تسجيل الدخول一睡もしていなかった。陽白はほとんど一晩中休むことなく彼女を離さなかった。すべてが終わったのは夜明け前――五時近くだった。芽衣はすっかり酔いも醒め、ベッドにうつ伏せのまま、指一本動かしたくないほど疲れ切っている。だが、あれだけ身体を使ったはずの男はまるで何事もなかったかのようにシャワーを浴びて戻ってくる。彼は彼女の耳元に身を寄せ、低く囁いた。「芽衣……抱いて、風呂に連れていこうか?」芽衣はかすかに首を振る。――本当に、人じゃない。三十を過ぎているのに、まるで若い頃のまま。昨夜が何度目だったのか、もう数えることすらできない。一度も休まなかった気がする。全身が重く、鈍く軋む。長い髪は汗でしっとりと背に張りつき、シーツを引き寄せる気力すらなかった。今はただ――眠りたい。陽白との関係について考える余裕もない。目が覚めたら、そのときに考えればいい。――きっと、ただの事故として片づけることになるだろう。彼の性格を思えば、深く気にすることもないはずだ。……そう思いながら、芽衣はすぐに眠りに落ちた。白いシーツの上に、汗に濡れた黒髪が散らばる。清らかさと、どこか艶めいた気配が同時に漂っていた。陽白はその姿を見つめる。――もし体力が許すなら、まだ続けられた。それほどまでに、彼女は変わらず――いや、以前よりも魅力的だった。長い年月を経ても、求めていたものは変わらない。結局、探し続けていたのは芽衣だった。そして今、ようやく彼女は再び自分の腕の中にいる。陽白はベッドに横たわり、彼女を抱き寄せる。背を軽く叩きながら、静かに眠りへと誘う。額を彼女の髪に寄せたまま、彼もまた、穏やかな眠りに落ちていった。――予想外の出来事はいつも唐突に訪れる。……昼近くになった頃。澄佳は家の手伝いの女性を連れて、芽衣の部屋へやって来た。掃除をするためだった。この時間なら、芽衣は外に出ているだろう――そう思っていた。ドアを開けた瞬間、目に入ったのはテーブルに残された鍋のスープ。空になったワインボトルがいくつも転がっている。ソファには、娘のワンピース。その横に、男物のシャツと黒いショートパンツ。ベルトは床に投げ出されたまま。――慌ただしい夜だったことは一
蓮司が去ったあと、芽衣は何が起きたのか理解できなかった。まただ。彼はまた、自分を選ばなかった。仕事と自分――いつだって彼は迷うことなく仕事を取る。責めることはできない。そもそも、正式に付き合っていたわけでもない。――もし今夜、陽白がいなければ、きっと二人はそのまま流れに身を任せていた。身体を重ねるだけでもよかった。あんなふうに途中で離れていくより、ずっとましだった。……まだ、何も起きていない。芽衣はそう思った。けれど――胸の奥はやはり痛んだ。期待していなかったわけじゃない。蓮司と同じように、この関係に少しは未来を見ていた。それがあっさり終わった。――きっと、これが最後。もう二度と、やり直すことはない。大人はそんなふうに、行ったり来たりしない。煌びやかな照明の下で、ふと芽衣は思う。――少し、飲みたい。ワインセラーには、彼女が集めてきたボトルが並んでいる。上質な赤ワインやシャンパンばかりだ。芽衣は数本取り出し、グラスを二つ用意して、静かにワインを注ぐ。「……少し付き合って」そう言って、陽白の前に差し出した。陽白は黙って彼女を見つめる。「失恋したからか?」芽衣は椅子の上で膝を抱え、まるで二十代の頃のように小さくなりながら、グラスを揺らす。しばらくして、ぽつりと答えた。「失恋ってほどじゃない……少なくとも、八年前に比べたら。ただ、お互い選ぶ人生が違っただけ」一拍置いて、彼女は続ける。「陽白……あのときね、私、全部考えてたの。あなたの未来のことも、自分がどう支えるかも……ほんと、バカみたい。あなたが誰かに道を用意してもらうような人じゃないのに。仕事も、夢も、全部自分で掴む人だって、分かってたはずなのに。私は、あなたを繋ぎ止めることなんてできなかった。故郷だって、あなたを引き止められなかった。あなたは前に進く人だから」――あれから、いくつかの恋をした。けれど、本気で誰かを愛することはもうできなかった。もし本気で続けようと思えば、方法はあったはずだ。蓮司だって、他の誰だって。それでも、芽衣は踏み込まなかった。初恋のときのように、何もかもを差し出すことができない。誰が来ても、誰が去っても――ただ、それだけのこと。少し
