LOGIN安人が書斎から出てきたとき、桜はソファに座ってぼんやりしていた。リビングは静まり返り、安人はゆっくりと彼女の後ろに立った。そして、大きな手で、桜の頭に触れた。桜はまつ毛をかすかに震わせて振り向くと、安人の深い眼差しと目が合った。「珍しく時間ができた。少し飲まないか?」そう言われ桜は少し意外そうに聞いた。「お酒ですか?でも私、あまり強くないんです」「それなら少しだけでいい」安人は口の端を上げた。「ホットワインでも作ろうか?」「作れるんですか?」「難しくはない」安人は眉を少し上げた。「調べたんだ。材料なら、家に全部そろってる」「ほんとですか!それなら!」桜は立ち上がった。「私も手伝います」「ああ」と安人は頷いた。……キッチンで、安人は冷蔵庫からリンゴとオレンジを取り出しながら桜に言った。「ワインセラーから赤ワインを一本取ってきてくれないか」「どんなものがいいですか?」「なんでもいい」安人の声は穏やかだった。「君の好きなものを選んでくれ」桜はワインのことはよく分からなかった。でも、安人のワインセラーにあるものならきっと安くないはずだ。「一番安いのはどれでしょう?」安人はリンゴの皮を剥く手を止め、桜を一瞥した。「どれも貰い物だ。気にせず適当に選べ」「あ、はい」桜は唇を結び、キッチンから出ていった。安人は彼女の後ろ姿を見つめ、静かにため息を漏らした。……それから、安人は、赤ワインをまるまる一本、鍋に注いだ。この前大晦日に、彼女が飲んだ甘酒に比べてこのアルコール量は実に倍以上あった。桜は安人も一緒に飲むのだと思い、特に気にも留めなかった。安人はまず一杯分のホットワインを注いで桜に手渡した。「少し熱い。リビングで冷ましてから飲みなさい」「はい!」桜はグラスを両手に持って、キッチンを出ていった。安人は残りのホットワインをもう一つのグラスに注いだ。彼がもう一つのグラスを手にキッチンから出ると、桜はすでにソファに座って、一人でホットワインを飲み始めていた。温かいホットワインが身体に染み渡り、桜の張り詰めていた神経がすうっと解きほぐされていく。良いワインで作ったホットワインは、やはり香りが格別だ。フルーツのフレッシュな甘みに砂糖の甘さが加わり、大晦日の夜に飲んだ甘酒よりずっ
でも、安人にじっと見つめられて、桜は少し後ろめたい気持ちになった。彼女はまつ毛をかすかに震わせ、ぎこちない表情で言った。「そんなに私を見て、どうしたの?」「桜、前に言ったこと、覚えてるか?どんな時も、お前には無条件で俺を信じてほしい」桜はきょとんとした。安人はどうして、急にこんなことを言うんだろう?もしかして、彼、知ってるの?「あなた」だが、桜の言葉は、スマホの着信音に遮られた。安人のスマホだった。安人は着信表示に目を落とし、すっと目を細めた。そして、彼はスマホを持って立ち上がった。「海外の取引先からだ。書斎で受けてくる」「うん」こうして、安人はスマホを持って、再び書斎に入っていった。桜はその背中を見ながら、膝の上の両手をぎゅっと握りしめた。手のひらには汗が滲んでいた。きっと安人はまだ知らないはずだと、桜はなんとか自分に言い聞かせた。彰人も、直接安人に連絡するほど馬鹿じゃないだろうから。そう思いながら、桜はソファの上で体を丸めた。そして、明日のことを考えると、彼女は気が気じゃなかった。多分、今夜は眠れないだろうな、と彼女は思った。安人は鋭い人だから、自分がこんなに張り詰めていたら、きっと何か気づかれてしまう。……一方、書斎。安人は窓の前に立っていた。スマホから寧々の声が聞こえてきた。「安人さん、私、もう限界です。桜と私は仲が良すぎるから、いつまでも電話に出ないわけにはいかないし……それに、彼女、今日はもう疑い始めてるみたいなんです。三浦さんのところにまで電話をかけたって。このままじゃ、いつかバレちゃいます!」「初日は明後日だ」安人は言った。「海外の医療チームもここ何日かで北城に着く。古川が手配した人間も明日にはM市に着くから、もう少しだけ頑張ってくれ。少なくとも、康弘さんの容態が少し良くなるまで待ってから彼女に知らせないと。今の状況で話したら、彼女が耐えられないかもしれない」「お気持ちは分かります。桜にとって康弘さんは、何よりも大切な家族ですもんね。もしものことがあったら、彼女はきっときっと耐えられないはず。だから、隠しておくのが一番安全だっていうあなたのやり方は、私も賛成です。でも、彼女のことも分かります。私がこうして避け続けるのは、根本的な解決になりません。い
