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白。白。白。白。白。
目を開けると、何もかもが白かった。
天井、壁、ベッド。高窓から差し込む光さえも、ぼんやりと白い。私はベッドから体を起こした。それだけで一苦労だった。
手足は鉛のように重く、数分かかってようやく上体を起こせた。辺りを見回す。
八、九畳ほどの部屋には、ベッドと机、小さな棚が置いてあるだけだった。
どれも簡素な造りで、一様に白い。ただ一つ、出入り口に嵌めこまれた鉄格子だけが、錆びて黒々としていた。
(……ここは、どこだ?)
もっとよく見ようと、そろりと足を出す。
「……ッ!」
思った以上に力が入らず、そのままベッドから転げ落ちてしまった。
「あいつだっ! あいつだっ!」
突然、向かいの壁の向こうから、ドンドンと壁を叩く音が響いた。
それに重なるように、男の叫び声が上がる。「会わせてくれっ! あいつにっ! お願いだっ!」
激しくなる音と声に、どうしていいかわからない。
私は向かいの壁を見つめたまま、ひたすら息を殺していた。「〇二番! 静かにしないか!」
パタパタと足音がどこからか近づきはじめ、それにつれて男の声がさらに大きくなった。
「お願いだっ! あいつに、会わせてくれっ! 時間がないんだっ!」
「静かにしろと言っている! また絶叫が迸る。
まるで神経をその時、ふと視線を感じた。
顔を上げると、鉄格子の向こうに白衣を着た男が立っていた。「気分は、どうかな?」
周囲の騒音などまるで気にしていない、ゆったりとした声。
灰色の髪。穏やかで深い目。
一瞬、老人のようにも見えたが、実際は若いのかもしれない。 そう思えるほど、子供のように滑らかな肌をしていた。「あぁ、落ちてしまったんだね」
床にへたり込んだ私を見て、白衣の男が小さく笑った。
「怪我はあとで見てあげよう。——鍵を」
後ろで控えていた看護士の男が、すかさず鍵束を取り出した。
ガラガラという音とともに鉄格子が開き、二人の男が中に入ってくる。「さて、ちょっと見せてもらおうかな」
白衣の男が、ベッド脇の丸イスに腰を下ろす。
看護士が私の背後に回り、まるで猫の子を抱き上げるように、ベッドに戻した。すかさず白衣の男は、私の脈をとり、心音を調べ、最後に問いかけてくる。
「君は、ここがどこだかわかるかな?」
私はふるふると首を振った。
「じゃぁ、自分が誰かは……?」
少し考えてみたが、何も思い出せなかった。
再び首を振る私を見て、男は独り言のように呟く。「そうか……やっぱり、記憶をなくしてしまったようだな……」
「記憶……?」訝しげな顔を向けると、相手はにこりと微笑んだ。
「申し送れたね。私は、君の主治医。どうか〝先生〟と呼んでくれ。他の患者やスタッフたちも、そう呼んでいる」
「……〝先生〟?」 「そう、よく出来たね」まるで子供を褒めるかのような言い方だった。
「何か質問があるという顔だね。言ってごらん」
私は躊躇いながらも口を開いた。
「……ここは一体、どこですか?」
「精神病院の閉鎖病棟だよ」〝先生〟はふと、遠くを見やった。
「もう何年になるかな、君がここに来て。君は極度の
考えるまでもなかった。
「……まったく」
「そうか。どうやら完全に忘れてしまっているようだね。仕方がない。あんなことがあったんだから……」 「あんなこと……?」〝先生〟は、痛ましそうに眉を寄せた。
「いずれわかってしまうことだろうから、今のうちに言っておこう。君は二ヶ月前、この病室で自殺未遂を起こしたんだ」
一拍おいて、〝先生〟は言葉を続けた。
「どうやってかはわからないが、保管庫にあった睡眠薬を持ち出してね。幸いにも一命はとりとめたんだが、その代償として──君は二ヶ月間、昏々と眠り続けた」
〝先生〟の声が、静かに落ちる。
「そして目覚めた今、すべての記憶を失っていた。たぶん、薬の副作用だろう。たまにあることなんだ」
〝先生〟は、何でもないことのように言った。
おそらく、私を安心させるためだろう。しかし、これで混乱するなというほうが無理がある。
目が覚めると、そこは精神病院の閉鎖病棟。
自分は長期の入院患者で、しかも自殺未遂まで起こしていた──なんて。(……ダメだ。何も思い出せない)
どうやら私は本当に、記憶をなくしてしまったらしい。
その時、静かになっていた隣の部屋から、再び叫び声が聞こえてきた。
「お願いだっ! 声だけでもいい、聞かせてくれっ!」
私は思わず〝先生〟を窺う。
相手は慣れているのか、まったく動じた様子がない。「あの声のことは気にしないでくれ。隣の房
(ありもしない人……?)
