LOGIN「髪はどうしますか?」
シャツに手を通していた時、手伝ってくれていた〝笑い犬〟が尋ねてきた。
「髪? あぁ——」
二ヶ月間、眠り続けていたせいで、私の髪は肩のあたりまで伸びていた。
「どうしたらいいのだろう?」
「そうですね。明日は理容師が来る日です。必要であれば手配しておきますが」 「そう。じゃぁ、お願いしようかな」 「かしこまりました」馬鹿みたいに丁寧な口調だった。これでは患者と看護士というより、まるで主人と付き人だ。
短く刈り込まれた髪。寸分の乱れもない制服。勤勉そのものの顔つき。
彼はきっと、どの患者に対しても同じように接しているのだろう。 誰にでも、平等に、機械的に。「どうかな、変ではない?」
着替えを終えた私は、〝笑い犬〟に尋ねた。
開襟シャツにネルのズボン。
これは、患者全員に支給されている服だ。きっと以前の私もこれを着ていたのだろう——そのはずなのに、どこか居心地の悪さを感じた。
「えぇ、お似合いです。貴方は、何を着ても綺麗だ」
〝笑い犬〟が、熱っぽい吐息をもらす。
思いがけない反応に戸惑っていると——「……ッ!」
冷たいものが、手首に触れた。
見ると、〝笑い犬〟が私の手首に手錠をかけていた。「すみません。外に出る時は、こうするのが規則なので」
それを言われては反論できない。
私は黙って、もう片方の手首にかかる手錠を見つめた。その時——ふいに見てしまった。
手錠の鍵がかかる瞬間、〝笑い犬〟の口元が一瞬、ひくりと引き攣ったのを。(……気のせいか)
出かける準備を続ける〝笑い犬〟の瞳には、もはや感情の片鱗すら残っていなかった。
私は、今見たことを忘れることにして、用意された車椅子に乗り込む。
寝たきりだった私の体は、もはや自力で動けないほどに衰えていた。
リハビリは午後から始まるらしく、それまでは車椅子で院内を回るしかない。〝笑い犬〟に車椅子を押してもらい、病室の外へ出る。
モルタル張りの廊下の両側には、いくつもの
廊下の先には、厳重な金属製の二重扉がそびえていた。
〝笑い犬〟が立ち止まり、いくつか説明を始めた。
「この閉鎖病棟には、全部で六つの病室があります。貴方がいるのは、出入り口から見て一番奥の左側、〇一号室。右手奥が〇五号室です」
「へぇ。じゃあ、〇四号室がないわけだ」 「どうして、そう思ったのです?」相手の問いに、私は小さく首を傾げた。
「〝先生〟との会話の中で、〇二と〇三号室の存在は確認できている。そして、私の向かいが〇五号室なら……番号の並びから考えて、〇四号室は存在しない。ということだろう?」
〝笑い男〟が、感心したように頷いた。
「さすが〝人形〟ですね。以前の貴方も感情表現には乏しかったですが、その分、知能や判断能力はずば抜けていた。〝先生〟も、貴方のことを一目置いておられましたよ」
思い出したように、〝笑い犬〟は付け加える。
「〇四号室がないのは、よくある迷信によるものです。
〝笑い犬〟が、向かいの部屋を指さした。
「貴方の部屋の向かい──〇五号室の住人は、〝眠り男〟と呼ばれています。彼は重度の睡眠障害を患っていて、名前の通り、いつも寝ています」
〝笑い犬〟は淡々とした口調で続けた。
「時々、夢遊病で夜に棟内を歩き回ることがありますが、放っておいてください。歩き回るだけで害はありませんし、自分で部屋に戻りますから」
そこで一度、言葉を切り、視線を私に向ける。
「逆に、夢遊状態の時に無理に閉じ込めると暴れ出すので、夜間だけは鍵を開けてあるんです。普段は木訥で、大人しい青年なんですけどね」
次に〝笑い犬〟は、〇六号室を指さした。
「ここの住人は〝さかさま〟といって——」
その時、二重扉の方から、ヒャハハと甲高い声が響いてきた。
診察帰りなのだろうか。
手錠をはめたのっぽの男が、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと歩いてくる。 付き添っている看護師も、必死で後を追っていた。「ちょうどいい。あれが〝さかさま〟です」
後ろから、〝笑い犬〟が耳打ちしてきた。
「アレッ!? 何だ〝人形〟じゃんかよォ〜久しぶりだなッ!」
〝さかさま〟と呼ばれた男が、私の存在に気づき、駆け寄ってくる。
馴れ馴れしい態度で、身を乗り出してきた。「なぁなぁ、記憶をなくしたってホント? 俺のことは覚えてるぅ?」
