LOGIN時は14世紀、1320年代のイングランド。
イングランド王エドワード二世の寵臣政治は終わりを告げ、今はわずか十五歳の若きエドワード三世が即位していた。しかし、国政の実権は、母であるイザベラ王太后と、その愛人ロジャー・モーティマーによる摂政体制が握っている。 中央政府の政治腐敗は深まるばかりで、そのしわ寄せが哀れな庶民に重くのしかかる。 人々が未来への希望を持てず、ただ息を潜めて生きるしかなかった、そんな世の五月──……。肌寒い晩春の森を、白い影がゆっくりと通り過ぎて行く。
それは、厚みのある白い革のフードを目深に被った一人の男だった。フードから覗くのは老人のような白髪だが、その下の肉体は、老人とはかけ離れた若々しく、屈強なものだ。 丈夫そうだがボロボロの長袖から伸びる腕の皮膚は日差しに透けるように白く、この温かな森の中では不自然に残された残雪のようであったが、彼一番の特徴である白いフードを纏う事でその異様さは幾分か軽減されていた。 しかし背中には膨らんだ荷物袋、腰には二本のナイフを提げた姿は別の険しい雰囲気を纏っており、何も知らない旅人が薄暗い時分に彼に遭遇すれば、きっと魔物と間違えるだろう。 だから男は不必要に夜を歩かないことを心に決めている。移動は昼間のみだ。 ふと、男の真上を一羽の隼が地上を見下ろして過っていった。 隼の存在に気を取られた男は、一瞬だけ歩みを止めた。 「あれは、野生ではないな……」 あっという間に飛び去った隼に対し男はそんな感想を述べつつ、空にはもう何もないことを確認すると、男は再び静かに歩き始めた。***
空から滑空した隼は間も無く、濃い緑のチュニックに身を包んだ青年アーサー・クロムウェルの左手に止まった。
彼は、待ち構えていたように逆の手でご褒美の餌を与え、隼の柔らかな羽毛の胸を優しく撫でた。 「お帰りノヴァ。でも、お土産は無いみたいだね」 ノヴァと呼ばれるメスの隼は、アーサーが少年の頃に父が唯一与えた贈り物だ。狩りは下手だが、飼い主にはとても良く懐いている。 折角空に放ったのに狩りをせず空中散歩だけで帰ってきたペットの様子にアーサーは少し残念に思いつつ、ノヴァの小さな頭に目隠しのフードを被せてしまった。 アーサーの本業は教区司祭だ。もう少しノヴァと触れ合いたかったが、仕事は朝から忙しい。 「アーサー様。そろそろミサの準備を」 司祭補助の教区書記ピーターに呼ばれ、アーサーはノヴァを預けると、周囲の墓場を越えてゴシック様式の教会へと入って行った。教会の祭具室。
アーサーが下着姿で待っていると、ノヴァを飼育箱に仕舞い終えたピーターがやって来て、ミサ用の祭服を着せ始めた。 ピーターはテキパキと、長白衣のアルバ、帯のチングルム、肩にかけるストラを整え、最後に緑色のマント、キャズラを被せた。 伯爵令息でありながら庶子である、ただの優し気な青年に過ぎなかったアーサーは、一瞬にして威厳ある司祭へと姿を変えた。朝のミサを終え、村人たちを見送るため普段着の礼服に着替えて戻ってくると、三人の女性がアーサーの方へとやって来た。
シスターの黒装束のマーガレットと、村娘のアリスとルーシーだ。 「アーサー様、今日もお疲れ様でした」 「おはようございます、マーガレットさん。今日も診療所をお願いします」 マーガレットは、教会の診療所の監理者だ。人手の少ない田舎の診療所を村人の世話人たちを使って切り回してくれる有難い存在だ。 「おはようございます、アーサー兄様」 ルーシーはアーサーを兄様と呼ぶ。彼女は孤児だが、薬草の知識を持つ診療所の働き手だ。 「おはようルーシー。今日は薬作りの作業なんだね。アリスは教会の方だっけ?」 「ええ、今日は養蜂施設の方。