、ずっと……』
暗澹とした水底で漂う。大人しく続きの言葉を待っていたが、途端に沈黙が流れた。
長い長い静寂ののち、ようやく聞こえた声は喜色が混じり、踊り子のように弾んでいた。
『お前達、ここで言えばいいじゃないか。ああ、肉体がないから声を出せないのか。……仕方ない』
腑に落ちたような呟き。まどろんだ意識の中で、ただ耳を傾ける。
『私は優しいからな、話し合うまでは流されないようここに留めてやる』
渡し賃は─────見物料ということにしようか。
……その先は、水泡と共に攫われてしまった。
ただひとつ確信したのは、俺はこの泡達と同じく、いつでも弾け飛んでしまう存在だということ。
神様の手のひらの上で弄ばれるだけの、脆く小さな存在だ。
◇
優しい優しい神様は、現実逃避がしたい俺を異世界に呼んでくれたみたいだ。
その異世界は、通学中に読んでいた小説と一致する部分があった。冴えない男子高校生が異世界へ飛ばされ、
女性達を虜にする惚れ薬を開発する……という、アホらしいが、サービス展開が多くてニッコリしてしまうお話。ハーレム要素が多いが、ファンタジーの世界観は作り込まれていて、お気に入りのキャラが登場しない時もそれなりに楽しんで読めた。
神様は、あの小説の部分部分を掻い摘んで、適当に繋ぎ合わせたのだろう。俺には分かる。
争いと無縁な王国。その中枢にある城の地下で、一日も休まずに働く。
学校に行かなくていい。気まずい人と顔を合わせなくていい。
確かに幸せだ。……だが異世界と思うからこそ、募る不満もある。もっと驚きと発見、ご褒美展開が欲しい。
「また注文が入った。レアルゼ、明日の正午までに惚れ薬1000mL頼む」
だがここで目を覚ましてから早半年。薄暗く埃っぽい部屋から出られずにいる。
惚れ薬。以前は馬鹿馬鹿しくて吹き出していたワードも、地獄への片道切符にしか思えない。
何故ならそれは、ここに囚われている原因そのものだからだ。
椅子から立ち上がり、モニター越しに返事した。
「はーい……承知しました」
少し大きめの白衣を羽織り直し、プラチナブロンドの髪をかき上げる。
回線を切り、機械のライトしか見えない通路を渡って部屋を移動した。薬を使いやすい位置に並べて、受注の品を作り始める。
「……ふう」
王族も知らない犯罪組織が、城の真下に研究施設をかまえて“惚れ薬”を作ってるなんて……創作と言えど、ちょっとエグい。
というか、完全に罰ゲームみたいな設定だ。監視されてるから部屋から出られないし、未だに一度も陽の光を浴びてない。
せっかく新しい自分を手に入れたのに、俺の物語は一ページも始まってない。こんな小説が現実にあったら、ブーイング間違いなしだ。始まりの村から出発してないどころか、自宅から出ることもできないのだから。
( 段々面白く思えてきたな…… )
一応キャラ設定はされていて、周りからはレアルゼという名で呼ばれている。惚れ薬の開発に携わる研究員で、鏡を二度見するほどの美青年だ。
もっとも惚れ薬のレシピは目を覚ました時から頭の中に入っていた為、俺自身は何の指導も受けてないし、努力もしていない。
果たして、この缶詰生活を幸せと呼べるだろうか。
レアルゼという青年は実際には存在せず、中身は現実世界から逃げてきた高校三年生に過ぎない。
毎日欠かさずため息をつく、御代鈴昌(みしろすずまさ)という青年なのだ。
王子に媚薬を飲ませ、破滅に追いやる。
それが、目覚める直前に聞こえた転生先の使命だ。
パニックを起こす間もなく謎の組織に拘束され、元々ここに居たていで生活が始まった。
ご都合主義に慣れてるせいか、取り乱さずに済んでいる。まさかこんなところで、蓄積された経験値が役立つとは。
しかし強制労働の真っ只中にあり、地上に出る機会がない。しばらくは大人しくしていようと思ったが、さすがにしんどくなってきた。
あの声の言う通りにすれば、現実世界に帰れる。だから王子に会いに行き、薬を盛らないといけない。
とはいえ、俺は現実が好きというわけでもないのだ。