私は、向かいの壁を見た。
そこから聞こえてくる男の声はあまりにも痛切で、とても想像上の存在を呼ぶものとは思えなかった。「——ちょっと失礼」
〝先生〟は席を立つと、鉄格子の外に向かって声をかけた。
「君たち。〇二番を保護房に連れていってくれ。このままでは、耳が壊れそうだ」
「わかりました。今回は何日くらい?」 「二日……いや、一日でいい。頼むね」耳を澄ませていると、隣の鉄格子が開く音が聞こえた。
ついで、ジャラリと鎖を引きずる音。たぶん足枷か何かだろう。「ふ、はははははっ……!」
静寂を破るように、廊下から男の哄笑が届いた。
先ほどの悲痛な絶叫とはまるで違う、心底おかしいとでもいうような声。
狂っているとしか言いようのない、人をどこまでも落ち着かなくさせる笑い声だ。「静かにしろっ! 黙って歩くんだっ!」
壁を大きく叩く音が響いたが、それでも男は笑い続けた。
やがてその声は、重たい扉に吸い込まれるようにして消えていった。「あの人は……どこへ?」
私は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「彼が、気になるかい?」
〝先生〟の瞳は、何かを探ろうとしているかのように静かだった。
「いや、そういう訳じゃ……」
小さく首を振ると、〝先生〟はふっと頬を緩める。
「あの患者は、保護房に行ったんだ。あそこは、病状の落ち着かない患者が行く部屋でね。周囲の喧噪から離れ、静かに神経を休めるには最適だ」
〝先生〟はそこで一拍置くと、さらりと言った。
「〝王様〟は、日頃から問題行動が多くて、頻繁に行ってもらっている」
「……〝王様〟?」 「あぁ、そうか」〝先生〟は、今気づいたというように頷いた。
「この病院では、患者はすべて部屋の番号で呼ばれることになっている。外の情報に煩わされず、治療だけに専念できるようにという配慮だ。今の男は〇二番、そして君は〇一番」
〝先生〟は、私を指さした。
「でも、番号だけじゃ味気ないからね。ここにいる者には皆、あだ名——通り名のようなものがつけられている。患者もスタッフもね。私は〝先生〟。そして、この看護士は〝笑い犬〟」
〝先生〟は、後ろに控えている看護士を横目で見た。
〝笑い犬〟と呼ばれるその男は、無表情のまま小さく頭を下げる。
なぜそんな名がついたのか、わからないほどに、にこりともしない男だった。だが、〝先生〟の後ろに付き従うその姿は、確かに主人に忠誠を尽くす犬を思わせた。
「そして、君は〝人形〟」
〝先生〟が再び、私を指さす。
「〝人形〟……?」
「そう。かつての君は、極度の感情鈍麻——離人症の症状が強くてね。何をしても笑わず、騒がず、驚きもせず、泣きもせず。部屋ではじっと座っているだけで、誰にも何にも興味を示さなかった。そんな君を見て、誰となくそう呼び始めたんだ」〝先生〟は、少しだけ声を和らげて付け加える。
「まぁ、君の顔立ちが人形のように綺麗だった、という意味もあるけどね」
「綺麗……?」自分の顔にそっと手を当てた。
私は一体、どんな顔をしているのだろう。
部屋には鏡ひとつなく、確かめようがない。だがそれ以前に、自分の容姿に興味が湧かなかった。
綺麗でも醜くても、どちらでもいい。感情がないというのは、こういうことかと、初めて実感した。
「私の病気は、重かったんですか……?」
カルテに目を通していた〝先生〟が、顔を上げた。
「昔はね。でも今見る限り、前よりは回復しているようだよ。多少はぼんやりしているが、受け答えもしっかりしているし、自分で動くこともできる」
ちらりと〝先生〟が、私の足元に視線を落とす。
先ほど落ちたときにできた青紫の痣が、足首を彩っていた。「その怪我は、あとで〝笑い犬〟に手当てしてもらいなさい」
〝先生〟は一拍置いて、表情をやわらげる。
