LOGIN時刻は真夜中の三時頃だろうか......
草木が眠る丑三つ時というだけあって、普段は大勢の人間が出入りするこの大学という施設も、日が出るにはまだ少しだけ時間がある今に至っては、僕一人しか居ない状況だった。
しかしながら僕は、真夜中の大学に忍び込んだわけではない。
そもそも大学という施設は、敷地内に入るだけなら、こんな夜中であろうとも普通に出入りができるのだ。
特にこの大学に関していえば、神奈川の横浜近くの某所にキャンパスを構える立地の良さと、そこまで高くない偏差値(まぁそれは学部学科によるが)のおかげで、約一万七千人の学生が在籍している、日本屈指のマンモス校である。
そんな大学だからかもしれないが、住宅街にキャンパスを構える割には、かなり広い敷地面積を誇っているのだ。
だから割と簡単に、夜中に敷地内に入るだけなら、誰でも出来る。
けれどまぁ、ここまで自分が通う大学のことを語っている僕だけど......
わざわざ夜中に、自分が通う大学の敷地内に入っている僕だけど......
別にそこまで、大学という場所が好きであるとか、そういうコトではない。
そもそもまだ、入学して一ヶ月ちょっとしか時間が経っていない今では、嫌いになることもないけれど、好きになることはもっとないのだ。
それでも、わざわざ故郷である九州から、こんな関東の海沿いの街に遥々来て、一人暮らしをしているのだから、嫌でもそのうち、思い出深い場所にはなるのだろう。
そんな風に、僕は大学の施設には入らずに、敷地内をただ散歩していた。
『どうしてそんなことをしていた?』かと聴かれれば、その答えはあまりにも単純で明瞭だ。
要は、『眠れなかった』だけなのだ。
眠れないから、自分が住んでいるアパートの近くを散歩していた。
その散歩のコースに、たまたま大学があっただけなのだ。
まぁ、家から徒歩十分のところに大学があるのだから、そういうこともあるだろう。
だからまぁ、特に何も考えずに、ただ気の向くまま、耳元にはイヤホンで、流行りの音楽を流しながら、歩いていた。
けれど多分、今思い返してみても、それが良くなかったのだ。 気の向くまま歩いた先に、普段使用している八階建ての大学施設があったからか、はたまた耳元に、イヤホンで流行りの音楽を流していたからか......いや、きっとそれらの状況がたまたま、本当に偶然に、重なってしまったからなのだろう。
だから僕は、
どんな風に表現するべきなのだろうか......
明らかに硬い何かが頭を直撃した筈なのに、まるでトマトみたいな柔らかい何かを床に叩き付けたような音と、そういう音には似合わないくらいの......
いや、もしかしたら似合い過ぎているくらいの鈍痛が、僕の頭を中心として、全身に響き渡った。
そしてさらに、これもまた僕の頭を中心としているのだけれど、倒れた際に、僕は大きな血溜りを作っていたのだ。
そして途端に、意識というモノが一気に、遠くの何処かに投げやられてしまったような、そういう感覚になっていく。
そしてそんな感覚の中で、この状況では明らかに不釣り合いな声が、聞こえた気がしたのだ。
「痛ったぁぁ......あぁ、頭が割れたかと思った......」
いや、もしかしたらこれも、釣り合い過ぎている程に釣り合っていたのだろう......
「あれ......まさか......やっちゃってた......?」
そう言いながら、次第に意識が薄れていく僕に近付いて、その声の主は僕に、恐る恐る問い掛ける。
「えっと......もしかしなくても君、今死にそう......だよね......?」
その言葉に、肯定の言葉を返したいけれど、何故だか言葉が出てこない。
「...っ」「あぁ、わかったわかった。喋らないでいいよ......たぶん喋るのもしんどいよね......」
そう言いながら、その声の主は少しだけ考えて、そしてその後に、多分こんなことを独り手に呟いていたような......