ただ、大好きなひとがいたから。彼に会う為に帰るだけだ。
◇
薬の配合は手が覚えている。だが実際に服用した人を見たことがない、というのも恐怖ポイントのひとつである。
飲んだ者の性欲を高め、恋情を引き出す妙薬。そんなものが本当にあるなら、確かに大枚をはたいても欲しい者達が現れそうだ。
( 一応それを作ってるんだけど……我ながら胡散臭いんだよなぁ )
調合開始から三時間。眼鏡をかけて、気分転換に棚に置いてある紙束を取った。
この世界にも一応新聞のようなものがある。政治関連に医療や法律、外に出られなくとも情報が手に入る。
────目的の人物のことも。
今、世間ではクロック王子のことで持ち切りになっている。
写真で充分に分かる、人形と見紛うほど美しい青年。
弱冠二十歳にして各方面から人格者と讃えられている。
当然絶大な支持と人気を博しており、彼の目に留まろうとしている者が多い。
国中の人間に狙われているのは本当に可哀想だ。
でも彼が襲われたというニュースは見たことがないから、きっと優秀な護衛がいるのだろう。
小さなキッチンへ向かって眠気覚ましの珈琲を淹れていると、媚薬が入った小瓶が視界に入った。
前回の調合分が置きっぱなしになっていた。蓋を開けて中を覗くと、無色透明な液体がちゃぷちゃぷと揺れている。
自分だったら、これを使って好きな人を手に入れて、嬉しいと思えるんだろうか。
「中都先生……」
好きな男の先生がいる。
彼が同性愛者かどうか分からないから告白寸前まで必死に隠し続けたけど。
少し考えて、やっぱり違う、と思った。薬効は一時的なもので、洗脳と一緒だ。やっぱり本心から好きと思ってもらいたい。
小瓶を棚へ戻そうとしたが、急に思い立って一考する。
「ちょっとだけ……飲んでみるか」
深夜のテンションとは恐ろしい。間髪入れず小瓶の中身をグラスの水に入れて飲み干した。
希釈したのはちょっとビビったからだ。空になったカップを置き、深呼吸する。
待つこと数分。
しばらくその場に佇んでいたが、身体の異変は感じられない。薬のことは明日確認して、今日はもう寝るか。
「夜分に失礼します」
立ち上がったのと同時にドアをノックする音が聞こえ、向き直る。すぐには開けず、誰なのか尋ねた。
「もう遅いですし、急用でないなら明日にしてもらえませんか?」
組員や研究員なら先に通信が来る。この訪問者は一度も会ったことがない人物だ。
息を潜めて反応を待っていると、とても落ち着いた声音が聞こえた。
「急を要していたものですから、無礼を働き申し訳ございません。レアルゼ博士ですよね? 貴方の薬を使わせていただいた者ですが、まるで効果が見られず……間違いがないか、どうしても確認していただきたいのです」
今し方自分でも確認したばかりだった為、話の内容に納得する。……だけど、こんな時間に部外者を通したことにはびっくりした。守衛は何をしてるんだろう。
疑問に思ったものの、鍵を回し、扉を引いた。
「良かった。開けてくださり、ありがとうございます」
壁に取り付けてある球体ランプを灯すと、男の輪郭、顔貌が徐々にあらわになっていった。
声の主はアメジスト色の瞳をした、息を飲むほど端麗な青年だった。
おぉ……。
知らない男性に見蕩れるのは初めてのことで、思わず立ち尽くしてしまった。
優しげだが眼光は鋭く、目が合うと惹き込まれそうになる。
上質なコートを纏い、身に付けているアクセサリーはシルバーで統一している。少しウェーブのかかった金髪は、暗がりの中で宝石のような輝きを放っていた。立ち振る舞いからしても、少なくとも一般人ではない。
こんな綺麗な人が存在するんだな。これも異世界パワーか。
改めて関心していると、全身が急激に熱くなった。目も眩み、足を引き摺りながら後ずさる。
「初めまして。とりあえず中にどうぞ」
外気が冷たい為青年を中に入れ、席に促した。コートを掛けるハンガーを渡し、空いてるグラスに珈琲を入れる。
あれ、これ耐熱だっけ。
渡してから不安になっていると、青年は上品に微笑んだ。