男の言葉が落ちた瞬間、空気が微かに揺らぐ。――あいつにできることなら、俺にもできる。それは金の話でも、優しさでも、ましてや結婚の話でもない。ただ露骨なほどに、生々しい欲求のことだった。芽衣はもう三十歳。子どもではない。それでも――この言葉は受け止めきれなかった。何より、相手が陽白ではなおさら。しかも今、自分は蓮司を部屋に連れてきている。芽衣は言葉を選びながら口を開く。「私は彼とちゃんと向き合ってみたいと思ってるの」すぐさま、返ってくる。「俺でもいいだろ」芽衣は言葉を失った。この場を離れたい。けれど出るには、彼の前を通るしかない。だから彼女はまっすぐ陽白を見た。眩しい照明の下、互いの表情は隠しようがない。芽衣の顔には、どうしようもない困惑。陽白の瞳に、わずかな攻めの色が宿る。――ほんの数秒。次の瞬間、それは霧のように消えた。代わりに浮かんだのは、穏やかで柔らかな笑み。「冗談だよ、芽衣。彼氏ができたなら、それはいいことだ。実はあいつの映画にも出資してるんだ。気にしないでくれ、一緒に鍋を囲むくらい。年も少し下だろ?少しは気を遣わないとな……もちろん、お前の顔を立てて、だけど」――そんなに都合よく、割り切れるもの?芽衣は疑いを捨てきれない。だが、陽白はさらに続けた。「ちょうど今、メディアグループの案件を取りにいこうと思っててさ。担当、お前の義理の叔父だろ?今度、紹介してくれないか?」芽衣は一瞬、思考が止まる。――義理の叔父?それはつまり――彰人のことだ。陽白を見つめる。見れば見るほど、その立ち居振る舞いや笑みがどこか彰人に似ている気がしてくる。だが違う。彼にはあの人のような陰はない。ごく普通の家庭で育ち、穏やかに生きてきた男のはずだ。――考えすぎだ。芽衣は小さく息をついた。「……分かった。今度ね」それは蓮司のためでもあった。陽白は微笑む。笑うと、浅いえくぼがわずかに浮かび、それが不思議と柔らかな魅力を添えていた。彼は一歩近づき、芽衣を見下ろしながら、低く囁く。「そんなに好きなのか?あいつのこと」また、空気が変わる。その瞬間、足音が近づいてきた。蓮司だ。陽白は一歩退き、何事もなかったように火
芽衣はまだ蓮司の首に腕を回したままだった。本来なら、甘く濃密な夜になるはずだった。けれど――陽白の視線を浴びたままでは、どうにも続けられない。彼女はそっと腕をほどき、軽く咳払いをする。「陽白……どうして来たの?」陽白は指先の煙草を唇に運び、深く一吸いしてから床に押し消す。それから足元の荷物を持ち上げ、二人を見やりながら穏やかに言った。「実家から少し取り寄せたものがあってね。よかったら食べてくれ。新鮮なきのこで鍋にすると美味いんだ。それと――母からの年始の気持ち」そう言って、小さな箱を差し出す。あまりにも自然な仕草だった。芽衣は受け取り、中を開く。箱の中にあった翡翠のブレスレットは明らかに高価すぎた。横で蓮司もそれを見ている。愚かな男ではない。すぐに察した――陽白の意図もそして二人の過去も。蓮司は芽衣を見た。芽衣は陽白を見た。――帰ってほしい。このブレスレットは返すつもりだった。もう恋人ではないのだから、母親からの贈り物を受け取る理由はない。だが、言葉を口にする前に、陽白はまるでこの家の主のように顎を軽く上げ、芽衣に合図する。「寒いし、今食べるのがちょうどいいだろ。蓮司も一緒にどうだ……邪魔して悪いな。鍋でも囲んで、詫びにさせてくれ」ここまで言われては蓮司も断れない。芽衣も追い返すことができなかった。――奇妙な三人の夜が始まる。