Masuk高梨に案内され、結安は応接室を後にした。――シェリーとして。部屋に残された面々はしばらく言葉を失っていた。やがて琴葉が紫苑へ視線を向ける。息を呑むような声だった。「紫苑さん……どういうことですか?シェリー、本当に葉山社長と知り合いなんですか?」紫苑は彼女を見て鼻で笑った。「本当に鈍いわね。昔の葉山章真がどれだけ女優と噂になったと思ってるの?週刊誌を賑わせるたびに、いちいち否定したことがあった?どうでもいい相手なら、わざわざ声明なんて出さないのよ」……琴葉はようやく理解した。確かに二人の間には何かがある。ただ、その感情は綺麗なものではない。章真は明らかに怒っている。だからこそ――自分にもチャンスがある。琴葉は化粧室へ向かった。鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。艶のある黒髪。卵型の小さな顔。清楚で柔らかな雰囲気。よく見れば、自分とシェリーはどこか似ている。二十八歳とはいえ、業界では「永遠の清純派」と呼ばれてきた。――葉山章真はシェリーに腹を立てている。だったら、自分がその隙間に入り込めばいい。琴葉は胸の内で静かに計算を巡らせた。……その頃。高梨は結安を最上階の社長室へ案内していた。コンコン――軽くノックする。「葉山社長、立花様をお連れしました」中からは男女の話し声が聞こえていた。芽衣と陽白だった。一人はソファに腰掛け、一人は執務机の前に立っている。高梨の声を聞いた瞬間、芽衣は立ち上がり、静かに入口へ目を向けた。四年。結安は二十四歳になった。それでも芽衣には、あの頃と変わらない少女に見えた。胸の奥がじんと熱くなる。芽衣にとって結安は、かつて可愛がっていた少女というだけではない。兄――章真がどうしても忘れられなかった人でもあった。四年間。兄は一度も彼女の名を口にしなかった。だが蝶野から聞いている。結安の私物は今も主寝室にそのまま残されていることを。誰にも触れさせず、一つたりとも失くすことを許さなかったことを。その間、恋人も作らなかった。……それなのに、海外にいたあの女性のことはどう説明するつもりなのだろう。芽衣の頭は混乱するばかりだった。――本当に厄介な縁だ。だからこそ、彼女は
あまりにも出来すぎた偶然だった。結安が口を開くより先に、琴葉が不満そうに顔をしかめた。もともとその役のオーディションは自分だけに声がかかっていた。シェリーは候補にも入っていなかったはずだ。それが一夜にして状況が変わった。ただスキャンダルが出ただけで、自分と同じ土俵に立たされたのだ。琴葉は皮肉たっぷりに言った。「紫苑さん、まさか本気でこの人が葉山社長の彼女だなんて思ってるんじゃないでしょうね?葉山社長ほどの人なら、付き合うにしたって一流か二流の人気女優でしょ。どうしてこの人ですか?昨夜の声明だって見ましたよね?完全に否定されたじゃないですか。交際なんて認めてもらえなかったんですよ。髪をストレートにして、清楚な服を着たからって清純派になれるわけじゃないんです。その路線で勝負するなら、この業界で食べていけるのは私です。紫苑さん、ちゃんと人を見る目は持ってくださいね」琴葉は巨石エンターテインメントの看板女優だった。結安より芸歴も長い。立ち回りも上手い。社内には彼女の味方が多かった。そして何より――彼女の言葉には一つだけ否定できない事実があった。章真は結安との関係を否定した。もし認めていたなら、周囲の態度はまったく違っていただろう。今頃は媚びる人間が結安の周囲を埋め尽くしていたかもしれない。だが現実は違う。後ろ盾のない者は踏みつけにされる。それが芸能界だった。小野が反論しようとした瞬間、紫苑が鋭く声を上げた。「もうやめなさい!」会議室が静まり返る。紫苑は冷ややかに続けた。「これは星耀エンターテインメント側からの要望よ。