一方、安人は書斎から出て、リビングを見渡した。ヨガマットはまだ敷いたままだけど、桜の姿は見えない。彼は踵を返し、まっすぐ主寝室へと向かった。ドアを開けると、部屋の電気はついていた。でも、ここにも桜はいなかった。安人は足を止めた。「桜?」安人はバスルームのドアまで行き、ノックをした。「桜、中にいるのか?」しかし、バスルームからも何の返事もなかった。彼は眉をひそめ、バスルームのドアを開けた。バスルームは使った形跡がある。でも、桜はいない。すると、安人はスマホを取り出し、桜に電話をかけた。コールが数回鳴った後、やっと繋がった。桜の声がスマホから伝わってきた。「もしもし?」安人は寝室を出ながら尋ねた。「桜、どこにいるんだ?」「下にちょっと物を取りに来てるの」スマホ越しの桜の声はいつも通りだ。「仕事、終わったの?」「ああ、今終わったところだ」「じゃあ、先にお風呂入ってて。私もすぐ上に行くから」その言葉を聞いて、安人はそれ以上は何も聞かなかった。わかった、と返事をして電話を切った。それから、彼は寝室に戻り、パジャマを手に取ってバスルームに入った。……その頃、27階の主寝室。桜はベッドの端に腰掛けていた。彼女は片手にスマホを、もう片方の手には通帳を握りしめているのだった。通帳にはまだ20億円の残高がある。この中には、康弘のために大きな家を建てるためのお金も含まれていた。もともと、夏頃に実家に帰ったときに、康弘にちゃんと話すつもりでいた。でも今、彰人は1億円を要求してきた。桜はわかっていた。彰人は一度きりで満足するはずがない。一度払えば、必ず二度目がある。彼の欲を満たすことなんて、永遠にできない。本当のところ、一番賢いやり方は安人に助けを求めることだとわかっていた。でも、彼と出会ってから、ずっと助けてもらってばかりだ。彼が優しい人なのは知っている。だからこそ、あまりにも一方的に迷惑をかけてばかりで申し訳なく思えてしまうのだ。そう思って、桜はこの件を自分の力で解決したかった。それに、13歳の時に起きたあの出来事を、安人に言う勇気もなかった。桜は、彼が自分を蔑んだりしないとわかっていた。でも、彼女自身のプライドが許せなかった。あんな惨めな目に遭った
あんな人間のクズこそ、死んでしまえばいいのだ!「お金は渡さないわ」桜は息を深く吸い込んで、冷たく言った。「どうせ逃げられないんだから、早く自首したらいいじゃない?そうすれば、罪も少しは軽くなるでしょう!」「俺に自首しろだと?」彰人は鼻で笑った。「桜、お前は本当に、痛い目を見ないと分からないんだな。俺がこんなリスクを冒してまで金の話を持ち掛けたのに、何の準備もしてないと思うか?」その言葉に、桜は眉をひそめた。「どういう意味よ?」「ポスターを見たぞ。6日、お前の公演があるな」彰人の声は悪魔のようだった。「金をもらえなくても構わないさ。俺の手には、お前に関するすごいネタがあるんだ。公演が終われば、もっとお前に注目が集まるだろ?その時、このネタをマスコミに売ったら……いくらになるかな?」それを聞いて、桜は黙り込んだ。芸能界で活動してきた間、彼女は後ろめたい取引には一切応じてこなかった。だから、自分にそんなネタはないと確信していた。「彰人、脅したって無駄よ。そんな手には乗らないわ」「お前が13歳の時、康弘……あいつが、なぜ漁船を売らなきゃならなかったか。まさか、忘れたわけじゃないよな?」桜は息を呑んだ。「桜、大した額じゃない。たったの1億円だ。金を渡せば、お前のことは見逃してやる!」彰人の声は、陰湿で不気味だった。「追い詰めたいわけじゃないんだ。でも、俺にはもう後がない。そもそも、お前たち親子がいなければ、俺が翠とこんなことになるはずもなかった。これは、お前たちが俺に作った借りなんだよ。