「……いや、すまないが」 「ウッソだろうぅ! あんなに仲良かったのにぃ!? ひど~いっ!」〝さかさま〟は、わざとらしくおいおいと泣き出した。
だが、その口元は楽しげに、にやにやと笑っている。「……私は、君と仲が良かったの?」
「は?」その瞬間、〝さかさま〟の声が低くなった。
顔に、すっと暗い影がさす。「そんな訳ないだろう? 誰がそんなこと言ったんだよ? 俺とお前が仲良いわけないじゃん。だってお前は——」
〝さかさま〟は途中で何かを思い出したのか、再び陽気な口調に戻る。
「そっかぁ! 今日、〝王様〟が暴れたのって、お前が戻ったからかぁっ! ……ん? いや、違うな。〝王様〟はいっつも暴れてるんだったっ! ヒャハハハッ!」
腹を抱えて笑い出す〝さかさま〟に、私は戸惑うしかなかった。
「そうだ」と言ったり、「そうじゃない」と言ったり。 一体、どっちが本当なのか。だが、それよりも気になるのは——。
「〝王様〟って——」
「あれぇ、知らないのぉ? 〝王様〟は〝王様〟だよ。でも本当は、〝王様〟は〝王様〟じゃないんだぜぇ!」……やはり、よくわからない。
その後も〝さかさま〟は、意味不明なことをペチャクチャと喋り続けた。
そして、ひとしきり騒いだら満足したのか、来たときと同じように唐突に、自分の
「〝さかさま〟の話を真面目に聞かない方がいいですよ」
呆然としていた私の車椅子を押しながら〝笑い犬〟が言った。
「〝さかさま〟には虚言癖があり、何が本当で、何が嘘か分かりません。というより、すべてが作り話なのかもしれません」
平坦な声が廊下に響く。
「躁うつ病も抱えていて、躁状態の時はずっと喋り続けています。けれど、うつになると部屋に閉じこもり、狂言自殺まで企てることがある」
車椅子の車輪が静かに床を軋ませる。
「その度に、スタッフ総出での騒ぎになるんです」
〝笑い犬〟は、まるでカルテを読み上げるように語った。
「〝さかさま〟と呼ばれているのも、彼が毎日その日の気分で性格がコロコロ変わるからです」
車椅子が、〇六号室の前を通り過ぎた。
中では〝さかさま〟が、壁に向かって大声でペチャクチャと話しかけていた。「あっちは……?」
向かいの部屋を指さすと、〝笑い犬〟が苦々しげな声を出す。
「あそこは、〇二号室。〝王様〟の部屋です」
「〝王様〟って……さっき叫んでいた?」 「えぇ。ちなみに〝王様〟と呼び始めたのは、〝さかさま〟なんです。彼は〝王様〟のことを慕っていますから。曰く、〝王様〟こそ、この閉鎖病棟の王。つまり狂人の王だと」 「狂人の王……?」 「はい。〝王様〟は、この病棟で最も深刻な症状を抱える重症患者です。多くの精神疾患を併発していて、特に厄介なのが——あの癇性と凶暴性」〝笑い犬〟の手が、車椅子のハンドルをグッと握りしめる。
「〝王様〟は些細なきっかけで暴れ出し、意味不明なことを叫んでは、手当たり次第に物を壊す。スタッフに手を上げたことも、何度もあります」
〝笑い犬〟は、ふうと息をついた。
「ひとたび興奮状態に陥ると、もう誰にも止められません。疲れ果てるまで、狂ったように暴れ続けるのです」
〝笑い犬〟は、一拍おいてから低く言った。
「〝さかさま〟に深い意図があったわけではないでしょうが、〝王様〟という名は案外、
そして、固い表情で言葉を締めくくった。
「いいですか? 〝王様〟は、大変危険です。絶対に、彼には近づかないで下さい」
〝笑い犬〟の声が、ぐっと低くなる。
「万一、そのような状況になってしまったら、すぐに呼んでください。私が、貴方を守ります」
※
初夏の風にのって、甘やかな薫香が舞う。
一通り院内を見て回った私は、最後に庭に出てみることにした。
玄関を一歩出た瞬間、目の前に広がる光景に思わず息を呑む。ロータリーの向こうには、見渡す限りのバラ園があった。
「この病院では、患者の心を癒す目的で、千株以上のバラが植えられているんです」
〝笑い犬〟が、花の間をぬって車椅子を押す。
赤、白、黄、ピンク、絞り模様。
限りなく青に近いラベンダー色まで——バラ園では様々な色と形の花が、朝の光を受けて、今を盛りと咲き誇っていた。
まるで夢のような景色だった。
——ただし、その先に見える厳重な門と有棘鉄線さえなければ、の話だが。「どうです、見事でしょう?
