LOGIN「あーごめんね。困らせたかったわけじゃないんだ。だからそんな顔しないで?ね?」
申し訳なさそうに笑う湊さんの顔を見て、胸が少し痛んだ。 彼は、私の表情を見てすぐに気づいてくれた。 私が戸惑っていること。 心の中で、何かを押し殺していること。 それでも、責めることなく、ただ静かに寄り添おうとしてくれる。 「湊さん、」 名前を呼ぶだけで、喉が詰まるような感覚がした。 言いたいことはたくさんあるのに、言葉にならない。 彼が記憶を失ってから、何度も名前を呼んできた。 でも、今のこの瞬間ほど、名前に重みを感じたことはなかった。 今目の前にいる人は、私が知っている湊さんじゃない。 私を見て笑ってくれる湊さん。 優しく声をかけてくれる湊さん。 その存在が、私の心を揺らしていた。 名前を呼ぶことで、何かが変わる気がして。 でも、変わるのが怖くて。 私は、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。 私は、私は…怖いんです。 過去の記憶、傷ついた心、期待して裏切られた日々。 それらが、今の湊さんとの距離を作っている。 彼が優しくしてくれるほど、私はその優しさがいつか消えてしまうことを恐れてしまう。 記憶が戻ったら、また遠くへ行ってしまうかもしれない。 だから、踏み出すのが怖い。 「おやすみ。また明日」 その言葉は、まるで魔法のようだった。 湊さんが、私に“明日”を約束してくれた。 でも、彼がベッドに向かって歩いていく姿を見て、私はその場に立ち尽くしてしまった。 一歩踏み出す勇気が、どうしても出なかった。 今の湊さんはこんなに私を想ってくれているのに。 …そうか。 冷たく振り払っているのは、むしろ私の方だ。 過去の記憶に縛られて、あの頃の痛みを盾にして、パーティー会場のドアの前にいた。 背筋を伸ばして立っているつもりなのに、指先が少しだけ震えているのが分かる。 ドアの向こうからは、かすかに音楽と人のざわめきが漏れてくる。光が、隙間からこぼれている。 あの中に入れば、もう引き返せない。 「っ、」 喉の奥から、思わず漏れた声。 自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。 緊張していないつもりだったのに、体は正直だった。 心のどこかで、まだこの先に進むことをためらっている。 そんな自分に気づいて、情けなくなる。 「緊張してる?」 湊さんの声が、すぐ隣からやわらかく届いた。 その響きに、張り詰めていた神経が少しだけ緩む。 まるで深呼吸を促すように、私の中のざわつきを静かに鎮めてくれる。 視線を向けると、彼は私の顔を見ていた。 「そういう訳じゃないけど…」 言いながら、自分でもはっきりとは分かっていなかった。 緊張、という言葉では足りない。 怖いわけでもない。 でも、胸の奥がざわざわして、足元がふわふわと頼りない。 まるで、地面が少しだけ浮いているような感覚。 豪華なシャンデリアに、少しきつい香水、あと華やかなドレス。 女性たちは、皆堂々としていて、ドレスの裾を揺らしながら、まるで舞台の主役のようにそこにいるのに。 その中に混ざる自分が、どこか異物のように感じられて、こんな所にいてもいいのだろうかって、いつも思ってた。 「じゃあ…こんな所、身の丈には合わないって?」 湊さんの声が、ふいに重なった。 「えっ、」 心の奥にしまっていたはずの気持ちを、まるで見透かされたようだった。 「彩花ちゃんの考えてる事はなんでも分
