往事は静かに沈む。新しい命を抱きしめながらも、古い傷はなお疼き、時折ひりつくように心を裂いた。外でしばし気持ちを整え、ようやく病室へ戻った瑠璃。明るく振る舞っていたが、岸本にはすぐわかった。彼は妻をそばへ引き寄せ、じっと目を覗き込む。「どうしたんだ?目が少し赤いぞ」「何でもないわ。ただ風に砂が入っただけ」両手を取った岸本は、しばらく見つめてから柔らかく言った。「じゃあ、これからは砂のある道は避けて歩くんだ。いいな?」「うん」瑠璃の目に笑みが戻る。彼女はもはや、過去に囚われることはなかった。……二日後、岸本の肺の手術は無事成功した。当面は化学療法の必要もなく、三か月の静養をすすめられる程度だった。入院中の半月、瑠璃の母は家で三人の子どもたちを世話し、瑠璃は病室に付き添った。岸本の会社の業務は、大半を瑠璃が担った。春の夕暮れ、赤い残陽が病棟の窓を染めるころ。長男の琢真がひとりで病室を訪れた。二人の妹はまだ幼く何も気づかないが、十二歳の少年は理解していた。——父が「盲腸」などであるはずがない。きっと重い病なのだ。病室の扉を開けると、父は眠っていた。小さなテーブルでは、父の三番目の妻が書類に目を通している。ふっくらとした頬、孕んだ身を抱えながらも、その横顔は穏やかで優しかった。この人は……父を愛している。少なくとも、情はある。最初は野心家だと思っていた。だが一緒に過ごすうち、父への愛情は確かなものだとわかった。自分や美羽にもよくしてくれる。媚びるわけではなく、生活や勉強を気遣ってくれる。——父を失うことになるのだろうか。そのときは……視線に気づいた瑠璃が振り返る。少年の瞳は複雑な色を帯びていた。壊れた幼少期を生きてきた彼女には、その怯えがちな心が痛いほど理解できた。「琢真くん、おいで」「おばさん」少年は歩み寄り、小さく呼んだ。瑠璃は頭を撫で、やさしく微笑んだ。「パパ……死んじゃうの?」少年の声は震えていた。瑠璃の瞳が潤む。首を振り、静かに言った。「おばさんはね、パパに生きてほしいと願ってるわ……でも、琢真くん。たとえどんなことがあっても、あなたと美羽の生活は変わらない。あなたはいつまでもお父さんの誇りで、岸本家の長男
正月明け、岸本は入院して手術を受けることになっていた。このことは三人の子どもたちには秘密で、「ちょっとした盲腸の手術だ」とだけ伝えてある。入院前夜、瑠璃は荷物をもう一度点検し、必要な物がすべて揃っているかを確認してからようやく胸を撫で下ろした。夜が静まり返るころ、公務を片づけて戻った岸本は、寝室のクローゼットで妻を見つけた。彼女は一枚の家族写真を手に、ぼんやりと見つめていた。背後から抱き寄せ、岸本は低く囁いた。「朱音から聞いたよ。会社を売るつもりなんだって?もし忙しすぎるなら、プロの経営者に任せればいい。俺が人材を探すことだってできる」瑠璃は肩にもたれ、首を振った。「やっぱり……売ろうと思うの」手術後の容態は不透明だ。家には三人の子どもに加え、腹の中にもひとり。合わせて四人を育てていかねばならない。悩んだ末の決断だった。惜しさはあるが、最良の選択だと信じた。言葉にしなくても、彼は妻の胸中を察していた。岸本は何も言わず、ただ彼女を抱きしめ、共に夜の静寂に身を委ねた。……翌日、岸本は入院した。諸手続きを終え、病室へ入ると、瑠璃は思いがけない人物と出会った。玉置だった。「京介に頼まれて来たんだよ。安心して。輝には言わないから」穏やかな笑みを浮かべる玉置に、瑠璃の目頭は熱くなった。医師と看護師が出ていくのを待ち、瑠璃は夫を軽く責めるように言った。「どうして大事なことを黙ってたの?玉置先生が執刀してくださるなら、本当に安心できるわ」真実の病状を知っていながら、岸本は妻を心配させまいと微笑んだ。「お前を驚かせたくてさ。これでもう眠れない夜はなくなるだろ?」「ええ、ずいぶん楽になったわ……あとで京介にお礼を言わなきゃ」この数年、京介と舞には何度も助けられた。瑠璃はずっと感謝していた。ちょうどそのとき、瑠璃の携帯が鳴った。買収希望の相手からの電話だった。価格で難色を示していたが、専門の鑑定によれば彼女の提示額は十分低い。少し考えた末、先方は承諾を伝えてきた。最終的な取引額は70億円。瑠璃は先方と数言やり取りを交わし、正式契約のサインを高級カフェで行うことで合意した。通話を切ると、夫に向かって冗談めかした。「私、失業しちゃった。これからは岸本さんに養ってもらわないと
