LOGIN「髪はどうしますか?」
シャツに手を通していた時、手伝ってくれていた〝笑い犬〟が尋ねてきた。
「髪? あぁ——」
二ヶ月間、眠り続けていたせいで、私の髪は肩のあたりまで伸びていた。
「どうしたらいいのだろう?」
「そうですね。明日は理容師が来る日です。必要であれば手配しておきますが」 「そう。じゃぁ、お願いしようかな」 「かしこまりました」馬鹿みたいに丁寧な口調だった。これでは患者と看護士というより、まるで主人と付き人だ。
短く刈り込まれた髪。寸分の乱れもない制服。勤勉そのものの顔つき。
彼はきっと、どの患者に対しても同じように接しているのだろう。 誰にでも、平等に、機械的に。「どうかな、変ではない?」
着替えを終えた私は、〝笑い犬〟に尋ねた。
開襟シャツにネルのズボン。
これは、患者全員に支給されている服だ。きっと以前の私もこれを着ていたのだろう——そのはずなのに、どこか居心地の悪さを感じた。
「えぇ、お似合いです。貴方は、何を着ても綺麗だ」
〝笑い犬〟が、熱っぽい吐息をもらす。
思いがけない反応に戸惑っていると——「……ッ!」
冷たいものが、手首に触れた。
見ると、〝笑い犬〟が私の手首に手錠をかけていた。「すみません。外に出る時は、こうするのが規則なので」
それを言われては反論できない。
私は黙って、もう片方の手首にかかる手錠を見つめた。その時——ふいに見てしまった。
手錠の鍵がかかる瞬間、〝笑い犬〟の口元が一瞬、ひくりと引き攣ったのを。(……気のせいか)
出かける準備を続ける〝笑い犬〟の瞳には、もはや感情の片鱗すら残っていなかった。
私は、今見たことを忘れることにして、用意された車椅子に乗り込む。
寝たきりだった私の体は、もはや自力で動けないほどに衰えていた。
リハビリは午後から始まるらしく、それまでは車椅子で院内を回るしかない。〝笑い犬〟に車椅子を押してもらい、病室の外へ出る。
モルタル張りの廊下の両側には、いくつもの
廊下の先には、厳重な金属製の二重扉がそびえていた。
〝笑い犬〟が立ち止まり、いくつか説明を始めた。
「この閉鎖病棟には、全部で六つの病室があります。貴方がいるのは、出入り口から見て一番奥の左側、〇一号室。右手奥が〇五号室です」
「へぇ。じゃあ、〇四号室がないわけだ」 「どうして、そう思ったのです?」相手の問いに、私は小さく首を傾げた。
「〝先生〟との会話の中で、〇二と〇三号室の存在は確認できている。そして、私の向かいが〇五号室なら……番号の並びから考えて、〇四号室は存在しない。ということだろう?」
〝笑い男〟が、感心したように頷いた。
「さすが〝人形〟ですね。以前の貴方も感情表現には乏しかったですが、その分、知能や判断能力はずば抜けていた。〝先生〟も、貴方のことを一目置いておられましたよ」
思い出したように、〝笑い犬〟は付け加える。
「〇四号室がないのは、よくある迷信によるものです。
〝笑い犬〟が、向かいの部屋を指さした。
「貴方の部屋の向かい──〇五号室の住人は、〝眠り男〟と呼ばれています。彼は重度の睡眠障害を患っていて、名前の通り、いつも寝ています」
〝笑い犬〟は淡々とした口調で続けた。
「時々、夢遊病で夜に棟内を歩き回ることがありますが、放っておいてください。歩き回るだけで害はありませんし、自分で部屋に戻りますから」
そこで一度、言葉を切り、視線を私に向ける。
「逆に、夢遊状態の時に無理に閉じ込めると暴れ出すので、夜間だけは鍵を開けてあるんです。普段は木訥で、大人しい青年なんですけどね」
次に〝笑い犬〟は、〇六号室を指さした。
「ここの住人は〝さかさま〟といって——」
その時、二重扉の方から、ヒャハハと甲高い声が響いてきた。
診察帰りなのだろうか。
手錠をはめたのっぽの男が、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと歩いてくる。 付き添っている看護師も、必死で後を追っていた。「ちょうどいい。あれが〝さかさま〟です」
後ろから、〝笑い犬〟が耳打ちしてきた。
「アレッ!? 何だ〝人形〟じゃんかよォ〜久しぶりだなッ!」
〝さかさま〟と呼ばれた男が、私の存在に気づき、駆け寄ってくる。
馴れ馴れしい態度で、身を乗り出してきた。「なぁなぁ、記憶をなくしたってホント? 俺のことは覚えてるぅ?」