〝笑い犬〟の口調は、どこか他人事のようだった。
「確かに、綺麗だね」
私は頷いた。だが、内心では何も思っていなかった。
どれだけ多くの花を見ようと、心は何も感じない。
美しいとも、懐かしいとも思えない。——何も、湧いてこない。
考えてみれば、おかしな話だ。
ここに来るまで院内を一通り見て回ってきたはずなのに、何一つとしてピンとくるものがなかった。私は、こう思わずにはいられなかった。
——本当に、自分は、ここに住んでいたのか……?
「あら」
その時、不意にガサリと葉が揺れる音がした。
一人の少女が、バラの茂みから姿を現す。長い黒髪に、黒い瞳。
セーラー服に包まれたその身体は、バラの新芽のようにしなやかだった。「こんにちは、〝笑い犬〟さん。〝人形〟さん」
こちらに気がついた少女が、茂みをかき分けやってくる。
棘のことなど、まるで意に介さない大胆な足取り。案の定、彼女の剥き出しの手足には、いくつもの傷があった。
だが本人は気にするそぶりも見せず、にこやかに近づいてくる。「お久しぶり、〝人形〟さん。目が、醒めたのね?」
少女は、私の前で背をかがめ、顔を覗き込んできた。
(この人、どこかで……)
一瞬、胸の奥がぐらりと揺れた。
不安になった私は、そっと後ろに目を向ける。視線に気づいた〝笑い犬〟が、少女を手で示した。
「彼女は、このバラ園の世話をしている
真面目くさった言い方に、樒がクスクスと笑い声をたてた。
「いやだ。世話といっても、大層なことをしているわけじゃないのよ。水やりと芽かきくらいしか、お父様は任せてくれないもの」
「お父様……?」 「えぇ、私は〝先生〟の娘なの。——と言っても、養女だけれど。ここには、『外』から通ってきているの。バラの世話のためにね」 「『外』から……? あぁ、だから名前が」 「そう。この病院の中で、本名で呼ばれてるのは、たぶん私だけ。まあ、私もいつか、あだ名で呼ばれるようになるのかもしれないけど」 「樒さん、何を——」これには、さすがの〝笑い犬〟も、困った顔を浮かべた。
「冗談よ」
樒はからかうように言うと、そばに咲いていたバラの花を手折り、私に差し出した。
「再会の印に。あなたが良くなって、早くここから出られますように」
「……ありがとう」花を受け取る。
ちらりと見た樒の腕には、無数の傷跡があった。 すべてバラの棘でついたものだろう。 なまじ肌が白いだけに、その傷はことさら痛々しく映った。「その傷——」
顔を上げたときには、樒の姿はすでに、バラの茂みの奥に消えていた。
※ 午後のリハビリを終えた私は、病室のベッドの上でぼんやりしていた。ここにいる人間は、みんな、どこか変だ。
患者だけではない。
〝先生〟や〝笑い犬〟、果ては『外』から来ている樒という少女まで。でも、何よりも奇妙なのは——。
私は、隣の病室の気配を窺った。
何の物音もしない。 〝王様〟は、まだ保護房にいるのだろう。『会わせてくれっ! あいつにっ!』
今朝、壁越しに聞こえた悲痛な叫び声が蘇る。
その声を思い出すと、無性に落ち着かなくなるのは、なぜだろう。
頭がギリギリと軋み、胸の中まで圧迫されているような気分になる。これが、恐怖というものなのか。
それとも、不安?感情の乏しい私には、名付けようがなかった。
ただひとつ、『外』という言葉を聞いたときに感じた、あの希望に満ちた感覚とはまるで違う、ということだけは確かだった。
——もしかしたら私は、以前、〝王様〟と何かあったのかもしれない。
そこまで考えて、思考を止めた。
思い出さない方がいい。
〝先生〟は言っていたではないか。
記憶を取り戻せば、私はまた以前の〝人形〟に逆戻りしてしまう、と。——そんなのは、嫌だ。