お前の母親はもう死にかけてるし、今さら彼女が助けてくれるのは期待できないからな。だから桜、お前が助けてくれるなら、俺はあの件を永遠に闇に葬ってやる。さもないと、本当に週刊誌にリークするしかない。お前はもうただの女優じゃない。北城の大物、碓氷さんの彼女なんだぞ?もし、お前が13歳の時のあの件がバレたら……碓氷さんは国中の笑いものになるんじゃないか?」そう言われ、桜の顔から血の気が引いた。スマホを握る彼女の手が、かすかに震え始めた。脳裏にいくつもの光景がよぎった。断片的で、苦しくて、血に染まったような光景が……苦痛と怒りに満ちた康弘の叫び声が、桜の頭の中で響き渡る——「この子はまだ13歳なんだぞ!この人でなしが!殺してやる
その時、真紀は夕食の準備を終えると帰っていった。桜と安人は、誰にも邪魔されずに二人きりで夕食をとった。新婚夫婦のような、穏やかで甘い時間が流れる中、食事を終えた桜は、少し休んでからヨガウェアに着替え、リビングでトレーニングを始めた。明後日には初公演が控えている。だから、彼女は一瞬たりとも気を抜けないのだ。そして、彼女がトレーニングをしている間、安人は書斎で仕事をしていた。9時ごろ、桜はトレーニングを終えたが、安人はまだ書斎から出てこなかった。桜はしばらく待ってみたが、彼がまだ出てこないので、先に部屋に戻ってシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びて出て来ると、ベッドの上でスマホが震えていた。またあの知らない番号からだった。桜は一瞬ためらったが、通話ボタンを押した。すると、電話の向こうから、陰気でしゃがれた男の声がした。「桜か、俺だ」桜は息をのみ、スマホを握る手にぐっと力が入った。彰人だ。よくも、電話をかけてこられたものだ。「今どこにいるの?人を殴って逃げて、警察に指名手配されてるって分かってるの?!」「逃げなきゃ捕まるだろ!」彰人は怒鳴った。「お前たち親子のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!お前たちがいなければ、俺は翠に弱みを握られることもなかったし、一文無しで追い出されることもなかった!全部お前たち親子のせいだ!」そう言われ、桜はあまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず鼻で笑った。「それで?今さら電話してきて、まさか私にお金でもせびる気?」「海外に高飛びする予定だ。お前が金を用意してくれ!」「お金なんてないわ」桜はきっぱりと断った。「ふざけるな!」彰人は怒鳴った。「お前が安人にとり入っているのは知ってるんだ!あいつが京子のために専門家チームを手配してあげたから、京子は一命をとりとめたんだろ!どうせ安人は金持ちなんだから、お前が頼めばいくらでも出してくれるはずだ!」「たとえ彼がくれると言っても、私からは絶対に頼まない」桜の声は氷のように冷たかった。「どうして私があなたにお金を渡さないといけないの?あなたは父親として、これまで私に何をしてくれた?プライドを捨ててまで、あなたのためにお金を無心できるわけないでしょ?それに、あなたは今、指名手配中の犯罪者よ。手助けしたら共犯になっちゃうじゃない」
「はい、わかりました」電話を切ると、桜はなぜかざわつきが収まらない胸をなでて、ため息を一つこぼした。きっと公演が近いから、緊張しているだけ。だから、余計なことばかり考えてしまうんだわ。寧々と康弘は実家にいるんだから、何かがあるわけないじゃない?そう思って、桜はスマホを置いて、スーツケースからロボット犬を取り出したあと、ベッドのそばにある窓の前にそれを置いた。すると、ベッドの上に置かれたスマホが震え始めた。桜は立ち上がって、ベッドに歩み寄ってスマホを手に取った。知らない番号からだった。桜は眉をひそめて、電話に出るべきか迷った。その時、玄関のインターホンが鳴った。夏帆がドアを開けに行った。「あ、碓氷さん……桜様は部屋にいます。どうぞお入りください」外の物音に気づいて、桜はスマホを置いてすぐに部屋を出た。