「……いや、すまないが」 「ウッソだろうぅ! あんなに仲良かったのにぃ!? ひど~いっ!」〝さかさま〟は、わざとらしくおいおいと泣き出した。
だが、その口元は楽しげに、にやにやと笑っている。「……私は、君と仲が良かったの?」
「は?」その瞬間、〝さかさま〟の声が低くなった。
顔に、すっと暗い影がさす。「そんな訳ないだろう? 誰がそんなこと言ったんだよ? 俺とお前が仲良いわけないじゃん。だってお前は——」
〝さかさま〟は途中で何かを思い出したのか、再び陽気な口調に戻る。
「そっかぁ! 今日、〝王様〟が暴れたのって、お前が戻ったからかぁっ! ……ん? いや、違うな。〝王様〟はいっつも暴れてるんだったっ! ヒャハハハッ!」
腹を抱えて笑い出す〝さかさま〟に、私は戸惑うしかなかった。
「そうだ」と言ったり、「そうじゃない」と言ったり。 一体、どっちが本当なのか。だが、それよりも気になるのは——。
「〝王様〟って——」
「あれぇ、知らないのぉ? 〝王様〟は〝王様〟だよ。でも本当は、〝王様〟は〝王様〟じゃないんだぜぇ!」……やはり、よくわからない。
その後も〝さかさま〟は、意味不明なことをペチャクチャと喋り続けた。
そして、ひとしきり騒いだら満足したのか、来たときと同じように唐突に、自分の
「〝さかさま〟の話を真面目に聞かない方がいいですよ」
呆然としていた私の車椅子を押しながら〝笑い犬〟が言った。
「〝さかさま〟には虚言癖があり、何が本当で、何が嘘か分かりません。というより、すべてが作り話なのかもしれません」
平坦な声が廊下に響く。
「躁うつ病も抱えていて、躁状態の時はずっと喋り続けています。けれど、うつになると部屋に閉じこもり、狂言自殺まで企てることがある」
車椅子の車輪が静かに床を軋ませる。
「その度に、スタッフ総出での騒ぎになるんです」
〝笑い犬〟は、まるでカルテを読み上げるように語った。
「〝さかさま〟と呼ばれているのも、彼が毎日その日の気分で性格がコロコロ変わるからです」
車椅子が、〇六号室の前を通り過ぎた。
中では〝さかさま〟が、壁に向かって大声でペチャクチャと話しかけていた。「あっちは……?」
向かいの部屋を指さすと、〝笑い犬〟が苦々しげな声を出す。
「あそこは、〇二号室。〝王様〟の部屋です」
「〝王様〟って……さっき叫んでいた?」 「えぇ。ちなみに〝王様〟と呼び始めたのは、〝さかさま〟なんです。彼は〝王様〟のことを慕っていますから。曰く、〝王様〟こそ、この閉鎖病棟の王。つまり狂人の王だと」 「狂人の王……?」 「はい。〝王様〟は、この病棟で最も深刻な症状を抱える重症患者です。多くの精神疾患を併発していて、特に厄介なのが——あの癇性と凶暴性」〝笑い犬〟の手が、車椅子のハンドルをグッと握りしめる。
「〝王様〟は些細なきっかけで暴れ出し、意味不明なことを叫んでは、手当たり次第に物を壊す。スタッフに手を上げたことも、何度もあります」
〝笑い犬〟は、ふうと息をついた。
「ひとたび興奮状態に陥ると、もう誰にも止められません。疲れ果てるまで、狂ったように暴れ続けるのです」
〝笑い犬〟は、一拍おいてから低く言った。
「〝さかさま〟に深い意図があったわけではないでしょうが、〝王様〟という名は案外、
そして、固い表情で言葉を締めくくった。
「いいですか? 〝王様〟は、大変危険です。絶対に、彼には近づかないで下さい」
〝笑い犬〟の声が、ぐっと低くなる。
「万一、そのような状況になってしまったら、すぐに呼んでください。私が、貴方を守ります」
※
初夏の風にのって、甘やかな薫香が舞う。
一通り院内を見て回った私は、最後に庭に出てみることにした。
玄関を一歩出た瞬間、目の前に広がる光景に思わず息を呑む。ロータリーの向こうには、見渡す限りのバラ園があった。
「この病院では、患者の心を癒す目的で、千株以上のバラが植えられているんです」
〝笑い犬〟が、花の間をぬって車椅子を押す。
赤、白、黄、ピンク、絞り模様。
限りなく青に近いラベンダー色まで——バラ園では様々な色と形の花が、朝の光を受けて、今を盛りと咲き誇っていた。
まるで夢のような景色だった。
——ただし、その先に見える厳重な門と有棘鉄線さえなければ、の話だが。「どうです、見事でしょう?