「実はここに来るまでも、とても不安でして……受付の方に警戒されてしまったけど、博士が優しそうな方で良かったです。とてもお美しいし……色々災難だったけど、一日の終わりに良いことがあったな」
えぇ、何だそれ。
「美しい……は、初めて言われました。男性相手にも、よく言うんですか?」
「いいえ? 初めて言いました」
何だ、そうなのか。以前他の職員が同性愛は珍しくないと言っていたけど、さすがに挨拶代わりには言わないもんな。
……それと、こんな犯罪施設に来て“受付”と言うのも違う気がした。
「あの、先にお名前を教えていただけますか?」
「あぁ、これまた失礼しました。私はミコト。普段はクロック王子のもとで働いているんですが、街の視察や調査もしています」
「調査? 警察のような?」
「ええ、一応警察にも所属してます。手広く、危険物の回収なんかも引き受けます。例えば、人々を惑わす薬の出どころなど」
は。
空気が凍りつき、思考までもフリーズしかけた。頭が回り出したのは、胸ポケットにつけた無線機が鳴ってから。
『聞……か、レアルゼ、侵入者だ。……軍の……長がセキュリティを破って……た』
ノイズが入って上手く聞こえないのは、相手が移動しているからかもしれない。
だが幸か不幸か、「侵入者」だけは聞き取れた。
施設内の管理モニターに視線を移す。カメラが故障して映らない部屋もあったが、ほとんどの部屋で武装した人間が研究員達を拘束している様子が映し出されていた。
おいおい、やばいんじゃないのか。
息することも忘れて振り返ると、ミコトの綺麗な唇が怪しく弧を描いた。
「レアルゼさんはこの組織で研究員の主席にいる、実質的な代表者ですよね。しかし実際に会ってみたら、なんとも初々しい方で驚きました」
「な……っ」
要らない要素も含まれていたが、ようやく理解した。
彼は自分の素性を調べ上げ、捕縛する為に尋ねてきたのだ。
指先が震える。これは薬のせいか、それとも……。
「媚薬なんて眉唾物だと思ってましたよ。いやぁ、ほんと面白いものを作りましたね」
「け、警察が面白いとか言っていいんですか」
「大丈夫ですよ。そんなことにペナルティは発生しません」
ペナルティ? 何言ってんだ?
意味が分からず眉を寄せたが、腕を掴まれ、彼の腕の中に引き寄せられてしまった。
「さ、行きましょう。心配しなくても地上まで責任持ってエスコートしますから、安心して」
「……嫌だと言ったら?」
このまま彼にエスコートされたら、絶対牢獄行きだ。それは困る。
ここ以上に元の世界に帰れる確率が下がってしまう。
伏せ目がちにミコトの反応を窺うと、彼は楽しそうに笑った。
「怖めず臆せずな性格でもないだろうに。……絶望させるようで申し訳ないけど、この国で私の命に抗う者は、その場で処罰されても仕方ないことになっているんですよ」
眼前に翳されたのは、国家警察の証だろう金の紋章が刻まれた手帳。中はびっしりこの国の法律が記されており、彼のこれまでの功績や経歴が載っていた。
「犯罪者の処罰権は国王陛下から託されてます」
彼は、想像以上に高い職位にいるみたいだ。
「すごいですね。じゃあ俺をここで処罰するんですか」
もしかして銃で撃ち殺されるんだろうか。どうしよ。ここで死んだとして、現実に帰れるだろうか。
魂まで消滅してバッドエンド、みたいなのは本気で困るる。
怖々窺っていると、彼は手帳を仕舞って肩を竦めた。
「いいや。個人的にとても興味があるんだ。媚薬なんて、この止まった世界にそぐわない物を作る君のことが」
だから絶対一緒に来てもらう。
鼓膜を揺すぶるバリトンボイスで囁く。笑っていないと、彼はただ声を発するだけで威圧感があることに気付いた。
よりによって、大変なひとに捕まってしまった。
「え、っと……」
逃亡する為の良案を頭の中で張り巡らすが、ぼーっとして考えがまとまらない。加えて、さっきから内腿のあたりがぞくぞくする。
まずいぞ。立っているだけで精一杯だ。
今頃薬が効いてきたのかもしれない……!