これから夏になれば蜂が騒がしくなるでしょ。今日も人が足りないって呼ばれたのよ。ね、アーサー様」 アリスは村の上役の娘で、■14世紀のカソリック聖職者の衣装について Ⅰ.儀式用の服(祭服) 14世紀イングランドで主流だった「サラム典礼」に基づく構成です。 チェジブル(上祭服):最上位の服。袖のないマント型。 14世紀イングランドでは、色よりも「布の豪華さ」が優先され、祝日には「その教会で一番良い服」を着ました。また、四旬節には紫ではなく「灰色のリネン」を用いるのが一般的でした。 ストラ(帯状の布):首から垂らす細長い帯。司祭の権威の象徴。 マニプル(腕帯):左手首にかける短い帯。 アルバ(長白衣):足首まである白いリネンの長袖チュニック。 【特徴】 14世紀には、アルバの裾や袖口に「アパレル」と呼ばれる刺繍を施した布を縫い付けるのが流行していました。 アミス(肩衣):首回りに巻く白い布。Ⅱ.日常生活の服(平服):村の司祭の実態 アーサーが普段村で着ている、より現実的な服装です。 カソック(長法衣):足首までの丈がある長袖の服。 当時のカソックは現代のような真っ黒ではありません。14世紀の村の司祭は、未染色の羊毛(褐色や灰色)、あるいは濃紺や暗い茶色のウールを着ていました。 現代のようなボタンが並んだタイトな形ではなく、もっとゆったりとした「ガウン」や「チュニック」に近い形状で、上から被るか、紐で結ぶタイプが主流でした。 クローク(外套):寒冷なイングランドで屋外に出る際に羽織るウールのマント。フード付きが多く、雨風をしのぐための必需品です。 Ⅲ.下級聖職者(教区書記など)の服装 衣服: 司祭と同様のカソック(長法衣)を着ますが、アルバやチェジブルを着てミサを執り行う権限はありません。 トンスラ(髪型):規則では頭頂部を剃ることになっていましたが、多くの聖職者が不精をして髪を伸ばし放しにしている事が多く、司教が来る時だけ慌てて剃るという実態が当時の文献で皮肉られています。 ◎アーサーとトンスラ ちなみにアーサーはトンスラをしていません。 キリスト教に帰依してはいても、トンスラはあまり好まなかったようです。 大学時代など、人目のある場所ではしてい
第六話冒頭「旦那様、入ってもよろしいでしょうか?」 トーマスが羽ペンを走らせる代官邸の執務室の戸の向こうから、幼い声が控えめに問いかけた。 彼は一瞬だけ戸口へ視線を向けたが、すぐに書類へと戻し、何も言わない。 やがて、十歳ほどの少年給仕が銀の盆に水差しと杯を載せて入室する。 少年は一礼し、静かにトーマスの脇へ水差しを置くと、盆を抱え直し、もう一度深く頭を下げて退室した。 足音が遠ざかってから、ようやくトーマスは筆を止める。------------------------ トーマスは給仕の入室に対し、無言を貫いて接していました。 これはただの無視ではなく、中世のイングランドでは、目下の者に声を掛けられた時。特に問題が無ければ何も言わない=許可・了解を出したことになる、というマナーに沿った行動です。 上の者が下の者に話しかけるには、相応の場とタイミングの見極めが必要だったのです。 不用意に下の者に話しかける上の者は常識知らずだし、逆に下の者から上の者に話しかけるのは、基本厳禁。それでもなお話しかけるというのは相応の緊急さ、または重大な用件がある時だけでした。 貴族ともなれば更にそのマナーに対する意識は厳しく、貴族以下の存在と日常的に親しくするのは基本的に常識としてありえない事だったのです。 だからトーマスは貴族としては奔放なアーサーの振る舞いに厳しい目を向けるし、ルーシーや流浪人ウルフとの私的交流を危険視しているのです。 