食後、岸本は子どもたちにお年玉を渡した。瑠璃は家の女主人として、使用人たちへも祝儀を配る。料理人や運転手を含め十数人、それぞれに四十万円ずつ。残業手当は別途支給だ。岸本家の使用人たちは、そんな女主人を心から慕っていた。すべて配り終え、瑠璃が広間へ戻ると、茉莉が手を引いた。「ママ、叔父さんが二階で待ってるよ。びっくりすることがあるんだって」瑠璃は大きなご祝儀だろうと思った。だが、岸本に案内されたのは二階のバルコニーだった。彼は気遣うように厚手のコートを肩に掛け、子どもたちと並んで外の闇を見上げさせた。突然、遠くの夜空に大輪の花が弾ける。一斉に咲き乱れる花火は、まるで夜そのものを飲み込むようで、濃く鮮やかな色彩が空一面を覆い尽くしていく。最後に浮かび上がったのは、城のかたちだった。子どもたちは歓声を上げ、瑠璃の母もまた笑顔を見せた。瑠璃は呆然と立ち尽くし、その頬に驚きと感激の色が広がっていた。こんなふうに扱われたことは、一度もなかった。壊れた幼少期……彼女は一度も「お姫様」になったことがない。いつだって脇役だった。見上げる夫に、瑠璃は嗚咽まじりに囁いた。「雅彦」「ここにいる」岸本は深く見つめ返した。「瑠璃、俺の世界ではお前こそが姫であり、主役なんだ。たとえ余命がわずかでも、お前を必死に抱きしめ、決して手放さない。愛は遅れてやってきたのかもしれないが、それでも確かにやって来たんだ。病に屈して、この想いを諦めたりはしない。愛してしまえば、それだけでいい。打算なんて必要ない」言葉はいらなかった。その眼差しがすべてを語っていた。瑠璃はそっと背伸びをして、その唇に触れる。やがて二人並んで、夜空を彩る光の饗宴を眺めた。それは岸本からの新年の贈り物であり、彼女に遅れてやって来た「童心」を取り戻すものでもあった。遠く、道路脇に黒いレンジローバーが停まっていた。輝は窓越しに城の花火を見上げ、まるで絵本の一場面のようだと感じながら、男の腕に幸福そうに身を預ける瑠璃を無表情に見つめていた。彼は少し前、絵里香と激しく口論していた。大晦日の食卓で、彼女は周防家の面々を前に二つの条件を突きつけたのだ。正月明けすぐに婚姻届を出すこと。茉莉の親権を自分に渡すこと。その場にいた者たちの顔色は一様に
午後、玉置が姿を現した。岸本は人目を避け、外のカフェで待ち合わせた。初対面ゆえ、言葉は少ない。彼は電子カルテのデータを差し出し、玉置は画面に目を落とす。読み進めるほどに、その眉間は深く刻まれていく。——診断は、小細胞肺がん。肺疾患の中でも最も悪性度が高く、発症の早い段階から血行性転移を起こす厄介な病だ。手術はできても、その後に抗がん剤治療が必要で、それでも完全な寛解は望めない。玉置の表情だけで、岸本はおおよそのことを悟った。視線を外に向けると、通りは人波で賑わっていた。活気に満ちた往来、笑い声、走り抜ける子ども。道端で空き瓶を拾ったホームレスが、小さく笑みを漏らしている。それは、確かに「希望」の顔だった。——その希望が、少し羨ましい。岸本は胸ポケットから財布を取り出し、中の現金をすべて抜き取った。二十万円ほど。店員を呼び、通りのホームレスに渡すよう頼む。この金で、運命が変わることはない。だが、小さな旅館に泊まり、温かい湯に浸かり、清潔な服に着替え、人としての体面を取り戻すことはできる。年が明ければ、仕事を探す力も湧くかもしれない。店員は一瞬、言葉を失った。玉置は黙ってそのやり取りを見つめ、どこか思案げだった。「……ただ、少し思っただけですよ。人生は本当に、何があるかわからない」そう言って、岸本は苦く笑う。玉置はカルテに視線を戻し、病巣の影を指でなぞった。「もし信じていただけるなら、私が執刀します。一刀で根治はできませんが……数年、寿命を延ばすことは可能です」「……感謝します、玉置先生」短く答え、二人は席を立った。夕陽が沈む。向かいのビルの青い外壁が、一瞬にして影に沈み、やがて街灯が一つ、また一つと灯っていく。その光景の中に、岸本はしばらく一人で座り込んだ。——あと数年、生きられる。それは十分に幸運なはずなのに、心は満たされない。幸福を知ると、人は貪欲になる……彼は瑠璃に悟られぬよう、三十分ほどしてから病室に戻った。手には、彼女の好きな蓮の実入りの小豆ぜんざい。瑠璃は嬉しそうに受け取り、匙でひと口すくって口に運ぶ。中には柑橘の皮がひとかけ入っていて、ほのかな苦みが広がる。だが、そのわずかな苦味こそが、甘さを引き立てていた。