そんな気がする。
「仕方ない......か......ほんとうはこういうことはルール違反だけど......でも多分、死ぬよりはいいよね......たぶん......」
そしてその、最後の『たぶん』って言葉を聞いた後に、僕は多分、気を失ってしまったのだろう。
なんせそこからの記憶が、あのときの記憶が、どんなに思い出そうとしても、思い出せないのだ。
けれどまぁ、どんな風に考えても、僕は本来、このときに死んでいた。
考えなくてもわかると思うが、上空からの落下物が、ピンポイントで人間の頭の上に落ちてきて、生きている方がどうかしている。
なんせ落下物は、加速度的に、殺人的に速度を増して、その速度のまま直撃するのだ。
そんなの、戦争映画なんかで見るようなミサイルと、なんら変わらない。
そんなモノ、もしも生きていたら、そいつは人間ではないだろう。
そう、人間ではない。
人間とは違う、明らかに異なった体質でもない限り、死んでいて当然の状況だ。
だから僕は、このとき
次の日、何処かもわからない場所で、僕は目が覚めた。
何処だかわからないというのは、もしかしたら少しだけ、語弊があったのかもしれない。なぜなら目が覚めて、少しだけ時間が経てば、そこが大学の施設の中ということだけは、確信できたからだ。
その理由は、別になんてことはない。
ただ単に、僕が大学の授業の時に、使ったことがあるという、たったそれだけの理由で......
だから端的に言えば、『来たことがある教室だから、知っていた』だけなのだ。
しかしそれでも、どうして自分がこんなところに居るのかは......
どうしてこんな場所で熟睡していたのかは......
それだけはどうしても、わからなかった。「ン......ん?」
なんだろう、なんか妙に、温かい。
いや、温かいのはいいのだ。
なんせ今の僕は、大学内のとある教室に、どこから来たのか分からない毛布に包まって、どこから用意されたのか分からない、真新しい毛布に包まって、寝ているのだから。
だからまぁ、僕の身体がそれなりに温かい状態になっているのは、さして不思議な状況というわけでも、不可解な状況というわけでもない。
だけど不思議なのは......
だけど不可解なのは......
その毛布の中から感じられる『温かさ』が、明らかに人一人分のモノではなくて、明らかに、僕一人分のモノではなくて、もう一体、何かの生き物の体温を感じざる負えないモノだということだ。
なんだろう......一体......
そう思いながら、恐る恐る、その毛布を大きく横に持ち上げる。
それこそ、自分の身体が全て、その毛布から露わになるほどに......
それこそ、確実にその体温の正体を、全て目視で把握することが出来るほどに......
「......えっと......」
「ンー、ん~、んー」
そう言いながら、その露わになった生き物は、完全に寝ぼけながら......
っというよりも、完全に寝ながら、僕にその姿を現したのだ。
そしてその生き物の姿は、年齢で言えば僕と同じか、少し年下くらいの、可憐な女の子の姿をしていた。
しかも何故か、女性の洋服に対して、そこまで造詣があるわけでもない僕がわかる程に、明らかにその女の子は、薄着の格好をしていたのだ。
「んー」
寝ている薄着の女の子に、意を決して話し掛ける。
「あ、あの......」「んー......あと、五分......」
そう言いながら、その少女はまるで、自分の家に居るかのような決まり文句を言いながら、僕が横に持ち上げて退かした毛布を引っ張って、そしてまたそれに包まりながら、こう言ったのだ。
「寒い......」
そりゃ、そんな格好をしていれば寒いだろうに......しかしそれでも、毛布を完全に取られてしまえば、しかもその相手が、薄着の女の子であるというのなら、もう一度その毛布の中に潜り込んでしまうというのは、おそらく......いや、確実にまずいだろう......
もし何かの拍子に気付かれて、叫ばれて、警察でも呼ばれるなんてことがあったら、僕の大学生活は、スタートして間もないこの時期に、早々に色々な意味で終わりを迎えることになる。
今はまだ、四月の下旬で、たしか今日は、ゴールデンウィークの一日目だ。
そう、ゴールデンウィーク。
黄金色に輝く、連休続きの奇跡の期間。
そんな素晴らしい日の一日目に、それはさすがに良くない。
それは......さすがに......
そう思いながら、僕はもう一度、その少女が包まっている毛布に視線を向けた。
別に、おそらく女子大生であろうその薄着の女の子に、何かしらの厭らしい行為をするわけではなく(っというか、そんな度胸があるわけでもなく)、その時にただ、唐突に......
ほんとうに唐突に、昨日のことを思い出したのだ。
「なんで......僕は生きているんだ......」
そう呟きながら、口元を手で抑えながら、自分が呼吸していることを確認して、生きていることを確認する。
そして身体を起こして、立ち上がって、辺りを見回して、やはりそこが何も変わらない、何一つ変哲もない教室だということを確認する。
そしてそこまで確認出来て、目が覚めてこれだけの時間が経過すれば、次第に思考がはっきりとしてくるわけで......
