LOGIN耀石グループ最上階――社長室。床まで届くほどの大きな窓には、ブラインドが下ろされていた。室内は薄暗い。章真は円形ソファに腰掛け、目の前の液晶モニターを無言で見つめていた。そこに映し出されているのは、楓ヶ丘邸の2階だった。画面は自由に切り替えられ、あらゆる角度から室内の様子を確認できる。結安は知らない。楓ヶ丘邸の2階には、至る所に隠しカメラが設置されていることを。浴室、寝室、ウォークインクローゼット――人に見られるはずのない、あらゆる場所に。結安が邸に足を踏み入れた瞬間から、章真はずっと見ていた。彼女が中へ入る姿も。荷物をまとめる姿も。あのシャツを見つめ、ぼんやりと立ち尽くす姿も。彼女は気づいていた。それなのに、まるで気に留めていないかのように、あっさりと受け入れた。自分に他の女がいるという事実を。――そうだ。彼女自身だって、藤堂駿がいるのだから。結安は長居しなかった。去るのも早かった。最初から最後まで、一度たりとも後悔する様子はなかった。それでいい。後悔などしなくていい。そもそも自分だって、もう彼女など必要としていない。そう思っているはずなのに。章真が握るワイングラスの指先は、白くなるほど強く力が込められていた。次の瞬間――彼は突然グラスを投げつけた。赤ワインの入ったグラスは、正面の壁へ激しく叩きつけられる。ガシャン……乾いた破砕音が響いた。グラスは粉々に砕け散り、濃い色の液体が壁や床へ飛び散る。それでも、章真の顔には一切の表情が浮かばなかった。その音を聞きつけ、桐生が扉を開けて入ってきた。目の前の惨状を見た瞬間、何があったのか大体察したのだろう。何も言わずに近づき、しゃがみ込んで破片を拾い始める。そして静かに報告した。「立花様がお越しです。いえ……結安さんの叔父様である立花拓凡様です。立花安奈さんもご一緒です」章真は最初、会うつもりなどなかった。一人は意気地のない男。もう一人は、ただ派手な女。そう思っていた。だが、ふと考え直す。――一度、顔を見ておくのも悪くない。しかし、部屋に入ってきたのは拓凡と安奈だけではなかった。結安の叔母、立花夫人も一緒だった。その女は一筋縄ではいかない人物だ
章真は主寝室のドアを開けた。リビングスペースには、結安が残していった痕跡があふれていた。彼女が寄りかかっていたクッション。彼女が使っていたクリスタルグラス。窓辺のカーテンでさえ、彼女の好みに合わせて掛け替えられたものだった。この部屋のすべてが、彼女のために整えられていた。それなのに、彼女は何のためらいもなく去っていった。身体はもう別の女に触れた。それでも――章真は、どうしても結安を忘れられなかった。彼女が残した物のせいなのか。それとも、彼女が残していった想乃の存在のせいなのか。章真は一つひとつに静かに手を触れていく。明日、結安が荷物を取りに来たら、この部屋をきれいに片づけよう。彼女の痕跡を、何もかも消してしまおう。これから先、結安という存在は、自分の人生にはもういない。最初から出会わなかったことにすればいい。想乃も――まるで石の間から突然生まれてきた子どもだったとでも思えばいい。しばらくして、章真はバスルームへ入った。シャツのボタンを一つずつ外し、そのまま脱ぎ捨てる。すると、襟元には鮮やかな口紅の跡が残っていた。章真は外の女とキスをするのは好まない。あれは、琴葉がわざとシャツに残したものだった。少しだけ躊躇したあと、彼はそのままシャツをランドリーバスケットへ放り込む。――明日、結安はここへ来る。このシャツを目にするかもしれない。それでも、隠そうとは思わなかった。いや、隠すことさえ面倒だった。もう、その必要はない。彼女は自分を選ばなかった。そして、自分ももう彼女を選ばない。シャツが床へ落ちる。スラックスも。最後に、黒いボクサーパンツも足元へ滑り落ちた。章真は裸足のままシャワールームへ入り、熱い湯を全身に浴びる。顔を上げ、目を閉じる。もう終わりにすると決めたはずなのに。どうして、ふとした瞬間に彼女のことを考えてしまうのだろう。彼女が、自分に別の女ができたと知ったら。どんな反応をするのだろう、と。――章真。彼女は、そんなこと気にも留めない。彼女の心にいるのは、藤堂だけなのだから。章真は静かに目を閉じた。――藤堂が回復したら。二人は、本当に一緒になるのだろうか。シャワーを終え、黒いシルクのパジ
