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2話

last update Last Updated: 2025-11-10 19:22:52

「髪はどうしますか?」

シャツに手を通していた時、手伝ってくれていた〝笑い犬〟が尋ねてきた。

「髪? あぁ——」

二ヶ月間、眠り続けていたせいで、私の髪は肩のあたりまで伸びていた。

「どうしたらいいのだろう?」

「そうですね。明日は理容師が来る日です。必要であれば手配しておきますが」

「そう。じゃぁ、お願いしようかな」

「かしこまりました」

馬鹿みたいに丁寧な口調だった。これでは患者と看護士というより、まるで主人と付き人だ。

短く刈り込まれた髪。寸分の乱れもない制服。勤勉そのものの顔つき。

彼はきっと、どの患者に対しても同じように接しているのだろう。

誰にでも、平等に、機械的に。

「どうかな、変ではない?」

着替えを終えた私は、〝笑い犬〟に尋ねた。

開襟シャツにネルのズボン。

これは、患者全員に支給されている服だ。

きっと以前の私もこれを着ていたのだろう——そのはずなのに、どこか居心地の悪さを感じた。

「えぇ、お似合いです。貴方は、何を着ても綺麗だ」

〝笑い犬〟が、熱っぽい吐息をもらす。

思いがけない反応に戸惑っていると——

「……ッ!」

冷たいものが、手首に触れた。

見ると、〝笑い犬〟が私の手首に手錠をかけていた。

「すみません。外に出る時は、こうするのが規則なので」

それを言われては反論できない。

私は黙って、もう片方の手首にかかる手錠を見つめた。

その時——ふいに見てしまった。

手錠の鍵がかかる瞬間、〝笑い犬〟の口元が一瞬、ひくりと引き攣ったのを。

(……気のせいか)

出かける準備を続ける〝笑い犬〟の瞳には、もはや感情の片鱗すら残っていなかった。

私は、今見たことを忘れることにして、用意された車椅子に乗り込む。

寝たきりだった私の体は、もはや自力で動けないほどに衰えていた。

リハビリは午後から始まるらしく、それまでは車椅子で院内を回るしかない。

〝笑い犬〟に車椅子を押してもらい、病室の外へ出る。

モルタル張りの廊下の両側には、いくつものぼうが並んでいた。

どれも似たような造りで、必ず鉄格子が嵌められている。

廊下の先には、厳重な金属製の二重扉がそびえていた。

〝笑い犬〟が立ち止まり、いくつか説明を始めた。

「この閉鎖病棟には、全部で六つの病室があります。貴方がいるのは、出入り口から見て一番奥の左側、〇一号室。右手奥が〇五号室です」

「へぇ。じゃあ、〇四号室がないわけだ」

「どうして、そう思ったのです?」

相手の問いに、私は小さく首を傾げた。

「〝先生〟との会話の中で、〇二と〇三号室の存在は確認できている。そして、私の向かいが〇五号室なら……番号の並びから考えて、〇四号室は存在しない。ということだろう?」