そうなると必然的に、昨日のことを少しづつ、少しづつ、より鮮明に、より明瞭に、思い出すことになる。
それがどんなに......
どんなに、ありえないことだとしても......
どんなに、あってはならないとこだとしても......
根拠は何も無かったけれど、それでもこんなタイミングで、こんな変なことが起きているのだから、やはりこの、毛布に包まっている薄着の少女が、昨日のあの一件に関係している気がしてならなかった。
だから僕は、今度はちゃんと、事情を彼女から聴き出すつもりで......
ちゃんとその少女のことを起こすつもりで......
もう一度その毛布を手に取ろうと、前かがみの態勢になった。
けれどそこで、僕の動きは止まった。
「やぁ、おはよう青年」
そう言いながら、教室の端の席にいつの間にか座りながら、そして何かを口に咥えながら、男はこちらに笑みを浮かべて居た。
音も立てずに現れたその男に、僕は心底驚きながら、しかし声は出してはいけないと思ったから、動きを止めたのだ。
「まったく、ゴールデンウィークの初日から、大学に忍び込んで何か面白いことをやらかしていたようだけれど、一体何をしでかしたのかな?」そう言いながら、その男は座っていた席から立ち上がり、こちらに向かってゆっくりと、ゆっくりと、歩みを進める。
そうなると次第に、外の光が男の姿を照らし出す。
オーバーサイズの黒いTシャツに、黒のスキニーパンツ。
その服装はどこにでもいるような、大人の大学生みたいな人だった。
この大学の、先輩だろうか......
それにしては、何だか妙な雰囲気を持っている人だ......
なんだろう、なんて言えばいいのか、わからないけれど......
そう思いながら、僕は歩み寄って来るその男に向かって、何か言わなくてはいけない気がするから、言葉を紡ごうと努力する。
「あ、あの......」
「あぁ違う違う、僕が尋ねているのは君じゃないよ、青年」
そう言いながら、その男は僕に視線を向けて、静かに微笑をする。
しかしその後、僕の足元で包まって、丸まっている毛布に視線を向けて、まるでさっき僕がしようとしたように、男は徐に、その毛布に手を伸ばす。
しかしその男が手を伸ばした瞬間、その毛布は大きく、包まっていた中身ごと飛び上がって、そしてその教室の、教壇の机の上に降り立ったのだ。
ここで、今僕等がいるこの教室のつくりをザっと説明すると、教壇の部分は少しだけ段差があって、教室全体を広く見渡すことが出来るようになっている。
だから必然的に、その教壇の机の上になんか立っていれば、僕やこの男を含めた、この教室という空間全体を掌握できるし、また僕やこの男も、その毛布で包まったそれを、見失うことは絶対なく、注視することができるのだ。
そしてそうなると、その机の上に立って、包まっていたその毛布を自ら剥ぎ取って、中身である薄着の少女は、その姿を自ら晒す。
外から差し込む朝の光は、暗い教室では、さながらスポットライトのように、彼女を照らす。
露わになった彼女の姿は、特別だった。
最初に毛布を取ったときは、驚きのあまり目に入らなかったけれど、彼女の長い髪は、光に照らされてより一層輝きを増して、煌びやかな深紅が激しく揺らいだ。
そしてその奥に、彼女自身の華奢な身体は、まるで何かのダンスを踊っているかのような、その自ら剥ぎ取った毛布すら、その身のこなしの一部にするような、そんな美しい姿を、僕に見せた。
いや、彼女が見せたというより、僕が魅せられたのだ。
注視することができるその彼女の姿を、少なくとも僕は注目していた。
だから僕は、この後の瞳を開けた彼女の最初の言葉に......
朝の最初に言葉を交わすのなら、割とまともだった筈の彼女の言葉に......
なんて返すのが正解なのか、一瞬だけ戸惑ったのだ。
彼女は僕を見て、こう言った。
「あー、おはよう、夜の人」
『夜の人』というのが、果たして本当に僕のことを指して言っているのか、正直なところ自信はなかったけれど......
