LOGIN夜はあまりにも短かった。けれど同時に、果てしなく長くもあった。近づくことの方が離れることよりも、こんなにも苦しいものだったなんて。一分一秒が彰人にとってはまるで煉獄のようだった。手放したくないという想いと、別れへの恐れが胸の中でせめぎ合う。やがて東の空が白み始める。彼は重く滲む目を上げ、――もう行かなければならないと悟った。最後に清席をそっと抱きしめ、結代の柔らかな頬に口づける。寝室を出るとき、その足取りはひどく重かった。客室の前で軽く扉を叩く。「願乃、もう行くよ」しばらくして、内側から声が返る。「わかった」それきりだった。彰人はしばらくその場に立ち尽くしたが、結局、扉が開くことはなかった。やがて静かに背を向ける。ゆっくりと一歩ずつ階段を下りていく。庭に出るころには、空はすっかり明るみを帯びていた。四月の朝の風が頬を撫で、かすかな冷たさを運んでくる。石段の下には、黒い高級車が停まっていた。モナと涼香が迎えに来ている。彰人はもう行かなければならない。午前十時発の専用機で、そのままベルリンへ向かうのだ。車に乗り込む直前、ふと足を止める。振り返り、二階を見上げた。書斎の大きな窓にはカーテンが垂れ、気配は見えない。それでも彼はしばらくじっと見つめていた。どこか、何かを失ったような表情で。やがて歯を食いしばり、車に乗り込む。ほどなくして、黒い車は静かに動き出し、屋敷の門を抜けていった。そのまま、遠くへ――完全に見えなくなるまで。その時になって初めて、二階の書斎のカーテンがそっと開かれた。願乃が部屋の隅から姿を現す。朝の光を浴びたその頬は透き通るように白く、淡く輝いていた。彼女は何も言わず、ただ遠くを見つめる。あの黒い車が視界から消えていく、その瞬間まで。背後から、小さな手が彼女に回される。「ママ……パパ、行っちゃったの?」結代の柔らかな声だった。願乃は静かにうなずく。「うん」彰人がもう戻ってくるのかどうか。いつ戻るのか。わからない。ただ――今回の別れが最後になるような気がしていた。理由はわからない。それでも、そう感じてしまう。目尻がわずかに濡れる。それでも彼女は涙をこらえた。人生は続
月は静かに眠り、夜は深く沈んでいく。やがて結代は眠りに落ちた。その目尻にはきらりと一粒の涙が残っている。彰人はそれを見つめ、胸が締めつけられるように痛んだ。結代は聞き分けがよく、そして人の心に敏い子だ。きっと――すべて分かっている。彼女にあるのは、ただ純粋な親子の情だけ。だが願乃との間には、かつて夫婦だった時間がある。そこに涼香という存在が重なり、かえって曖昧になってしまった。――それでも願乃はまだ自分を想っている。そうでなければ、あの距離の取り方にはならない。気づかないはずがないのだ。彰人はそっと、結代の艶やかな黒髪を撫でる。大きくなるほどに、母に似てきた。気づけば――願乃ももう三十六歳。女として最も輝く時期を過ぎている。――そんな彼女を自分はどうしてこれ以上縛れるだろうか。どうして、これ以上不安の中に閉じ込められるだろうか。この一年あまり、舞と京介は何度も海外へ飛んできた。澪安や澄佳も、何度か訪れている。――すべては彼の病のために。最初に倒れた時、危篤通知が出された。身寄りのない彼はそれをモナと涼香に託すしかなかった。だが最終的に駆けつけ、処置にあたったのは京介と舞だった。二人は丸一日、手術室の外で待ち続けた。周防家から受けた恩。それはもう、返しようがないほど大きい。――それなのに、どうしてまだ願乃を巻き込めるのか。彰人の胸に、離れがたい想いが広がる。離れたくない。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思う。この瞬間のまま――世界のすべてが止まり、願乃と、結代と、清席と、ずっとここにいられたなら。どれほど、そう願ったことか。結代は彼に寄り添いながら眠っている。清席は穏やかな寝息を立てている。静まり返った夜。部屋には、幼い子ども特有の甘いミルクの香りが満ちていた。彰人はそっと、結代の額に口づける。――結代、愛してる。それから慎重に立ち上がり、少女をベッドへと運び、心地よく眠れるよう整える。しばらくその寝顔を見つめ、次に清席のもとへ行き、同じようにそっとキスを落とす。生まれた時から父を知らないこの子は、彼が無理に望んだ存在だった。願乃を引き留めるための、鎖のようなものだった。……それでも、結局守