その知らせは、京介の胸を深く揺さぶった。長く沈黙したのち、彼は携帯を取り上げ、ある番号にかける。「肺に病巣がある患者がいる。玉置さんに診てもらいたい。ただし、絶対に内密に……両親にも知らせないでください」傍らの中川は、その声音に込められた重みを感じ取り、胸が締めつけられた。通話を終えた京介は、背をゆっくりとソファに預け、顔を横に向けて八格窓の方を見やる。夕暮れ時、透明なガラスは橙に染まり、まるで祝福の光のように明るかったが、彼の胸の内には重く澱むものが沈んでいた。なぜ、自分があえて手を貸したのか——おそらく、瑠璃があまりにも多くの苦しみを背負ってきたからだ。それは、あの日の舞への償いにも似ていた。病院、VIP病室の扉が軋んで開いた。姿を現したのは、大輔だった。手には保温ポット。中には自ら釣ったばかりの野生の魚で作ったスープが入っている。八十平米ほどの病室は清潔に整えられ、空気すら柔らかな香りを帯びていた。彼は中に足を踏み入れることもできず、入口で立ち止まったまま、気恥ずかしそうに言った。「優奈の妊婦健診に付き添ったときに、偶然見かけてな……聞いたら安静にしてるっていうじゃないか。特別なものじゃないが、これは父さんが釣った魚だ。妊婦にいい。気に入ったら、毎日でも釣って持ってくる」瑠璃は枕元に身を預け、冷ややかに答えた。「いらないわ。持ち帰って」大輔の顔に、たちまち苦い影が走る。付き添いの看護師が、柔らかくもきっぱりと告げた。「妊婦さんの休養を妨げないでください。お帰りください」言いかけた言葉を、彼は飲み込んだ。本当は、今日ここに来たのは別の目的もあった。——年明けの優奈の結婚式。嫁入り道具をそろえる金がない。瑠璃に数百万円ほど工面してほしい……しかし口にはできず、保温ポットを置いた。「また来るよ」去っていく背中を見送りながら、看護師がそっと尋ねる。「奥さま、魚スープ……召し上がりますか?」瑠璃は本を見下ろしたまま、淡々と答えた。「外のゴミ箱に捨てて。何か口にするのは、岸本さんが戻ってからにするわ」……その頃、岸本は別荘に戻り、簡単な荷物をまとめて階下へ降りてきた。台所では、瑠璃の母が滋養のスープをよそっている。茉莉と美羽は、色とりどりの椅子に
冬の朝。周防夫人は早くに起き出した。冬の空気は薄く、吐く息が白い。正月を間近に控えた周防家の屋敷では、使用人たちが買い出しや支度に奔走していた。中庭を車が行き来し、黒い排気が途切れることなく上がっている。賑やかさの中に、ふと孤独の影が差す。二階のバルコニーに、黒い服を身にまとった輝の姿があった。祝い事には似つかわしくない装いだが、その高く引き締まった背筋と、周防家譲りの整った顔立ちは、見る者の目を引く。けれど、その横顔には沈んだ寂寥が漂い、年の瀬を迎える人間にも、ましてや結婚を控えた男にも見えなかった。その様子を目にした周防夫人は、足早に通りかかった寛の妻を呼び止めた。「輝、どうしたの?あんな暗い顔をして……もうすぐお正月でしょ。茉莉ちゃんも冬休みに入ってるはず。なんで呼んで一緒に過ごさないの?」その言葉に、寛の妻は小さくため息を漏らした。「私だって会いたいわ。でも、輝がね……瑠璃が結婚したから、これからは何かと難しいって。つまり、このままじゃ孫娘とも会えなくなるってことよ。それに絵里香は子どもができないでしょう?……このままだと、私たちの家系はここで途絶えるのよ。毎晩夫とその話になると、眠れなくて……」彼女はさらに続けた。「イギリスから帰ってきたときも、輝は瑠璃に冷たい顔をしていた。もしあの時、彼女が歩み寄ろうとしても、あれじゃ気持ちも折れるわ。女って、そんなに強くないもの。その後はうまくいくかと思ったのに……あの日、輝が帰宅して荷物をまとめていた顔はまるで春風に浮かれたようで、夜も帰らなかった。きっと瑠璃と一緒にいたんだって、私も安心したの。ところが、ひとたび出張に行ったら、もう別の相手……感情を、何だと思っているのかしら」礼の妻は、心の中である言葉を反芻していた。——途絶える?いや、輝にはもう新しい子がいる。でも、その子の姓は岸本……周防夫人は心に引っかかるものを押し隠し、わざと明るく言った。「でも、絵里香も素敵な人よ。愛のためなら、何だって犠牲にできる」「誰も犠牲なんて求めてないわ」寛の妻は冷ややかに返した。これ以上は危ないと感じ、礼の妻は口をつぐむ。やがて、寛の妻は話題を切り替えた。「お土産をいくつか買ったの。見てくれない?若い子が喜びそうなものを選びた