夜になると、結安は想乃に付き添った。章真は隣の個室にいたが、それ以上彼女と顔を合わせることはなかった。その後の2日間も、二人が言葉を交わすことはほとんどなかった。結安が章真を避けていたのか、それとも章真が結安を避けていたのか――その答えは誰にも分からない。想乃が退院する日でさえ、久しぶりに顔を合わせた二人の間には、驚くほどよそよそしい空気だけが流れていた。まるで、一度も愛し合ったことなどなかったかのように。あの幸せだった日々も、幾度もの別れも、涙も――すべては幻想だったように。章真が彼女に執着したことなどなく。結安もまた、密かに彼を想い続けたことなどなかった。二人が共に歩んだ証は、想乃という存在と、世間を騒がせたあの報道だけだった。翌朝。結安は想乃の退院手続きを済ませると、小さな頭をそっと撫でた。子どもは、大人が思う以上に敏感だ。想乃はしょんぼりとうつむき、アヒルのぬいぐるみを抱きしめたまま尋ねる。「ママ……もう一緒に帰らないの?」その一言が、結安の胸を鋭く締めつけた。彼女はしゃがみ込み、想乃を優しく抱き寄せる。頬をそっと擦り寄せながら、穏やかに微笑んだ。「ママに会いたくなったら、いつでもビデオ通話してね。ママもちゃんと新しい生活が落ち着いたら、今度は想乃と一緒に暮らせるように頑張るから」――章真も、いつかは新しい家庭を築く。新しい奥さんができたら、その時こそ想乃は自分のもとへ帰って来られる。そんな淡い期待を抱いた、その瞬間だった。ふと顔を上げると、そこには章真の深い瞳があり、視線が重なった。まるで彼女の考えを見透かしたかのように、その目にはかすかな嘲りが宿っていた。だが、想乃の前だったからか、何も言わなかった。章真は歩み寄り、想乃を抱き上げると、小さな頭を優しく撫でる。「帰ろう、パパと」想乃は父親の首にぎゅっと抱きつきながら、子猫のような瞳で何度も結安を振り返る。少しずつ遠ざかっていく小さな背中。その大きな瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいた。結安はその場に立ち尽くし、そっと顔を上へ向ける。そうしなければ、涙がこぼれてしまうから。泣いてしまうから。想乃は、自分がお腹を痛めて産んだ娘だ。愛しくないはずがない。そして、結
結安は黒い服に身を包んでいた。装いこそ質素だったが、その姿は以前よりもずっと痩せて見える。たった数日で、はっきりわかるほど頬がこけていた。章真は鼻で笑った。――藤堂のため、か。両親が動いたことで、藤堂の件はほぼ収束に向かっている。家もおそらく戻ってくるだろう。あいつは何一つ失わずに済む。失ったのは、自分だけだ。結安を失った。……なら、それでいい。藤堂が好きなら、あいつのところへ行けばいい。夜の闇の中、章真の瞳は氷のように冷え切っていた。結安は静かに想乃を抱き上げ、小さな体を胸に寄せると、そっと頬を寄せた。それから章真へ視線を向け、静かな声で尋ねる。「風邪?それとも、何か怖い思いをしたの?」章真は長いこと答えなかった。ただ高い位置から彼女を見下ろしている。顔を見るだけで腹が立つ。自然と脳裏によみがえるのは、彼女が床にひざまずき、両親に「章真の前からいなくなります」と涙ながらに頼んでいたあの日の姿だった。結安も彼が何を思い出しているのか察したのだろう。静かに口を開く。「章真……子どもの前にまで感情を持ち込まないで。私たちのことを、想乃に影響させないでほしいの」章真は冷たく笑った。「お前はもう出て行っただろ。そんなお前が、今さら『想乃に影響させるな』なんて言うのか?」……結安は彼から酒の匂いを感じ取った。