〝笑い男〟が、感心したように頷いた。

「さすが〝人形〟ですね。以前の貴方も感情表現には乏しかったですが、その分、知能や判断能力はずば抜けていた。〝先生〟も、貴方のことを一目置いておられましたよ」

思い出したように、〝笑い犬〟は付け加える。

「〇四号室がないのは、よくある迷信によるものです。を連想させるので、患者の中にはそういったことを極端に気にする者もいますから」

「ここには、一体どうゆう人たちがいるんだい?」

〝笑い犬〟が、向かいの部屋を指さした。

「貴方の部屋の向かい──〇五号室の住人は、〝眠り男〟と呼ばれています。彼は重度の睡眠障害を患っていて、名前の通り、いつも寝ています」

〝笑い犬〟は淡々とした口調で続けた。

「時々、夢遊病で夜に棟内を歩き回ることがありますが、放っておいてください。歩き回るだけで害はありませんし、自分で部屋に戻りますから」

そこで一度、言葉を切り、視線を私に向ける。

「逆に、夢遊状態の時に無理に閉じ込めると暴れ出すので、夜間だけは鍵を開けてあるんです。普段は木訥で、大人しい青年なんですけどね」

次に〝笑い犬〟は、〇六号室を指さした。

「ここの住人は〝さかさま〟といって——」

その時、二重扉の方から、ヒャハハと甲高い声が響いてきた。

診察帰りなのだろうか。

手錠をはめたのっぽの男が、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと歩いてくる。

付き添っている看護師も、必死で後を追っていた。

「ちょうどいい。あれが〝さかさま〟です」

後ろから、〝笑い犬〟が耳打ちしてきた。

「アレッ!? 何だ〝人形〟じゃんかよォ〜久しぶりだなッ!」

〝さかさま〟と呼ばれた男が、私の存在に気づき、駆け寄ってくる。

馴れ馴れしい態度で、身を乗り出してきた。

「なぁなぁ、記憶をなくしたってホント? 俺のことは覚えてるぅ?」

「……いや、すまないが」

「ウッソだろうぅ! あんなに仲良かったのにぃ!? ひど~いっ!」

〝さかさま〟は、わざとらしくおいおいと泣き出した。

だが、その口元は楽しげに、にやにやと笑っている。

「……私は、君と仲が良かったの?」

「は?」

その瞬間、〝さかさま〟の声が低くなった。

顔に、すっと暗い影がさす。

「そんな訳ないだろう? 誰がそんなこと言ったんだよ? 俺とお前が仲良いわけないじゃん。だってお前は——」

〝さかさま〟は途中で何かを思い出したのか、再び陽気な口調に戻る。

「そっかぁ! 今日、〝王様〟が暴れたのって、お前が戻ったからかぁっ! ……ん? いや、違うな。〝王様〟はいっつも暴れてるんだったっ! ヒャハハハッ!」

腹を抱えて笑い出す〝さかさま〟に、私は戸惑うしかなかった。

「そうだ」と言ったり、「そうじゃない」と言ったり。

一体、どっちが本当なのか。

だが、それよりも気になるのは——。

「〝王様〟って——」

「あれぇ、知らないのぉ? 〝王様〟は〝王様〟だよ。でも本当は、〝王様〟は〝王様〟じゃないんだぜぇ!」

……やはり、よくわからない。

その後も〝さかさま〟は、意味不明なことをペチャクチャと喋り続けた。

そして、ひとしきり騒いだら満足したのか、来たときと同じように唐突に、自分のぼうへ戻っていってしまう。

「〝さかさま〟の話を真面目に聞かない方がいいですよ」

呆然としていた私の車椅子を押しながら〝笑い犬〟が言った。

「〝さかさま〟には虚言癖があり、何が本当で、何が嘘か分かりません。というより、すべてが作り話なのかもしれません」

平坦な声が廊下に響く。

「躁うつ病も抱えていて、躁状態の時はずっと喋り続けています。けれど、うつになると部屋に閉じこもり、狂言自殺まで企てることがある」

車椅子の車輪が静かに床を軋ませる。

「その度に、スタッフ総出での騒ぎになるんです」

〝笑い犬〟は、まるでカルテを読み上げるように語った。

「〝さかさま〟と呼ばれているのも、彼が毎日その日の気分で性格がコロコロ変わるからです」

車椅子が、〇六号室の前を通り過ぎた。

中では〝さかさま〟が、壁に向かって大声でペチャクチャと話しかけていた。

「あっちは……?」

向かいの部屋を指さすと、〝笑い犬〟が苦々しげな声を出す。

「あそこは、〇二号室。〝王様〟の部屋です」

「〝王様〟って……さっき叫んでいた?」

「えぇ。ちなみに〝王様〟と呼び始めたのは、〝さかさま〟なんです。彼は〝王様〟のことを慕っていますから。曰く、〝王様〟こそ、この閉鎖病棟の王。つまり狂人の王だと」

「狂人の王……?」

「はい。〝王様〟は、この病棟で最も深刻な症状を抱える重症患者です。多くの精神疾患を併発していて、特に厄介なのが——あの癇性と凶暴性」

〝笑い犬〟の手が、車椅子のハンドルをグッと握りしめる。

「〝王様〟は些細なきっかけで暴れ出し、意味不明なことを叫んでは、手当たり次第に物を壊す。スタッフに手を上げたことも、何度もあります」

〝笑い犬〟は、ふうと息をついた。

「ひとたび興奮状態に陥ると、もう誰にも止められません。疲れ果てるまで、狂ったように暴れ続けるのです」

〝笑い犬〟は、一拍おいてから低く言った。