「さて……どうやら君は、自殺を試みる前よりも、明らかに離人症の症状が軽くなってきている。たぶん記憶を失ったことで、極度のストレス状態から解放されたのだろう」
少し間をおいて、穏やかに続けた。
「このままの状態を維持できれば、すぐにでも退院──『外』に出ることができる」
「え、『外』に……?」——『外』。
その言葉を聞いた瞬間、胸がどくんと跳ねた。懐かしいような、憧れにも似たような気持ち。
理由はわからないのに、たまらなく惹かれる言葉だった。「君は、『外』には出たいかな?」
こくりと頷くと、〝先生〟はわずかに間を置いてから、勿体ぶるように口を開いた。
「ならば、僕の話をよく聞きなさい」
〝先生〟は、ちらりとカルテに視線を送った。
「今回、君は記憶をなくしたことで、はからずも離人症の症状に改善が見られた。だが、再び記憶が戻れば、以前と同じ状態に逆戻りする可能性がある」
〝先生〟は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「そこでだ。これから君には、記憶をコントロールする治療を受けてもらう。正確には、記憶を完全になくすための治療だ」
「記憶を……完全に? そんなことが出来るんですか?」 「できる。うちの院が独自に開発した技術でね。まだ学術的には認められていないが、非常に高い信頼性がある。もし記憶を完全に封じ込めることができれば——」深く沈んだのち、その声は朗らかさを取り戻す。
「君は、まったく新しい人生を始めることができる。もちろん、『外』にも出られる」
〝先生〟の目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「どうだい。やってみる気はあるか?」
答えは、考えなくとも決まっていた。
「やります。やらせて下さい」
「そうか、よかった」〝先生〟はホッと息を吐き、猫背ぎみの背筋を伸ばした。
「では今後、僕の指示には必ず従ってもらうよ。——どんなことであろうとね」
そう言って、〝先生〟の口元がわずかに緩んだ。
「ただし、治療以外は好きな場所で、好きに過ごしていい。病院内なら、どこへ行ってくれても構わない。色々と巡ってみるといいよ。一応、ここは君が長年過ごした場所だからね」
〝先生〟の口調が、わずかに探るようなものに変わる。
「もし歩き回っても、何も思い出さなければ、治療はすでに半分成功していると言ってもいいだろう。そうすれば『外』に出られる日も近づく。それと——」
〝先生〟の視線が、鉄格子の外へ向けられた。
「ここには他の患者もいる。彼らは一風変わっていてね。会ってはいけないとは言わないが、あまり刺激はしてやらないでくれ。何かあったら大変だから」
〝先生〟は、後ろの看護師にちらりと視線を向けた。
「念のために、〝笑い犬〟を護衛につけよう。彼は最近まで、〇三番のところにいたが、そちらの症状も落ち着いてきたところだ。いい看護師だから、色々と面倒を看てもらうといい」
そう言って、〝先生〟は椅子を引いて立ち上がった。
「さて、今日はここまでだ。さっそく〝笑い犬〟に、院内を案内してもらうといい。……そうそう、言い忘れていたけれど——」
声のトーンが、急に冷たく引き締まる。
「くれぐれも、変な気は起こさないように」
その言葉の裏にあるものは明白だった。
彼は警戒している。私が再び、自殺を試みるのではないかと。
〝笑い犬〟をつけるのも、護衛ではなく——監視の意味合いが強いのだろう。(……でも、何でもいい。『外』に出られるのなら)
昔の自分が、なぜ死を選ぼうとしたのかはわからない。
だが、今の私が願うことはただ一つ——。『外』に出たい。
生まれる前から願い続けてきたかのような、抗いがたい希求。