部屋に入ると、陽白は気遣うように言った。「二人はゆっくりしてていい。鍋は俺がやる」そう言われて、芽衣は蓮司を連れて寝室へと入った。もちろん、二人きりの時間を過ごすためではない。――ただ、彼から距離を置くためだった。芽衣は申し訳なさを感じていた。だが蓮司は穏やかに言う。「もしかしたら、ただの同窓の縁かもしれないよ。今は隣人でもあるし、関係を保っておきたいだけかもしれない。仕事でも何かと助けになるし」芽衣はそうは思えなかった。――けれど、そう思うしかない。あれほど自然に振る舞い、しかも自分たちのために鍋まで用意している。もし別の意図があるなら、普通はここまで余裕を見せないはずだ。つまり――蓮司の言う通り。過去は過去として、良い関係を保ちたいだけ。そう結論づけたとき、芽衣の胸は少し軽くなった。やが
芽衣が断ったあと、車内には長い沈黙が落ちた。やがて、陽白はそっと彼女の手を取った。そこに男女の情や欲は一切なく、ただ軽やかな口調で言う。「冗談だよ、芽衣。お前が俺を許さないことくらい分かってる。このままの距離でいよう。お前が恋をして、結婚するのを見届けるよ」芽衣は顔を横に向け、彼を見つめた。驚いたような表情だった。――相変わらず、切り替えが早すぎる。だが、芽衣はそれ以上深く考えなかった。アクセルを踏み込み、そのままマンションへと車を走らせる。距離は近い。十分ほどで地下駐車場に着き、車を停めると、彼女は隣の男へ視線を向けた。「着いたわ。降りて」陽白はまるで夢から覚めたように瞬きをする。そして妙に丁寧な口調で言った。「送ってくれてありがとう、芽衣」芽衣はハンドルに手を置いたまま、指先で軽く叩きながら言う。「陽白。正直、あなたがここにいると少しプレッシャーなの。それに大学の同級生たちにも、ちゃんと説明してほしい。私たち、もう元には戻れないから」陽白はあっさり頷いた。「分かった。あとで卓史に話しておくよ」――そこで、ふと声色が変わる。「なあ芽衣。俺って、そんなにお前に負担をかけてる?もう無理だとして……それでも、俺に対して何も感じないのか?たとえば今も。あの日、同じベッドで抱きしめたときも……女としての欲求すら、何も?」芽衣は言葉を失う。陽白は小さく笑った。「冗談だよ。芽衣……また会えて、嬉しい」まるで何事もなかったかのような、余裕の笑みだった。芽衣には、彼がまるで分からない。一緒にいようと言ったことも、追いかけると言ったことも――すべて軽口のように聞こえる。だから、彼女はすぐに手放した。そのまま二人は別れ、それぞれの家へ帰る。――そして、すぐに正月を迎えた。忙しさも落ち着き、自炊する気にもなれなかった芽衣は両親とともに周防本邸へ戻って年を越すことにした。祖父母も高齢で、こうして顔を合わせられる時間が、あとどれほどあるか分からない――そんな思いもあった。年始の間、蓮司が地方での撮影を終えて戻ってくる。何度か芽衣を誘ってきた。考えた末、芽衣は思う。――蓮司は悪くない。結婚に至らなくても、もう一度短い恋をしてみるのもいいかもしれない。
芽衣は正直なところ陽白のことなど放っておきたかった。だが卓史に別れを告げようとした瞬間、陽白がするりと彼女に絡んできた。細い手首を軽く掴み、もう片方の手には自分のコート。そのまま周囲と自然に会話を続ける。手を繋ぐわけではない。けれど――逃がさない。ここにいるのが当たり前だと示すような、絶妙に距離を詰めた仕草だった。芽衣は振りほどけない。それに――ここで騒ぎを起こすつもりもない。外から見れば、完全に恋人同士だ。陽白は時間を計っていた。十分ほど。見せるべき相手に、きちんと見せる。やがて、かつての学部長まで近づいてきて、陽白の肩を軽く叩いた。「これからは大事にしなさい。あんな遠くまで行かなくてもいい。芽衣はいい子だ。家柄も申し分ない」陽白はいつも飄々としているが、学部長の前では昔のように礼をわきまえる。芽衣の手を引いて一歩前へ出ると、穏やかに微笑んだ。「はい、先生。今日はお車、大丈夫ですか?