私は、思考を遮るように、ゆっくりと目を閉じた。※「〝人形〟さん」軽やかな声が響く。「お兄様が言付けをしてきたの。この薬を飲んで、あなたが仮死状態になっている間に、逃げ道を確保するって」ベッドに座った私の前で、樒が錠剤の瓶を差し出した。その眉はきつく顰められ、いかにも私たちを案じているようだった。瓶を握る手も、小刻みに震えている。しかし、私は気づいていた。彼女の言葉は矛盾だらけだ。穴だらけで風が通り抜けるような内容を、古典文学めいた大仰な枕詞で包み込んでいるだけに過ぎない。(しかし……)私は自分の手のひらにのった錠剤の瓶を見やった。元々は自室だった一号室。今の私は、そこに軟禁されている。脱出計画が〝先生〟にばれ、〝王様〟とは隔離された。私が〝王様〟を電気治療にかけなければ、ここからは出られない。そして〝王様〟も、私から電気治療を受けない限り、『外』には出られない。残された道は──もう、一つしかなかった。(でも、これなら……)白い錠剤。瓶に印字された英字。この薬が開発された際の治験報告が、頭に甦る。──過剰摂取による、精神の乖離。もし私が〝王様〟への想い──恋心というのだろうか?──を失ってしまえば、〝先生〟はもう彼に執着しなくなるかもしれない。そして、〝王様〟も私を気にかけることなく、一人でここを出ていけるかもしれない。(いや、もしかして──)そこで、考えるのをやめた。すでに離人症を患っている私が、この薬を飲んでどうなるかはわからない。可能性は未知数だ。それでも、今はこれに賭けるしかなかった。道は、すでに閉ざされているのだから。どうせ歩むのなら、この白い檻よりも、黒く先の見えない道を選びたい。ふっと、うな垂れた白バラの姿が、一滴の雫のように脳裏へ落ちた。(あの花は、どうなっ
てっきり脱出に使える情報──〝先生〟の目の届かない逃げ道でも見つけたのだと思っていた。私たちは今、脱出経路を確保するため、それぞれが空いた時間を見つけては院内を探り歩いている。 もちろん、〝先生〟に気付かれぬよう、そっと。──二人で一緒に、『外』に行くこと。その思いだけが、私たちを突き動かしていた。〝王様〟の治療──という名の実験を通して、私は『外』の世界に興味を抱くようになった。街、電車、行き交う人々、学校、広がる畑、大きな空。 〝王様〟の口から語られる光景は、なぜかすべてが輝いて見えた。今までどんな本を読んでも、そんな気持ちにはならなかったのに。 彼の言葉を通して見る『外』の世界は──光に満ちていた。だからこそ、私は『外』へ行きたかった。 『外』は、本当にそれほどまでに輝かしいものなのか。それとも、私にとって輝かしいのは──別のものなのか。「〝王様〟。こんな無駄なことを報告する暇があったら──」私の不満を嗅ぎ取ったのか、〝王様〟が「そう、怒るな」となだめてくる。「……怒ってない。そんな感情は、私にはない」きっぱりと言うと、〝王様〟はふっとバラへ顔を向けた。「いずれ——お前にも、わかるよ。きっと……」遠い目をしながら、〝王様〟は白い花弁を見やる。「こんなところでも、綺麗なものは咲くんだな……」──綺麗なもの?私は、〝王様〟の指に挟まれた花弁を見つめた。 その指の間で、喉を鳴らす猫のように揺れるバラの花弁。なぜか、胸の奥にちりっとした苛立ちが走った。「どうせ、そのうち枯れる。こんな日の当たらない場所では」花を横目に見やり、私は平坦な声で言った。「そんなにそれが好きなら、持っていけばいい。枯れる前に鑑賞してやるのが、花の用途だろう?」〝王様〟は反論もせず、静かに頷いた。「でも、今はこうして生きている。こんな中でも。……このまま咲かせてやろう」