この願いを叶えるためだったら、〝先生〟の言うことは何でも聞く。「はい、〝先生〟。貴方の言うとおりにします」
そう言うと、〝先生〟は満面の笑みを浮かべる。
「よし、いい子だ」
診察室のドアを開ける。 中は暗く、〝先生〟の姿もなかった。当然だ。 今日は週に一度の、『外』の学会に出かける日。 さっき、広間の窓から彼が病院を出て行くのを確認したばかりだ。普段通りなら、夜までは戻らないだろう。物音を立てぬよう注意しながら、〝先生〟のデスクに近づく。 一つ一つ、引き出しを開けて、中を確認していく。欲しいのはカルテだった。私と〝王様〟の。 それを見れば、何か思い出せるかもしれない。自分が何者なのか、なぜここにいるのか。 ——そして〝王様〟のことも。「……あった!」デスクの上にある書類立ての中から、見覚えのあるファイルを見つけた。 診察の時、〝先生〟が記入していたものだ。 表紙には『NO.01』と記されている。緊張に息を詰め、一呼吸おいてから、ファイルを開く。 中には、数字や英字が羅列されたカルテと、二枚の写真が挟まれていた。一枚は少年、もう一枚は青年が写っている。 似た面立ちから察するに、同一人物なのだろう。どちらも、口元ひとつ動いておらず、冷めきった表情をしている。 カメラを見ていながらも、まるで心をどこかに置き忘れたかのような、虚ろな目。(もしかして、これが……私?)初めて見るはずの自分の顔なのに、それ以上の興味は湧かなかった。 『NO.01』のファイルを閉じ、その場にそっと置いた。〝王様〟のカルテも探す。 だが、どこにも、見当たらなかった。デスク、棚、引き出し。 ありとあらゆるところを探す。 けれど、〝王様〟──どころか、他の患者のファイルすら存在しない。(どうゆうことだ……?)不可解な胸騒ぎが拭えず、私は診察室の中を改めて見回した。目に飛び込んできたのは、デスクの背後──特別な治療室へと続く一枚の扉だった。(……もしかした
そう言ったきり、隣の部屋からは物音一つ聞こえてこなかった。寝てしまったのかと思い、私は壁を小さく叩いた。「どうした?」少し間を置いて、優しく静かな声が返ってくる。これまで以上に穏やかな声に、目の奥から何かがこみ上げてきそうになる。「泣くな」〝王様〟が言った。私は慌てて手の甲で目元を拭う。「泣いて、ない……私は、泣き方を知らないんだ」「あぁ、そうだったな。〝人形〟も、確かそう言っていた」しばしの静寂のあと、〝王様〟は妙に確信めいた声で続けた。「でも大丈夫だ。お前も、いつか泣ける日が来る。そのときは思いっきり泣け。今までの分まで」言い終えてから、〝王様〟は小さく笑った。「……馬鹿だな、俺は。泣くなって言ったり、泣けって言ったり。これじゃ、まるで〝さかさま〟だな」低い笑い声を聞いていたら、私はどうしても聞かずにはいられなかった。「〝人形〟は貴方に優しかった……?」しばしの沈黙のあと、〝王様〟はぽつりぽつりと語り出した。「そうだな。けど最初に会ったときは……俺も他の連中と同じで、なんて冷たい奴だと思ったよ」彼はゆっくりと言葉をつなぐ。「でも、それは間違いだった。あいつの腕は……温かかった。俺は、あの温もりがあったから……今もこうして、なんとか正気を保っていられるんだ」当時を懐かしんでいるのか、〝王様〟の声は遠くかすんでいた。その声音に、不思議と昨日感じたような苛立ちも焦燥感も覚えなかった。逆に、〝人形〟に感謝したくなるほどだった。この先の見えない閉鎖病棟で、どこか寂しげな〝王様〟の心を救ったのが〝人形〟だったなんて。冷酷だと言われていた彼が。──〝人形〟は、どんな人だったのだろう