この場合はルーシーやウルフが悪いのではなく、貴族としての立場を尊重しないアーサーが問題なのです。 アーサーのやさしさは、見る者によっては『貴族』という品位を貶める冒涜的な行いなのです。 なお、神父としての聖務中に信者と親しく会話するのは、仕事なので問題ありません。 知られている作品で分かりやすい例を出すと、『ハリーポッター』の序盤、賢者の石で、ドラコ・マルフォイの父ルシウスが、ハリーに挨拶しても、ハーマイオニーからの挨拶は無視しました。 あれはただの意地悪ではなく、純潔の魔法使いであるシリウスと、半魔法使
「旦那様、入ってもよろしいでしょうか?」 トーマスが羽ペンを走らせる代官邸の執務室の戸の向こうから、幼い声が控えめに問いかけた。 彼は一瞬だけ戸口へ視線を向けたが、すぐに書類へと戻し、何も言わない。 やがて、十歳ほどの少年給仕が銀の盆に水差しと杯を載せて入室する。 少年は一礼し、静かにトーマスの脇へ水差しを置くと、盆を抱え直し、もう一度深く頭を下げて退室した。 足音が遠ざかってから、ようやくトーマスは筆を止める。 水差しから器にエールを注ぎ、乾いた喉を潤した。 あの少年は、先月入ってきたばかりだったか。 たしか、一人で給仕するのは今日が初めてだったはずだ。主人を前にして、あの緊張ぶり。幼いなりに礼を尽くそうとする姿勢は悪くない。 その様子に、トーマスはふと別の少年を思い出す。 アーサー。 この村へ来たばかりの頃の──あの私生児だ。 目の前に立つと、怯えたように緑の瞳を見上げ、ただ次の言葉を待っていた。 慣れぬ土地と大人への恐怖、そして『先生』への畏れと尊敬がないまぜになったあの眼差し。 あれは――実に心地の良い光景だった。 何かを命じれば、必死に教えの通りに応えようとする。 その懸命さを、可愛らしいと思ったことすらある。 (子供は、あのくらい素直で良いのだ) そう、子供は『先生(おや)』から注がれた水を、スポンジのように飲めばいいのだ。 ──それで良いのに。 トーマスは先日、孤児を助けるために自分の前に立ちはだかったアーサーの振る舞いを思い出し、頭に血が上るのを感じた。 アーサーには二人の教育係がいる。 アッシュワース村に来る際にクロムウェルが寄こした教区書記ピーター・フィンチと、受け皿となるペンストレイト領の常識を教え込む役割を負った、村の代官トーマス・バートン。 そもそもトーマスがこの村で、領主ペンストレイト男爵の名代ともいえる代官を任されたのは、
その一 村人たちの「裁き」は、まだ裁判ではない ルーシーが広場で責め立てられる場面は、かなり危険な状態です。村人たちは「毒だ」「診療所の薬のせいだ」と騒ぎ、ルーシーを犯人のように扱っています。けれど、これはまだ正式な裁判ではありません。 中世の村では、事件が起きると人々が集まって騒ぐこと自体は珍しくありませんでした。誰かが叫べば近所の者が駆けつけ、怪しい者を探し、被害の状況を確かめようとします。村は小さな共同体なので、良くも悪くも「みんなが見ている」世界です。 ただし、その場に集まった人々の怒りが、そのまま正しい判断になるとは限りません。むしろ、身寄りのない者、よそ者、普段から立場の弱い者は、こういう時に真っ先に疑われます。 ルーシーの場合もまさにそれです。孤児で、後ろ盾が弱く、診療所の仕事に関わっている。しかも薬草を扱っている。村人から見れば、「あの娘が間違えたのではないか」と決めつけやすい条件がそろっています。 恐ろしいのは、証拠がそろう前に、村の空気だけで「犯人」が作られてしまうことです。石を投げる。髪を掴む。罵る。無理や