しかし確実に、彼女は僕と視線を絡ませながら、その言葉を言っているのだから、きっとそうなのだろうと、そう思った。
だから僕は、当たり前のことだけれど、彼女の言葉に応答したのだ。
「......おはよう......ございます......」
もっと分かりやすく言えば、ただ彼女に、挨拶を返しただけである。
その僕たちの様子を見て、横に居た男は笑い出す。
「ハハッ......まったく、君はどんな風にしていても、やはり華やかに周りを演出してしまうんだね、佐柳ちゃん」
その男の言葉に対して、『佐柳』と呼ばれたその少女は、教壇の机の上に立ったままの状態で言い返す。
「うるさい、専門家。なんで朝の起き抜けに、お前の年齢詐称面を拝まなくちゃいけないんだ。ゴールデンウィークの初日だというのに、これじゃあもう、今日は厄日で決まりじゃないか」
「ひどいな~僕は疫病神か何かなのかい?これでも君が生きやすいように、割と色々、働きかけているつもりなんだけどなぁ~」
そう言いながら、その『専門家』と言われた男は肩をすくめながら、不敵に小さく笑う。
そしてその笑顔のまま、僕の方を見ながらまだ言葉を続ける。
「特に今回のような、君の不注意で招いた事故の後始末は、本来なら僕の仕事ではないんだ。それなのにそれまでやらせておいて、そんな言い方はないんじゃないかい?」
「いいや、むしろ言い足りないくらいだ。普段のアンタの言動と行動が、あれくらいのことでチャラになると思うな!」
そう言いながら、その少女は『専門家』の男のことを睨みつける。
なんだろう、話にまるで入れないし、話がまるで見えてこない......
この二人は、そこまで仲がよくない......っというよりも、『佐柳』と呼ばれている女の子の方が、一方的に嫌っているような、なんだか、そんな風に思える。
けれどここで、この二人の会話をただボーっとして見ているだけには、おそらくいかないと思うから......
だから僕は、意を決して、話に入ろうと試みる。
「あ......あの......」
「ん?」
僕の声に、『専門家』の男が反応する。
「さっきから何の話をしているのか、まるでわからないんですけれど、でもその口ぶりから察するに、あなたは昨日の夜、僕に何があったのかだけは、知っているんですよね?」
その僕の言葉を聞いて、男はニヤリと口元を動かしながら答える。
「あぁ、もちろん知っているよ。なんせ
そう言いながら僕と、その『佐柳』と呼んでいた少女を見比べて、何かを考える素振りをして、わざわざ間を置いて、男はこう言った。
「とりあえず、何か食べようか。目の前のコンビニでも行ってきなよ」
まるで大学生が、友人に言うような言い方で......
「...そうだろうな...きっと、柊ならもっと違った方法で、花影を救ってやれたのかもしれない...けれどさ、やっぱり言いにくいこともあるだろ?信頼しているからこそ、慕っているからこそ、花影にとってそれは、逆に言いにくいことだったんじゃないのかな...」 そう言いながら、僕は昨日の、あの花影の姿を思い出す。 あの狼の姿... そういえば、何かの講義...おそらく教養科目の文学だったかな... その講義で紹介された、あの有名な物語のワンフレーズ。 今思うとあれは、本当のことを言っていたのかもしれない。 だって花影の...あのときの花影の瞳は、たしかに綺麗な翡翠色をしていたように、そう思える。 しかしながら花影、それはハッキリ言って杞憂だよ... 今の僕には、どんなに親しくなろうとも、そんな風に誰かを想える気持ちは、花影のように誰かを想える気持ちは、この身体の影響なのかは知らないけれど、無いのだから。 だからこの、今僕の目の前で、黙り込んで座って居る彼女には、そして今、あのときの僕と同じように、病院のベッドの上で寝ている彼女には、とりあえずは第一に、身体よりも心のケアをして欲しいと、今は切に、そう思うのだ。 「いや~まさか本当に、全て俺が思い描いていた通りの結末になるとは思いもしなかったぜ~なんせこの目は、どんなに覗いても未来だけは、見えようがないからなぁ~」 そう言いながら下柳さんは、仕事場であるテントからは少し離れたところにある、飲み物を買うために向かった、設営されたステージが見える自販機の隣で、相変わらずの表情で、相変わらずの格好で、ピストルをクルクルと回していた。 しかしよく校内に入れたなぁ、この人... ピストル持っているのに... 「まぁでも、あの時は流石に、ビビりましたけどね...」 「あっ?あの時って...?」 「とぼけないで下さい。いくら夜だとはいえあんな住宅街ですることじゃないでしょう?まぁおかげで、花影も助かったんですけど...」 「あっ...なんだそのことか~なんだよ~まさか初めてか~?だったら悪かったなぁ~」 「思ってないでしょ...」 そう言いながら、心底、心の奥からため息をつく。 まったく...やはり異人の専門家という生き物には、今のところロクな者がいない。 そう思いながら、僕はあの夜、住宅街
