「汐見博士、本当に記憶消去剤を投与しますか?薬効が現れると、愛する人も親族のことも忘れてしまいます」 汐見怜(しおみ れい)は長い間苦悩に苛まれていたが、ついに頷いた。「ええ、決めたわ。彼らを忘れたいの!」 冷たい液体が注射器から彼女の血管に流れ込むと、研究員は頷いた。「汐見博士、これで完了です。3日後には薬が完全に効き始めるはずです」 彼女が去った後、研究員は首をかしげた。 人生に不満を抱えている人だけが記憶消去剤を投与するのに、怜はこれ以上ないほど幸せな人生を送っているはずだ。一体なぜ投与を希望するのだろう?
View More翌日、怜はニュースを見て、この事件を知った。「富豪・桐山瑛治氏、昨日襲撃され死亡」怜は驚愕した。瑛治が......死んだ?彼女はニュース記事を開いた。記事によると、昨日、瑛治と翔太が口論となり、すぐに暴力沙汰に発展した。翔太は瑛治を16回刺し、瑛治は即死。止めに入ろうとした玲奈も刺殺されたという。翔太は逮捕された。怜は携帯を握りしめ、しばらくの間、呆然としていた。何とも言えない気持ちだった。瑛治の葬儀は3日後に執り行われ、怜も参列した。彼女は花束を供え、墓石の前で長い間、黙祷を捧げた。「怜、悲しんでいるのか?」悠貴が彼女の隣に立ち、静かに尋ねた。怜はゆっくりと首を横に振り、ため息をついた。「ただ......人生って、何が起こるか分からないものね」「ああ、誰がこんなことが起こるなんて想像できただろうか」悠貴もため息をついた。その言葉は残念そうに聞こえたが、彼の目はただ冷たく光っていた。怜は、なぜ昨日、瑛治と木下兄妹が同時にスーパーの前に現れたのか、考えてもみなかった。悠貴は、妹の気持ちを弄んだあの男に、離婚だけでは生ぬるいと考えていた。この結末こそが、彼にふさわしい罰だったのだ。そして翔太。長年逃げ回っていたが、ようやく見つけた。彼はすでに手を回しており、刑務所の中で翔太は地獄の日々を送ることになるだろう。怜が受けた苦しみを、何倍にもして返してやる。「風が冷たくなってきた」悠貴は自分のコートを怜の肩にかけた。「もう別れも済んだ、俺たちも帰ろう。モコが家で待っている」モコとは、彼らが拾った子犬の名前だ。「ええ」怜は差し出された彼の手を取った。悠貴は微笑み、彼女の手を強く握りしめた。今度こそ、彼はもう二度と彼女の手を放さない。彼女に自分を捨てることなど、絶対にさせない。
二人がスーパーに入った途端、二人のホームレスがやってきた。男はゴミ箱の中を漁り、女は大きな袋を引きずっていた。中にはペットボトルがぎっしり詰まっていた。「だから言っただろ、瑛治を怒らせるなって。それなのにお前はわざわざあいつと揉めやがって。結果どうなった?俺は病院の仕事をクビになり、金も家も失った!」翔太はゴミを漁りながら、ぶつぶつと文句を言った。「こんなことになっているのに、お前はまだブランド品にこだわって、無駄遣いばかりして、金を食い潰しやがって!」玲奈は袋を地面に叩きつけ怒鳴った。「私がお金を使い果たしたって言うの!?ギャンブルで一発逆転を狙うだなんて言って、全部使い果たしたのはどこのどいつよ?結局、逆転どころか借金だけが残ったじゃない!」二人は掴み合いの喧嘩になりそうになったが、他のホームレスがやってくるのを見て、喧嘩どころではなくなり、慌ててゴミを拾い始めた。少しでも遅れたら、他の奴らに持って行かれてしまう。怜と悠貴が買い物を終えてスーパーから出てきた時、ある男が二人の前に飛び出してきた。「怜......」瑛治だった。この一ヶ月、怜は悠貴に厳重に警護されており、瑛治は彼女に会う機会が全く無かった。彼は怜に会いたくてたまらなかった。二人の思い出の写真集を見返そうとしたが、その時になって、二人の思い出は全て玲奈によって燃やされてしまったことを思い出した。それは、彼が甘やかした結果だった。今、彼は怜の姿を貪るように見つめていた。彼女の一挙一動を、ひとつ残らず脳裏に焼き付けるように。怜は眉をひそめ、彼と話す気はなく、踵を返そうとした。「行かないでくれ!」瑛治は彼女の前に立ちふさがり、懇願した。「俺を置いて行かないでくれ、怜。お願いだ、こんな仕打ちをしないでくれ。もう一度チャンスをくれるなら、俺はなんだってする!」怜は彼を無視した。彼に一言でも返事をしたら、うるさいハエのようにまとわりついてくることが分かっていたからだ。彼女は悠貴の手を引いて立ち去ろうとしたその時、二人の人影が飛び出してきて、瑛治の足元に跪き、彼の両足にしがみついた。「先輩、先輩、私が間違っていました。私を捨てないで、助けてください!」玲奈は泣きながら、彼にしがみついた。瑛治のいない生活は、あまりにも辛すぎた。彼女の実家は裕福で