どちらも、信じてはいけないのだ。 これは、すべて〝王様〟の罠なのだから。そうわかっているはずなのに、なぜか彼を信じてしまいそうになる。 信じたいと思ってしまう。この感情は、一体どこから来るものなのか──。私はその答えを探すように、壁に指を這わせた。すぐ向こうに〝王様〟がいる。 そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。昼間のあの絶叫を聞いた私にとって、彼が無事でここにいることは、まるで奇跡のようだった。(ほんと、何なんだ……)苦笑いが、こみ上げてくる。 あんなことをされたというのに、〝王様〟があの責め苦に耐え、戻ってきてくれたことに、私は──安堵していた。「……ありがとう、〝王様〟……」心の中で思っていた言葉が、ポロリと口からこぼれてしまった。「は?」 〝王様〟がガタリと腰を上げたのがわかった。「お前……何を言っているんだ? 俺がお前に何をしたのか覚えていないのか?」 「でも、さっき……助けてくれただろう?」 「……あのな」〝王様〟が呆れたように大きく息を吐く。「助けられたら、何をされてもチャラになるのか」壁の向こうから聞こえるその声音は、あきれ返ったというより、呆然としているようだった。 しかめっ面をしているだろう顔が、手に取るように浮かぶ。「ぼおっとするのも大概にしろよ。お前は前からそうだった。異常に頭はいいくせに、変なところで抜けてるんだよ」くどくどと言い募る〝王様〟の声に、思わずぷっと吹き出してしまった。 すぐに、むっとした声が返ってくる。「おい、笑いごとじゃないぞ。冗談抜きで言ってるんだ。お前は緊張感がなさすぎる」その語調は、いつになく真剣だった。「今の〝笑い犬〟の件でも、よくわかっただろ? ここにいる誰のことも、信じちゃいけない。もちろん、俺のこともだ」 「……どうして?」問いか
「そいつに、触るな」〝王様〟の低く静かな一声。 その瞬間、ナイフを私に押し当てていた〝笑い犬〟の手がわずかに揺らぐ。「なっ、命令するなっ……貴方の言うことを聞く道理はない!」 「そう思うか? だが、これは命令だ」〝王様〟の声が一段と冷え込む。「俺は知っているんだぞ。昨日、そいつの房の鍵を開けておいたのは、お前だろう?」〝笑い犬〟がはっと息を飲む。 その沈黙を縫うように、〝王様〟の声が続いた。「一体、そいつに何をするつもりだったんだ?」〝王様〟の声は一瞬だけ揺らぎ、ほんの間を置いてから、元の冷えた調子へと戻った。「目隠しや、手錠なんか持って。〝先生〟殿にお預けでもくらって、我慢できなくなったのか?」〝笑い犬〟は、グッと口をつぐんだ。 ナイフの先が震え、私の肌を小刻みにかすめていく。 その間にも、〝王様〟の淡々とした声が響き渡っていた。「だが、それが〝先生〟にバレたらどうなる? お前は看護士の任を解かれ、患者に逆戻りだ」一拍置いて、〝王様〟は続ける。「そうしたら——〝人形〟。お前の、敬愛するご主人様のそばに、もう、いられなくなるぞ」王様の声が響くたび、ナイフの先がさらに震え、私の肌に、かすかな痛みが走る。 念を押すような低い声が、壁の向こうから落ちてきた。「……それでも、いいのか?」 「……くっ」笑い犬〟の顔に、動揺が走った。 決めかねるように、私と向かいの壁とをちらちら見比べる。そこへ、〝王様〟がさらに追い打ちをかけた。「それが嫌なら、さっさと小屋に帰るんだな。ワン公。もう一度言ってやろうか? お前の部屋は俺の隣──〇三号室だ」 「……〝王、様〟っ……!」怒りに震えながら、〝笑い犬〟はギッと壁を睨みつけた。 だがナイフを持つ手には、もはや何の力も残っていなかった。「どうした〝笑い犬〟? ハウ