言葉にできないほどの想いが宿った、その視線の中で――彰人はもう抑えきれなかった。低く、かすれた声で呼ぶ。「願乃」願乃は視線を落とし、息子をしっかりと彼の腕へと預ける。「気をつけて」その声は静かで、どこまでも落ち着いていた。なぜ彼が突然そんな温もりを見せたのか――願乃には分からなかった。だが、受け入れることはできない。もう別れたから。そして今、彼の傍には涼香がいる。たとえかつて夫婦であり、二人の子どもをもうけたとしても――今、彼の隣にいるのは涼香なのだ。その線引きを願乃ははっきりと自分の中で定めていた。激しく揺れた感情もやがて静まっていく。彰人もまた、徐々に我に返った。――そうだ。もう、終わった関係だ。別れを切り出したのは自分。他に好きな人ができたと告げ、その人と生きると決めた。願乃を自由にすると言ったのも自分だ。先ほどの衝動はあまりにも身勝手だった。二人は距離を取るように別れ、願乃は家の用事を整えるために階下へと向かった。――彼を避けるように。静まり返った寝室に、彰人と清席だけが残る。彰人は息子を抱き、優しくあやした。不思議なことに、さっきまで眠るか眠らないかの状態だった清席は今はぱっちりと目を開け、じっと彰人を見つめている。まるで、初めて出会った存在を確かめるかのように。やがて、小さな手で彼の顔を包み込み――柔らかな声でこう呼んだ。「パパ」彰人は一瞬、息を呑んだ。次の瞬間、視界が滲む。――この子の口から、その言葉を聞くことはもうないと思っていた。だが、一歳の子どもはもう呼べるのだ。彼は強く息子を抱きしめ、その柔らかな頬に何度も口づけた。涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら。――こんな自分にまだこんな時間を与えてくれるなんて。生きるか死ぬかも分からない身でありながら、周防家は受け入れてくれた。願乃とも、子どもたちとも、こうして過ごす時間をくれた。それはきっと――彼に残された、最後の温もりなのかもしれない。彰人はかつて運命を恨んだことがあった。だが同時に――運命はどれほど自分に優しかったのかとも思う。願乃に出会わせてくれたのだから。その時、寝室の扉がそっと軋んだ。結代が布団を抱えて入ってくる。足
帰路は黒の専用車だった。運転席と後部座席は仕切られている。後部は広く、そして密閉された空間。そこに四人が座っていた。結代は彰人の腕にしがみつきながら、何気ないふりをして清席と遊んでいる。だが実際には、両親の様子に耳を澄ませていた。清席はようやく言葉を覚え始めたばかりで、まだうまく発音できず、「あー」「うー」と曖昧な声を出し、よだれも垂れてしまう。結代は慣れた手つきでその口元を拭き、車内で温めておいた哺乳瓶を取り出して、上手にミルクを飲ませた。清席は姉のスカートを握りしめながら、嬉しそうに声を上げる。その一方で――願乃と彰人の間には、どこかぎこちない空気が流れていた。一年以上も会っていなかった二人、明らかに距離ができている。人前ではまだよかったが、こうして二人きりに近い状況になると、どう接していいのか分からない。しばらくして、願乃が軽く咳払いをした。「あの子、ずいぶん安心してるみたいね」彰人が顔を上げる。「何が?」「ううん、なんでもない」願乃はそれ以上言おうとせず、視線を子どもたちへ落とした。一方、彰人はじっと彼女を見つめる。――安心してるって、何を指しているんだ。何に対しての安心なんだ。問いかけたい衝動が胸に込み上げる。だが結局、その思いは押し殺された。