LOGIN自分の願乃だ。彼女は二十二歳のとき、彼のもとに来た。それを他人に渡せるはずがない。だが、どうしようもなかった。……車は小刻みに揺れながら、空港の地下駐車場を抜け出す。一時間後、静かに一軒の邸宅へと滑り込んだ。そこはかつて、彰人と願乃がともに暮らしていた場所だった。立都市に戻ってきた今も、彼はここを選んだ。使用人はすでに総入れ替えされている。涼香は現在、彰人の専属秘書として身の回りの世話を担っていた。体調は以前よりずっと安定し、脳の手術も無事に終えている。それでも彼女は離れなかった。自ら辞めるとは言わず、彰人もまた、彼女を手放そうとはしなかった。――とくに、願乃に恋人ができた今となってはなおさら。涼香はこの邸宅には住んでいない。少し離れた場所にあるマンションで暮らしている。通いやすいようにと、彰人が用意したものだった。この数年、涼香は彼を支え続けてきた。その献身はもはや他人とは呼べないほどで――二人は半ば家族のような関係になっていた。車を降りると、使用人たちが一斉に頭を下げる。「氷室様、お帰りなさいませ」「玉井様、お帰りなさいませ」……彰人は軽くうなずくだけで、そのまま二階へ上がっていった。涼香はその場に残り、細かな指示を出す。やがてすべてを終え、二階へ上がると――彰人はリビングにいた。ソファに座り、指先でその布地をなぞっている。まるで、何かを確かめるように。足音に気づき、彼は顔を上げることなく、静かに言った。「ここの家具、もう十年以上そのままだ。でも、替える気になれないんだ。願乃との思い出だから。なあ、涼香。願乃とあの男……藤宮陽斗との関係は長く続くと思うか?もし別れたら――その時、俺がもう一度彼女を追いかけたら……振り向いてくれると思うか?また、一緒にいられると思うか?」楓人は言っていた。彼の余命はあと二十年は問題ないと。その残された時間を彰人は願乃とともに生きたいと願っている。だが――その機会がまだ残されているのかは分からない。涼香の胸がぎゅっと締めつけられた。この三年間、彰人は一瞬たりとも楽ではなかった。ようやく帰国したと思えば、目の前にあったのは――願乃の新しい幸せだった。それでもなお、彼の想いは変わらな
二年――ほとんど音沙汰はなかった。願乃はこの先もう二度と会うことはないのだろうと思っていた。生活がようやく落ち着きを取り戻し始めた、その矢先――彰人は再び彼女の前に現れた。ひとりだった。なぜか涼香の姿はない。以前より幾分、顔色は良く見える。だが、どこか違う。全身に、拭いきれない陰がまとわりついていた。思いがけない再会に、胸の内はひどく複雑に揺れる。願乃は呆然と、男を見つめていた。遠くから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。やがて目の前に立ち――「願乃」その懐かしい呼び声を聞いた瞬間、我に返る。気づけば、視界は滲んでいた。完全に、取り繕うこともできずに。彰人は彼女の前に立ち、ただ見つめ合う。周囲の人影はまるで消えたかのように感じられた。残っているのは、互いの存在と、胸の奥に沈殿した記憶、そして拭いきれないわずかな未練。それが彼女のものなのか、彼のものなのか――もはや分からない。願乃は込み上げるものを押し殺し、静かに問いかける。「戻ってきたの?長くいるの、それとも一時的に?」彰人は淡々と答える。「結局、帰るべき場所に戻ってきた」願乃は小さくうなずく。「そう。いいと思う」彰人が何か言いかけた、その時だった。入国ゲートから、もう一人の長身の男が現れる。足早に願乃のもとへ来ると、自然に彼女を抱き寄せ、頬に軽く口づけた。「待たせたね」願乃は避けることなく、そのまま受け入れる。そして軽く彼を押し返し、二人同時に彰人の存在に気づいた。陽斗は芸能界の人間だ。彰人のことを知らないはずがない。海外育ちで、どこか自由な気質を持つ彼は願乃と付き合うと決めた時点で、過去にこだわるつもりなどなかった。むしろ、自然に手を差し出す。「藤宮陽斗。願乃の恋人です」彰人も落ち着いた仕草で手を差し出す。「氷室彰人です」短く握手を交わし、すぐに離れる。願乃は静かに口を開いた。「迎えは来てる?もしなければ、私たちの車で市内まで送るけど」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、後方からキャリーケースを押しながら涼香が現れた。願乃と、その隣に立つ陽斗の姿を見た瞬間、涼香の表情にわずかな不安がよぎる。彰人をちらりと見やる。取り乱さないかと、気が