スマホは鳴り続けていたが、やがて自然に切れた。……リビングでは、トラちゃんが安人の姿を見つけるとすぐに駆け寄った。そして、まんまるな頭を安人のズボンの裾にすりつけて、にゃーにゃーと甘えた声で鳴いた。トラちゃんのその情けない姿を見て、桜は呆れながらも笑ってしまった。「トラちゃん、そんなに甘えちゃって。安人に毛がいっぱいついちゃうでしょ!」そう言って、桜はトラちゃんのそばに歩み寄ってしゃがみこみ、その頭を指でつんつんと突いた。トラちゃんはもう、すっかり安人を自分の飼い主だと思っているようで、桜にからかわれても、彼に甘えるのをやめなかった。桜は仕方なく、トラちゃんを追い払った。そして、安人の高そうなスラックスに、びっしりと猫の毛がついているのを見て、桜はやれやれと首を振った。「野田さんが夕食を作ってくれている」そう言われ、彼の言葉に隠された意味を、桜はすぐに理解した。桜は夏帆を見て、少し気まずそうに言った。「夏帆、今夜は戻らないかもしれないんだけど、一人で大丈夫?」夏帆は頷いた。「はい、私は大丈夫です。桜様は、碓氷さんと安心してデートしてきてください!」桜は思わず、返す言葉がなくなった。……それから、桜は安人と一緒に、28階の彼の部屋へ向かった。キッチンでは、野田さんが忙しそうに料理をしていた。今回、桜は何も持ってこなかった。なぜなら、安人がここにすべて用意してくれて
唇が塞がれた瞬間、優希は思考が完全に停止した。これは彼女にとって初めてのキスで、哲也にとっても初めてのキスだった。だけど哲也はとても上手だった。彼の唇は柔らかくて、少しひんやりしていて、まるで電気が流れているみたいで......優希は唇が痺れるような感覚に陥った。不思議な電流が唇から脳へ、心臓へ、そして全身へと駆け巡っていくのを感じた。すると、彼女の心臓は太鼓のように高鳴り、耳元で響いていた波の音さえ、一瞬にして静かになったようだった。最初は、哲也はとても優しかった。むしろ、慎重すぎると言えるくらい、柔らかく触れるだけのキスだった。優希を驚かせないように、舌を絡めることさえ
優希は満足そうだったけど、哲也は大変だった。獣のようになりそうな自分を抑えるのに、どれだけ必死だったか......こうして優希は、哲也の腹筋に触れながら眠りについた。哲也は、彼女がぐっすり眠ったのを見計らって、そっと起き上がった。バスルームに行くと、長い間冷たいシャワーを浴びた。......その夜、哲也は一睡もできなかった。空が白み始めた頃、彼は下に降りて、ビーチを走ることにした。片や、優希は夢を見ることもなく、とても気持ちよく眠っていたのだった。太陽が昇って部屋が明るくなった頃、哲也が戻ってきた。ドアを開けると、優希が寝返りをうって、布団を頭まですっぽ
それには優希もはっと息をのんだ。彼女は素早く駆け寄った。それとほぼ同時に、哲也はさっと一歩後ろへ下がった。すると、渚は、優希の胸に倒れ込んだ。......優希は渚を支えながら尋ねた。「どうしましたか?」「伯父に話があるってここに呼び出されました。でも、個室に入ったら騙されたって分かって......あの山下社長、奥さんがいるのに、私に......その......」渚はそれ以上言わなかったけれど、優希と哲也には何があったか察しがついた。「大丈夫ですか?怪我はありますか?」渚は顔を真っ青にして言った。「私、足を捻挫しちゃったみたいです......」その声は震え、優
最近の哲也は、どこへ行くにも運転手が送り迎えをしていた。しかし、恋人とのデートに運転手も一緒というのはさすがに気まずい。だから、哲也は彼に車を一階に回してくれるよう頼んだのだ。そして、二人がビルから出て来ると、運転手がすぐに駆け寄り、車のキーを差し出した。「社長」哲也はキーを受け取ると、ロールスロイスの助手席のドアを開け、優希に言った。「乗って」優希は頷くと、身をかがめて車に乗り込んだ。哲也は優希が頭をぶつけないように、ドアの上部にそっと手を添えた。彼女が座るのを確認してから、ドアを閉めた。だが、優希がシートベルトを締め終わった途端、カバンの中のスマホが鳴り響いた。