〝笑い犬〟の口調は、どこか他人事のようだった。
「確かに、綺麗だね」
私は頷いた。だが、内心では何も思っていなかった。
どれだけ多くの花を見ようと、心は何も感じない。
美しいとも、懐かしいとも思えない。——何も、湧いてこない。
考えてみれば、おかしな話だ。
ここに来るまで院内を一通り見て回ってきたはずなのに、何一つとしてピンとくるものがなかった。私は、こう思わずにはいられなかった。
——本当に、自分は、ここに住んでいたのか……?
「あら」
その時、不意にガサリと葉が揺れる音がした。
一人の少女が、バラの茂みから姿を現す。長い黒髪に、黒い瞳。
セーラー服に包まれたその身体は、バラの新芽のようにしなやかだった。「こんにちは、〝笑い犬〟さん。〝人形〟さん」
こちらに気がついた少女が、茂みをかき分けやってくる。
棘のことなど、まるで意に介さない大胆な足取り。案の定、彼女の剥き出しの手足には、いくつもの傷があった。
だが本人は気にするそぶりも見せず、にこやかに近づいてくる。「お久しぶり、〝人形〟さん。目が、醒めたのね?」
少女は、私の前で背をかがめ、顔を覗き込んできた。
(この人、どこかで……)
一瞬、胸の奥がぐらりと揺れた。
不安になった私は、そっと後ろに目を向ける。視線に気づいた〝笑い犬〟が、少女を手で示した。
「彼女は、このバラ園の世話をしている
真面目くさった言い方に、樒がクスクスと笑い声をたてた。
「いやだ。世話といっても、大層なことをしているわけじゃないのよ。水やりと芽かきくらいしか、お父様は任せてくれないもの」
「お父様……?」 「えぇ、私は〝先生〟の娘なの。——と言っても、養女だけれど。ここには、『外』から通ってきているの。バラの世話のためにね」 「『外』から……? あぁ、だから名前が」 「そう。この病院の中で、本名で呼ばれてるのは、たぶん私だけ。まあ、私もいつか、あだ名で呼ばれるようになるのかもしれないけど」 「樒さん、何を——」これには、さすがの〝笑い犬〟も、困った顔を浮かべた。
「冗談よ」
樒はからかうように言うと、そばに咲いていたバラの花を手折り、私に差し出した。
「再会の印に。あなたが良くなって、早くここから出られますように」
「……ありがとう」花を受け取る。
ちらりと見た樒の腕には、無数の傷跡があった。 すべてバラの棘でついたものだろう。 なまじ肌が白いだけに、その傷はことさら痛々しく映った。「その傷——」
顔を上げたときには、樒の姿はすでに、バラの茂みの奥に消えていた。
※ 午後のリハビリを終えた私は、病室のベッドの上でぼんやりしていた。ここにいる人間は、みんな、どこか変だ。
患者だけではない。
〝先生〟や〝笑い犬〟、果ては『外』から来ている樒という少女まで。でも、何よりも奇妙なのは——。
私は、隣の病室の気配を窺った。
何の物音もしない。 〝王様〟は、まだ保護房にいるのだろう。『会わせてくれっ! あいつにっ!』
今朝、壁越しに聞こえた悲痛な叫び声が蘇る。
その声を思い出すと、無性に落ち着かなくなるのは、なぜだろう。
頭がギリギリと軋み、胸の中まで圧迫されているような気分になる。これが、恐怖というものなのか。
それとも、不安?感情の乏しい私には、名付けようがなかった。
ただひとつ、『外』という言葉を聞いたときに感じた、あの希望に満ちた感覚とはまるで違う、ということだけは確かだった。
——もしかしたら私は、以前、〝王様〟と何かあったのかもしれない。
そこまで考えて、思考を止めた。
思い出さない方がいい。
〝先生〟は言っていたではないか。
記憶を取り戻せば、私はまた以前の〝人形〟に逆戻りしてしまう、と。——そんなのは、嫌だ。