「レアルゼさん? すごく汗をかいてるけど、大丈夫ですか?」
バランスを崩して壁に寄りかかる。膝の力が抜けてしゃがみそうになった時、ミコトに支えられた。
腰に当たる手に力が込められる。瞬間、全身に電流が駆け巡った。
「ひあっ……っ!」
例えようのない快感に襲われ、高い声を上げてしまった。
熱の中心が昂り、ズボンを押し上げて主張している。
「レアルゼさん、なにか持病は?」
健康そのものだし、媚薬のせいなのでかぶりを振る。
しかしただならぬ状態だと気付いたようで、ミコトも動揺していた。熱を計るため額に手のひらを当ててきたが、それも逆効果で、強まる苦しさに呻いた。
「いやっ、触らないで……!」
触れる面積が増えるほど敏感になり、痺れていく。そこでとうとうミコトも察したようだ。
「貴方、まさか……媚薬を飲んだのか?」
「んっ」
頬に手を添えられ、口腔内に指を入れられる。反射的に噛んでしまったが、彼は怯まず、舌を優しく引っ張った。
「頬の紅潮と舌の変色。それから過敏。報告書通りだ」
レアの唇を指でなぞった後、ミコトはキッチン台に転がる小瓶を手にした。さきほどレアが飲みきった為、中は空である。
「独りでこれを飲んでどうするつもりだったんです? これは近くに人がいないと作用しないんでしょ?」
「えっ」
そうなのか。全然知らなかった……!
でも、冷静に考えたらそれもそうか。誘惑する相手がいなかったら確かめようがないもんな。
薬に対し笑ってしまうほど興味がなかった。それが結果として自分の首を苦しめている。
「ただの好奇心か、探究心かな。私が今日、この時間にここに来るとも思わずに……。タイミングが悪くてすまないね」
いや、むしろタイミングが良いのか。そう言うと、デスクの上に押し倒された。
膝をついて馬乗りになり、太腿に触れてくる。
「ちょっと、だめ、だって……!」
少し染みができている部分も、指先で押された。
人差し指で、とん、と触れた程度。笑ってしまうほど弱い力だが、そこは性器の先端だった。堪えられず、小さな悲鳴を上げる。
「あっ…………っ!」
ズボンに染みが広がっていく。ぬれた感覚が気持ち悪いのに、射精の快感が強過ぎて何も考えられない。
ベルトを外す音が聞こえる。大変な警鐘だとわかるのに、彼の匂いを吸うと思考が停止する。
もっと近くで嗅ぎたい。気付けばミコトの襟を掴み、自分から彼の胸に顔をうずめた。
「まだ苦しい?」
「くる、しい。助けて……っ」
昨日は今日の昔という言葉が思い浮かんだ。桜の花びらを見ると改めて痛感する。誰にも言えない体験をしたことは、薄れはしても消え去ることはない。まだ少しチョークの跡が残ってる黒板に触れ、瞼を開ける。窮屈なネクタイを外し、御代は誰もいない教室を後にした。時間の大切さは分かっていたつもりなのだが、この世界に戻ってからは光の速さで日々が流れた。コンクールや入試はともかく、卒業式なんて体感的には十五分だった。今は廊下の窓から、校門に集まっている卒業生達を眺めている。保護者と一緒に帰る者、後輩に囲まれる者、友人と遊びに行く者。皆これから大きな世界へ飛び込んでいく。後輩達から貰った色紙を鞄に仕舞い、階段を降りる。壁にかかった姿見に映る自分は、なんてことない黒髪の青年だった。……いや、それも違うか。世界でひとりだけ。ありふれてるけどここにしかいない、唯一無二の存在だ。眼鏡を外し、昇降口を抜けた。青い空に舞う桜を見上げながら、ふと、自分の髪に触れた青年のことを思い出していた。「現状維持は最悪の選択……か」腕を組み、うーん、と首を捻る。俺は不変大好き人間だから現状維持が最善だと思ってしまう方だ。でも、こと恋愛に関しては違うのかな。お節介で優しいカミサマの言うことは忘れないでおこう。「御代!」校門に続く道に入ると、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、そこには息を切らした中都先生がいた。「連絡したんだけど、見てないな……?」「え? あ、ほんとだ。すみません」スマホを開くと、先生から今どこにいる? とメッセージが届いていた。