夜はあまりにも短かった。けれど同時に、果てしなく長くもあった。近づくことの方が離れることよりも、こんなにも苦しいものだったなんて。一分一秒が彰人にとってはまるで煉獄のようだった。手放したくないという想いと、別れへの恐れが胸の中でせめぎ合う。やがて東の空が白み始める。彼は重く滲む目を上げ、――もう行かなければならないと悟った。最後に清席をそっと抱きしめ、結代の柔らかな頬に口づける。寝室を出るとき、その足取りはひどく重かった。客室の前で軽く扉を叩く。「願乃、もう行くよ」しばらくして、内側から声が返る。「わかった」それきりだった。彰人はしばらくその場に立ち尽くしたが、結局、扉が開くことはなかった。やがて静かに背を向ける。ゆっくりと一歩ずつ階段を下りていく。庭に出るころには、空はすっかり明るみを帯びていた。四月の朝の風が頬を撫で、かすかな冷たさを運んでくる。石段の下には、黒い高級車が停まっていた。モナと涼香が迎えに来ている。彰人はもう行かなければならない。午前十時発の専用機で、そのままベルリンへ向かうのだ。車に乗り込む直前、ふと足を止める。振り返り、二階を見上げた。書斎の大きな窓にはカーテンが垂れ、気配は見えない。それでも彼はしばらくじっと見つめていた。どこか、何かを失ったような表情で。やがて歯を食いしばり、車に乗り込む。ほどなくして、黒い車は静かに動き出し、屋敷の門を抜けていった。そのまま、遠くへ――完全に見えなくなるまで。その時になって初めて、二階の書斎のカーテンがそっと開かれた。願乃が部屋の隅から姿を現す。朝の光を浴びたその頬は透き通るように白く、淡く輝いていた。彼女は何も言わず、ただ遠くを見つめる。あの黒い車が視界から消えていく、その瞬間まで。背後から、小さな手が彼女に回される。「ママ……パパ、行っちゃったの?」結代の柔らかな声だった。願乃は静かにうなずく。「うん」彰人がもう戻ってくるのかどうか。いつ戻るのか。わからない。ただ――今回の別れが最後になるような気がしていた。理由はわからない。それでも、そう感じてしまう。目尻がわずかに濡れる。それでも彼女は涙をこらえた。人生は続
月は静かに眠り、夜は深く沈んでいく。やがて結代は眠りに落ちた。その目尻にはきらりと一粒の涙が残っている。彰人はそれを見つめ、胸が締めつけられるように痛んだ。結代は聞き分けがよく、そして人の心に敏い子だ。きっと――すべて分かっている。彼女にあるのは、ただ純粋な親子の情だけ。だが願乃との間には、かつて夫婦だった時間がある。そこに涼香という存在が重なり、かえって曖昧になってしまった。――それでも願乃はまだ自分を想っている。そうでなければ、あの距離の取り方にはならない。気づかないはずがないのだ。彰人はそっと、結代の艶やかな黒髪を撫でる。大きくなるほどに、母に似てきた。気づけば――願乃ももう三十六歳。女として最も輝く時期を過ぎている。――そんな彼女を自分はどうしてこれ以上縛れるだろうか。どうして、これ以上不安の中に閉じ込められるだろうか。この一年あまり、舞と京介は何度も海外へ飛んできた。澪安や澄佳も、何度か訪れている。――すべては彼の病のために。最初に倒れた時、危篤通知が出された。身寄りのない彼はそれをモナと涼香に託すしかなかった。だが最終的に駆けつけ、処置にあたったのは京介と舞だった。二人は丸一日、手術室の外で待ち続けた。周防家から受けた恩。それはもう、返しようがないほど大きい。――それなのに、どうしてまだ願乃を巻き込めるのか。