——舞台は、私が目覚める数ヶ月前——春先の庭園。 まだ肌寒さの残る風が、わずかに膨らんだバラの蕾をやわらかく揺らしている。「こっちだ」庭園の一角。 有刺鉄線を覆い隠す梢のそばで、〝王様〟が手を差し伸べてきた。 私は、ためらいなくその手を取った。〝王様〟の口元が、ゆるやかに弧を描く。 これは、人が嬉しいときに浮かべる「笑顔」というものらしい。——そんなことを実感したのは、彼と会ってから初めてだった。この閉鎖病棟の患者は、日中なら病棟内を自由に出歩ける。 〝王様〟も最近は『実験』に協力的で、問題行動もないため、他の患者と同じ扱いを受けていた。〝先生〟の目を盗んで、こうして庭園を連れ立って歩くこともできる。「お前に、見せたいものがあるんだ」案内されたのは、病棟の裏手にある古びた温室の前だった。 鍵は壊れていて、誰も管理していない。「ここは……」私はつぶやいた。温室の存在自体は知っていたが、特に興味も用事もなかったため、これまで入ったことはなかった。「逃げ道を探しているときに、偶然見つけたんだ。昔は誰かが手入れをしていたのかもしれない」〝王様〟は私の手を引き、補強用のベニア板のすき間から身を滑り込ませた。砂の積もった床。割れたガラス壁。 朽ち果て、無造作に転がった鉢植えの植物たち──「これだ」〝王様〟は奥の一角にある花鉢を指さした。 そこにあったのは、一株の白いバラだった。茎は乾燥しきって茶色く退色し、葉もすべて落ちている。 しかし、その中で一枝だけが——花を咲かせていた。「変だろ? まだバラの季節でもないのに」〝王様〟は鉢の前に屈み込み、柔らかに咲いた花弁に指先で触れた。「狂い咲き、って言うんだっけか? こういうのを」 「……いや」私は首を振る。「それはオールドローズ——古来種の系統だから、この時期に咲いて
「ただいま」相手の肩にそっと触れると、〝王様〟は数秒してから、ゆっくりと顔を上げた。 長い睫毛の奥で瞬いた目が私を見つめ、こくんと頷く。彼の症状は、少しずつ──だが確実に、良くなってきている。病院を抜け出してから、はじめは、言葉どころかこちらを見ることさえなかった。それが今では、わずかに視線を交わし、時おりではあるが、自分の意思を伝えようとする素振りも見せる。ふと、私は〝王様〟の膝に置かれたバラに目を留めた。 花びらがまだ開き切っていない、五分咲き。「それ、どこから取ってきたんだ?」私が尋ねると、彼は庭の一角を指さした。そこには、小さなバラの茂みがある。 私が休日に世話をしている、ワイルドローズなどの素朴で強い品種だ。一ヶ月前はこぼれるほどの花を咲かせていた。 けれどもう花の時期は過ぎ、茎は剪定してある。「……落ちて、いた」思わず、〝王様〟の方に目を向ける。 彼の口から自然な言葉が出たのは、久しぶりだった。普段は何も喋らず、こうして一日中、海を眺めているだけ。 反応を見せたとしても、私の言葉に頷くか、首を振る程度だ。(どうやら、今日は調子がいいみたいだ)私は彼の隣に腰を下ろし、白いバラへと視線を向ける。 咲ききる前に落ち、花壇の角に紛れていたのだろう。外側の花びらは塩風にさらされ、かさついていた。 けれど中心は、まだ瑞々しい色を残している。──生きているのだ。茎を離れ、地に落ちても。「強いな……その花は」思わず漏れた私の独り言に、〝王様〟がそっと手を動かした。 枯れた外側の花びらを丁寧に剥ぎ取り、残った蕾を私の白衣のポケットに差し込む。「あれ……」一瞬、何かの光景が脳裏をかすめた。 だが、その感覚はすぐに波が引くように消えてしまった。私が横を向くと、〝王様〟はもう正面を向き、海を眺めていた。