アーサーは解放されたルーシーとアリス、そして流浪人を連れて教会へ戻った。 石造りの静かな会堂に入ると、アーサーは改めて流浪人へと向き直った。 「感謝します。貴方のおかげで、大切な友人を救うことが出来ました」 アーサーが深く頭を下げると、アリスもそれに習い頭を下げた。 ルーシーに至っては流浪人にしがみついて泣きながら感謝を伝えた。 「本当に有難うございます、流浪人さん。私、貴方に何度命を救われたか分かりません!」 本日二度目となる『抱き着かれて泣かれる』事態に、流浪人は居心地悪そうにする。 「……俺は大したことはしてない」とぶっきらぼうに答えると、ルーシーを剥がして立ち去ろうとした。 それをアーサーが服を引っ張って引き留める。 「あの、やっぱり僕は貴方と友達になりたいです」 「……そういうのが迷惑なんだよ」 流浪人はアーサーの手を振り払い、再び背を向けた。しかしアーサーは食い下がった。 「ではせめて、お名前を教えてください。僕の名前はアーサー・ドミニク・クロムウェル。このヒュー教会の司祭です。貴方のお名前は?」 その真っ直ぐな追及に、流浪人は根負けしたように肩を落とし、渋々と言葉を落とした。 「……ウルフだ」 今度こそ彼は去り、闇の中に消えていった。 「聞いた!? 彼、ウルフって言うんだって!」 やっと聞き出した名前に、アーサーは目をキラキラさせて少女たちと騒ぎ出した。 だがその歓喜を、奥から現れたピーターの叱声が切り裂く。 「アーサー様! こんな夜更けに何事ですか。騒いでいないで、飛ばしてしまった晩のお祈りをして、神に感謝を捧げなさい。アリスもルーシーも、無事を主に報告するのです!」 「はーい」 ピーターに叱られ、三人は首
ルーシーには、自分が無実である確信があった。 患者の症状から、ジキタリスと間違えてドクニンジンが混入された薬を摂取したのは明白だった。 だが、ルーシーは最近ジキタリスを採取していない。ましてやドクニンジンが生えているような水辺での作業など、ここ最近は一切行っていなかった。 つまりこれは、完全な言いがかりだ。 犯人ではない以上、いわれなき冤罪を受け入れるわけにはいかない。 ここで認めたら最後。親が無く、荘園の民として相互保証の後ろ盾のないルーシーは即座に死刑が決定してしまう。 毒殺は、相手が防御できない「不意打ち」であり、かつ「食事を共にする」という信頼を裏切る重罪──ましてや身寄りのない下層民が村人に毒を盛ったと確定すれば、慈悲の余地など欠片も望めない。 (私、死んじゃうの?) 何度か罪人が首吊りになる光景を見たことがあり、怖くて眠れなかった。今度は自分があそこに吊られるというのだろうか。もしかしたら魔女として火あぶりにされる可能性もある──そんな事、あってはならない。 だからこそルーシーは必死に抗っているし、おかげで村はこの大騒ぎになっているのだ。 濡れ衣を拒む理由は、他にもあった。 今まで懸命に働いて積み上げた信頼を失いたくないし──何より、アーサーにこの騒ぎを知られて、失望されたくなかった。 こうなったら駄目で元々。徹底的に抵抗してやろう。 それで殺される前に裁判にでも持ち込んで、アーサー兄さんとアリス姉さんだけでも自分の潔白を信じてくれるなら、ルーシーも諦めがつくかもしれない。 いや、きっと二人は信じてくれるし、命を救おうと尽力してくれるだろう。 彼らさえ味方でいてくれるなら、死刑になっても構わない。 けれど、誰かの嘘によって、アーサーに失望されることだけは……それだけは、何としてでも避けたかった。 ルーシーはその一心で、厳しい尋問に耐え続けた。 視界の端では、トーマスが相変わらず冷静に成り行きを見守っている。 いつの間にか彼の側にはアッシュワースの村長バーソロミューも立っており、