「怜、先に飛行機で待っていてくれ。俺はすぐに行くから」悠貴は微笑みながら、彼女を部屋から送り出した。彼女が去ると、彼の表情は一変して険しくなり、瑛治の顔面に拳を叩き込んだ。「お前みたいなクズが、怜に愛される資格なんかない」彼は瑛治の胸ぐらを掴み、「俺が大切に......大切にしている人を、道具のように利用しやがって!」と怒鳴った。瑛治は魂が抜けたように、怜が去った方を見つめていた。悠貴は冷笑し、彼を解放した。「だが、感謝するぞ、この愚か者。おかげで俺にもチャンスが巡ってきた」「チャンス?」瑛治は我に返ったように、悠貴を睨みつけた。「諦めろ。たとえ怜が俺のことを忘れても、お前になんかチャンスはない!彼女はそもそもお前のことを好きじゃない!」悠貴は鼻で笑った。「お前は怜のことを何も分かっていないんだな。彼女が一番求めているのは、ずっとそばにいてくれるっていう揺るがない安心感だ。それを与えてくれる人間に、彼女は愛を捧げる。あの時、たまたま怜が家族と揉めていたから、お前が付け入る隙があっただけだ。そうでなければ、お前のような奴が彼女に愛されるはずがないだろ?」「だが今は、お前はもう終わりだ。これからは、彼女のそばにいるのは俺だけだ」飛行機に戻ると、悠貴は優しく言った。「怜、待たせて悪かったな。もうすぐ出発するから」怜は首を横に振った。「ううん、大丈夫よ。助けてくれてありがとう。もしあなたが来てくれなかったら、私は......」「礼なんかいらない」悠貴は真剣な眼差しで彼女を見つめた。「お前のためなら、俺はなんだってする。怜、あの件について俺にまだ何か思うとこがあるのは分かっている。もしかしたら、まだ俺のことを恨んでいるかもしれない。けど、もしできることなら、俺のことを恨まないでいてほしい」怜は少し沈黙した後、「私はあなたを恨んでいない」と言った。「それなら、もう俺を避けないでほしい。いいか?」悠貴は懇願するような表情で彼女を見つめた。怜は彼の視線を避け、静かに頷いた。「それじゃあ、帰国したら、俺の家の近くに引っ越してこないか?長い間一緒に暮らしてきたから、お前の生活習慣も好みもよく分かっている。料理も作ってあげるし、それに、瑛治がまた何かするかもしれないだろ?近くにいたら、送り迎えもできるし、何かと安心だ」それはさす
どれくらい泣いていたのか、瑛治は涙を拭いて立ち上がり、よろめきながら別荘に戻った。彼は冷めた料理を温め直し、二階へ運んだ。怜の部屋のドアは固く閉ざされていた。彼は料理を脇のキャビネットに置き、「怜、俺に会いたくないのは分かっている。料理はドアの外に置いておくから、必ず食べるんだぞ。じゃないと、体がもたない」と言った。部屋からは何の返事もない。瑛治は悲しそうに目を伏せ、階下へ降りていった。30分後、彼は再び二階へ上がった。料理はそのままだった。「怜、とにかく、ご飯は食べてくれ。自分の体で俺に意地を張るな」部屋の中は依然として静まり返っていた。瑛治は不安になり、鍵でドアを開けた。部屋の中で、怜は苦しそうな表情で床に倒れていた。額には汗がびっしょり付いており、唇の端からは血が滲んでいた。瑛治は足を引きずりながら駆け寄り、「どうしたんだ!怜、どうした!?」と叫んだ。怜は苦しそうにナイトテーブルを指差した。そこには開けられた宝石箱が置いてあったが、中身はほとんどなくなっていた。「どういうことだ?宝石を飲み込んだのか!?自殺しようとしたのか!?」怜が頷いた瞬間、瑛治は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。それは数秒の出来ことだったが、瑛治にとっては永遠にも感じるほど長い時間だった。彼はなんとか起き上がり、自分の部屋へ携帯を取りに戻り、すぐにヘリコプターを呼ぶために電話をかけようとした。しかし、彼の手足は震えが止まらず、立ち上がることすらできなかった。極度の恐怖に襲われると、人は正常な行動ができなくなる。彼は深呼吸を何度か繰り返して、なんとか立ち上がり、部屋に戻って携帯を探し出した。震える手で専属パイロットに電話をかけ、すぐに最高の医療チームを連れてくるように指示した。電話を切った途端、耳元で花瓶が割れる音が響き、その後、耳鳴りがした。振り返ると、さっきまで床に倒れていた怜が、割れた花瓶を手に持って立っていた。「ごめん、あなたを騙したわ。宝石なんか飲んでいない。食事を摂らずにいたから、胃炎になってしまっただけ」怜の手も震えていた。彼女が人に危害を加えるのは初めてだった。「あなたを傷つけたくはなかったけれど、私はここから出なければならないの」彼女は割れた花瓶を床に投げ捨て、瑛治の手から携帯を奪い取り、近くの紐で彼