あれから半年が経った。海辺の町にある小さな診療所。 その一室で、私は薄曇りの海を眺めていた。「雨が降りそうだねぇ」穏やかな声が聞こえて振り返ると、院長が資料室から出てきた。 白髪の頭をポリポリと掻きながら、ぼんやりとつぶやく。「本田さんのカルテが見つからないんだ。どこにやったっけ?」 「それなら、デスクの上に出してありますよ」診察台の横にあるデスクを指さすと、院長は声を上げた。「そうだった、そうだった。僕が用意しておいてって言ったんだった」院長はパタパタとつっかけの音を鳴らし、カルテを手に取った。 私は苦笑する。今、私はこの小さな医院のアシスタントとして働いている。 診療所の院長は気さくな老医師で、〝先生〟の名前を使った偽装の紹介文だけで、私を信用してくれた。週に数日、受付や記録の整理、時には簡単な診察補助も任されている。毎朝決まった時間に始まる静かな仕事。 人の少ない、小さな町。——穏やかな時間。私は最近ようやく、それを実感できるようになった。全てが、以前とは大違いだ。その時、手入れの行き届いた診療室の窓から、空を飛ぶカモメの声が届いた。 穏やかだが、絶え間ない波の音。(……彼も、今この音を聞いているだろうか)ふいにその姿が見たくなり、私は外履きのサンダルをつっかけた。「ちょっと、休憩に行ってきます」 「はいはい、そんなに急いで戻ってこなくてもいいからね」デスクに座った老院長が、窓の外を眺めながらぼやく。「天気予報によると、嵐になりそうだから。午後は誰も来ないでしょう」私は微笑んで頷き、正面玄関から外へ出た。医院の横には、雑草の生い茂った小道がある。 背の高い雑草に覆われ、一見すると道があるようには見えない。しかし、その先を進むと──私たちが暮らす借家がある。(……〝私たち〟)
「ふふ、ふはははっ……!」たまらず、笑いがこぼれた。まだ──まだ残っていた。 〝王様〟の中に、かつての欠片が。私は鉄格子を握る拳に額を押しつけ、静かに微笑んだ。(すべて、計画通りだ)あの夜、保護房の中で、私は夜明けまで考え続けた。 考えに考え抜いた。どうすれば〝王様〟と引き離されずに済むか。 〝人形〟のように終わらずに済むか。〝人形〟は感情に呑まれ、我を失い、信じるべきでないものを信じたすえ—— 〝王様〟の手を離してしまった。でも私は違う。 同じ想いを抱いていたとしても、私の頭は残酷なほどに冷静だった。いくら時間がかかってもかまわない。 確実に、逃げ切る方法を──そう考え続けた末に、思いついた。 このシナリオを。忠実なフリをして〝先生〟の信頼を得て、彼が油断したその隙に、すべてを奪う。相手は、あの〝先生〟だ。 人に希望を与え、絶望へ突き落とすことにおいて、彼に勝る者はいない。 だからこそ、徹底的に信じさせなければならなかった。あの時、〝先生〟の手を取り、〝王様〟に電気治療を施したのも──そのためだ。彼は、気づいているだろうか? 私がその機械に、ほんのわずかな細工を施していたことを。おかげで〝王様〟は、完全な廃人にはならなかった。 発作を起こすだけの感情の残滓も、留めることができた。今、彼に与えている薬も同じだ。 ごくわずかに配合を変えて、少しずつ、ほんの少しずつ、彼の心が戻ってくるよう仕向けている。細工をするのは、簡単だった。 なぜなら、あの装置もこの薬も、元々は私が開発したものなのだから。〝先生〟程度の知能では、変わっていることにすら気づかないだろう。(本当に、愚かな男だ)〝先生〟は信じ切っているのだ。 〝王様〟のそばにいられれば、それで私が満足すると。『最後まで冷酷になりきれない』 それが、彼自