※暴力/脅迫/加害表現を含みます。私の全身を舐め回すように見ていた〝笑い犬〟の視線が、あるところで止まった。「──この髪、邪魔ですね。〝人形〟は、こんなに長くはなかった。いっそのこと、切ってしまいましょう」ナイフの刃が、私の襟足にあてられた。ビクリと、身体が電流に打たれたように反応する。「い、嫌だっ……! やめろっ……!」私はナイフを奪おうと手を伸ばした。怪我することなど、一瞬たりとも頭に浮かばなかった。ただ、守りたかった。あの日、〝王様〟がここに優しく触れた──その記憶を。「檻に戻れ! 〝笑い犬〟!」突然、隣の部屋からドンッと壁を叩く音が響いた。びくりと〝笑い犬〟の身体が痙攣し、信じられないものを見るかのように向かいの壁を凝視する。「この声……まさか、〝王様〟……!? いや、そんなはずはない……貴方はあの治療で気を失って、二、三日は目を覚まさないって〝先生〟が……」「そりゃ、残念だったな。お前の〝先生〟も、たまには間違うってことさ」かすれたせせら笑いに、〝笑い犬〟の顔が赤く染まる。だが、〝王様〟が苦しげに咳き込むと、彼はほっと息をついた。「なんだ、やっぱり〝先生〟は正しかったようですね。驚かせないでください。気丈に振る舞っても無駄ですよ? 声が震えていますから」「黙れ、〝笑い犬〟。無駄吠えしていないで、そろそろ自分の犬小屋に戻ったらどうだ?」途切れ途切れではあったが、〝王様〟の声は自信と軽蔑に満ちていた。 「まさか、興奮しすぎて忘れたってわけじゃないよな? それなら教えてやろうか。お前の部屋は──」「言うなっ……!」〝笑い犬〟がギクリとして、下に横たわる私の方を見た。「ふん。どうした? 〝笑い犬〟──いや、〇三番。お前の病室は俺の隣、〇三号室だろ?」「……〇三番?」私は〝笑い犬〟を見上げた。相手の顔はみるみるうちに赤くなり、身体が小刻みに震え出す。「それ以上、言うなっ……! この人に!」「なぜだ? いつかわかることだろう?」〝王様〟の声は冷ややかだった。「お前が、人を痛めつけるのも、痛めつけられるのも大好きな、性的異常者だってことがな」キーンと耳鳴りがするほどの静寂の中、〝王様〟の声だけが響く。「お堅そうなフリをしたって無駄だ。『外』でさんざんイタズラをして、更生不可能の性犯罪者としてここに移送され
※暴力/流血/脅迫表現を含みます。あの時は、確かに誰にも見られていないはずだった。「いいから答えてくださいっ、どうして、どうして……!?」肩を揺さぶられ、言葉にならないまま息を呑む。「……ッ、わ、わからない……自分でも……なんで、あんなことをしたのか……」ぴたりと〝笑い犬〟の手が止まった。「……〝王様〟だな」伏せた口元から、低い唸り声が漏れる。「〝王様〟のせいだろうっ! いつもそうだ! あなたはなぜ、あんな人の言うことを信じるんですっ!?」肩を揺さぶってくる手の力が増す。「あの人は狂ってるんだ! どうして、それがわからない!? 昨日だって、あんな目に遭ったのに!」〝笑い犬〟の口ぶりは、まるで昨日、〝王様〟と私の間に何があったのかを知っているかのようだった。(もしかして、見られていたのか? あれを……?)顔がカッと熱くなる。 それを見て、ピクリと〝笑い犬〟の眉がつり上がる。ドン、と私の顔の横のシーツに拳が叩きつけられた。「どうして……! どうして、あなたにそんな顔をさせるのは、〝王様〟だけなんだ!」〝笑い犬〟は私の髪を掴み上げると、顔をさらに近づけた。「貴方は〝人形〟だ。人を人とも思わず、顔色一つ変えることなく精神を解剖し、切り刻む冷酷無比な〝人形〟」薄闇の中、〝笑い犬〟の目は血走り、白目がぎらりと底光りして見えた。「私は貴方がずっと、憎くて仕方がなかった。あのすました顔を、グチャグチャに歪ませてみたかった。泣き叫ぶ顔、恥辱にまみれた顔を、見てみたかった……」顔の間近まで迫った〝笑い犬〟の呼吸が、頬にかかる。 その息づかいは、嗚咽のようでもあり、ひきつった笑いのようでもあった。「でも、あの頃——それができたのは〝先生〟だけだった。だから私は、〝先生〟の側についた。……それなのに」ごくりと息を飲む音が、やけに大きく響いた。「〝王