「僕が、似合わないって言った?」 その言葉は、思いのほか静かで、まっすぐだった。 責めるようでも、問い詰めるようでもない。ただ、確かめるように私を見つめていた。 「それは、」 言葉が喉の奥で絡まった。 あのとき、似合わないと、はっきり言われたわけじゃない。 でも、私のドレス姿を見るなり、なんだその格好はと、着替えてこいと言った。 それが、答えじゃないか。 でも、自分でもそう思ってしまった。 鏡に映った自分が、まるで誰かの…あの人の真似をしているように見えた。 それが滑稽で、場違いで、痛々しくて。 その姿を見た湊の、あの一瞬の表情が、やっぱりそうだよねと、自分の思い込みを確信に変えてしまった。 惨めだった。 綺麗になりたいなんて、思わなければよかったとさえ思った。 でも、それでも、あのときほんの少しだけ期待していた自分がいたことも、否定できなかった。 「あの時の気持ちを忘れろとは言わないよ。けど、彩花ちゃんが着たいと思ったその気持ちを、なかったことにはして欲しくない」 まっすぐで、逃げ場がなかった。 私は、自分の似合うに自信がなかった。あの日から。 「私の、気持ち…」 口に出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。 ずっと、誰にも言えなかった。 似合わないって、言葉にされなくても分かってる。 そう思ってた。 でも、今、目の前の人は、私のその気持ちをちゃんと拾い上げてくれている。 否定しないで、なかったことにしないで、ただそこにあったものとして、まっすぐに受け止めてくれている。 「ごめん。傷つけた僕が、こんなことを言うのは違うって、分かってるのに」 その声に、ほんの少しだけ震えが混じっていた。 顔を上げると、まっすぐな目がそこにあった。 あの時のことを、なかったことにしようとしてる
パーティー当日。私たちは普段通りの休日を過ごし、ついに夜が来た。昼間の空気はどこか穏やかで、まるで何事もない日常の延長のようだった。湊さんはいつも通りで、私もそれに合わせるように笑っていたけれど、心のどこかで、ずっとこの夜のことを意識していた。時計の針が進むたび、胸の奥が少しずつざわついていく。どんな顔で、あの場所に立てばいいのか。答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。「はい」湊さんが、静かに差し出した箱。その瞬間、時間が少しだけ止まったような気がした。昨日、クローゼットの奥からそっと取り出した、あの箱。まさか、彼の手から渡されるなんて思っていなかった。言葉が出てこなくて、ただ、箱の重みだけが現実だった。「湊さん、どうして」ようやく絞り出した声は、かすれていた。問いかけというより、呟きに近かったかもしれない。「本当は、こっちが着たいんでしょ?」湊さんの声は、やさしくて、まっすぐだった。その一言に、私は心の奥を見透かされたような気がして、思わず息をのんだ。たしかに、そうだった。でも、それを認めるのが怖かった。誰かに見られるのも、期待されるのも、それに応えられない自分を想像するのも、全部。だから私は、ただ黙って箱を抱えたまま、俯いた。箱の角が、指の腹に食い込んでいる。俯いたままの視界に、彼の足元が見える。動かず、ただそこに立っている。「ごめんね。昨日、見えちゃって」湊さんの声は、少しだけ申し訳なさそうだった。でも、その中には、どこかあたたかいものが混じっていた。「このドレスは…昔、パーティーで着ようと思って買ったもので、」
その日の晩、私はなかなか寝付けなかった。 布団に入ってから何度も寝返りを打ったけれど、まぶたは一向に重くならない。 目を閉じれば、明日のことばかりが頭をよぎる。 お義母様のこと、パーティーのこと、あのドレスのこと。 考えまいとしても、思考は勝手にそこへ戻ってしまう。 胸の奥がざわざわして、呼吸が浅くなる。 こんなふうに不安で眠れない夜は、久しぶりだった。 「眠れない?」 ふいに、低くやわらかな声が闇の中から届いた。 その声が聞こえた瞬間、私ははっとして、身じろぎを止めた。 暗がりの中、隣にいる湊さんがこちらを向いているのが分かる。 「ごめん、起こしちゃった?」 私は小さな声でそう言った。 湊さんは、枕に頬を預けたまま私の方を見つめていた。 その目はまだ眠たげで、まぶたが少し重そうだった。 「明日のこと考えてた?」 私はすぐには答えられず、ただ小さくうなずいた。 言葉にしてしまえば、不安が現実になってしまいそうで、喉の奥で言葉がつかえてしまう。 「パーティーって、美味しい食べ物沢山食べれるんでしょ?」 ふいに、湊さんの声が少しだけ明るくなる。 