「まったく...本当に馬鹿よね...」 昨日の事の顛末を聞いた柊は、そう僕に言いながら、何処かの屋台で購入したのであろう焼きそばに、舌鼓を打っていた。 そしてそんな彼女を見ながら、殺されたのは昨日の今日だけど、割と普通に動く身体を使いながら、僕は設営されたテントの下で、仕事をしていた。 ちなみに仕事内容は、来場者数の記録とパンフレットの配布 なので僕と柊は、休憩以外の数時間を、ほとんどこのテントの下で過ごして居るということになる。 まぁでも、休憩時間にはちゃっかりと、こうしてこの文化際を楽しんでいるのだ。 そして僕も、お昼ご飯として購入した焼きそばを食べながら、その彼女の言葉に応える。 「僕もそう思うよ...でもまぁ気持ちは、異人として生きて行かなければならないことを、それを強いられたことに対するアイツの気持ちは、なんとなく、わからなくもないんだよなぁ...」 そう言いながら、焼きそばを食べている僕を見て、また柊は言葉を返す。 「それがわかるのは、荒木君が結果的には沙織と同じ境遇で、それで今も異人であるからでしょう?けれど私は、そのことをとやかく言うわけではないのよ...」 「っというと...?」 「私が言いたいのは、どうして素直に、私を頼ってくれなかったのだろうって...あんな回りくどい事をしなくても、私は...」 そう言って俯きながら、柊の箸が止まる。 けれどもそんな彼女に、僕はそれこそ、わかり過ぎる程にわかるので、応えるのだ。
「だからさぁ、お前のしたことは、どういう理由があろうと、どういう意味があろうと、やってはいけないことなんだ。そんな自分の傷を他人に押し付けるような、そんなズルいこと...誰もしてはいけないし、するべきでもないんだ。だってそれは、紛れもなくお前のモノなんだから。その苦しさも、辛さも、見てられなさも、そんなモノも全部ひっくるめてお前なんだから。だから...」 そう言いながら、僕は一歩、花影に近づく。 「だからさぁ花影...もうこんなことはやめにしろよ。それでももし、誰かにそれをぶつけたくなったなら、そのときは僕にぶつけろよ。そのときは全部、暴言だろうが暴力だろうが、破壊だろうが殺戮だろうが、僕がお前のそれを、受け止めてやるさ」 そう言うと、目の前の、もはや狼と成り果てた彼女は、しかしその姿でもわかる程に、明らかな笑みを浮かべて... そしてこちらに飛びつく気満々に、足や腕、身体全体に力を溜める。 そして... 「へぇーそっかぁ...じゃあ先輩は、私のこの気持ちも、そして壊すことすらも、全部全部、たとえ死んでしまっても、受け止めてくれるんだぁー」 「あぁいいよ。僕でいいなら、僕なんかが役に立つなら、本望さ」 そう言いながら、僕はまるで彼女を受け止める様に両腕を広げる。 その姿を見た彼女はまた、ニヤリッと笑いながら言うのだ。 「そっかぁ...じゃあ...」 そしてその言葉の後に、次の言葉を彼女が言う瞬間、彼女は全部の溜めていた力を開放する。 「死んで」 そしてその言葉の後には、あの大きな、数々の現場に残されていた跡の、彼女の大きな爪が、僕の胸から上を全て薙ぎ払うようにして、放たれた。 そうされて意識が飛ぶ直前、僕の死体からは多量の鮮血が、講堂のあちこちにばらまかれるように、まき散らされて、目の前にある何もかもを、僕の血で汚して... そして月夜に、それは見事に、賢狼は事を成したのだ。