「〝さかさま〟に深い意図があったわけではないでしょうが、〝王様〟という名は案外、まとを射ているのかもしれません。王にけもの(獣)がとりつけば、狂となりますから」

そして、固い表情で言葉を締めくくった。

「いいですか? 〝王様〟は、大変危険です。絶対に、彼には近づかないで下さい」

〝笑い犬〟の声が、ぐっと低くなる。

「万一、そのような状況になってしまったら、すぐに呼んでください。私が、貴方を守ります」

初夏の風にのって、甘やかな薫香が舞う。

一通り院内を見て回った私は、最後に庭に出てみることにした。

玄関を一歩出た瞬間、目の前に広がる光景に思わず息を呑む。

ロータリーの向こうには、見渡す限りのバラ園があった。

「この病院では、患者の心を癒す目的で、千株以上のバラが植えられているんです」

〝笑い犬〟が、花の間をぬって車椅子を押す。

赤、白、黄、ピンク、絞り模様。

限りなく青に近いラベンダー色まで——

バラ園では様々な色と形の花が、朝の光を受けて、今を盛りと咲き誇っていた。

まるで夢のような景色だった。

——ただし、その先に見える厳重な門と有棘鉄線さえなければ、の話だが。

「どうです、見事でしょう? 病院ここは、このバラ園があるおかげで『外』 でも有名なんですよ」

〝笑い犬〟の口調は、どこか他人事のようだった。

「確かに、綺麗だね」

私は頷いた。だが、内心では何も思っていなかった。

どれだけ多くの花を見ようと、心は何も感じない。

美しいとも、懐かしいとも思えない。

——何も、湧いてこない。

考えてみれば、おかしな話だ。

ここに来るまで院内を一通り見て回ってきたはずなのに、何一つとしてピンとくるものがなかった。

私は、こう思わずにはいられなかった。

——本当に、自分は、ここに住んでいたのか……?

「あら」

その時、不意にガサリと葉が揺れる音がした。

一人の少女が、バラの茂みから姿を現す。

長い黒髪に、黒い瞳。

セーラー服に包まれたその身体は、バラの新芽のようにしなやかだった。

「こんにちは、〝笑い犬〟さん。〝人形〟さん」

こちらに気がついた少女が、茂みをかき分けやってくる。

棘のことなど、まるで意に介さない大胆な足取り。

案の定、彼女の剥き出しの手足には、いくつもの傷があった。

だが本人は気にするそぶりも見せず、にこやかに近づいてくる。

「お久しぶり、〝人形〟さん。目が、醒めたのね?」

少女は、私の前で背をかがめ、顔を覗き込んできた。

(この人、どこかで……)

一瞬、胸の奥がぐらりと揺れた。

不安になった私は、そっと後ろに目を向ける。

視線に気づいた〝笑い犬〟が、少女を手で示した。

「彼女は、このバラ園の世話をしているしきみさんです」

真面目くさった言い方に、樒がクスクスと笑い声をたてた。

「いやだ。世話といっても、大層なことをしているわけじゃないのよ。水やりと芽かきくらいしか、お父様は任せてくれないもの」

「お父様……?」

「えぇ、私は〝先生〟の娘なの。——と言っても、養女だけれど。ここには、『外』から通ってきているの。バラの世話のためにね」

「『外』から……? あぁ、だから名前が」

「そう。この病院の中で、本名で呼ばれてるのは、たぶん私だけ。まあ、私もいつか、あだ名で呼ばれるようになるのかもしれないけど」

「樒さん、何を——」

これには、さすがの〝笑い犬〟も、困った顔を浮かべた。

「冗談よ」

樒はからかうように言うと、そばに咲いていたバラの花を手折り、私に差し出した。

「再会の印に。あなたが良くなって、早くここから出られますように」

「……ありがとう」

花を受け取る。

ちらりと見た樒の腕には、無数の傷跡があった。

すべてバラの棘でついたものだろう。

なまじ肌が白いだけに、その傷はことさら痛々しく映った。

「その傷——」

顔を上げたときには、樒の姿はすでに、バラの茂みの奥に消えていた。

午後のリハビリを終えた私は、病室のベッドの上でぼんやりしていた。

ここにいる人間は、みんな、どこか変だ。

患者だけではない。

〝先生〟や〝笑い犬〟、果ては『外』から来ている樒という少女まで。

でも、何よりも奇妙なのは——。

私は、隣の病室の気配を窺った。

何の物音もしない。

〝王様〟は、まだ保護房にいるのだろう。

『会わせてくれっ! あいつにっ!』

今朝、壁越しに聞こえた悲痛な叫び声が蘇る。

その声を思い出すと、無性に落ち着かなくなるのは、なぜだろう。

頭がギリギリと軋み、胸の中まで圧迫されているような気分になる。

これが、恐怖というものなのか。

それとも、不安?

感情の乏しい私には、名付けようがなかった。

ただひとつ、『外』という言葉を聞いたときに感じた、あの希望に満ちた感覚とはまるで違う、ということだけは確かだった。

——もしかしたら私は、以前、〝王様〟と何かあったのかもしれない。

そこまで考えて、思考を止めた。

思い出さない方がいい。

〝先生〟は言っていたではないか。

記憶を取り戻せば、私はまた以前の〝人形〟に逆戻りしてしまう、と。

——そんなのは、嫌だ。

私は、思考を遮るように、ゆっくりと目を閉じた。

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