言い争う気にはなれず、そのまま想乃を抱いたまま慣れた足取りで2階へ向かう。細い身体なのに、想乃を抱く姿は驚くほど自然だった。それだけ、この数年間、何度も何度も娘を抱きしめてきたのだろう。その光景に、章真の胸は焼けつく。愛おしい。それなのに、憎らしい。検査の結果、想乃は急性胃腸炎だった。湿度の高い気候に加え、もともと身体が弱かったため症状が出たらしい。2日ほど入院し、点滴を受ければ回復するとのことだった。点滴を終え、小さなベッドに横になった想乃は、結安の手をぎゅっと握る。「ママ……想乃のそばにいて……」結安はベッドに身を寄せ、優しく微笑んだ。「うん。ママはどこにも行かないよ。ずっと想乃のそばにいる」その言葉に想乃は安心したように笑みを浮かべる。手にはふわふわのアヒルのぬいぐるみ。しばらく遊ぶうちに、静かな寝息を立て始
章真は、もともと人目を惹く容姿の持ち主だった。涼しげな目元に、すっと通った鼻筋。知的で上品な雰囲気をまとっている一方で、全身から支配者特有の圧倒的な威圧感が漂っている。たった一言発しただけで、安奈は身体の力が抜けそうになり、今すぐホテルへ連れ込まれたいとさえ思ってしまう。それなのに、当の本人はここで時間を無駄にしている。安奈はグラスを手に取った。赤い唇をわずかに開き、章真を見つめながら挑発するように酒を飲み干す。空になったグラスをカウンターへ置いた。章真が顎をわずかに上げる。察しのいいバーテンダーは、すぐに店で最も高価なボトルを2本運んできた。栓を抜き、安奈の前へ2杯注ぐ。安奈はすでにほろ酔いだった。この酒がどれほど強いかも知っている。酔い潰れれば何も覚えていられないだろう。それでも彼女は上へ這い上がりたかった。どうしても章真を手に入れたかった。男も、その莫大な財産も、すべて欲しかった。今はただ、彼と一夜を共にしたかった。人は欲望を抱けば、すべてを賭けるようになる。章真の気を引くためなら、何でもする。章真は一言も発しなかった。ただ視線を向けただけだった。それだけで安奈は48度の洋酒を一本、一気に飲み干した。命こそ落とさないにしても、身体には相当こたえる量だ。飲み終えた彼女は、そのままテーブルへ突っ伏し、泥のように動かなくなった。薄暗い照明の下。胸元は大きくはだけ、肌があらわになる。章真は静かにその姿を見つめると、自分の前のグラスを手に取り、一気に飲み干した。口元には冷たい笑みが浮かんでいる。そのまま何の未練もなく立ち上がり、ジャケットを手にバーを後にした。安奈ほど魅力的な女なら、喜んで世話を焼いてくれる男など、いくらでもいるだろう。運転手はすでに外で待機していた。章真の姿を見ると、恭しく頭を下げる。「葉山様、お屋敷へお戻りになりますか」章真は後部座席へ腰を下ろし、頭を後ろへ預けて目を閉じた。酒を飲んだせいで全身が熱い。首筋にはほんのりと赤みが差している。安奈が妖艶な目で彼を狙うのも無理はない。確かに、人を惹きつけるだけの魅力はある。そうでなければ、結安が若い頃に恋をすることもなかっただろう。しばらくして、章真
章真は事を穏便に処理したつもりだった。それでも、結安と別れたという噂は、いつの間にか世間へ広まっていた。芸能誌には連日のように彼のゴシップが載った。今日は人気女優から告白されたという記事。明日は有名モデルと食事をしたという記事。とにかく、1日たりとも静かな日はなかった。夕暮れ時。章真のもとへ、陽白から電話がかかってきた。電話の向こうで、陽白は笑いを含んだ声を響かせる。「章真、すっかり芸能人の仲間入りだな。毎日ゴシップ誌の一面を飾ってるじゃないか。そんなに相手をしていて、身体がいくつあっても足りないだろう?」「全部でたらめだ」章真は携帯電話を握り、低い声で答えた。結安と別れてからというもの、想乃は毎日のようにママを求めて泣いている。章真は連日まっすぐ帰宅し、娘を宥めるだけで精一杯だった。ほかの女を探す気力など、あるはずもない。結安から連絡がない日が1日増えるたびに、彼女への恨みも一つずつ積み重なっていった。