私は、思考を遮るように、ゆっくりと目を閉じた。診察室のドアを開ける。 中は暗く、〝先生〟の姿もなかった。当然だ。 今日は週に一度の、『外』の学会に出かける日。 さっき、広間の窓から彼が病院を出て行くのを確認したばかりだ。普段通りなら、夜までは戻らないだろう。物音を立てぬよう注意しながら、〝先生〟のデスクに近づく。 一つ一つ、引き出しを開けて、中を確認していく。欲しいのはカルテだった。私と〝王様〟の。 それを見れば、何か思い出せるかもしれない。自分が何者なのか、なぜここにいるのか。 ——そして〝王様〟のことも。「……あった!」デスクの上にある書類立ての中から、見覚えのあるファイルを見つけた。 診察の時、〝先生〟が記入していたものだ。 表紙には『NO.01』と記されている。緊張に息を詰め、一呼吸おいてから、ファイルを開く。 中には、数字や英字が羅列されたカルテと、二枚の写真が挟まれていた。一枚は少年、もう一枚は青年が写っている。 似た面立ちから察するに、同一人物なのだろう。どちらも、口元ひとつ動いておらず、冷めきった表情をしている。 カメラを見ていながらも、まるで心をどこかに置き忘れたかのような、虚ろな目。(もしかして、これが……私?)初めて見るはずの自分の顔なのに、それ以上の興味は湧かなかった。 『NO.01』のファイルを閉じ、その場にそっと置いた。〝王様〟のカルテも探す。 だが、どこにも、見当たらなかった。デスク、棚、引き出し。 ありとあらゆるところを探す。 けれど、〝王様〟──どころか、他の患者のファイルすら存在しない。(どうゆうことだ……?)不可解な胸騒ぎが拭えず、私は診察室の中を改めて見回した。目に飛び込んできたのは、デスクの背後──特別な治療室へと続く一枚の扉だった。(……もしかした
そう言ったきり、隣の部屋からは物音一つ聞こえてこなかった。寝てしまったのかと思い、私は壁を小さく叩いた。「どうした?」少し間を置いて、優しく静かな声が返ってくる。これまで以上に穏やかな声に、目の奥から何かがこみ上げてきそうになる。「泣くな」〝王様〟が言った。私は慌てて手の甲で目元を拭う。「泣いて、ない……私は、泣き方を知らないんだ」「あぁ、そうだったな。〝人形〟も、確かそう言っていた」しばしの静寂のあと、〝王様〟は妙に確信めいた声で続けた。「でも大丈夫だ。お前も、いつか泣ける日が来る。そのときは思いっきり泣け。今までの分まで」言い終えてから、〝王様〟は小さく笑った。「……馬鹿だな、俺は。泣くなって言ったり、泣けって言ったり。これじゃ、まるで〝さかさま〟だな」低い笑い声を聞いていたら、私はどうしても聞かずにはいられなかった。「〝人形〟は貴方に優しかった……?」しばしの沈黙のあと、〝王様〟はぽつりぽつりと語り出した。「そうだな。けど最初に会ったときは……俺も他の連中と同じで、なんて冷たい奴だと思ったよ」彼はゆっくりと言葉をつなぐ。「でも、それは間違いだった。あいつの腕は……温かかった。俺は、あの温もりがあったから……今もこうして、なんとか正気を保っていられるんだ」当時を懐かしんでいるのか、〝王様〟の声は遠くかすんでいた。その声音に、不思議と昨日感じたような苛立ちも焦燥感も覚えなかった。逆に、〝人形〟に感謝したくなるほどだった。この先の見えない閉鎖病棟で、どこか寂しげな〝王様〟の心を救ったのが〝人形〟だったなんて。冷酷だと言われていた彼が。──〝人形〟は、どんな人だったのだろう
