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第3話

Author: Hare Ra
「本当か?」耕平が尋ねる。

祐樹は、直接家に来ることを耕平に伝えていなかったのだ。

「ええ、もう30分くらい前に」聖羅が答えた。

耕平は慌てて中へ入る。祐樹はすでにリビングでくつろいで座っていた。

「お待たせしてしまい、申し訳ございません」耕平が申し訳なさそうに言った。出迎えられなかったことが、ばつが悪いらしい。

「気にしなくていいよ。連絡しなかった俺の方が悪い」祐樹は笑いながら答えた。

「てっきり、夜にいらっしゃるものだとばかり」耕平が言いながら、祐樹の向かいに腰を下ろす。

「たまたま近くにいてね。一度帰ってから出直すのも時間の無駄だと思って、そのまま寄らせてもらった」

祐樹の視線は、時折ちらりと聖羅へ流れた。彼女はまだ、耕平のすぐそばに立っていた。

聖羅は耕平に対し、どこか申し訳なさを感じていた。特に、さっきの祐樹の指先の感触が、まだ体のどこかに奇妙な余韻として残っている。

短く、優しい手の触れ方だった。それなのに、消えてくれない感覚。

「おい、料理の準備を進めてくれ」

耕平が聖羅に言った。声を少し落として、上司の前で「良い夫」を演出しようとしているのが分かる。

「はい、あなた」

耕平は、妻と上司の間に何があったかなど微塵も疑っていなかった。

聖羅が奥へ下がると、祐樹と耕平は真剣に話し込み始めた。会話は盛り上がっているらしく、時折、議論や笑い声が台所まで聞こえてきた。

「集中しなきゃ」自分に言い聞かせるように呟きながら、聖羅は何度も手元を狂わせていた。

「――離婚してるのよね、あの人」聖羅はふと呟いた。

耕平から以前聞いたことがある。祐樹の元妻が浮気をして、それが原因で家を出て行ったと。祐樹は事を長引かせるつもりはなく、あっさり離婚に応じたのだという。二人に子供はいなかった。

「だから何よ。変なこと考えないの」聖羅は自分自身に釘を刺すように続けた。

料理の支度が整った後も、耕平と祐樹はまだ話し込んでいる。聖羅はその隙に、着替えを済ませることにした。

膝丈の、赤いノースリーブのワンピース。体のラインにぴったり合っていた。薄めのメイクを施すと、聖羅の顔は美しく、はっとするほど艶やかに映った。

鏡の前で何度も自分の姿を確かめる。少しでも隙のある格好をしていないか気がかりだった。

「これは、耕平を喜ばせるため。恥をかかせたくないだけ」口紅を塗りながら、自分にそう言い聞かせた。

夕食の間、祐樹が何度か聖羅の方へ視線を向けているのが見て取れた。

けれど祐樹は抜け目がない。場の空気を巧みに和ませては、耕平に疑いを抱かせることなく、さりげなく聖羅の姿を盗み見ていた。

「奥さんの料理、本当に美味しいね」祐樹は料理を口に運びながら褒めた。

「聖羅は料理が得意なんですよ」耕平が得意げに笑いながら答える。

「お前は本当に恵まれているな」祐樹が続けた。

「はい。でも聖羅の奴、最近は働きたいなんて言い出して。家にいるだけで十分なのに」耕平は俯いて食事をする妻をちらりと見ながら答えた。

「へえ、どうして?」祐樹が尋ねる。狙い通りの反応に、内心満足げだった。

「女が忙しく働く必要なんてどこにあるんです。結局は家事と炊事、それから夜の相手に落ち着くだけでしょう。その三つさえ極めれば、夫を満足させられますから」耕平が言い放つ。

祐樹は頷きながら、再び聖羅へと視線を移す。

「でも、お前の奥さんは仕事の段取りが丁寧だ。普段からいろんなことを管理し慣れているのが分かる。素晴らしい素質を秘めていると思うよ」祐樹はそう褒めた。

聖羅はその言葉に思わず頬を赤らめた。だが同時に、苦い気持ちも込み上げてくる。その称賛を、よりによって他の男の口から聞くことになるなんて。

ずっと耕平から聞きたかった言葉だった。せめて、家で頑張る自分への労いの一言くらいは。けれど、耕平が彼女を褒めたことは一度もなかった。

それを今、他でもない夫の上司から聞かされることになるとは。

「夫がまだ働ける間は、彼に稼がせておけばいいんですよ」耕平は愛想笑いを浮かべながら答えた。

「いや、女性が働きたがるのは、夫が生活費を稼げないからじゃない。自分が認められたい、成長したい、人と関わりたいと思うからだ。それに、家にいる退屈さから逃れたいからでもある」祐樹はそう続けながら、今度ははっきり聖羅を見つめた。

聖羅はますます俯いた。心のどこかで、自分の気持ちを分かってくれる人がいることを嬉しく感じている自分がいた。

「女性を、あまり縛りつけない方がいい」祐樹は食事を終えながら、そう付け加えた。

耕平は愛想よく笑って頷いた。それを最後に、食卓の会話は途切れた。

夕食が終わると、聖羅はすぐに片付けを始めた。家が散らかっているのを見たら、耕平が機嫌を損ねるのは目に見えていたからだ。

耕平と祐樹はまだ食卓に着いたまま、聖羅が用意したデザートを楽しんでいた。

「もし構わなければ、奥さんに仕事を紹介したいんだが」沈黙を破るように、祐樹が話を切り出した。

「いえ、そこまでしていただかなくても……」耕平が断る。

祐樹は笑った。「専属秘書が必要でね。お前の奥さんなら、ちょうど合っていると思うんだが」

耕平の断りなど気にも留めない様子だった。

――ドクン。

会話を聞いていた聖羅の胸が大きく跳ねた。仕事への希望が再び芽生えるのを感じる。

けれど同時に、先ほどの思わせぶりな手の感触を思い出すと、それが危険な兆しのようにも感じられた。

「ですが……」

「じゃあ、こういうのはどうかな。お前をマネージャーに昇進させる。その代わり、奥さんを俺の秘書にしてもらう。ちょうどいい人が見つからなくて困っていたんだが、奥さんを見た限り、きっと頼りになると思ってね」祐樹が言葉を遮るように、すかさず続けた。

「マ、マネージャーにですか……!?」

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