彰人の胸に、離れがたい想いが広がる。離れたくない。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思う。この瞬間のまま――世界のすべてが止まり、願乃と、結代と、清席と、ずっとここにいられたなら。どれほど、そう願ったことか。結代は彼に寄り添いながら眠っている。清席は穏やかな寝息を立てている。静まり返った夜。部屋には、幼い子ども特有の甘いミルクの香りが満ちていた。彰人はそっと、結代の額に口づける。――結代、愛してる。それから慎重に立ち上がり、少女をベッドへと運び、心地よく眠れるよう整える。しばらくその寝顔を見つめ、次に清席のもとへ行き、同じようにそっとキスを落とす。生まれた時から父を知らないこの子は、彼が無理に望んだ存在だった。願乃を引き留めるための、鎖のようなものだった。……それでも、結局守
言葉にできないほどの想いが宿った、その視線の中で――彰人はもう抑えきれなかった。低く、かすれた声で呼ぶ。「願乃」願乃は視線を落とし、息子をしっかりと彼の腕へと預ける。「気をつけて」その声は静かで、どこまでも落ち着いていた。なぜ彼が突然そんな温もりを見せたのか――願乃には分からなかった。だが、受け入れることはできない。もう別れたから。そして今、彼の傍には涼香がいる。たとえかつて夫婦であり、二人の子どもをもうけたとしても――今、彼の隣にいるのは涼香なのだ。その線引きを願乃ははっきりと自分の中で定めていた。激しく揺れた感情もやがて静まっていく。彰人もまた、徐々に我に返った。――そうだ。もう、終わった関係だ。別れを切り出したのは自分。他に好きな人ができたと告げ、その人と生きると決めた。願乃を自由にすると言ったのも自分だ。先ほどの衝動はあまりにも身勝手だった。二人は距離を取るように別れ、願乃は家の用事を整えるために階下へと向かった。――彼を避けるように。静まり返った寝室に、彰人と清席だけが残る。彰人は息子を抱き、優しくあやした。不思議なことに、さっきまで眠るか眠らないかの状態だった清席は今はぱっちりと目を開け、じっと彰人を見つめている。まるで、初めて出会った存在を確かめるかのように。やがて、小さな手で彼の顔を包み込み――柔らかな声でこう呼んだ。「パパ」彰人は一瞬、息を呑んだ。次の瞬間、視界が滲む。――この子の口から、その言葉を聞くことはもうないと思っていた。だが、一歳の子どもはもう呼べるのだ。彼は強く息子を抱きしめ、その柔らかな頬に何度も口づけた。涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら。――こんな自分にまだこんな時間を与えてくれるなんて。生きるか死ぬかも分からない身でありながら、周防家は受け入れてくれた。願乃とも、子どもたちとも、こうして過ごす時間をくれた。それはきっと――彼に残された、最後の温もりなのかもしれない。彰人はかつて運命を恨んだことがあった。だが同時に――運命はどれほど自分に優しかったのかとも思う。願乃に出会わせてくれたのだから。その時、寝室の扉がそっと軋んだ。結代が布団を抱えて入ってくる。足
帰路は黒の専用車だった。運転席と後部座席は仕切られている。後部は広く、そして密閉された空間。そこに四人が座っていた。結代は彰人の腕にしがみつきながら、何気ないふりをして清席と遊んでいる。だが実際には、両親の様子に耳を澄ませていた。清席はようやく言葉を覚え始めたばかりで、まだうまく発音できず、「あー」「うー」と曖昧な声を出し、よだれも垂れてしまう。結代は慣れた手つきでその口元を拭き、車内で温めておいた哺乳瓶を取り出して、上手にミルクを飲ませた。清席は姉のスカートを握りしめながら、嬉しそうに声を上げる。その一方で――願乃と彰人の間には、どこかぎこちない空気が流れていた。一年以上も会っていなかった二人、明らかに距離ができている。人前ではまだよかったが、こうして二人きりに近い状況になると、どう接していいのか分からない。