――自分には何一つ約束できないのだから。黒い車は静かに走り続ける。揺れに身を任せながら、三十分後――願乃の住む別邸へと到着した。そこはかつて彰人が彼女のために用意した場所だった。車が止まっても、彰人はしばらく動けなかった。あまりにも久しぶりだった。まるで夢の中にいるような感覚。再びこの場所に戻ってきた。願乃がいて、結代がいて、清席がいる場所に。視界がわずかに滲む。だが感情を抑え、先に車を降りると、車体に手を添えて願乃が降りるのを支えた。彼女は清席を抱いている。結代はすぐに彼の腕にしがみつき、離れようとしない。彰人はその小さな体を抱き寄せる。胸の奥に、さまざまな感情が入り混じる。この束の間の再会――どれほど自分は感情を抑え込んでいるのか。どれほど踏みとどまっているのか。……そうしなければ、きっとこの場を離れられなくなる。だが分かっている。自分が生きようと
最初に口を開いたのは舞だった。彰人を見つめ、静かに言う。「彰人、どうぞ座って」その一言――「彰人」という呼びかけはどれほど彼の立場を取り戻したことか。それだけで、彰人と周防家の縁が完全に切れていないことが伝わる。舞の中では、彼はいまだに「半ば家族」として扱われているのだ。席に着くと、京介が軽く肩を叩き、結代を呼び寄せて父の隣に座らせた。少女は大喜びだった。なぜこんなにも長く帰ってこなかったのか――その理由は分からない。けれど、きっと理由があるのだと信じている。父が自分や清席を愛していないはずがない、と。小さな顔を上げて、無邪気に尋ねる。「清席、かわいいでしょ?毎日ね、ママと一緒に弟のお世話してるの」その言葉に、彰人の胸が鋭く痛んだ。本当は立都市に残りたかった。子どもたちのそばにいたかった。だが、自分は足手まといでしかない。この一年、断続的に体調を崩し、脳の腫瘍はさらに一センチ大きくなった。いつ発作が起きるのかも分からない。手術がいつできるのかも、そもそも手術台から生きて降りられるのかも分からない。考えなければならないことが多すぎた。結局、浮かんだのは苦い笑みだけだった。結代もまた、微笑む。まだ幼いながらも、どこか大人びた理解を見せていた。父を問い詰めることも、泣きわめくこともない。伯母が言っていた――人にはそれぞれ事情があるのだと。父にもきっと、どうしようもない事情があるのだろう、と。でなければ、こんなにも長く帰ってこないはずがない。自分や清席、そして母のもとへ。父はまだ、母のことを想っている。結代はそう感じていた。……周防家が受け入れる姿勢を示したことで、それまで彰人と距離を置いていた者たちも、次第に彼へと歩み寄ってきた。グラスを手に、次々と挨拶に訪れる。だが京介がそれを制した。「今日は清席の誕生日だ。あとで父子でゆっくり過ごす時間もあるだろうしな。飲みすぎは子どもに良くない」もっともらしい理由だった。――本当は彰人が酒を飲めないからだ。肝移植を受けた彼の身体はもはやアルコールを許さない。生き延びたいなら、なおさらだ。それでも彰人は一度立ち上がり、軽く言葉を交わしてから、再び席に戻った。卓は静まり返って
清席が一歳になった頃――彰人は一度、立都市へ戻ってきた。その頃には、彼の肝臓の状態は安定しており、見た目はすっかり健康な人間と変わらなかった。だが、病歴を知る者でなければ分からない。彼の脳にはなお腫瘍が残っていることを。それはまるで時限爆弾のように、いつ命を奪うか分からない存在だった。その日、周防家では清席の一歳の祝いが開かれていた。五十卓にも及ぶ盛大な宴。立都市の上流社会においては、この子が彰人の子であることは周知の事実だった。だが、誰もそれを口にはしなかった。彰人が若い女性と関係を持ち、願乃とは別れ、今は海外で稼いでいる――所在すら定かでない、という噂が広まっていたからだ。そして清席を見れば、一目で分かる。顔立ちはまさに彰人そのもの、まるで同じ型から抜き出したかのようだった。まだ一歳の幼子ながら、よちよちと数歩は歩け、言葉にならない声も発している。