不満があるなら今すぐ帰りなさい。オーディションを受ける必要もないわ」……琴葉はようやく口を閉じた。だが内心では納得していなかった。むしろ腹立たしさは増していた。――シェリーは何を考えているの?セクシー路線で順調だったくせに。急に清純派へ転向するなんて。どう考えても自分の仕事を奪うつもりではないか。なら見てやろう。どれほどの実力があるのか。本当に自分を押しのけられるのか。巨石側が用意した二台の送迎車は、三十分後、星耀エンターテインメント本社へ到着した。琴葉は自分が事実上のナンバー2だと思っている。
章真の車が楓ヶ丘邸へ戻った頃だった。まだ車を降りてもいないうちに、桐生から電話がかかってきた。その声は珍しく切迫していた。「葉山社長、大変です。ネットのトレンド一位になっています。ご覧になりましたか?社長とシェリーさんが密会していたとか、彼女が恋人だとかいう噂です。国家代表チームの敗戦ニュースまで押しのけてしまっています。どう対応しましょうか」章真は眉をひそめた。「彼女は結安だ」電話の向こうが静まり返る。長い沈黙のあと、桐生はようやくその意味を飲み込んだ。――あのシェリーが結安だった?結安が帰ってきた?いや、帰ってきたのではない。ずっと立都市にいたのだろう。ただ、この街はあまりにも広すぎる。幹線道路は何車線も続き、人が偶然出会うにはあまりに難しい。だが、社長がどうやって結安と再会したのか。桐生にそれを尋ねる勇気はなかった。「……どのように対応なさいますか?」そう小さく問いかける。章真は迷いなく答えた。「広報に声明を出させろ。女優シェリーとのスキャンダルを否定する」桐生は思わず息を呑んだ。これは事実上、関係を公表する絶好の機会だった。もし社長が結安と本気で一緒になるつもりなら、今こそ彼女に正式な立場を与えるべきではないのか。否定してしまえば、結安はまた日陰の女のままだ。桐生の中では、結安は今でもあの十八歳の少女だった。何か言ってあげたかった。けれど、章真の意思は固かった。彼は腹を立てていた。胸の奥にくすぶる不快感を抑えきれない。自分にもかつて多くの女性がいた。だが、結安と出会って以降は違った。それなのに彼女は芸能界に身を置き、何人もの男と関係を持ったと言った。男なら受け入れられるはずがない。正式な立場など与えたくない。何より、彼女自身も望んではいないのだ。章真は電話を切った。車のドアを開け、邸内へと入っていく。その夜、耀石グループは異例の速さで声明を発表した。【厳正なる声明現在インターネット上で拡散されております葉山章真氏と女優シェリー氏との交際報道につきまして、耀石グループは以下の通り見解を表明いたします。当社は悪質な誹謗中傷およびネット上の暴力行為に対し、今後さらに厳正な対応を取ってまいります。法令に抵触する行
車に乗り込む。章真がシートベルトを締めながら、何気ない口調で尋ねた。「寄っていくか?」家へ帰ろう、とは言わなかった。そんな言葉を口にする資格などないと思っているのだろう。彼女ははっきり言ったのだ。すべては彼の独りよがりだったと。自分たちは恋人ではなかったと。だから彼は、ただ「寄っていくか」とだけ言った。結安はすぐには答えなかった。窓越しに広がる夜景を見つめながら、小さく呟く。「やめておきます」隣から短い笑い声が聞こえた。章真が顔を向ける。その視線は真っ直ぐだった。「蝶野さんには世話になっただろう。家の使用人たちも、お前を可愛がっていた。会いたくないのか?この数年、ずっとお前のことを気にかけていた」結安は黙ったままだった。ここで折れてはいけない。章真は飽きれば離れていく。彼には女がいくらでもいる。若くて綺麗な女性など、望めばいくらでも手に入る。けれど一度あの家へ戻れば話は変わる。曖昧な関係のまま、また過去へ引き戻されてしまう。