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第108話

Author: 雲間探
玲奈は軽く鼻を押さえ、何事もなかったかのように手を離すと、そっと一歩後ろに下がって二人の距離を取った。

智昭は彼女の一連の動きには気づかなかったようで、招待状を開き目を通して、「古希か」と呟いた。

玲奈は「うん」とそこまで言って、以前のように時間があるかとか、出席してほしいと頼むこともせず、ただこう続けた。「ご両親には、あなたから伝えてもらえます?」

今回、彼女が出席できるかどうか尋ねなかったことに、智昭が気づいたかどうかは分からなかった。

彼は彼女を一瞥すると、招待状を無造作に脇へ置いて「わかった」とだけ言った。

それだけ言って、彼は背を向けて浴室へと向かった。

玲奈は彼の背中を一瞥し、ドライヤーを片付けてから、茜の部屋に向かって風呂の支度をした。

茜の体と髪を洗って、ドライヤーで乾かし終える頃には、すでに一時間近くが過ぎていた。

茜はまた彼女の腕にすがりつきながら、今夜も一緒に寝られるかと甘えた。

今の彼女と智昭の関係で、「できる」も「できない」もない。

玲奈は主寝室に戻って荷物をまとめ、部屋を出る際に智昭に一言告げた。「私は茜ちゃんの部屋で寝るから」

智昭は読書中だったが、その言葉に「ああ」とだけ返し、それ以上何も訊かず、引き止めることもなかった。

翌日。

朝食を済ませたあと、玲奈は茜の頼みに応じて学校まで送ってから、会社へ向かった。

おばあさんの誕生日が近づいていたが、この1ヶ月以上会社の業務に追われ、誕生日プレゼントをまだ購入していなかった。

昼食の時間に、玲奈は凜音に電話をかけ、夜に一緒にプレゼントを買いに行かないかと誘った。

祖母の誕生日プレゼントを買うと聞いた凜音は、すぐに快諾した。

麗美への招待状は、まだ渡せていなかった。

電話を切ったあと、玲奈は麗美にも電話をかけた。

電話はつながったが、出ることはなかった。

麗美が自分だけでなく、青木家の人間すべてを嫌っていることを、玲奈は知っていた。

今麗美が電話に出ないのも、わざと無視している可能性が高い。

とはいえ、藤田おばあさんの顔を立てて、最低限の手順は踏まなければならない。

電話が自然に切れた後、玲奈は再度電話をかけた。

今度は、電話が直接切られた。

それで玲奈は、麗美が意図的に出ていないのだと悟った。

玲奈は気に留めることもなかった。

あくまで
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