朝からずっとミュートにしていたから気付かなかった。「あはは、でも会えて良かったです。先生、今日は忙しいのかなって思って」「気遣いありがと。でもどんなに忙しくても時間はつくるさ。大切な日なんだから」先生は呼吸を整えると、ゆっくりこちらへやって来た。「お前とここで会えるのは最後か。寂しいな」「寂しいですねー」「何か軽くないか?」「いや、寂しいですよ!」はい。実は、来たる大学生活の方に俄然気持ちが入ってる。なんて正直に言ったら絶対ど突かれるから隠しておこう。中都先生は訝しげに見つめてきたが、やがて笑いながら自身の腰に手を当てた。「はは。ごめんな。白状すると、俺はこの日をずっと待ってた」寂しいのは本当だけど。と、目の
死後の世界に来てしまった以上は、死んだも同然じゃないか。不安が頭をよぎったけど、今はただ信じるしかない。世界で一番大好きな人を。自分の決意を。やり直すというのは、それまで築き上げた過去をボロボロに叩き割る行為なのだ。それは楽だけど、とても哀しい。神様はずっと俺の恋愛を応援してくれていた。そう自惚れてもいいんだろうか。「……御代さん? 御代さん、聞こえますか?」深い水底から引き上げられるように、意識が鮮明になっていく。重たい瞼を開けると、見慣れない天井が広がっていた。傍には医療機器があり、白い服を着た女性が驚きながらこちらを見下ろしている。「ちょっと、先生に連絡して。あぁ、良かった……」驚きながらも胸を撫で下ろす彼女を見ながら、頭を横に向ける。見れば病室のような場所で、窓の外は雲一つない青空が映っていた。「生きてる。本当に……」片手を上げ、掠れた声で呟く。自分の本当の名前を呼びかけられて、現実に帰ってこられたのだと理解した。全身が痛いし、起き上がる気力もないけど、今なら迷いなく言える。 生きてるって、すごい。涙が零れるほど感動してるのに、頭に浮かんだ言葉は最高に薄っぺらかった。でも、これ以上なく満たされている。俺はまた、改めて生きる力を貰えたんだ。少しして担当の先生や家族、友人が代わる代わるやってきた。驚いたのは、俺が眠っていた期間は三日だけということ。向こうでは半年以上いたから、告白もとてつもなく遠い過去のように思えた。意外にも、父は無事に俺が目覚めたことで安堵していた。目元は腫れていて、親戚に声を掛けられるまで傍にいてくれた。階段から落ちた経緯を伝えてないから、何か申し訳ないな。幸い外傷は大したことはなくて、脳機能も今のところ問題はない。何事もなければ、週末には退院していいと言われた。病室から誰もいなくなった夕暮れ時。真っ白な廊下をゆっくり進み、目的の部屋を探した。そこは個室だったが、患者の名前を見た後もしばらく佇んだ。何を言うか定まらないまま、ドアをノックする。心臓は破裂しそうなほど大きな音を立てていた。わ。俺ってやっぱチキンだ……。嬉しいはずなのに、怖い、という感情の方が沸き立つ。必死に呼吸を整えようとしてると、「はい」という低い声が聞こえた。「……失礼します」引き戸を開けて、最奥のベッドに視線を向け
腕を掴む力は痛いぐらい強くて、振り払うことができない。雨に打たれ、うなじにかかる温かい吐息を感じていた。「……何が大丈夫なんですか。全っ然大丈夫じゃない」ここまでくると、彼の優しさもおかしく思えた。乾いた笑いを込め、足元の河に沈んだ街を見つめる。「全部思い出した。俺死んだんだろ? 先生も、俺のせいで……!」感情のまま叫ぶと、彼は驚いた顔を浮かべた。迷いながらも手を離し、俺を正面に振り向かせる。「それは違う。俺のせいでお前は階段から落ちた。俺がお前を助けられなかったんだ」どっちが悪いかは明白だろ、と彼は続ける。でもきっかけは全部俺にある。謝っても謝りきれない。ただでさえ悪い視界がぐにゃぐにゃにうねっていく。多分、ずっと泣いてるせいだ。嗚咽しながら、途切れ途切れでも言葉を紡いだ。どうしたらいい。何が正解なんだ。「俺……先生にフラれること分かってた。なのに勝手に傷ついて、階段から落ちたりして。こんなことになるなら告白しなければ良かった。本当に、本当にごめんなさい……っ!!」