どちらも、信じてはいけないのだ。 これは、すべて〝王様〟の罠なのだから。そうわかっているはずなのに、なぜか彼を信じてしまいそうになる。 信じたいと思ってしまう。この感情は、一体どこから来るものなのか──。私はその答えを探すように、壁に指を這わせた。すぐ向こうに〝王様〟がいる。 そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。昼間のあの絶叫を聞いた私にとって、彼が無事でここにいることは、まるで奇跡のようだった。(ほんと、何なんだ……)苦笑いが、こみ上げてくる。 あんなことをされたというのに、〝王様〟があの責め苦に耐え、戻ってきてくれたことに、私は──安堵していた。「……ありがとう、〝王様〟……」心の中で思っていた言葉が、ポロリと口からこぼれてしまった。「は?」 〝王様〟がガタリと腰を上げたのがわかった。「お前……何を言っているんだ? 俺がお前に何をしたのか覚えていないのか?」 「でも、さっき……助けてくれただろう?」 「……あのな」〝王様〟が呆れたように大きく息を吐く。「助けられたら、何をされてもチャラになるのか」壁の向こうから聞こえるその声音は、あきれ返ったというより、呆然としているようだった。 しかめっ面をしているだろう顔が、手に取るように浮かぶ。「ぼおっとするのも大概にしろよ。お前は前からそうだった。異常に頭はいいくせに、変なところで抜けてるんだよ」くどくどと言い募る〝王様〟の声に、思わずぷっと吹き出してしまった。 すぐに、むっとした声が返ってくる。「おい、笑いごとじゃないぞ。冗談抜きで言ってるんだ。お前は緊張感がなさすぎる」その語調は、いつになく真剣だった。「今の〝笑い犬〟の件でも、よくわかっただろ? ここにいる誰のことも、信じちゃいけない。もちろん、俺のこともだ」 「……どうして?」問いか
「そいつに、触るな」〝王様〟の低く静かな一声。 その瞬間、ナイフを私に押し当てていた〝笑い犬〟の手がわずかに揺らぐ。「なっ、命令するなっ……貴方の言うことを聞く道理はない!」 「そう思うか? だが、これは命令だ」〝王様〟の声が一段と冷え込む。「俺は知っているんだぞ。昨日、そいつの房の鍵を開けておいたのは、お前だろう?」〝笑い犬〟がはっと息を飲む。 その沈黙を縫うように、〝王様〟の声が続いた。「一体、そいつに何をするつもりだったんだ?」〝王様〟の声は一瞬だけ揺らぎ、ほんの間を置いてから、元の冷えた調子へと戻った。「目隠しや、手錠なんか持って。〝先生〟殿にお預けでもくらって、我慢できなくなったのか?」〝笑い犬〟は、グッと口をつぐんだ。 ナイフの先が震え、私の肌を小刻みにかすめていく。 その間にも、〝王様〟の淡々とした声が響き渡っていた。「だが、それが〝先生〟にバレたらどうなる? お前は看護士の任を解かれ、患者に逆戻りだ」一拍置いて、〝王様〟は続ける。「そうしたら——〝人形〟。お前の、敬愛するご主人様のそばに、もう、いられなくなるぞ」王様の声が響くたび、ナイフの先がさらに震え、私の肌に、かすかな痛みが走る。 念を押すような低い声が、壁の向こうから落ちてきた。「……それでも、いいのか?」 「……くっ」笑い犬〟の顔に、動揺が走った。 決めかねるように、私と向かいの壁とをちらちら見比べる。そこへ、〝王様〟がさらに追い打ちをかけた。「それが嫌なら、さっさと小屋に帰るんだな。ワン公。もう一度言ってやろうか? お前の部屋は俺の隣──〇三号室だ」 「……〝王、様〟っ……!」怒りに震えながら、〝笑い犬〟はギッと壁を睨みつけた。 だがナイフを持つ手には、もはや何の力も残っていなかった。「どうした〝笑い犬〟? ハウ