本当に、娘まで捨てたつもりなのだろうか。電話の向こうで、陽白が静かに笑った。「章真、久しぶりに一杯どうだ?今夜は空いてるか?」……章真は少し考え、誘いを受けることにした。酒を1杯飲むだけだ。9時には切り上げれば、帰って想乃を寝かしつけるのにも間に合う。電話を切ったあとも、章真はしばらく大きな窓の前に立ち尽くしていた。風に雲が激しく流れ、夕焼けに染まった雲が空の彼方で揺れている。頭に浮かぶのは、あの女のことばかりだった。もう3日も、何の連絡もない。本気で、すべてを断ち切ったつもりなのだろう。自分を気にかけないのは構わない。だが、想乃のことまで気にならないのか。……午後7時半。立都市でも名の知れたバー、「縁」その名に違わず、客の八割ほどは独り身だった。もちろん、陽白は例外だ。彼が章真を酒に誘ったのには、きちんとした目的があった。あの二人は別れてしまった。だが、互いに想い合っていることは、誰の目にも明らかだった。章真のやり方が、普段からいささか強引なのは事実だ。結安が受け入れられなかったのも無理はない。ここまで拗れてしまった以上、先に頭を下げるべきなのは章真だろう。そもそも、悪いのは彼なのだから。やがて
夕梨が病室を出てくると、朝倉家の面々が一斉に彼女を出迎えた。紀代は、涙ぐみながら尋ねた。「どうだった?寒笙は何か食べてくれそう?」夕梨は淡い笑みを浮かべた。「ええ、もう大丈夫です」朝倉家の人々は感謝の言葉を口にし、仁政もまた、惜しみない称賛を送った。仁政は昔から夕梨のことを気に入っていた。だからこそ、今でも未練を抱いているのだ。寒真があの女優と別れ、夕梨と寄りを戻せばいい、あの二人はあんなにお似合いだったのに、別れてしまうなんてあまりに惜しい――と。夕梨は彼らの心中をおおよそ察していたが、静かに首を横に振った。「兄と約束しているんです。三十分で戻ると言いまし
夕梨が目を覚ましたのは、翌日の早朝だった。右手の小指に、鈍い痛みが走っている。そして下腹部には、それ以上に重く、無視することのできない密やかな痛みが居座っていた。天井を仰ぎ見たまま、夕梨は悟った。あの子はいなくなってしまったのだと。熱い涙が次々と溢れ出したが、拭おうともしなかった。子どもを失ったのだ、声を上げて泣くことくらい許されるはずだ。最初は静かな、嗚咽のような泣き声だった。それが次第に声を放つようになり、最後には胸を掻きむしるような慟哭へと変わった。彼女が失ったのは、単なる一つの命ではない。一つの愛、そのすべてだった。終わったのだ。寒真との関係は、これ以上ない
央筑ホテルに特大の案件が舞い込んだ。バレンタインデーの前後三日間、周防家がホテルを丸ごと貸し切り、澪安と慕美の結婚式を執り行うという。当日は、二百六十室すべての客室と全宴会場――そのすべてを周防家が使用する。総額およそ五千万円。だが価値は金額のそれにとどまらない。栄光グループは国内最大の財閥であり、その社長がここで結婚式を挙げるとなれば、とてつもない話題性が生まれる。この一件が、央筑ホテルの名を全国へ押し出すのは目に見えていた。まさにホテル側にとっての分岐点――そんな重大イベントだった。ホテル責任者の蒼川青河(あおかわ せいが)は、夕梨を執務室へ呼び出した。夕梨
夕方になり、夕梨は目を覚ました。意識が戻った途端、腰はだるく、全身がばらばらになったように痛む。……彼女はゆっくりと寝返りを打ち、柔らかなベッドに仰向けになって、手で照明の光を遮った。けれどしばらくすると、じっとしていられず、布団を跳ねのけ、裸足のまま分厚いウールのカーペットを踏みしめ、寝室の大きな窓の前へ行く。手を伸ばしてカーテンを引くと、目に飛び込んできたのはスイスのユングフラウだ。連なる雪山。山頂には白い雪が厚く積もり、麓には濃く鮮やかな緑が広がっている。――息を呑むほど、美しい。胸が弾み、黒い男物のシャツ一枚を身にまとったまま、彼女はソファの背に身を