「それなら...わかりますよね...私の気持ちが、こんな姿に、何の前触れもなく成り果てて、もうどうしようもなくなって、それでも好きな人にはちゃんと見て欲しくて、でもその人は別の人と仲良さそうにしていて、それがたまらなく苦しくて、辛くて、見てられなくて、こんな馬鹿なことをしてしまう私の気持ち...あなたになら、わかりますよね?」 そんな風に言いながら、そんな姿に成りながら、それでも縋る様なその言葉に、僕は思いっきり、自分の言葉を彼女にぶつけた。 「わかるよ...わかる。自分がもう、どうしようもない者になってしまった後悔も、それをどうにかしたくてもどうにもならない歯痒さも、痛いほどよくわかる。けれどさぁ花影。そんなの、形や重さは人それぞれなんだろうけれど、みんなが抱えていて、当たり前のモノなんだ」 「当たり前...?」 その疑問符の言葉に対して、僕はさらに言葉を返す。 同じ異人の... 人とは決定的に違ったそれをもつ、そんな僕は、そんな彼女に言葉を紡ぐ。 「あぁ、僕達はこんな...こんなわけもわからない者になってしまったけれど、でもそれを赤の他人にわかってもらおうなんて、最初から無理な話なんだよ。たとえそれが、わかって欲しい大切な人だろうと、それを本当の意味で伝えることは、僕達にはできないんだ」 『できない』と、そう言いきった後に、何故だか僕は、泣きそうな気持ちになってしまう。 しかしそれでも、最後に僕は彼女のしたことを、ちゃんと叱らなければならないのだ。 一足早く異人になった僕には、それを言う義務がある。
そんな僕の言葉に、今度は彼女が鼻で笑いながら、言葉を返す。 「...うそばっかり...さっきはそんなこと、全然言っていなかったじゃないですか...はぁ、どうやら真面目に答えてはくれないようですね...まったく...困った人...それにたった数日交流しただけの人に、先輩面されたくはないモノです...」 「その言葉はブーメランだぜ、花影。僕もたった数日交流しただけの女の子に、後輩面されたくはないな...」 たとえそれが... 「たとえそれが...」 化け物だろうと... 「僕と同じ、異人であろうとさ...」 そう言われた瞬間、花影は不気味に短く、笑い出す。 「...フフッ」 そしてもう、全てを知られていることを悟ったのか、薄い赤渕の眼鏡をとって、そして明らかに、人ではない瞳に、人ではない姿に成り果てて、しかしそれでもハッキリと、柊のときとは違ってハッキリと、彼女の声で僕に言う。 「なーんだ、そういうことですか、荒木さん。あなたも私と同じで、壊れているんですね...」 そう言いながら、月灯りに照らされた彼女は、みるみるうちに狼の姿に姿を変えて、人を捨てていく。 そしてそれを見ながら、僕は自分が思っていたよりも穏やかな声で、彼女に対して言葉を紡ぐ。 「あぁ、そうかもな。僕ももう、お前と同じで人には戻れない様な、そんな者に、なったからさ...」
だからもう、僕はあの暗号には興味を持てないのだ。 たとえ次に、『さ』から始まるサークルが飛ばされて、『し』から始まるサークルが被害を受け、そこで『し』から始まる何かが壊されていようと... たとえ最後の現場で、例の満月カレンダーのような暗号が残されていて、そしてそれが今日の昼間に、全て塗りつぶされた、描かれ切ったそれが、壊された何かに貼られていようと... たとえその紙が、今回の文化際のパンフレットの最後ページの、僕と柊の名前が書かれているページの、コピーだと言われようと... それに十五夜の満月が描かれているということは、きっちりと十五番目まで、最後まで犯人が犯行を成功させたということを、意味していようと... そしてそれらを、全て花影がLINEで、僕と柊に教えてくれようと... もう、その暗号に対する興味も関心も... ついでに言えば、それを逐一LINEで伝える彼女の潔白性すらも... 既に失ってしまっているのだ。 「...なーんだ、もうそこまで、理解しているんですね...」 その彼女の言葉は、まるで取り繕うのをやめたような、それでいてもう、ただ単に話を前に進めたいだけの、そんなテキトウさすら感じてしまうような言葉に、僕は思えた。 「...」 「あれ...でも、じゃあいつから私が、犯人だと気付いていたんですか?」 この彼女の言葉に、僕はさっきまでの自分の言葉を、まるで何もかも忘れているような、そんなテキトウで、しかしながら適当な、そんな言葉で返す。 「最初から、なんとなくは気付いていたさ。僕はお前の先輩なんだぜ。だからお前が、どんなに面倒な手段を取ろうと、どんなに馬鹿げたことをしようと、見誤るわけがなだろう」 そんな僕の言葉に、今度は彼女が鼻で笑いながら、言葉を返す。