再び目を覚ました時、怜は全く見覚えのない寝室にいた。彼女はベッドから飛び降りてカーテンを開けると、そこには見渡す限りの海が広がっていた。彼女は寝室を飛び出し、階段を駆け下りていくと、1階で料理を運んできた瑛治と鉢合わせた。怜は彼の襟首を掴み、「ここはどこ!?私をどこに連れてきたの!?」と問い詰めた。瑛治は慌てて料理の乗ったトレーをテーブルに置いた。「このスープ、午前中ずっと煮込んでいたんだ。こぼしたらもったいないだろう」彼は怜の手を握り、「落ち着いて。興奮は体に悪いから。そしてここは、俺が所有する島のひとつだ」と言った。「島?」怜の頭の中が真っ白になった。「私をこんな場所に連れてきて、何をするつもりなの!?家に帰して!」「帰る?なぜ帰るんだ?会いたいやつでもいるのか?」瑛治は彼女の手を強く握りしめた。「ここじゃ駄目なのか?俺たちは二人きりだ、誰も邪魔する者はいない。怜、俺が間違っていた。必ず償うから、俺から離れないでくれ。お願いだ」怜は我慢の限界に達し、力強く彼の手を振り払った。「あなた、頭がおかしくなったんじゃないの!?これは監禁よ!それに、私とあなたはもう終わってるの!こんな場所に連れてこられても、私を殺したとしても、答えは同じよ!」瑛治は凍りついた。心臓が締め付けられるように痛み、視界が暗くなった。彼はよろめきながら数歩後退し、テーブルの角にぶつかってようやく止まった。視界がクリアになると、怜はもうそこにいなかった。彼はよろめきながら外に出ると、怜が茫然と立ち尽くし、広大な海を見つめているのが見えた。「怜、見ての通り、ここは外界から隔離されている。周りには海しかない。飛行機以外に、ここから出る方法はないんだ」瑛治はおそるおそる手を伸ばし、怜の手を握ろうとした。「一緒に帰ろう、怜。もうお昼の時間だ」怜は深呼吸をして、冷たく彼の手を振り払った。「狂ってる」瑛治は目を伏せ、自嘲気味に笑った。自分が狂っているのかどうかは分からない。ただ、自分が愚か者だということは分かっていた。怜が自分を一番愛してくれていた時に全てを壊し、今更この瓦礫の中から彼女の愛を取り戻そうなんて、愚かしいにも程がある。「家に帰ろう。もうお昼の時間だ」彼はもう一度低い声で言った。怜は嫌悪感を露わにして彼を一瞥し、「自分の立場をわきまえて。
一方、怜は同僚との待ち合わせ場所に到着した。彼女が席に着くとすぐに、店内にバイオリンの音色が流れ始めた。すると、同僚が大きな花束を抱えて、隣の扉から現れた。彼の端正な顔は真っ赤に染まり、「汐見博士、俺は......」と言葉を詰まらせた。彼の呼吸はどんどん速くなり、怜は彼が緊張のあまり気を失ってしまうのではないかと心配になったその時、彼は意を決して言った。「お前のことが好きだ!俺は......お前は覚えていないかもしれないけど、俺たちは同じ高校に通っていたんだ。あの頃からずっとお前が好きだった。でも、お前の兄にお前の勉強の邪魔をするなと警告されて......その後、告白しようと思った時には、お前は結婚していた!そして今、やっとチャンスが巡ってきたんだ!」同僚は一気に話し終えると、「下心とかはないんだ。ただ、俺の気持ちを伝えたかった。もしお前がいつか恋人を作ったり、結婚したりする時が来たら、俺のことを考えてほしい!」そう言うと、彼は花束を怜の前に置いて、一目散に逃げて行った。怜は一人、呆然と残された。しばらくして、彼女は諦めたように笑うと、感傷的なバイオリンの演奏を止め、自分で何品か料理を注文した。食事を終えた後、彼女は花束を抱えて研究所の外にある駐車場へ向かった。貰った花束を捨てるのは気が引けるし、研究所に持ち帰るのも気が引ける。車に置いておくのが一番いいだろう。彼女の警護についているSPの一人は昨日から体調を崩し、もう一人は家の事情で急遽帰省した。いい大人が泣きながら帰ると言うので、怜は仕方なく帰らせた。彼女は別のSPを手配しており、すぐに到着する予定だ。彼女が駐車場に花を置いて戻ってくる頃には、到着しているだろう。怜は駐車場に入った。数歩進んだところで、突然横から手が伸びてきて、怜を暗闇の中に引きずり込んだ。怜は助けを求めようとしたが、声を出す前に、唇に冷たい感触が触れた。彼女は一瞬何が起きたのか分からなかったが、すぐに男にキスされていることに気づいた。「んっ......」彼女は激しく抵抗したが、抵抗すればするほど、男のキスは激しくなった。そして、彼は彼女の両腕を背中で掴み、唇に噛みついた。彼は怜の唇を噛み破ったが、すぐに滲み出た血を吸い取った。「怜......」彼の声は震えていた。「俺は全部見て
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