「え、うん。そうだけど」 私は少し戸惑いながらも、素直に答えた。 不安でいっぱいだった心に、ほんの少しだけ余白ができた気がした。 パーティーの話題が、急に現実味を帯びてくる。 それは怖さでもあるけれど、同時に、誰かと共有できる安心でもあった。 「彩花ちゃんは何が好き?」 私は少しだけ考えてから、ふと浮かんだ料理の名前を口にした。 「鯛のカルパッチョかな。薄くて透けるくらいの切り方で、柚子の香りがふわってして、口に入れるとすっと溶けるの」 言葉にしながら、私はあのときの記憶をたぐり寄せていた。 白い皿の上に、まるで花びら
やっぱり見たんだ。 このドレスに込めた気持ちも、着られなかった夜のことも。 できることなら誰にも知られずにそっと胸の奥にしまっておきたかった。 けれど、湊さんは見てしまった。 まるで、秘密を暴かれたような気がした。 どうしよう。 何を言えばいいのか分からない。 今さら、あの夜のことをどう説明すればいい? あのとき、どんな気持ちでこのドレスをしまったのか。 どれだけ期待して、どれだけ傷ついたのか。 言葉にしようとするたびに、喉の奥がきゅっと締めつけられる。 だから私は、何もなかったふうを装うしかなかった。 「これは、何でもないの。気にしないで。それより、なにか用だった?」 声が震えないように、少しだけ明るく軽やかに。 まるで、ただの雑談のように聞こえるように。 その動作が、まるで話題を閉じるための無言の合図のように思えたかもしれない。 でも、それでよかった。 今はまだ、開けたくなかった。 この箱も、この気持ちも。 湊さんは何も言わなかった。 私の震える声にも、ぎこちない仕草にも、あえて触れようとはしなかった。 「明日のパーティーのことで話があって」 湊さんの声は、いつも通り穏やかだった。 けれど、その言葉の選び方に、どこか慎重さがにじんでいた。 「何かあったの?」 私は、できるだけ平静を装って問い返す。 「明日、あの人も、僕の母親も来るってこと、ちゃんと伝えておかなきゃって」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮こまる。 息を吸うのも忘れてしまいそうになる。 お義母様。 その名前を聞くだけで、あの夜の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。 冷たい視線、突き刺すような言葉、何も言い返せなかった自分の情けなさ。 「お義母様が…」
あれから、お義母様が来ることはなかった。その静けさは、むしろ不気味だった。あの人が何もしてこないはずがない。そう思っていたからこそ、何も起きない日々が続くほどに、私は逆に落ち着かなくなっていった。何かが迫っている気配だけが、背後にずっと張りついていた。けれど、湊さんは変わらず穏やかだった。私の不安に気づいているのかいないのか、いつも通りに笑ってくれる。そして何も起きないまま、パーティーの前日を迎えることになった。「…ふぅ、」クローゼットの前で、ひとつ息を吐く。胸の奥に溜まっていたものを、そっと外に逃がすように。それでも、心のざわめきは消えなかった。ゆっくりと手を伸ばし、取っ手に触れる。冷たい金属の感触が、指先にじんわりと伝わってくる。扉をそっと開けると、上の奥の方に隠しておいた箱がある。手を伸ばして取り出すと、指先にうっすらと埃がついた。私はそれを軽く払って、箱の蓋に手をかける。中には、淡いピンクのドレス。柔らかなチュールに、繊細なレース、胸元にあしらわれた小さな花の刺繍。どれも、あのときの私が選んだものだった。初めてのパーティー。湊さんの隣に立つ自分を想像して、鏡の前で何度も合わせてみた。少し背伸びした色だったけど、それでも、着てみたかった。けれど、あの夜…私はこのドレスに袖を通すことなく、ただ箱の中に戻すしかなかった。私が、湊さんに見合う人間だったら、このドレスを着て、笑えていたのだろうか。それ以来、このドレスは箱の中でずっと眠っていた。まるで、私の期待や喜びごと、封じ込められていたかのように。