その愛らしさに、何家族もの人々が代わる代わる抱き上げては、手放せずにいた。宴が最高潮に賑わいを見せていたその時――不意に、会場のざわめきがぴたりと止まった。視線が一斉に、入口へと集まる。そこに立っていたのは他でもない、清席の実の父、彰人だった。外では、モナと涼香が待っている。彼は一人、そこに立っていた。黒と白のクラシックなスーツに身を包み、かつて幾度となく立都市の宴に出席していた頃と何一つ変わらない佇まい。耳元の髪一筋に至るまで乱れはない。ただ、以前よりもずっと痩せていて、その分、鼻筋の高さが際立って見えた。ゆっくりと歩みを進め、願乃の前へ。そして視線を落とし、清席を見つめる。「パパ――」結代が声を上げ、その胸に飛び込んだ。彰人は少女の頭をそっと撫で、じっと顔を見つめる。それから、願乃と清席へと視線を移した。その瞳はひどく明るく澄んでいた。まるで彼自身のようでありながら、どこか違う。彰人の幼い頃には、こんな賑やかな光景も、五十卓もの客に囲まれることもなかった。あったのは陰鬱で湿った空気と、這い回る鼠だけだった。願乃もまた、彼を見つめ返す。周囲のすべての客も、息を潜めて彼を見ていた。しばしの沈黙の後、彰人は低く問いかけた。「抱いてもいいか?」願乃は目を潤ませながら、静かに頷いた。
「会いたかった」その一言が寒真の内に残っていた熱をすべて燃え上がらせた。ゆっくり、大切にするつもりだった。彼女を傷つけないように。そう積み上げてきた理性は瞬く間に灰となって崩れ去り、残ったのは抑えきれない衝動と、蠢く欲望だけだった。夕梨は助手席へと抱き上げられ、微かな音とともにシートベルトを掛けられる。寒真は運転席に座り、ハンドルを両手で握ったまま、しばらく考え込んだ。そして――アクセルを踏み込み、車は街の中心部へと向かった。年末年始、彼は帰省していた。大半は郊外の邸宅で過ごしていたが、一人暮らしのマンションも念入りに整えてあった。そして、バレンタインの夜。
すべてが順調に流れ始めた。二日後、澪安の両親がベルリンに到着し、思慕も一緒に連れて来てくれた。それだけではない。願乃も合流した。寛夫婦は飛行機が難しくなってしまったが、輝――慕美の義理の父と、赤坂瑠璃が末娘の夕梨を連れて来た。さらに赤坂茉莉、岸本美羽まで勢ぞろいし、皆が慕美に力を届けに来てくれた。大きな別邸は、あっという間に満室になった。年長者の温かさは言うまでもない。慕美が人生で欠いてきたものが、この家ではすべて満たされていくようだ。――まるで人生にもう思い残しがないかのように。思慕は、一ヶ月以上も母に会えていなかった。まるで子猫のように、母の肩に頬を
そのキスマークは、耳の後ろにうっすら赤く残っていて、どう見てもついさっき刻まれたばかりのものだ。一目で、熱の余韻そのままの痕跡だと分かる。夕梨はもう世間知らずの少女ではない。その意味くらい、痛いほど理解していた。寒真に対してとっくに恋心など持っていないし、本気で愛したこともない。それでも、やはり胸のどこかがざらついた。彼女の視線があまりに真っ直ぐだったのだろう。寒真はそれに気づき、無意識に指先でその痕をさわった。空気が、途端に微妙な色合いになる。夕梨は前方を向いたまま、細い喉をきゅっと緊張させ、静かに言った。「前にミルクティーのお店がありましたよね。買っ
しばしの沈黙のあと、夕梨はようやく言葉を絞り出した。「朝倉さん。この方が、あなたのお母さまですか?」二週間ぶりに見る彼は、短く伸びた髭のせいか、どこか荒々しく精悍になっていた。カフェには学生や若い客が多く、その中のひとりが彼に気付き、小さなレシートを握りしめて駆け寄ってきた。「朝倉監督、サインいただけませんか!」それを皮切りに、次々と数名が押し寄せる。寒真は、普段から決してファンサービスをするタイプではない。彼は手を挙げて彼女らを制し、落ち着いた声で言った。「悪い。友人と会っている。今日は無理だ」若い女の子たちの視線は、すぐさま夕梨へと向かった。私服はご