しばらくして、願乃が軽く咳払いをした。「あの子、ずいぶん安心してるみたいね」彰人が顔を上げる。「何が?」「ううん、なんでもない」願乃はそれ以上言おうとせず、視線を子どもたちへ落とした。一方、彰人はじっと彼女を見つめる。――安心してるって、何を指しているんだ。何に対しての安心なんだ。問いかけたい衝動が胸に込み上げる。だが結局、その思いは押し殺された。――自分には何一つ約束できないのだから。黒い車は静かに走り続ける。揺れに身を任せながら、三十分後――願乃の住む別邸へと到着した。そこはかつて彰人が彼女のために用意した場所だった。車が止まっても、彰人はしばらく動けなかった。あまりにも久しぶりだった。まるで夢の中にいるような感覚。再びこの場所に戻ってきた。願乃がいて、結代がいて、清席がいる場所に。視界がわずかに滲む。だが感情を抑え、先に車を降りると、車体に手を添えて願乃が降りるのを支えた。彼女は清席を抱いている。結代はすぐに彼の腕にしがみつき、離れようとしない。彰人はその小さな体を抱き寄せる。胸の奥に、さまざまな感情が入り混じる。この束の間の再会――どれほど自分は感情を抑え込んでいるのか。どれほど踏みとどまっているのか。……そうしなければ、きっとこの場を離れられなくなる。だが分かっている。自分が生きようと
夕梨が病室を出てくると、朝倉家の面々が一斉に彼女を出迎えた。紀代は、涙ぐみながら尋ねた。「どうだった?寒笙は何か食べてくれそう?」夕梨は淡い笑みを浮かべた。「ええ、もう大丈夫です」朝倉家の人々は感謝の言葉を口にし、仁政もまた、惜しみない称賛を送った。仁政は昔から夕梨のことを気に入っていた。だからこそ、今でも未練を抱いているのだ。寒真があの女優と別れ、夕梨と寄りを戻せばいい、あの二人はあんなにお似合いだったのに、別れてしまうなんてあまりに惜しい――と。夕梨は彼らの心中をおおよそ察していたが、静かに首を横に振った。「兄と約束しているんです。三十分で戻ると言いまし
ベルリン。ホテルの最上階のスイートルーム。寒真が独りで酒を煽っていると、ドアを叩く音が響いた。ルームサービスかと思い、彼はグラスを置いて立ち上がった。しかし、ドアの向こうに立っていたのは、予期せぬ人物――玲丹だ。水色のシルクの浴衣を纏った彼女は、この上なく官能的だった。細い肩に流れる黒いウェーブのかかった髪が男を誘い、手には赤ワインのボトルを携えている。彼女はそれを軽く掲げて見せた。「一緒に一杯、どうかしら?」女の意図を察するのは難しくなかった。寒真は少し考えた後、無言で彼女を中に招き入れた。だが、部屋に戻るなり、彼はシャツとスラックスに着替え、隙のない身なりで
ついに、その時が訪れた。邸内に入った寒真は真っ先に寒笙の姿を捉えた。周囲が反応する間もなく、彼は最愛の弟を力一杯抱きしめ、その背を何度も強く叩いた。その仕草だけで、言葉以上の思いが交わされた。寒真の傍らに立つ夕梨は、ふとした瞬間に寒笙と視線がぶつかった。交わされる視線に、万感の思いが込み上げる。だが、この歓喜に沸く再会の喧騒の中で、二人がかつて愛し合っていたことを知る者は誰もいない。幼い日の無垢で、何物にも代えがたいほど尊かった恋心は、あの日、不慮の事故とともに消え去ったはずだった。再会した彼女は「兄の恋人」となり、彼は「命の恩人の娘」を妻に迎えていた。翠乃は良き妻だっ
言葉が終わるのとほぼ同時に、走行性能の高い車が、わずかに揺れた。だが、寒笙はすぐに立て直し、何事もなかったかのように淡々と口を開いた。「……彼女とは同じ大学だったんだ。昔、キャンパスで顔を合わせたことがある」翠乃は納得したように頷いた。「そうだったのね。お二人とも、とても優秀な方たちですもの。不思議じゃないわ」寒笙はふと妻の横顔に視線を向けた。形の良い薄い唇をきつく結んだまま、結局それ以上の説明はしなかった。どう説明しろというのか。若い頃に想いを寄せた相手を、ひとつの事故で失い、再会した時には自分は妻子ある身で、彼女は兄の婚約者になろうとしている――そんな残酷な真実