足元の水位は上がっていた。それでも構わず、床に両膝をつける。「大丈夫」先生は俺と同じ位置まで屈み、破顔した。「俺にも謝らせてくれよ、御代。お前の言う通り、俺はこの世界でたくさん隠し事をしてたんだから」彼は人差し指を俺の唇に当てる。もうどうしたらいいのか分からなかったので、大人しく彼の話に耳を傾けた。「俺は確かに階段から落ちた記憶があるから、ここがあの世だってことは最初から気付いてた」そして、必ず俺も一緒に来ていると。「大丈夫だって。あの世にいる神様は優しいんだ。俺達の記憶を保ったまま魂を繋ぎ止めてくれたんだから」「……繋ぎ……止める?」「そう」御代のぬれた前髪を持ち上げ、中都は自身の額を擦り合わせた。「安心しろ。俺達は死んだわけじゃない」真っ暗だった世界に、光芒が見えた。しかし納得いかない部分もあり、慌ててかぶりを振る。「で、でもここはあの世だって」「あぁ。だから、まだ死んでない……って感じかな。生死の境を彷徨ってるのは確かだ」聞けば聞くほど混乱して、立ち尽くす。すると彼は俺の手を取り、微笑んだ。「お前は、告白をやり直したいと思ったんだろう? だから神様は、俺達にチャンスをくれたんだ」現実で目を覚ます前に。そう言い、中都は御代を抱き起こした
知っているのは、先生のことだけ。でもその先生のことすら信じられなくなってしまった。途端に全てが歪み出した。ここに居場所はないと告げるように、道が狭まっていく。一目散に走り出す。何から逃げているのかも分からないが、とにかくここから離れたいと思った。やり直す機会を与えられたのに、それすらもやり直したいと思った。この崩壊はその代償だと気付けなかった。次第に雨も降り、地面を叩きつける豪雨に変わる。建物を挟んだ道は瞬く間に川となり、腰の当たりまで達した。このペースで雨量が増えたら、本当に溺れる。「何だよ……俺が何したって言うんだよ……!」恐怖はやり場のない怒りに変わり、怒りは哀しみに変わる。こんな目に遭う筋合いはない。現実世界では普通に生きて、普通に暮らしてただけだ。それとも本当は罪深いことでもしていたのだろうか。ずぶぬれになりながら、重たい一歩を踏み出す。夜のような暗さ。凄まじい水音。足をとられないよう何とか建物の扉に辿り着き、中へ入った。階段を上り、最上階を目指す。命からがら屋上へ出て、目の前に広がる景色を見つめた。────河ができている。何故か、ここはいつか誰もが行き着く場所だと思った。異世界なんかじゃない。あの世の一歩手前にある場所。「何で……?」あの世とこの世の境にある、河の畔。ここには死者しかいない。行く手を阻む見えない桎梏が、押し殺していた記憶の箱を開けた。『……ごめんな、御代。気持ちは嬉しい。けど』放課後、学校の渡り廊下で告白した。中都先生は熱でもあるかのように頬を赤くしながら、辛そうにかぶりをふった。フラれた。考えるまでもなく分かっていたけど、それなりにショックだったのだろう。彼の返答に頷いてる最中、立ちくらみを覚えた。『ですよね。あは……変なこと言ってごめんなさい』窓を貫く夕陽の光が、俺の胸も突き刺している。真っ赤で、血を噴き出してるように。ああ、やり直したい。欲しいものはあっても、ねだったことは一度もなかった。欲がないことを本当に感謝した人生だけど、中都先生と出逢って全てがひっくり返ってしまったんだ。襟元に落ちる雫に気付いて、驚いた。本当の本当に、彼が好きで仕方なかったのだと。『あ……明日からは普通にします。ので、今まで通り接してもらえると嬉しいです。部活もあるし』『あぁ。それは、もちろん』掠れ