それだけは嫌だった。彼女には彼女の計画がある。十分な資金を貯めたら、チョコを連れて海外へ行く。そこで新しい人生を始めるのだ。章真は知らない。自分に娘がいることを。この先きっと彼は結婚し、家庭を持ち、自分の人生を歩いていく。それでいい。結安の沈黙は、はっきりとした拒絶だった。章真もそれ以上は言わない。彼女が距離を置きたいなら好きにすればいい。男はスマートフォンを彼女へ投げるように差し出した。「住所」声は冷たい。「送ってやる」スマートフォンにはまだ彼の体温が残っていた。結安は妙に熱く感じる。結安は視線を落とし、マンションの住所を入力した。それを彼へ返す。返す際、指先がわずかに触れた。結安は慌てて手を引っ込める。すると耳元で、男が小さく嗤った。「昼間はあんなだったのに、指が触れただけで照れるのか?結安、お前はもう十八歳の小娘じゃないだろう」……彼女はもう他の男を知っている。そう思うと、どうしても許せなかった。他の男と関係を持つくらいなら。あちこちの男のもとを渡り歩くくらいなら。なぜ自分と家庭を築こうとはしなかったのか。あの半年余り。章真にと
食事を終えると、女店主が伝票を持ってやって来た。「お会計、六千円になります」章真は財布から千円札を六枚取り出し、テーブルに置く。そして結安を見て言った。「行くぞ」結安が立ち上がったその時だった。背後から若いカップルが慌ただしく通り過ぎ、危うく彼女にぶつかりそうになる。身体がよろめき、腰がテーブルの角に当たりそうになった瞬間――一本の大きな手が細い手首を掴んだ。軽く引かれる。それだけで、彼女の身体は危険な位置から離れていた。体勢を立て直した結安は、反射的に手を離そうとする。だが、男は離さなかった。結安は視線を落とす。絡み合ったままの二人の手。周囲の喧騒が、不意に遠のいた気がした。午後から続いた濃密な時間でさえ、この瞬間には敵わない。父と母を失い、ひとり取り残されたあの日。章真もまた、こんなふうに彼女の手を握り、自分の傍へ連れて行った。その瞬間――彼女は二十四歳の女性ではなくなっていた。十八歳だったあの秋へ。初めて章真と出会った日へ。意識だけが引き戻される。章真は見下ろしながら言った。低く落ち着いた声だった。「行こう」そうして彼は、手を離さないまま店を出た。二人ともまだ若い。だが、周囲の学生たちとはどこか違う空気をまとっていた。店内ではすでに何人かが結安に気づき始めていた。「あれ、シェリーじゃない?」そんな囁き声も聞こえていたが、本人たちは気づいていない。そのまま二人は車に乗り込み、別の場所へ向かった。連れて来られたのは、立都市でも指折りのヘアサロンだった。オーナーが章真を知らないはずがない。澄佳も芽衣も長年のVIP顧客であり、章真自身も母や妹に付き添って何度も訪れている。入口をくぐった瞬間、オーナーは結安を見て目を細めた。――この人が、あのシェリーか。だが、商売人にとって見て見ぬふりは基本だ。彼は何も言わず笑顔で歩み寄った。「葉山様、本日はどのようなご希望でしょうか」章真は顎を少し上げる。「髪をストレートにしてやってくれ」それだけ言うと、近くのソファへ腰掛け、煙草に火をつけた。四年経った今も、相変わらず煙草が手放せないらしい。――本当に変わらない。結安はそう思った。注文は単純だった。