よろしければ、私たちの車でお送りしましょうか」短いやり取りで、さらに印象を固める。――二人は恋人だと。学部長は手を振る。「いや、大丈夫だ。代行を呼んである」そのまま、二人で駐車場まで見送る。車が走り去ると、陽白は自然な口調で言った。「じゃあ、俺たちも帰ろうか」近くにいた同級生たちが、それを聞いて手を振る。「お疲れー」「またなー」と声をかけた。完全に「そういう関係」として認識されている。陽白はふと芽衣を見て、その手を優しく包んだ。「芽衣……こういうの、なんか夫婦みたいだな。同窓会の帰りに、一緒に家に帰る感じ」芽衣はちらりと彼を見て――「……バカみたい」と、小さく鼻で笑った。だが車に乗り込んだとき、彼女の鼻先はわずかに赤くなっていた。――あの言葉に、反応してしまった。大学時代の三年間。あの頃の彼との未来を、芽衣は本気で思い描いていた。自分の家は裕福で、彼も優秀だった。障害なんて、ほとんどなかった。順調にいけば、二十五歳で結婚して、三十になるまでに、子どもが二人か三人。――そんな未来。だが現実は違う。三十になった今、陽白は海外から戻り、好き放題に生きてきた男として、目の前にいる。ハンドルを握りながら、芽衣はぼんやりと思った
輝はすぐに岸本家へ戻らず、まずはシャワーを浴びた。シャツとスラックスを脱ぎ捨て、高く鍛えられた体をそのまま浴室に入れる。シャワーヘッドをひねると、ほどなく蒸気が立ちこめ、五官は霞んでいく。だが瞳の奥に沈む痛みだけは、なお鮮やかだった。——岸本は逝った。瑠璃はひとり残された。自分も独り身。それでも、どうすれば彼女を取り戻せるのか、どれだけの時が要るのか、その答えは見えない。ただ一つ分かっているのは、決して諦めはしないということだった。十分後、輝は腕を伸ばして湯を止め、タオルで顔と体を拭った。視線がふと下へ落ち、数秒だけ止まったが、すぐに黙って無視した。服を着替え終える
年明け16日目、琢真は英国へ留学することになった。輝は自ら彼を送り届け、数日間は現地に留まり、環境に馴染むまで見守ってから立都市へ戻る予定だった。荷造りは、周到に準備されていた。瑠璃の母と瑠璃が細かく揃えてくれたのだ。寒さの厳しい英国の冬に備え、瑠璃の母は厚手の防寒具を幾つも詰め込み、二つの大きなスーツケースがいっぱいになった。だが専用機なので荷物が多くても問題はない。到着先には整ったアパートメントが用意され、専任の家政婦が二人つき、外出の際は専属運転手が送迎する——すべて輝の手配である。未成年の彼を思ってのことだった。瑠璃はようやく安堵した。男の子だから独立をと望むか
年の瀬も押し迫り、大晦日の少し前、家々では正月を迎える支度に追われていた。輝は久しぶりに周防家の本邸へ戻った。家族は皆揃っており、欠けているのは彼ひとりだけだった。席についた途端、京介の皮肉が落ちてきた。「兄貴はもう岸本家の婿殿。年中走り回って、正月ですら顔を見るのも稀だな」輝は杯を取り、一気に飲み干してから舞に視線をやった。「舞、お前が少しは彼を抑えろ」舞は微笑む。「私にそんな度胸、あると思う?」輝は大きく頷き、調子を合わせる。「その通りだ。うちの京介様は昔から反骨の塊。腹の底は悪知恵ばかりで、俺じゃ太刀打ちできない。まあ、勝てないなら仲間に入ればいい。そ
痛い。津波が押し寄せた瞬間、輝は琢真を抱き倒し、その身で覆い守った。狂風と怒涛。波は次々と高くなり、轟音を立てて襲いかかる。すでにサッカー場の最上段にいたはずなのに、荒れ狂う水は容赦なく二人を打ち据えた。大自然の力は恐ろしい。波がぶつかるたび、それは巨岩に何度も叩きつけられるような衝撃。痛い。痛い……輝は奥歯を噛みしめ、必死に堪えた。自分が倒れれば、この少年も生き残れない。冷え切った身体は、いつ低体温症に陥ってもおかしくなかった。それでも激しい痛みに耐えながら、輝は琢真の手を擦り、震える指で背負っていた荷を解いた。取り出したのは、薄い保温シート、最後の乾パン