先生はああ言ってくれたけど。自分が抱えているのは、いつかは報われる恋なんだろうか。「やり直したいな」ぽつりと零した。先生に告白した時に強く願ったこと。「……っ?」その言葉を口にした直後、雲が黒くうねりだした。嵐でも来そうな空に、胸がざわざわする。御代は白衣を羽織り直し、館の屋上階で洗濯物を取り込んだ。この世界に来てから一ヶ月近くが経った。地下施設から出た後は毎日が晴天だった為、こんな天気は初めてだ。独りでいるのが嫌で、足は自然と彼の部屋へ向かった。「中都先生? 雨が降りそうなので、洗濯物取り込んでおきました。中で干しておきますね」「あぁ。ありがとう、御代」書斎で書き物をしていた中都は、慌てて振り返った。正体は別世界の人間でも、やはり仕事はしないといけない。今日も忙しそう……。先生は目的を達していると言うし、もう現実に戻っていい。戻る手はずも整っていると教えてくれた。それを一旦断ったのは御代だ。何故だか怖かった。こんな得体の知れない場所にいる方が恐ろしいのに、いざ帰ると思うと足がすくむ。このまま中都とこの世界で暮らした方が幸せなんじゃないか。( そんなわけないだろ…… )ここは自分達のいるべき場所ではない。分かってるのに、急に例えようのない不安に襲われた。進路はどうなるだろう。父は、俺が消えて良かったと思ってるかもしれない。ただの教師と生徒に戻り、中都先生とは距離が遠のくだけ……。良いことって一つもなくないか?ここにずっと留まっていたい。そう言ったら、先生はどんな反応をするだろう。「御代? どうした」「っ!」ぼーっとしていたせいで、彼が近付いてきたことに気付けなかった。不意に額に手を与えられ、ビクっと震えてしまう。「顔色が悪いぞ。気分は?」「あ……すみません。大丈夫です」しどろもどろになりながら、彼の手から逃げる。そして白衣の裾をぎゅっと掴んだ。「先生。この世界に来る直前のこと、覚えてますか?」「急にどうした?」「全然思い出せないので。先生に告白した後のこと。……家に帰った記憶がないんです」ため息まじりに肩を落とす。すると先生の顔は曇った。しかしそれは本当に一瞬のことで、よく見る前に頭をぐしゃぐしゃ撫でられた。「そっか。……そうだったんだな」「…………っ?」先生は少し苦しそうに頷いている。ますま
押し殺さないといけない願望が、水面のすぐそこまで上がってきている。顔を出す前に突き放さないと。だが、御代はゆっくり首を横に振った。「偶然でもいいし、気まぐれでもいい。それでも俺は救われたんだから……それが全てじゃないですか」 それ以上の理由を求められても困る。むしろ、恋愛ってそういうものじゃないか。御代は可笑しそうに、そう言った。 「仲良くないけど何か気になるとか、気付いたら好きになってたとか。他人からすれば中身ゼロの理由ですけど、そんな始まりのカップルは星の数ほどいます。俺は、きっかけよりもその後の方が大事なんじゃないかと思うんです」「……」 正直、少し驚いていた。昔から御代は自分といる時は特に多弁だったが、ここまで自分の意見を伝えてきたのは初めてだ。無理に明るく振舞おうとしていた時とも違う。純粋に、中都に惹かれた理由を話している。 「俺は先生を幸せにする自信もあります」「ちょっ。すごい飛躍したな」 付き合いたい理由を聞いていたはずだが、結局プロポーズに戻ってしまった。御代は堪えきれない様子で、あどけない子どものように吹き出した。 「ごめんなさい。何年も頭の中でシミュレーションしてたから気持ちばかり先走っちゃうんですよね」 彼も分かっているらしく、目元を擦りながら頷いた。 「現実世界から飛ばされて、次元が変わっても先生に対する“好き”は変わらなかった。それが一番嬉しいのかもしれない」「……っ」 御代のホッとした笑顔を見た瞬間、胸の中が熱くなった。いてもたってもいられず、彼を強く抱き締める。 「わ、せんせ……」「好きだ。俺も……お前が好きで好きでたまらない」 一方的な好意をぶつけている。御代はそんな風に思っているのだろう。でもそれは半分正解で、半分不正解だ。俺も無意識に、彼を手に入れようとしていたのかもしれない。 初めて会った時のよそよそしい一年生の彼も、三年生になり、頼りないが一所懸命なときも。 常になにかに押し潰されそうになりながら、ひたむきについてくる彼が可愛くて仕方なかった。 俺はとっくに彼に落ちていたんだろう。この世界に来て、その事実に布を被せて隠したかっただけだ。御代は笑いながら瞼を擦った。 「はは。両想いなのに付き合うのは駄目って、困りますね」「そうだなぁ」笑いながら、また御代の額に口