料理を待つ間。結安は静かに尋ねた。「どうしてここで食事なんですか?」ここは高級レストランではない。――喫煙もできる。章真は煙草を指に挟み、ゆっくりと煙を吐き出していた。店内には若い客が多く、その大半はカップルだった。周囲の女子学生たちが何度もこちらを盗み見ている。章真を見る者もいれば、結安を見る者もいる。二人ともあまりにも目を引く存在だった。誰かがひそひそ声で話していた。「あの男、耀石グループの社長じゃない?」「じゃあ隣の女性は誰?」「シェリーっぽくない?知ってるでしょ。ここ数年で少し売れてきた女優さん。三番手くらいだけど、すごく綺麗なのに決定打がなくて大ブレイクまではしてない人。雰囲気がすごく似てるんだよね」「でもシェリーっていつももっと派手な格好じゃない?」「だからこそ気になるの。写真撮ってネットに上げてみようかな。もし本人なら話題になるかも。相手も有名人だし」「バレないようにね」「わかってるって」……二人は自分たちが撮影されていることなど知らなかった。やがて料理が運ばれてくる。章真は煙草をもみ消した。そして結安を見つめながら、静かに口を開く。「ここを選んだのは京央美術大学の近くだからだ。もしあの時、お前がいなくならなかったなら、仕事の合間に迎えに来て、そこのカップルみたいに飯を食っていたと思う。今みたいにな。結安、お前が去らなかったなら、の話だが」結安は彼を見つめ返した。章真が二人をそういう関係として語ったのは、これが初めてだった。だが、本当にそうだったのだろうか。当時の彼女には選択肢などなかった。すべては彼の意思から始まったことだった。人生を変えられたのも。多くのものを失ったのも。それなのに今では、まるで彼の方が傷つけられた側であるかのようだ。――滑稽だ。結安はかすかに笑った。「それも全部、もしの話ですよね。現実には私は去りました。現実には、あなたと一緒に生きることを選ばなかったです。たとえ正式な立場を与えられたとしてもです。理由はあなたもわかっているはずです。最初から間違っていたんです。当時の私は幼くて、抗う力がありませんでした。そして今も――結局、抗えないのかもしれません。あなたには絶大な力があります。
横断歩道の上に、小さな身体が血にまみれて倒れていた。少女は痙攣を繰り返している。茉莉は意識が遠のき、朦朧としながらも、父の言葉を思い出していた。——夜の遊園地へ連れて行ってくれるって……そして、ママに電話してくれるって。けれど今は、とても痛くて、寒い。パパ……茉莉を抱きしめて……お願いだから、知らないおばさんの手に渡さないで…………周囲には、いつしか人だかりができていた。車道の真ん中に横たわる小さな女の子を、皆が息を呑んで見つめている。「どこの家の子が、こんなところで……」「親はどこにいるんだ……」誰もが胸の奥でそう思った。——赤信号を渡るな
深夜、輝は会員制クラブで泥のように酔っていた。この夜だけでワインの売上は二千万円——支配人は数字にほくそ笑みながらも、肝心の客が不機嫌で、今にも店を壊しかねない気配に冷や汗をかいていた。そこで、最も気が利く若い子を呼ぶ——輝の昔馴染み、晴香だった。華奢な身体つきの彼女は、そっと輝の隣に腰を下ろす。彼はソファの背に仰け反り、頬にうっすら紅を差し、喉仏が規則的に上下している。男らしい色気が滲んでいた。晴香はその姿に思わず鼓動を早めるが、余計な感情は抑え、甘やかな声を落とした。「ご一緒にいただきます。何かお悩みなら、お話しください。少しは気が楽になるかも」輝は黒い瞳をわず
帰り道、娘はずっと不満げに父を責め立てていた。輝は繰り返し謝り続け、ようやく車の前に辿り着く頃になって、茉莉は心を和らげて彼を許した。彼は名残惜しそうに娘を抱きしめ、何度も頬に口づける。そして視線は瑠璃と、その腹部へ。言いたいことは山ほどあったが、子どもの前では飲み込むしかなかった。「パパ、また会いに来るよ」茉莉は素直に頷く。輝は腰をかがめ、丁寧に娘をチャイルドシートへ乗せ、シートベルトを直す。そのまま小さなお腹を撫でた。罪悪感と愛しさが入り混じる。「もう痛くないよ」娘の無垢な一言に、男は危うく涙を落としそうになった。瑠璃も車に乗り込み、黒い窓ガラスがゆ
輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