※暴力/脅迫/加害表現を含みます。私の全身を舐め回すように見ていた〝笑い犬〟の視線が、あるところで止まった。「──この髪、邪魔ですね。〝人形〟は、こんなに長くはなかった。いっそのこと、切ってしまいましょう」ナイフの刃が、私の襟足にあてられた。ビクリと、身体が電流に打たれたように反応する。「い、嫌だっ……! やめろっ……!」私はナイフを奪おうと手を伸ばした。怪我することなど、一瞬たりとも頭に浮かばなかった。ただ、守りたかった。あの日、〝王様〟がここに優しく触れた──その記憶を。「檻に戻れ! 〝笑い犬〟!」突然、隣の部屋からドンッと壁を叩く音が響いた。びくりと〝笑い犬〟の身体が痙攣し、信じられないものを見るかのように向かいの壁を凝視する。「この声……まさか、〝王様〟……!? いや、そんなはずはない……貴方はあの治療で気を失って、二、三日は目を覚まさないって〝先生〟が……」「そりゃ、残念だったな。お前の〝先生〟も、たまには間違うってことさ」かすれたせせら笑いに、〝笑い犬〟の顔が赤く染まる。だが、〝王様〟が苦しげに咳き込むと、彼はほっと息をついた。「なんだ、やっぱり〝先生〟は正しかったようですね。驚かせないでください。気丈に振る舞っても無駄ですよ? 声が震えていますから」「黙れ、〝笑い犬〟。無駄吠えしていないで、そろそろ自分の犬小屋に戻ったらどうだ?」途切れ途切れではあったが、〝王様〟の声は自信と軽蔑に満ちていた。 「まさか、興奮しすぎて忘れたってわけじゃないよな? それなら教えてやろうか。お前の部屋は──」「言うなっ……!」〝笑い犬〟がギクリとして、下に横たわる私の方を見た。「ふん。どうした? 〝笑い犬〟──いや、〇三番。お前の病室は俺の隣、〇三号室だろ?」「……〇三番?」私は〝笑い犬〟を見上げた。相手の顔はみるみるうちに赤くなり、身体が小刻みに震え出す。「それ以上、言うなっ……! この人に!」「なぜだ? いつかわかることだろう?」〝王様〟の声は冷ややかだった。「お前が、人を痛めつけるのも、痛めつけられるのも大好きな、性的異常者だってことがな」キーンと耳鳴りがするほどの静寂の中、〝王様〟の声だけが響く。「お堅そうなフリをしたって無駄だ。『外』でさんざんイタズラをして、更生不可能の性犯罪者としてここに移送され
※暴力/流血/脅迫表現を含みます。あの時は、確かに誰にも見られていないはずだった。「いいから答えてくださいっ、どうして、どうして……!?」肩を揺さぶられ、言葉にならないまま息を呑む。「……ッ、わ、わからない……自分でも……なんで、あんなことをしたのか……」ぴたりと〝笑い犬〟の手が止まった。「……〝王様〟だな」伏せた口元から、低い唸り声が漏れる。「〝王様〟のせいだろうっ! いつもそうだ! あなたはなぜ、あんな人の言うことを信じるんですっ!?」肩を揺さぶってくる手の力が増す。「あの人は狂ってるんだ! どうして、それがわからない!? 昨日だって、あんな目に遭ったのに!」〝笑い犬〟の口ぶりは、まるで昨日、〝王様〟と私の間に何があったのかを知っているかのようだった。(もしかして、見られていたのか? あれを……?)顔がカッと熱くなる。 それを見て、ピクリと〝笑い犬〟の眉がつり上がる。ドン、と私の顔の横のシーツに拳が叩きつけられた。「どうして……! どうして、あなたにそんな顔をさせるのは、〝王様〟だけなんだ!」〝笑い犬〟は私の髪を掴み上げると、顔をさらに近づけた。「貴方は〝人形〟だ。人を人とも思わず、顔色一つ変えることなく精神を解剖し、切り刻む冷酷無比な〝人形〟」薄闇の中、〝笑い犬〟の目は血走り、白目がぎらりと底光りして見えた。「私は貴方がずっと、憎くて仕方がなかった。あのすました顔を、グチャグチャに歪ませてみたかった。泣き叫ぶ顔、恥辱にまみれた顔を、見てみたかった……」顔の間近まで迫った〝笑い犬〟の呼吸が、頬にかかる。 その息づかいは、嗚咽のようでもあり、ひきつった笑いのようでもあった。「でも、あの頃——それができたのは〝先生〟だけだった。だから私は、〝先生〟の側についた。……それなのに」ごくりと息を飲む音が、やけに大きく響いた。「〝王